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第24話 三十年目の告白

 野口節子は、しばらくの間、湯呑みを両手で包んだまま、何も言わなかった。


 話しますと言ってから、少なくとも一分はそうしていた。

 蒼太も美月も春香も、何も言わなかった。

 ここで急かしたら何かが壊れる、と三人全員が感じていた。

 言葉を待つのではなく、言葉が出るための時間を待つ、というのが今ここでできることだった。


 窓の外で、風が木の葉を揺らした。その音だけがあった。

 野口が顔を上げた。


「一九九五年の十二月」と野口は言った。

「あの年は、十二月に入ってから急に冷え込みました。病棟が古い建物で、廊下が寒くて。私は夜勤でした。年末が近づくと、年配の先輩たちは休みを取ることが多くて、若いスタッフが夜勤に集中しました。あの夜は、私を含めて二人しかいなかった」


 野口の声は、静かだった。

 感情を込めているようには聞こえなかった。

 ただ、淡々と言葉を並べていた。

 でも春香は、その淡々さの下に何かが流れているのを感じていた。

 三十年間かけて整えてきた言葉を、今出している声だった。

 何度も頭の中で繰り返した言葉だった。

 繰り返すたびに、感情が少しずつ削れて、今この形になった。

 そういう声だった。


「新生児室に、その晩は二人の赤ちゃんがいました」

 春香は息を止めた。

「一人は、高橋さんのお子さん。もう一人は、別のご家族の。どちらも十二月の同じ夜に生まれていた。時間差は、三時間ほどでした」

 野口は少し間を置いた。

 天井を一度見て、また春香たちを見た。


「新生児の識別は、足首につける名札でやっていました。プラスチックのバンドに、名前と生年月日が書いてある。今ならもっと精密なシステムがありますが、当時の病院では、あれが全てでした。小さな赤ちゃんの足首に、その子の名前だけが書いてある。沐浴のときに一度外して、また付け直す。その作業を、私たちがやっていた。慎重にやるべき作業で、慎重にやっていたつもりでした」


 春香の手が、膝の上でわずかに動いた。

 美月はじっとしていた。

 蒼太は手帳を膝に置いていたが、何も書いていなかった。


「その夜、下の階で急患が来ました。内科の方で、緊急の処置が必要だった。人手が足りなくて、私に降りてきてほしいという連絡が来た。本来、新生児室の当直を離れてはいけない。でも、もう一人の同僚もその時点で別の処置をしていて、私しかいなかった。判断する時間もなかった。呼ばれたから、行った」

 野口の声が、わずかに止まった。


「急患の処置は、長くかかりませんでした。三十分もなかったと思います。でも、その間に・・」

 また、止まった。

 春香は野口の手を見た。

 湯呑みを包んでいる手が、少し白くなっていた。

 強く握っているせいだった。


「沐浴の手順では、赤ちゃんを湯につける前に名札を外すんです。濡れると読めなくなるので。先に一人を沐浴させて、名札を付け直した。次の子の名札を外して、トレーの上に置いて——そこで急患の呼び出しが来た」

 春香はゆっくりと息を吸った。


「戻ったとき、名札のついていない赤ちゃんが一人いて、トレーに名札が一枚ある。それだけ見れば、どちらに付けるべきかはわかる。でも・・」

 野口が湯呑みを、少し強く握った。


「下の階で処置をしていた間に、頭の中が混乱していました。急患の状態のことで頭がいっぱいで、戻ってきてもすぐに切り替えられなかった。二人とも泣いていて、ベッドが隣同士で、布の色が同じで——名札のない赤ちゃんに付ければいいとわかっていても、『私が最初に沐浴させたのは、本当にこっちだったか』という疑いが、急に来た。さっきまで確かだったことが、急に揺れた。触れた感触、位置、すべてが曖昧になって」


「それで」と春香は言った。

 かすれた声だった。


「自分の記憶に従って、確認しました。名札のない子を持ち上げて、これが次に沐浴させるはずだった子だと確かめようとした。でも、両方が泣いていて、位置が少しずれていて・・確認のつもりで、間違えた。どちらを持ったか、自分でも混乱していた。そのまま、付け直してしまった。これで正しい、と思い込んで。でも・・」

 沈黙が、落ちた。


「翌朝になって、気がつきました。付け直した後で、ある細かい記録を見て。高橋さんのお子さんの体重の記録と、名札の子の体重が、合っていなかった。誤差の範囲、と思おうとしました。新生児の体重は揺れるから、と思おうとしました。でも、夜中に何度も確認して・・合っていなかった。もう一人の子の記録と見比べると、逆ならぴったり合った」


 春香の目から、涙が一粒落ちた。

 声は出なかった。

 ただ、落ちた。

 美月が、春香の方を見なかった。

 正面を向いていた。

 その横顔が、何かを必死に保っている顔だった。


「私は、院長の佐伯先生に報告しました。すぐに報告しました。翌朝に。自分の判断で何かをする前に、先生に伝えなければならないと思って。先生ならわかってくれると、先生なら正しい判断をしてくれると、そう思っていた」


「佐伯先生は」と蒼太が静かに聞いた。

「……しばらく、黙っていました」と野口は言った。

「私の話を聞き終えてから、長い間、黙っていました。窓の外を見ていた。その黙り方が、怖かった。判断している人間の顔ではなくて、もう判断が終わっている人間の顔で黙っていた。それから、こう言いました」


 野口が少し間を置いた。

 その間が、長かった。

「『このまま黙っていなさい』と」

 春香は目を閉じた。

 閉じて、また開いた。


「理由を聞きました。私は、聞かずにはいられなかった。先生は、『赤ちゃんはもう家に帰った。両家ともに元気にしている。今更伝えたら、誰も幸せにならない。病院も終わりになる』と言いました。そして・・『あなたも終わりになる』とも言った」


 春香は、その最後の言葉を聞いた。

 あなたも終わりになる。

 佐伯は脅したのか、それとも事実を言ったのか、春香にはわからなかった。

 でも野口が二十代で、そう言われたとき、何を感じたかは、少しわかる気がした。


 野口の声は、ここで初めて、微かに揺れた。

「私は、従いました。先生の言葉に。先生が決めたことだから、と自分に言い聞かせて。でも本当は・・先生がそう言ってくれることを、どこかで望んでいたのかもしれない。自分で決めなくてよくなる言葉を、待っていたのかもしれない。だから従ったのか、怖かったから従ったのか、今でも自分でわからない。三十年間、わからないままです」

 室内が、静かだった。


 美月が、ひざの上に置いた両手を、ゆっくりと握った。

 春香には見えた。

 指の関節が白くなるくらい、強く握っていた。


「その後は」と春香は、声を出した。

 かすれていた。

「病院を辞めたんですか」


「二年後に辞めました。病院が経営難になって、縮小することになって。そのタイミングで。でも、理由の一つには、いられなくなったということもありました。廊下を歩くたびに、新生児室の前を通るたびに、あの夜のことが来るので。それに・・新しい赤ちゃんが産まれるたびに、足首の名札を付けるたびに、手が止まるようになっていた」


「三十年間」と春香は言った。

「ずっと、一人で」

「はい」と野口は言った。

「夫には、言いませんでした。言えなかった。一度だけ、言いかけたことがあります。でも途中で止めた。言ったら、この人を巻き込むことになると思って。誰にも言えなかった。ただ、毎年十二月になると・・あの夜のことを思い出しました。あの泣き声を。二人の赤ちゃんの泣き声が、よく似ていたことを。廊下の寒さを。名札の手触りを」


 春香は口を押さえた。

 名札の手触りを。


 野口は三十年間、毎年十二月に、その感触を思い出してきた。

 プラスチックのバンドの感触を。

 付け直すときの手の動きを。

 あの瞬間の、取り返しのつかない確信の感触を。

 美月が、何も言わずに、ただそこに座っていた。

 その両手は、まだ白く握られていた。


 しばらく、誰も話さなかった。

 野口がお茶を一口飲んだ。

 春香もそれにならって、湯呑みを持ち上げた。

 お茶の温もりが、手に伝わった。

 温かかった。

 その温かさが、今は少しありがたかった。


「ごめんなさい」と野口は言った。

 その言葉が、静かに部屋に落ちた。

「三十年間、言えなかった。言うべきだった。でも言えなかった。それは私の弱さで、先生のせいにはできない。どちらに名札をつけたか確かめなかったのは、私のミスで。佐伯先生に従ったのも、私の選択で・・」


「野口さん」と春香は言った。

 野口が顔を上げた。

「聞けてよかったです。来てよかった」


 野口の目に、何かが光った。

 涙かどうか、春香にはわからなかった。

 でも、何かが動いた。

 三十年間、閉めてきた何かが、今少し動いた。


「私は」と美月が口を開いた。

 全員が美月を見た。

 美月は窓の外の海を見ていた。

「怒っていないわけじゃないです」と美月は言った。

「怒りがないと言えば、嘘になる。あの夜があなかったら、私の人生は違っていた。それは事実で、それを簡単に流すことはできない」

 野口が、頭を下げた。


「でも今日、聞いて・・あなたが三十年間、ひとりで持ち続けてきたことも、わかりました。それも事実で、それも流せない」

 野口が顔を上げた。

「それだけです」と美月は言った。

「今日のところは」

 野口が、小さくうなずいた。


 春香は美月の横顔を見た。

 泣いていなかった。

 でも、何かが美月の中で、わずかに動いていた。

 動いているものを、押さえながら、あの言葉を出していた。

 今日のところは、と言った美月が、明日以降のことを考えているのだと春香には伝わった。

 今日だけで終わらない問いが、美月の中に残っている。

 それをこの人は抱えて帰っていく。


 帰り際、野口が玄関先まで出てきた。

「幸子さんに」と野口は言った。

「お伝えいただけますか。お元気で、と。それだけ」

「はい」と春香は言った。

 野口が少し迷ってから、また言った。

 視線が、少し遠くにいった。


「春香さん。あの夜、二人とも、よく泣いていました。元気な声でした。同じくらい、大きくて、元気な声でした。それだけは、確かです。私が間違えたとしても・・その声だけは、確かだった」

 春香はその言葉を、体で受け取った。

 頭ではなく、体で。

 胸の中の、深いところで。

「ありがとうございます」と言った。

 声が震えた。

 野口の家の扉が、静かに閉まった。


 三人は路地を歩いた。

 誰も話さなかった。

 話す必要がなかった。

 それぞれが、今聞いたことを、それぞれの場所で受け取っていた。

 蒼太は手帳を持ったまま、何も書かなかった。


 路地を抜けると、海が見えた。

 今日の海は、昨日より静かだった。

 波が低く、遠くまで光っていた。

 曇り空なのに、水面がどこか明るかった。


 春香は立ち止まって、その海を見た。

 あの夜、二人の赤ちゃんが泣いていた。

 よく似た泣き声で、廊下の寒い病棟で。同じくらい元気な声で。

 その声を聞いた人間が、今日、三十年ぶりにその声のことを話した。


 春香の目から、また涙が出た。

 今度は、声も一緒に出た。

 小さな声だったが、出た。

 止められなかった。止めようとも思わなかった。


 蒼太が春香の少し後ろに立っていた。

 美月が、春香の隣に来て、黙って立った。

 肩が触れるくらいの近さだった。


 三人で、海を見た。

 波が来て、また戻っていった。

 来ては戻る、それだけを繰り返していた。

 三十年前も、今日も、変わらずそうしている海だった。

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