第20話 家庭の味
野口節子の家を訪ねる日取りが決まって、残り数日というところになったある夜、春香は実家に立ち寄った。
特に理由はなかった。
用事があったわけでもなかった。
ただ、行きたかった。
大事なことが起きる前に、何でもない場所に戻りたかった。
これから何かを知る前に、もう一度、知る前の自分でいられる場所に帰りたかった。
そういう気持ちだったと、後から思った。
玄関を開けると、台所から音がした。
フライパンが鳴る音と、油の弾ける音。
醤油の香ばしい匂いが、廊下の奥からゆっくりと流れてきた。
その匂いを嗅いだ瞬間に、春香の体の中の何かが少しだけほどけた。
肩のあたりから力が抜けていく、あの感覚だった。
「あら、春香」と幸子の声がした。
「連絡くれればよかったのに」
「近くにいたから」と春香は言った。
台所を覗くと、幸子がコンロの前に立っていた。
フライパンの上に、卵焼きを巻いているところだった。
菜箸を二本使って、慎重に、でもなめらかに巻いている。
子どもの頃から何百回と見てきた動作だった。
「ちょうどよかった。もう少しで夕飯できるわよ」
春香は椅子に座って、幸子の背中を見た。
背中が、少し小さくなった気がした。
病気のせいかもしれないし、自分が大きくなったせいかもしれない。
子どもの頃は、幸子の背中がもっと大きかった。
何でも知っていて、何でも解決できる人の背中だった。
それが今、少し丸くなっていた。
でもその丸みに、嫌な感じはしなかった。
長い時間を生きてきた人間の背中に、自然に蓄積されるものだった。
疲れではなく、積み重ねの丸みだった。
エプロンの結び目が、背中の真ん中にあった。
もう何年も同じ場所に同じように結ばれている、あの結び目だった。
幸子が卵焼きを切った。
厚めに切って、皿に並べた。
「はい」と言って、春香の前に置いた。
春香は箸を取って、一切れ口に入れた。
甘かった。
母の卵焼きは、いつも少し甘めだった。
砂糖とみりんで味をつけていて、だしは使わない。
子どもの頃からずっと同じ味だった。
お弁当にも入っていた。
食卓にもよく出てきた。
学校でお弁当を開けるたびに、隣の子の卵焼きと少し違うことは知っていた。
向こうは塩っぱくて、こちらは甘い。
どちらがいいとは思わなかったが、帰り道にふと「今日も母の卵焼きだった」と思ったことが、何度もあった。
どこかのレストランで卵焼きを食べるたびに、母の卵焼きと少し違うと思った。
どれも悪くないが、母のものとは違う。
何が違うのかは説明できなかったが、違った。
今日の卵焼きも、同じ味だった。
甘くて、ふわっとしていて、口の中で溶けるような感じがある。
変わっていない。
ずっとこの味だった。
「おいしい」と春香は言った。
「毎回同じものばかりでごめんなさいね」と幸子は笑った。
「同じだからいいんだよ」と春香は言った。
幸子が少し照れたように「そう?」と言った。
その「そう?」が、いつもの幸子の返し方だった。
嬉しいのに、素直に受け取らずに照れる。
その癖が、春香には好きだった。
大げさに喜ばれるより、ずっと好きだった。
幸子の卵焼きを食べながら、春香は神崎家の食事のことを思い出していた。
先週、美月の招待で神崎家を訪ねたときのこと。
美月が「一度、来てみませんか」と誘ってきた。
特別な理由はなかったが、春香は行くことにした。
神崎家の玄関をくぐるのは、最初の対面以来だった。
あのときは緊張で何も見えていなかったが、今回は少し違う目で見た。
廊下が長かった。
天井が高かった。
床の木が光っていた。
調度品のひとつひとつが、品のある古さを持っていた。
高橋家と違う時間が、そこには流れていた。
食事の場に、真理子がいた。
神崎真理子。
美月の育ての母で、春香の実の母に当たる人間。
その事実は頭ではわかっていたが、春香にはまだ実感がなかった。
真理子はいつも通りの立ち振る舞いで、春香を「高橋さん」と呼んだ。
それが距離のある呼び方かどうかも、春香にはまだわからなかった。
ただ、きれいな人だと思った。
背筋が伸びていて、笑い方に品があった。
美月がどこかで真理子に似ているのかもしれない、と思った。
食事は品数が多かった。
高橋家の食卓に比べると、器も料理の数も、全部が少し上等だった。
その中に、卵焼きがあった。
真理子が作ったものだと、美月が教えてくれた。
「母は料理が得意なんです」と、美月は言った。
春香は箸で一切れ取って、口に入れた。
おいしかった。
確かに、おいしかった。
幸子のものより、だしがしっかり効いていた。
甘さは控えめで、塩気がほんのりあった。
丁寧に巻かれていて、断面がきれいだった。
料理の技術が高い人が作ったものだということが、食べるだけでわかった。
上品な卵焼きだった。
おいしかった。
でも。
春香は二切れ目を食べながら、ある感覚に気がついた。
うまく言葉にできなかった。
おいしくない、ということではない。
確かにおいしい。
でも何かが、違った。
体の奥の方で、何かがこれを「自分のもの」として受け取れていなかった。
食べている。
味もわかる。
きれいな卵焼きだと思っている。
でも、どこかで引っかかっている。
飲み込んだ後に、何かが胸のあたりで止まっているような感じがした。
喉でも、胃でもなく、もっと奥の方で。
春香は三切れ目を口に入れた。
やはりおいしかった。
やはり、なじまなかった。
美月が「おいしいですか」と聞いた。
「うん」と春香は言った。
「おいしい」
それだけ言った。
それ以上は言えなかった。
「おいしいけど」の後が、言葉にならなかった。
幸子の卵焢きをもう一切れ食べながら、春香はあの感覚を思い返した。
真理子の卵焼きは、おいしかった。
母の卵焼きも、おいしい。
どちらも卵焼きで、どちらもちゃんとした料理だ。
でも体が受け取る感触が、全然違う。
なぜ違うのか。
それは、答えが簡単だった。
幸子の卵焼きは、二十五年間食べてきた味だったからだ。
初めて離乳食を食べた記憶はないが、物心ついた頃からずっとこの味があった。
お弁当のふたを開けるたびに、この色があった。
学校から帰ってきた夕方に、台所からこの匂いがした。
体の中のどこかにある場所に、ずっとこの味が刻まれていた。
体が覚えている。
覚えているのは、頭ではなかった。
体の、もっと深いところだった。
言葉より先にある場所。
考える前に反応する場所。
そこに、幸子の卵焼きの甘さが住んでいた。
でも真理子の卵焼きは、始まりがなかった。
ついこの前、初めて食べた。
二十五年間分の記憶が、そこにはなかった。
どんなにおいしくても、それは取り戻せない。
二十五年分の空白は、一度の食事で埋まらない。
春香は箸を持ったまま、少しの間、止まった。
なじまない、という言葉が、頭の中で静かに沈んでいった。
おいしい。
でもなじまない。
その二つが同時にある、ということが、春香には悲しかった。
なじまないことが悲しいのではなく、なじまないことに理由がある、ということが悲しかった。
理由は二十五年間という時間だった。
その時間が、母との間にはあって、真理子との間にはない。
取り違えがなければ、逆になっていたかもしれない。
逆に、真理子の上品な卵焢きが体に染みついていたかもしれない。
幸子の甘い卵焼きを「おいしいけどなじまない」と感じていたかもしれない。
でも、そうはならなかった。
そうならなかった二十五年間が、今の自分の体を作っていた。
それを誰かのせいにすることも、嘆くことも、今夜はうまくできなかった。
ただ、そういうことなのだ、と思うしかなかった。
「春香?」と幸子が言った。
「どうしたの、止まって」
「なんでもない」と春香は言った。
箸を動かした。
もう一切れ口に入れた。
甘かった。
その甘さが、今日はいつもより胸に刺さった。
刺さりながら、溶けた。
溶けるときに、目の奥が少し熱くなった。
食事が終わって、幸子がお茶を入れてくれた。
二人で食卓に向かい合って、静かな時間が流れた。
冷蔵庫のかすかな振動音がして、外でどこかの車が通った。
その音が過ぎると、また静かになった。
父・和彦は今日は早く寝ていた。
最近、体が疲れやすくなったと言っていた。
和彦の存在は、今も春香の中で複雑だった。
隠蔽のことは、まだ赦しきれていない。
でも今夜は、その話をする気にはなれなかった。
ただここにいる気分でいたかった。
幸子がゆっくりとお茶を飲んだ。
湯気が、茶碗の上でゆっくり立ち上がった。
「春香は、最近元気そうね」と幸子は言った。
「うん」と春香は言った。
「何か、動いてる?」
春香は少し間を置いた。
「少し、ね」
「そう」と幸子は言った。
それ以上は聞かなかった。
幸子はいつも、そうだった。
聞きたそうなのに、聞かない。
待つ人間だった。
春香が話したくなったら話すと信じて、それまで待っている。
その待ち方が、押しつけがましくなかった。
だから春香は、逆に話したくなることが多かった。
黙っていてくれるから、話せる、ということが、この人との間にはあった。
「お母さんの卵焼き」と春香は言った。
「ん?」
「おいしい。本当に」
「また急に」と幸子は笑った。
「さっき食べながら泣きそうな顔してたから、なんかまずかったかと思ったわよ」
春香は少し驚いた。
「見てたの」
「お母さんだもの」と幸子は言った。
その一言が、春香の目の奥を再び熱くした。
お母さんだもの。
簡単な言葉だった。
「お母さん」というのが何を意味するか、この数ヶ月で何度も問い直してきた。
血なのか、時間なのか、選択なのか。
でも幸子はその問いを飛び越えて、ただ「お母さんだもの」と言った。
当たり前のこととして。
説明する必要もない、動かしようもない事実として。
「……なんでもない」と春香はまた言った。
でも今度は、声が少し湿っていた。
「泣いていいのよ」と幸子は言った。
優しく言った。「理由がなくても」
春香は首を横に振ろうとした。
でも、振れなかった。
目から、涙が出た。
声は出なかった。
べそをかくのではなく、ただ涙が流れた。
幸子の卵焼きの味を思い出しながら、真理子の卵焼きの味も思い出しながら、その二つの味がどちらも自分の中にあることを、どちらもちゃんとおいしいと思っていることを、でもなじみ方が全然違うことを・・言葉にしないまま、涙だけが出た。
「ごめん」と春香は言った。
「謝らなくていいの」と幸子は言った。
幸子がそっと春香の手の上に手を置いた。
その手が温かかった。
骨ばっていて、少し乾燥していて、でも温かかった。
この手が、ずっと自分の隣にあった。
この手が、離乳食を作って、お弁当を詰めて、何百回も卵焼きを巻いた。
この手が、熱を出した夜に額を触ってくれた。
この手が、卒業式に泣いていた。
春香はその手を握った。
何も言わなかった。
幸子も何も言わなかった。
台所の窓から、夜の風が少しだけ入ってきた。
お茶の湯気が、その風にゆっくりと揺れた。
揺れながら、また真っ直ぐになった。
帰り道、春香は夜の道を歩きながら、美月のことを考えた。
美月は、神崎家の食事を「おいしい」と思いながら育ってきたのだろう。
真理子の料理が体に染みついて、それが「家の味」になっている。
だしの効いた上品な卵焢きが、美月にとってのあの甘さなのだ。
でも、高橋家の卵焼きを食べたら・・甘くて、だしのない、少し素朴な卵焢きを食べたら・・なじまないと思うかもしれない。
おいしいけれど、体が「自分のもの」として受け取れない、あの感覚を持つかもしれない。
どちらも正しい。どちらも本物だ。
「家の味」というのは、血で決まるのではなく、時間で決まる。
春香はその考えをしばらく持ち歩きながら、夜道を歩いた。
真理子の卵焢きは、おいしかった。
いつかなじむ日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
でも、おいしいということは、確かだった。
それは嘘じゃなかった。
その事実だけは、ちゃんと受け取れた気がした。
いつか美月と、この話をしてみようと思った。
おいしいのになじまない、という感覚が、美月にもあるかどうかを。
あるとしたら、それはきっと自分と鏡のような話だ。
違う方向から、同じ場所を見ている。
同じ温度の寂しさを、違う角度で抱えている。
春香はポケットに手を入れた。
夜の空気が冷たかった。
でも体の中は、少しだけ温かかった。
幸子の手のひらの温もりが、まだ自分の手に残っていた。




