第21話 遺伝と環境
木曜日の朝は、雨だった。
春香が外に出ると、空が低く垂れこめていた。
傘が必要なほどの雨ではなく、霧のように細かい水気が空気に漂っている、そういう朝だった。
アパートの駐車場で蒼太の車を待ちながら、春香はその湿った空気を胸の奥まで吸い込んだ。
遠い。
四時間の道のり。
日本海側の小さな町まで、今日は一日かけて行く。
昨夜はあまりよく眠れなかった。
布団に入ったのは十一時過ぎで、目を閉じると野口節子の声が戻ってきた。
電話口の「はい」。穏やかで、重くて、その一言の中に三十年が溶けていた声。
それを繰り返し思い出しながら、眠れないまま夜を過ごした。
蒼太の車が角を曲がってきた。
助手席の窓が少し開いていて、蒼太が「おはようございます」と言った。
春香が乗り込むと、後部座席には美月がすでに座っていた。
「おはようございます」と美月が言った。
「おはようございます」と春香も返した。
三人の声が、ほぼ同時に重なった。
誰も笑わなかったが、少しだけ空気が和らいだ。
車が動き出した。
最初の一時間は、あまり言葉がなかった。
蒼太が音楽をかけた。
音量は控えめで、BGMとも呼べないくらい小さかった。
春香は窓の外を見ていた。
街が少しずつ郊外へ変わっていった。
コンビニが減り、田んぼが増え、山の輪郭が近くなった。
信号機の数が減った。
人の気配が薄くなった。
美月も黙っていた。
窓の外を見ているのか、目を閉じているのか、春香の角度からはよくわからなかった。
きちんと背筋を伸ばして座っているのは変わらないが、今日は肩が少し落ちていた。
それが弱さではなく、力を温存しているような姿勢に見えた。
蒼太だけが時折、「次のインター、乗ります」「ここで給油します」と短く言った。
高速に乗った。
車線が広くなり、景色が流れる速度が変わった。
山がずっと遠くに見えていた。
空は低いままだったが、雨は降っていなかった。
春香は、これから会う人間のことを考えた。
野口節子。
電話口の「はい」の中に、三十年分が溶けていた人間。
今日、その人間の顔を見る。
声だけで感じたものを、顔を見て確かめる。
そしてその人間が何を話すのかを、聞く。
怖いかどうかと問われれば、今日は違う答えが出た。怖いというより・・重い。
重さが先にあって、怖さはその後ろにある。
怖いものは、向き合えば少し小さくなる。
でも重さは、向き合った後もそのままそこにある。
今日持ち帰るものは、きっと軽くならない。
それでも、行く。
それだけが、今の春香にわかっていることだった。
サービスエリアで休憩した。
三人で外に出て、自動販売機の前に並んだ。
蒼太がブラックコーヒー、春香がホットの緑茶、美月がホットレモン。
それを手に持って、屋根のある通路のベンチに並んで腰かけた。
雨はまだ降っていなかったが、空気が冷たかった。
北に向かっているのだと、肌で感じた。
さっきまでいた街より、明らかに気温が違う。
春香は上着の前を合わせた。
サービスエリアの駐車場に、何台かトラックが停まっていた。
大型のトラックが二台、並んで停まっていて、その向こうに山の端が見えた。
ここにも、それぞれの目的地へ向かう人間がいた。
みんな、どこかへ行こうとしていた。
「美月さん」と春香は言った。
「はい」と美月は答えた。
「こういう旅、したことありますか。目的地に、あんまり行きたくない旅」
美月はホットレモンのペットボトルを両手で包みながら、少し考えた。
「婚約者の実家に初めて挨拶に行ったとき、少し似た気持ちでした」
「岸本さんのご実家に?」
「ええ。会いたいわけじゃないのに、行かなければならない場所というのが、ああいう場所でした。車に乗ってから、降りるまでずっと胃が重かった」
「わかります」と春香は言った。
「今日もそういう感じがある」
「今日の方が、もっと重いですが」と美月は続けた。
「あの頃と違うのは、今日は自分で選んで来ているということ。誰かに言われて来たわけじゃない」
春香はその言葉を聞いた。
自分で選んで来ている。
それは、春香も同じだった。
誰に頼まれたわけでもなかった。
強制されたわけでもなかった。
それでもここにいる。
その事実が、今の自分の輪郭を、少しだけはっきりさせてくれる気がした。
自分がここにいる理由が、ちゃんとある。
それだけで、少し楽になれた。
蒼太はベンチの端に座って、コーヒーを飲みながら二人の会話を聞いていた。
何も言わなかった。
この人は、聞き上手だと春香は思った。
必要なときに言葉を出す。
不要なときは黙っている。
その加減が、今日みたいな日にありがたかった。
車に戻って、また走り始めた。
高速を降りると、道が細くなった。
山あいの道を抜けて、少しずつ海が近づいてくるのが、空気の変化でわかった。
潮の匂いというより、もっと大きな水の気配だった。
空気が少しだけ塩っぽくなって、車の窓の外に見える木の種類が変わった。
蒼太が「あと一時間ほどです」と言った。
春香と美月が、ほぼ同時に「そうですか」と言った。
少しの間があって、二人は互いに顔を見合わせた。
蒼太がバックミラー越しに二人を一瞬見て、また前を向いた。
「……変な感じですね」と春香は言った。
「そうですね」と美月も言った。
「同時に同じことを言ってしまいます」
「以前からそうでしたか」
「気がついたのは、最近です」と美月は言った。
「あなたと一緒にいるようになってから。最初のころは気づかなかったけれど、繰り返すうちに、ああまたか、と思うようになりました」
春香は少しの間、窓の外を見ていた。
「美月さんは、よく右に首を傾けますよね」と春香は言った。
「……傾けますか」
「何かを考えるとき。こうやって」
春香が少し右に首を傾けてみせると、美月が「私も今そうしていました」と言った。
二人は、また少し黙った。
「遺伝なんでしょうか」と美月が言った。
「どうでしょう」と春香は言った。
「でも、母たちを見てると、仕草は育ちで変わると思う」
「どういうことですか」
「私、母と同じ立ち方をするって、ずっと言われてたんです。母に並んで立つと、二人の足の向きが同じだって。つま先がほんの少し外を向く感じで。でも母とは血が繋がってない」
美月がそれを聞いて、少しの間、考えた。
「私は、母のことを、あまり体で覚えていないかもしれない」と美月は言った。
「所作の美しい人ではあったけれど、それを私が真似したのか、自然に染み込んだのか、判別できない。食事のときの箸の持ち方、人に挨拶するときの角度——気づいたらそうなっていた、というものばかりです」
「私も同じです」と春香は言った。
「母の立ち方を、意識して真似した記憶はない。でも同じになっていた。二十年以上、毎日同じ空間にいれば、体が覚えるんでしょうね」
「時間が、そうするんでしょうね」と美月は言った。
「意識せずに、長い時間をかけて。それが育ちというものだとしたら・・」
美月がそこで少し止まった。
「血とは、何なのでしょう」
春香は答えなかった。
答えが見つからなかったのではなく、今は答えより問いの方が大切な気がしたから。
こういう問いは、簡単に答えてしまうと何かが死ぬ。
死なせたくなかった。
しばらく走って、蒼太が「靴のサイズって、親に似ますよね」と言った。
唐突な言葉だったが、春香も美月も驚かなかった。
こういう会話が、今日はずっと続いていた。
思ったことを、口にする。
それだけのことが、今日の車の中では自然にできた。
「似ますね」と春香は言った。
「私は母よりワンサイズ小さい。でも神崎家の方の・・美月さんのお母さんとは?」
「母と同じサイズです」と美月は言った。
「二十三・五」
「私も二十三・五です」と春香は言った。
少しの間があった。
「……そうですか」と美月は言った。
「そうですか、と」と春香は繰り返した。
二人がほぼ同時に同じ相槌を打った。
蒼太がまたバックミラーを見た。
「足のサイズは、遺伝するらしいですよ」と蒼太が言った。
「記事で読んだことがあります。骨格は血に引っ張られる」
「でも歩き方は?」と春香は聞いた。
「歩き方は、環境だと思います」と蒼太は言った。
「誰かの後ろをずっと歩いてきたか。どんな靴を履かされてきたか。そういうものが積み重なる」
春香は自分の足元を見た。
今日履いてきた靴。スニーカーだった。
母はいつもかかとの少し低い靴を履いていた。
歩くとき、つま先からではなくかかとからついていた。
春香も同じだった。
自分で気づいたのは、高校生のころだった。
鏡の前で歩いてみて、母とそっくりだと思って、その日一日なんだか可笑しかった。
その笑いを母に話したら、少し照れながら「あら、そう?」と言った。
嬉しそうでも悲しそうでもなく、ただ「そう?」と言った。
その母には、血がない。
でも、歩き方はある。
足のサイズは実の親に引っ張られ、歩き方は育ての親が染み込む。
体の一つの部分に、二人の人間が同時に宿っている。
それが、自分という人間なのかもしれない。
「美月さんに聞いていいですか」と春香は言った。
「なんでしょう」
「神崎家で育って・・楽しかったことって、ありましたか」
美月はすぐには答えなかった。
窓の外を見ていた。
山が終わって、平地が少し広がっていた。
「弟が生まれたときが、楽しかったです」と美月はやがて言った。
「私が三歳のころです。記憶があるかどうかわからないくらい小さかったけれど、弟が来た、というのが嬉しかった。ずっと自分だけで大きな家にいたのが、急に一緒にいてくれる人間が現れた感じで」
「弟さんと、仲が良かったんですね」
「今も、そうだと思います」と美月は言った。
「あの子は私を姉だと言う。血が繋がっていなくても、ずっとそう言ってくれる。神崎家の中で、弟だけが私を部外者扱いしなかった」
春香は美月の横顔を見た。
そこに、いつもの完璧さとは少し違うものがあった。
表情が、わずかに柔らかかった。
弟の話をするときだけ、美月の中の何かが解けるのかもしれない。
それが、この人の本当の柔らかい部分なのだと、春香は思った。
「春香さんは?」と美月が聞いた。
「高橋家で育って、楽しかったこと」
「夏休みに、毎年花火大会に行きました」と春香は言った。
「三人で、屋台で食べ物を買って、土手の上で見る。お父さんが浴衣の帯を結ぶのが下手で、毎年やり直しになって、母に怒られてた。私が中学生になっても高校生になっても、毎年同じように失敗してた」
「……いいですね」と美月は言った。
その「いいですね」に、羨望でも皮肉でもない、ただ素直な感想があった。少しの間だけ、美月の目が遠くを見ていた。遠くというより・・見えない何かを見ようとしている、そういう目だった。
「美月さんちは、そういうことしませんでしたか」
「しませんでした」と美月は言った。
「神崎家の行事というのは、なんか格式のあるものが多くて。お盆の法要、お正月の挨拶回り、そういうものはありましたが。浴衣を着て土手で食べ物を食べる、というのは——なんというか、想像したことがなかった」
「一回やってみてください」と春香は言った。
「今年の夏」
美月が春香を見た。
「誰と」
「私と。蒼太さんも連れて」
蒼太がハンドルを持ったまま「いいですね」と言った。
「取材ということにして経費で行けそうです」
美月がわずかに表情を崩した。
笑う一歩手前の、そういう顔だった。
春香はその顔が好きだった。
美月がいつも見せている顔より、ずっと人間に近い顔だった。
「考えておきます」と美月は言った。
町が見えてきたのは、昼を少し過ぎたころだった。
海が、先に見えた。
山を抜けた先に、ふっと視界が開けて、灰色の水平線が現れた。
春香は思わず前のめりになって、フロントガラス越しにそれを見た。
海だ。
何度か見たことはあった。
でも今日のこの海は、少し違う重さがあった。
三十年間、野口節子がそこから見ていた海だった。
波が来て、戻って、また来る。
返ってこない時間の隣で、ずっとそうして動き続けている海だった。
春香はその水平線を見ながら、三十年という時間を体で測ろうとした。
測れなかった。
自分が生きてきた二十五年より長い時間を、一人で抱えて生きてきた人間がここにいる。
「きれいですね」と春香は言った。
「そうですね」と美月が言った。
二人の声が、また少し重なった。
蒼太は何も言わなかった。
ただ、スピードを少し落として、海が見える道を走った。
春香は海を見ながら、今日これから起きることを考えた。
野口節子の家の扉が開く。
その向こうに、三十年前の夜を知っている人間がいる。
自分はそこで何を聞くのか。
何を感じるのか。
怒るのか、泣くのか、黙るのか。
わからなかった。
でも、美月と並んで、蒼太に運転してもらいながら、ここまで来た。
遺伝のことを話して、歩き方のことを話して、花火大会のことを話しながら、ここまで来た。
体に宿った二つの時間の話をしながら、ここまで来た。
それで、十分な気がした。
目的地まで、あと少し。
春香は前を向いたまま、静かに息をした。




