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第23話 閉ざされた扉

 朝、春香が目を覚ましたとき、カーテンの隙間から光が入っていた。

 薄い光だった。

 晴れているわけではなく、ただ夜が明けた、という光だった。


 美月はすでに起きていた。

 窓際に立って、海を見ていた。

 春香が起き上がる気配に気づいて、振り返った。

「おはようございます」と美月は言った。

「おはよう」と春香は言った。

 二人はしばらく、それだけで済ませた。

 今日これから起きることを言葉にする必要はなかった。

 両方わかっていたから。

 言葉にしてしまうと、何か別のものに変わってしまう気がした。

 今はまだ、黙っておく方がいい気がした。


 洗面を済ませて、食堂へ降りた。

 蒼太はすでに席についていた。

 朝食を三人でとった。

 ごはんと味噌汁と焼き魚。

 昨日の海斗の魚屋から来たものかもしれない、と春香は思った。

 魚の身が柔らかかった。

 朝の魚屋の匂いが、まだ春香の記憶の中にあった。


 食べながら、蒼太が「十時に伺うと伝えてあります」と言った。

 春香と美月はうなずいた。

 それ以外の言葉は、朝食の間ほとんどなかった。

 三人がそれぞれ、今日のことを考えながら箸を動かしていた。

 考えている内容は、きっと似ていた。

 でも共有しなかった。それでよかった。


 旅館を出たのは、九時半を少し過ぎたころだった。

 昨日より風が強かった。

 潮の匂いがはっきりしていた。

 空が白く、雲が厚かった。

 雨にはならなそうだったが、晴れるとも思えなかった。

 そういう空の下を、三人は野口の家に向かって歩いた。


 道はわかっていた。

 昨日歩いたから。

 でも今日の道は、昨日とは違う感触があった。

 昨日は下見だったが、今日は本番だった。

 同じ石畳が、今日は少し重く感じられた。


 昨日歩いた商店街を通った。

 早い時間のせいか、昨日より人が少なかった。魚

 屋の前を通ったとき、中から海斗が出てきた。

 エプロン姿で、手に箱を持っていた。

「あ、おはようございます」と海斗は言った。

「今日、節子さんとこ行くんですね」

「はい」と春香は言った。

「そうですか」と海斗は言った。

 少し間があった。

「よかったら、伝えといてもらえますか。今週、鯖が入りますって」

 春香は「はい」と言った。


 その短いやり取りが、妙に現実的だった。

 今日これから起きることの重さと、鯖が入りますという言葉の軽さが、同じ朝の空気の中にあった。

 春香はそのちぐはぐさを、嫌だとは思わなかった。

 野口節子の日常は、こういう会話でできている。

 鯖の入荷を楽しみにする日常が、三十年前の夜と同じ人間の中にある。

 それを、今日は直接聞きに行く。


 野口の家の前に着いたのは、十時ちょうどだった。

 昨日と同じ路地。

 昨日と同じ表札。

 昨日見た鉢植えの葉が、今日も緑だった。

 ただ、今日は光の角度が違った。

 曇り空の白い光が、葉の表面に均一に当たっていた。


 春香は一度、深呼吸をした。

 蒼太がインターホンを押した。

 呼出し音が鳴った。

 一回、二回。

 三回目が鳴った後、少し間があった。

 玄関の向こうで何かが動く気配がした。

 足音が近づいてきた。

 ゆっくりとした足音だった。

 急いでいない。

 急ごうとしていない。

 自分のペースで来る人間の足音だった。

 春香はその足音を、聞いていた。

 一歩、一歩を。


 扉が、少し開いた。

 チェーンがかかっていた。

 隙間から、顔が見えた。

 白髪だった。

 小柄だった。

 電話の声を出した人間の顔だった。


 野口節子が、春香を見た。

 そして、美月を見た。

 春香は野口の顔が変わるのを、はっきり見た。

 変わった、というより、動いた、という方が近かった。

 頬の筋肉が動いて、目の奥が変わった。

 電流が走るような変化ではなかった。

 もっと静かな、もっと深いところでの変化だった。

 三十年間、形だけを保っていた何かが、今はじめて揺れた。

 そういう顔だった。


 春香は、美月を盗み見た。

 美月は微動だにしていなかった。

 ただ野口を、真正面から見ていた。

 その目に、怒りはなかった。

 何かを問いただす目でもなかった。

 ただ、見ていた。

 その静かさが、春香にはありがたかった。


「……いらっしゃい」と野口は言った。

「野口節子さんですね」と蒼太が言った。

「高橋春香さん、神崎美月さんです。先日お電話した者です」

「わかっています」と野口は言った。

 チェーンが外れなかった。

 扉は、あの幅のままだった。

 春香たちを中に入れるほどには、開かなかった。


 少しの間、誰も何も言わなかった。

 野口が春香を見ていた。

 春香が野口を見ていた。

 その沈黙が、圧迫感を持たなかったのが不思議だった。

 重かったが、息ができなくなるような重さではなかった。


「……少し待ってください」と野口は言った。

 扉が閉まった。

 春香は蒼太と美月を見た。

 二人とも何も言わなかった。

 待つ、ということだけが、今ここでできることだった。


 風が来た。

 鉢植えの葉が、少し揺れた。

 春香はその葉を見た。

 丁寧に手入れされてきた葉だった。

 三十年間、誰かが水をやり続けた証拠だった。


 しばらくして、扉が開いた。

 今度は、チェーンがなかった。

 野口が立っていた。

 小柄な人だった。

 七十代前半に見えた。

 白髪を後ろでまとめていた。

 服は地味だったが、きちんとしていた。

 身だしなみを整えてきた、ということが伝わった。

 チェーンを外す前に、少し時間があったのはそのためかもしれなかった。


 目が、深かった。

 深い、という言葉しか浮かばなかった。

 澄んでいるのではなく、深い。

 長い時間が詰まっている目だった。

「中に入ってください」と野口は言わなかった。

 代わりに「立ち話でよければ」と言った。

「はい」と春香は言った。


 野口は縁側に腰かけた。

 三人は庭先に立ったままだった。

 変な配置だと春香は思ったが、それが今の野口にできる精一杯なのだとも思った。

 中には入れない。

 でも追い返しもしない。

 その中間が、縁側と庭先という距離だった。

 一段の高さが、今の野口と春香たちの間にある距離を、正直に表していた。


「遠いところを」と野口は言った。

「来てくれて、ありがとう」

「いえ」と春香は言った。

 少しの間があった。

「……お体は」と野口は春香に聞いた。

「幸子さんの」

 春香は少し驚いた。

 自分たちのことを聞かれると思っていたが、先に幸子のことを聞かれた。


「入院中ですが、今のところは落ち着いています」

「そうですか」と野口は言った。

 目を伏せた。

「長く生きていて……いつか、こういう日が来ると思っていました。でも」

 野口がそこで止まった。


「でも?」と蒼太が静かに促した。

「でも、来てほしいような、来てほしくないような。そういう気持ちが、ずっと半分ずつあって。今日も、インターホンが鳴ったとき、一度は出ないでおこうと思いました。やっぱり無理だと。玄関まで来て、足が止まりました」

「……でも出てくれた」と春香は言った。

「はい」と野口は言った。

「出ないまま死ぬのは、もっと嫌だと思ったから」


 春香はその言葉を聞いた。

 出ないまま死ぬのは、もっと嫌だった。

 それが、野口節子がこの扉を開けた理由だった。

 罰でも贖罪でもなく、それだけの理由だった。

 でも、その理由の中に、三十年間分の疲れと、誰かに知られたかったという気持ちが、全部入っているのだとわかった。

 どんな動機だって、最後はそういう形に凝縮されていく。

 死ぬ前に知られたい。

 それが人間の、どうしようもない部分なのかもしれなかった。


「責めに来たわけじゃないです」と春香は言った。

 言葉が出た。

 考えて出した言葉ではなかった。

 自然に出た。

「真実が知りたいだけです。何があったのか。私の母が、余命を告げられる前に。それだけ」

 野口が春香を見た。

 長い時間、見た。

 春香は目を逸らさなかった。

 逸らしたくなかった。

 この目を、ちゃんと受け取らなければいけないと思った。

 野口の目の中に何があるのかを、逃げないで見なければいけないと思った。


 恐れがあった。

 悲しみがあった。

 疲れがあった。

 そして・・何か、別のものもあった。

 軽さ、と呼ぶには重すぎる。

 でも、重さの中に少しだけ、違うものが混じっていた。

 何かが、始まろうとしているものの予感に近かった。


 やがて野口が、目を伏せた。

「美月さんも」と野口は言った。

「来てくれたんですね」

「はい」と美月は言った。

「あなたのことも……ずっと、頭の中にあって」

 美月は何も言わなかった。

 ただ、立っていた。

 その立ち方が、答えになっていた。

 責めないし、許しもしない。

 ただ、ここにいる。

 それだけの立ち方だった。


「……中に入ってください」と野口は、ゆっくりと言った。

「お茶くらい、出せますから」

 春香は息を吐いた。

 出した覚えのなかった息が、体の中からゆっくり出てきた。

 どこかに閉じ込めていた息だった。


 家の中は、小ぎれいだった。

 余計なものがなかった。

 棚の上に写真が一枚。

 老夫婦が並んで立っている写真だった。

 野口と、おそらく亡くなった夫だろうと春香は思った。

 二人とも笑っていた。

 どこかの旅先で撮ったような写真で、背景に山が見えた。

 テレビと、小さなソファと、本が数冊。

 暮らしに必要なものだけが、ひっそりとそこにあった。

 飾り気がなかった。

 でも冷たくはなかった。

 長く一人で暮らしてきた人間の部屋の温度があった。


 野口がお茶を持ってきた。

 四つの湯呑みをお盆に並べて。

 自分の分も用意していた。


「すみません」と春香は言った。

「いいんです」と野口は言った。

「準備してありましたから」

 四人が向かい合って座った。


 野口がお茶を一口飲んだ。

 それからしばらく、湯呑みを両手で包んだまま、黙っていた。

 老いた手だった。

 しわが多かった。

 でも、よく動いてきた手だということも伝わった。


「どこから、話したらいいのか」と野口は言った。

 独り言のような言い方だった。

 三十年間、誰にも話さなかった人間が、初めて出口を探している声だった。

「順番はなんでも」と蒼太は言った。

「どこからでも」

 野口がまた少し黙った。


 窓の外で、鳥が鳴いた。

 一声だけ鳴いて、やんだ。

 その声が消えた後の静けさの中で、野口が顔を上げた。


「一九九五年の十二月の夜のことを」と野口は言った。

「話します」

 その「話します」が、どこから来た言葉なのか、春香にはわかった気がした。

 三十年間、底の方に沈めてきた言葉だった。

 誰にも言えないまま、でも消えないまま、ずっとそこにあった言葉だった。

 水に沈めた石のように。

 石は沈んでいても、なくならない。

 ただそこにある。

 それが今、水面に出てきた。


 春香は、湯呑みを両手で持ったまま、うなずいた。

 美月の横顔を見た。

 美月も、うなずいていた。

 野口が息を吸った。


 窓の外に、海が見えた。

 波が来て、戻っていた。

 また来て、また戻っていた。

 返ってこない時間のそばで、今、言葉が動き始めようとしていた。

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