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第22話 海辺の町へ

 野口節子が暮らす住所は、海から歩いて十分もかからない場所にあった。


 蒼太がカーナビを確認しながら、車を路地に入れた。

 道が細くなった。

 両側に古い家が並んでいた。

 木の板壁、小さな窓、塀の上に伸びた枝。

 どこかで猫が鳴いた。

「この先ですね」と蒼太は言った。


 春香は窓の外を見た。

 海が見えた場所から少し内陸へ入ったが、まだ潮の匂いがした。

 空気の中に塩気があった。

 東京とは全然違う匂いだった。

 もっと大きな、何か古いものの匂いがした。

 海の匂いというより、時間の匂いに近かった。


 車を広い場所に停めて、三人で外に出た。

 風が来た。

 冷たかった。

 海から来る風だとわかる、湿った重さがあった。

 春香は上着の前を合わせた。

 美月も同じ動作をした。

 蒼太は構わず立っていた。


 春香はしばらく、その場所に立ったままでいた。

 この町で、野口節子は生きている。

 その事実が、今日は地に足のついた重さで感じられた。

 電話の声だけだったものが、今は場所を持った。

 路地の匂いの中に、石畳の感触の中に、この冷たい風の中に、野口の三十年間がある。

 ここで起きて、ここで眠って、ここで誰かとすれ違いながら過ごしてきた三十年間が。


「行きましょうか」と蒼太が言った。

 春香はうなずいた。

 美月も何も言わずに歩き始めた。


 三人は住所を手がかりに、ゆっくり歩いた。

 急ぐことはしなかった。

 急ぐ必要もなかった。

 今日は野口の家を確認して、様子を見る。

 それだけを、出発前に三人で確認していた。

 訪ねるのは翌日にする。

 今日は町に慣れる日だ。


 路地を抜けると、小さな商店街に出た。

 八百屋、魚屋、洋品店。

 どの店も間口が狭くて、年季が入っていた。

 観光地でも、新しい開発が入ったわけでもない。

 ただそこに昔からある、そういう商店街だった。

 平日の昼間で、人は少なかったが、歩いている人の足取りが、この町に慣れた人間の足取りだった。

 目的を持ってゆっくり歩く、毎日の道を歩く人間の足取り。


「いい町ですね」と美月が言った。

 春香は少し驚いた。

 美月がそういうことを言うのは珍しかった。

「そうですね」と蒼太が言った。

「住み慣れた感じがする」


 春香も同意した。

 旅行で来る町ではなく、毎日ここで起きて、ここで買い物をして、ここで眠る人たちの町だった。

 野口節子も、その一人として、十年以上ここで暮らしてきた。

 この商店街を何百回と歩いてきた。どの店が安くて、どの店のおやじさんが話し好きで、どんな時間に空いているかを知っていた。

 そういう暮らしの中に、三十年前の夜が同居していた。


 魚屋の前に、年配の女性が立っていた。

 春香は一瞬、足を止めた。

 後ろ姿だった。

 七十代くらいに見えた。

 白髪で、小さい背格好だった。


 違った。

 すぐにわかった。

 体つきが違った。

 でも春香はしばらくその背中を見た。

 野口節子が七十代前半だとすれば、ああいう背格好かもしれない、と思いながら見た。

 この町で老いた女性を見るたびに、春香はしばらく見てしまうかもしれない、と思った。

 女性は魚を一匹選んで、袋に入れてもらって、店を離れた。

 春香は息をついて、また歩いた。


 野口の住所に近い路地の角に、小さな公園があった。

 砂場とブランコと、ベンチがひとつ。

 誰もいなかった。

 ブランコが風に揺れていた。

 チェーンが微かに鳴いていた。

 その音がいやに大きく聞こえた。


 三人はベンチのそばに立って、少し地図を確認した。

 蒼太がスマホを見て「この路地を入って、三軒目か四軒目だと思います」と言った。

「行きますか」と美月が聞いた。

「今日は外から確認するだけにします」と蒼太は言った。

「アポは明日の午前中で連絡してあります。突然訪ねるのは避けた方がいい」

 美月がうなずいた。

 春香も同意した。


 三人は路地に入った。

 少し歩いた。

 一軒目、二軒目と数えながら進んだ。

 三軒目に、小ぶりな木造の家があった。

 表札に「野口」とあった。

 それだけだった。

 野口、という文字が、木の板に彫られていた。

 年季の入った表札だった。

 文字の周りが少し黒ずんでいて、長い時間が経っていることがわかった。

 ここに長く暮らしているということが、その表札の色あせ方でわかった。


 春香は立ったまま、その表札を見た。

 野口、という二文字。

 電話で「はい」と答えた声。

 あの声の持ち主が、この表札の向こうにいる。

 電話では声しかなかったものが、今は家になった。

 路地になった。

 表札になった。

 実体を持った。


 庭に、鉢植えがいくつかあった。

 植物の名前は春香にはわからなかったが、丁寧に手入れされていることはわかった。

 葉の色が、きれいだった。

 土が湿っていた。

 最近、水をやったのだと思った。

 水をやる人間の気持ちが、そこに出ていた。

 毎日ここに来て、水をやって、葉の様子を見る。

 それを続けてきた人間が、この家にいる。


 玄関の扉は閉まっていた。

 カーテンが引かれていた。

 中の様子はわからなかった。

 でも、人が暮らしている気配はあった。

 春香はうまく言えなかったが、無人の家とは、空気が違う気がした。


 美月が春香の隣に立った。

 二人で並んで、表札を見た。

 何も言わなかった。

 言う必要がなかった。

「行きましょう」と蒼太が言った。

「今日のところは」


 三人は来た道を戻った。

 春香は少し歩いてから、一度振り返った。

 路地の奥に、野口の家の軒先が見えた。

 鉢植えの緑が、灰色の空の下で小さく光っていた。


 商店街に戻ったとき、魚屋の前に若い男性がいた。

 二十代前半くらいだろうか。

 エプロンをつけていて、魚屋の店員らしかった。

 箱に魚を並べながら、何か口ずさんでいた。

 春香たちが通ると、顔を上げて「いらっしゃい」と言った。

 屈託のない声だった。


「あの」と蒼太が言った。

「少し聞いていいですか。この辺に、野口さんというお宅がありますよね」

 男性が手を止めた。

「野口さん? ああ、節子さん」と男性は言った。

「知ってますよ。何か?」

「知り合いなんです」と春香は言った。

 とっさに出た言葉だったが、嘘ではなかった。

 少なくとも、嘘ではないと思った。

「そうですか」と男性は言った。

「毎週ここで魚買いに来てくれるんですよ。うちの店のこと気に入ってくれてて。木曜日の午前中にいらっしゃることが多いかな」

「よくいらっしゃるんですね」

「ええ。もう何年も。何を買うかだいたい決まってて——鯖と、あと小さい魚いろいろ。煮魚にするって言ってました。うちの婆ちゃんから魚の捌き方習ったって」


 男性が少し表情を和らげた。

 話し好きそうな人間だった。

「優しい人ですよ。うちの婆ちゃんとも仲良くて。おじいちゃんに先立たれてから一人でいるんですけど、それでもきちっとしてて、弱ってる感じは全然ない」

 春香は「中野さん、ですか」と聞いた。

 蒼太が事前に調べていた名前だった。

「そう、中野海斗です」と男性は言った。

「節子さんのこと何か?」

「いえ」と春香は言った。

「明日、伺う予定があって。ご挨拶できればと思って」

「ああ、そうですか」と海斗は言った。

「喜ぶと思いますよ。あの人、お客さん少ないから。お子さんとかご親戚とか、こっちに来る人は見たことなくて」


 春香はその言葉を受け止めた。お客さんが少ない。

 親戚とか、こっちに来る人は見たことない。

 三十年間、そういう暮らしをしてきた人間のことを、海斗は何も知らないまま語っていた。

 それから海斗は少し間を置いて、何かを選ぶような顔をした。

 話していいかどうか迷っている、そういう間だった。


「あの人ってね」と海斗は言った。

「すごく優しいんだけど、なんか、重いものを持ってる感じがするんですよね。うまく言えないんだけど。何かを抱えてる感じ。昔から何か言えないものを持ってる人って、たまにいるじゃないですか。笑ってるのに、目の奥が笑ってないとか、そういう感じじゃなくて——もっと、ずっと前から、何か抱えたまま生きてきた感じ、って言うか」

 春香は海斗を見た。


 この青年は、知らないのだと思った。

 何も知らないまま、それでも感じている。

 三十年間の重さが、野口節子という人間の空気に染み込んでいて、それをこの青年は言葉にならないまま受け取っている。

 毎週顔を合わせて、魚を売って、世間話をする中で、感じてきた何かが、今この言葉になっていた。


「……そうですか」と春香は言った。

 声が少し掠れた。

「でも、いい人ですよ」と海斗は続けた。

「本当に。うちの婆ちゃんが風邪引いたとき、おかゆ持ってきてくれたりしてね。誰かが困ってたら、すっと動ける人。そういう人です」

 春香はその言葉を聞いた。


 野口節子という人間が、三十年間ここで生きてきた。

 誰かの祖母の風邪を心配して、おかゆを持っていく人間として。

 魚屋の青年に「優しい人」と言わせる人間として。

 毎週木曜日の午前中に、鯖を選ぶ人間として。

 それと、三十年前の夜が、同じ人の中にある。

「ありがとうございます」と蒼太が言った。

「参考になりました」

「はい、どうぞ」と海斗は言って、また魚を並べ始めた。

「明日、節子さんによろしく言っといてください」

 春香は「はい」と言って、頭を下げた。


 三人は宿に向かった。

 駅の近くの小さな旅館だった。

 廊下が木造で、足音がしっかりと響いた。

 部屋に案内されて、それぞれの荷物を置いた。

 蒼太の部屋は別で、春香と美月が同じ部屋だった。


 二人でしばらく黙って座っていた。

 美月が窓を開けた。

 海が見えた。

 屋根の向こうに、灰色の水平線があった。

 今日の海は、静かだった。

 波がゆっくりと来て、ゆっくりと戻っていた。

 来ては戻る、戻っては来る。

 それを繰り返す。返ってこない時間の隣で、ずっとそうして動き続けている。


「きれいですね」と美月が言った。

「うん」と春香は言った。

 少しの間、二人とも黙って海を見た。

「さっきの青年が言ってたこと」と美月はやがて言った。

「何かを抱えてる感じ、って」

「うん」

「当たってると思います」と美月は言った。

「あの人は確かに抱えてる。私たちはそれを知っている。あの青年は知らない。でも感じてる」と美月は言った。

「人って、わかるものなんですね。言葉にできなくても」


 春香はその言葉を聞いて、電話の夜を思い出した。

 野口の「はい」の中に重さを感じたあの瞬間。

 言葉より先に届いたもの。

 言葉にできない何かが、声の中に溶けていた。


「わかるんだと思う」と春香は言った。

「言葉にはできなくても」

 美月がうなずいた。

 二人はまた黙った。

 海を見ていた。


 野口節子も、今日この海を見ただろうか。

 春香たちが路地を歩いていた時間に、窓の外を見ていただろうか。

 明日、扉を叩かれることを知っているだろうか。


 夕飯を済ませて、春香は一人で部屋に戻った。

 美月はまだ食堂でお茶を飲んでいた。

 蒼太は「少し整理したいことがある」と言って先に引き上げていた。


 春香は電気を消した。

 窓の外に、夜の海があった。

 暗くて、輪郭しかわからなかったが、波の音がかすかに聞こえた。


 明日、扉を叩く。

 今日はそれだけでよかった。

 今日という日は、野口の表札を見て、鉢植えの緑を見て、海斗という青年の言葉を聞いて、この波の音を聞いた日として、ちゃんと終わった。


 春香はベッドに横になった。

 天井が低かった。

 古い旅館の天井だった。

 木の模様が見えた。

 母の顔が浮かんだ。

 卵焼きを切る幸子の後ろ姿。

 エプロンの結び目。

「お母さんだもの」という声。


 明日、野口節子に会う。

 母に会えなくなる前に、知りたいことがある。

 知らなければならないことがある。

 それが、ここまで来た理由だった。


 波の音がした。

 来ては、戻る。

 春香はゆっくりと目を閉じた。

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