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第25話 壊れた人生

 路地の角で、春香は立ち止まった。


 海が見えた。

 波が来て、戻っていた。

 蒼太と美月も、少し遅れて隣に来た。

 三人で、しばらく何も言わなかった。


 野口節子の家の扉が閉まったのは、数分前のことだった。

 一九九五年十二月の夜、名札の付け直し、急患の呼び出し、翌朝の体重の不一致、佐伯への報告と「黙っていなさい」という言葉・・それらがまだ頭の中を動いていた。

 整理しようとすると、別の言葉が来た。

 整理できないまま、ただそこに立っていた。


 春香の目から涙が出た。

 声も出た。

 止めようとしなかった。

 止める必要がなかった。

 しばらくして、涙が落ち着いた。


「戻れますか」と蒼太が言った。

 春香は顔を上げた。

「戻る?」

「野口さんのところへ」と蒼太は言った。

「聞いていないことが、まだあると思います。今日しか機会はないかもしれない」


 春香は少し考えた。

 体はまだ重かった。

 でも、蒼太の言う通りだと思った。

 あの人が今日語る気になっているなら、今日聞かなければいけない。

 明日また同じ気持ちでいてくれるとは、限らない。


「行きます」と春香は言った。

 美月は何も言わずに、来た道を戻り始めた。

 三人は野口の家の前に戻った。

 蒼太がインターホンを押した。

 少し間があった。


 扉が開いた。

 野口が立っていた。

 三人の顔を見て、何も言わなかった。

 でも扉を大きく開けた。


「まだいくつか」と春香は言った。

「聞かせてもらえますか」

「はい」と野口は言った。

「入ってください」

 もう一度、四人が向かい合って座った。

 野口が新しいお茶を持ってきた。


 野口がゆっくりとお茶を飲んだ。

 春香も飲んだ。

 温度が少し下がっていたが、それが今の空気に合っていた。

 熱すぎないお茶の温度が、今この部屋には丁度よかった。


 蒼太が手帳のページをめくる音がした。

 何も書いていなかったが、手が動いた。

 それで少し時間が経った。


「野口さん」と蒼太が言った。

「いくつか、聞かせてもらっていいですか」

「はい」と野口は言った。

「病院を辞めてから・・退職後の年月のことを、少し聞かせてください。罰を受けた、という感覚はありましたか」

 野口が少し考えた。

 急いで答えようとしなかった。

 その間が、誠実だった。


「罰、という言葉は、少し違うかもしれません」と野口は言った。

「罰を受けた、というより・・罰を、ずっと待っていた。誰かが来て、あの夜のことを問い詰めると思っていた。病院にいた間も、辞めてからも。いつか来ると思っていた。それが来ないまま、三十年が過ぎた」

「来なかった代わりに」と春香は言った。

「ずっと待ち続けていた」

「はい」と野口は言った。

「待つというのは、思ったよりも疲れることで。来てほしいような、来てほしくないような、そういう状態が三十年続くのは・・体ではなくて、もっと別の何かが、少しずつすり減る感じがします」

「たとえば、どんな場面で」と春香は聞いた。


「日常の、何でもないときに来るんです」と野口は言った。

「スーパーで買い物をしているときとか、バスを待っているときとか。急に来る。今頃、あの子たちはどんな顔をしているだろう、と。それが来るたびに、何かが少し欠けていく感じがして。欠けるのに、なくならない。だから三十年かかっても、まだここにある」


 春香は野口の顔を見た。

 すり減った三十年が、顔に出ていた。

 深い目の奥にあった。

 でも崩れているのではなかった。

 すり減りながらも、まだそこに立っている人間の顔だった。


「ご主人とは」と美月が口を開いた。

「幸せでしたか」

 野口が美月を見た。

 少し意外そうな顔をした。


「……はい」と野口はゆっくり言った。

「幸せでした。夫は、何も知らなかった。ただ穏やかな人で、一緒にいると楽だった。私が何かを抱えていることには気づいていたと思います。でも、聞かなかった。聞かないでいてくれた」

「聞かれていたら」と美月は続けた。

「話しましたか」

「……わかりません」と野口は言った。

「話したかった、という気持ちは、ずっとありました。でも、言葉にすると、夫を巻き込むことになると思って。あの人は何も悪くないのに、私の罪を一緒に持たせることになると思って。それが嫌だった」

「罪と思っていた」と美月は言った。

 質問ではなかった。


「今でも思っています」と野口は言った。

「三十年間、自分を責めてきました。でも責めることと、告白することは、違う。自分だけで持てると思っていた。持ち続けることで、何かが・・償えると思っていた。でもそれは、ただの思い上がりだったかもしれない」

 美月が少し間を置いた。


「ご主人はいつ亡くなりましたか」

「六年前です。癌で、あっという間でした。最後まで何も言えなかった。告別式が終わって、みんなが帰って、棺の前に一人になったとき、言おうとしました。もう聞いてはもらえない、でも言おうと思った。でも、声が出なかった。声を出したら、初めてそれが本当のことになる気がして。声が出ないまま、夫は行ってしまいました」

 野口が少し目を閉じた。


「もう聞いてもらえないとわかってから、言えなかったことの重さが変わりました。それまでは、言えないことが守ることだと思っていた。あの人を守る、あの人の知らない世界を守る、と。でも、聞いてもらえなくなってから・・言えなかったことが、ただ重くなった。守れたのか守れなかったのか、もうわからない」

 部屋が静かだった。


 春香は野口の言葉を体で受け止めた。

 言えなかったことが、相手がいなくなってから重くなる・・母のことが頭をよぎった。

 母がまだいる間に、自分は話せているか。

 聞いてもらえる時間が、まだある間に。

 少しの間があった。


「子どもさんは」と美月が言った。

「いましたか」

 野口が美月を見た。

 その問いが来るとは思っていなかった、という顔だった。


「……はい」と野口は言った。

「娘が一人、いました」

 春香は手を止めた。

「娘さんが」と春香は言った。

「はい」と野口は言った。

「夫が亡くなって、その翌年に・・病気で。三十二でした」


 部屋の空気が、変わった。

 三十二。

 春香と、ほぼ同じ年だった。


「病気、だったんですか」と春香は聞いた。

 声が出たことに、自分で少し驚いた。

「はい。発見が遅くて。半年で、逝きました」と野口は言った。

 淡々と言った。

 でも淡々さの質が、少し変わっていた。

 告白の場面の淡々さとは、違う種類だった。

 こちらは、まだ整えきれていない淡々さだった。


「娘さんは」と春香は言った。

「あのことを、知っていましたか。取り違えのことを」

「知りません」と野口は言った。

「誰にも言わなかったので。夫にも言えなかった私が、娘に言えるはずがなかった。あの子は、何も知らなかった」

 野口が手の中の湯呑みを、ゆっくりと置いた。


「娘が亡くなって、初めて・・高橋さんや神崎さんの気持ちが、少しわかった気がしました。子どもを持つ前は、知識として理解しているつもりだった。でも、子どもを失ってから、初めてわかった。赤ちゃんの足首に名札をつけるということが、どれほどのことだったか。あの夜の自分が何をしたか、体でわかった。頭ではなく、体で」

 春香は何も言えなかった。

 美月も何も言わなかった。


「だから、もう一度、告白しようとしました」と野口は言った。

「娘が亡くなってから、このまま黙っていることに、もう耐えられないと思って。どこかに連絡しようとした。でも・・どこに、何を、どう言えばいいか、わからなかった。院長の佐伯先生はもう亡くなっていた。病院は閉まっていた。高橋さんの住所もわからなかった。どこに向かえばいいかわからないまま、時間が過ぎた。それで・・この海辺の町に来た」


「逃げたわけではなく」と蒼太が言った。

「でも、向かう場所もなくて」

「そうです」と野口は言った。

「そうです」


「そうです」が、二度繰り返された。

 確かめるように、自分に言い聞かせるように。

 春香は野口の顔を見た。

 夫を失い、娘を失い、それでも告白する場所を探し続けてきた三十年近くが、その顔にあった。

 壊れていない。

 壊れきれなかった、という方が近かった。


「この町に来たのは」と蒼太が聞いた。

「いつごろですか」

「夫が亡くなってから四年後です。娘を亡くしてから、二年後になります。縁もゆかりもない場所でした。でも、それがよかった。誰も私のことを知らない場所に行きたかった。病院のあった街とは、遠い場所に」

「海を選んだのには、理由がありますか」

 野口が窓の外を見た。

 海が見えた。


「海だからというより・・広い場所に行きたかった。どこまでも続いていて、向こうに何があるかわからない場所。見ていると、少しだけ、自分の抱えているものが小さく見える気がして。実際には小さくなっていないんですが、見え方が変わる。それだけでも、楽になれた」

 春香は窓の外を見た。

 海が見えた。


 野口は十年以上、この海を見ながら暮らしてきた。

 自分の抱えているものを毎日持ちながら、少し小さく見える角度を探しながら、ここに立ち続けてきた。


「壊れましたか」と春香は言った。

 自分でも驚くほど、直接的な言葉だった。

 でも、それ以外の聞き方ができなかった。


 野口が春香を見た。

「壊れた、という言葉が正しいかどうか」と野口は言った。

「私の人生は、あの夜から変わりました。変わって、歪んで・・でも続いた。続いてしまった。壊れていれば楽だったかもしれない、と思うことも、ありました。全部終わってしまえば、という考えが来たことも、正直あります。でも、来なかった。ただ、続いた」

 春香はその言葉を聞いた。


 野口節子の三十年間が、今ここに来ていた。

 三十年分の重さが、この小さな部屋に集まっていた。


「壊れなかった、というのは」と春香は言った。

「どういうことだったんでしょう」

「わかりません」と野口は言った。

「特別な理由はなかったと思います。ただ・・魚屋の若い子が声をかけてくれたり、鉢植えの葉が新しく出てきたり。そういう小さなことが、毎日あって。それがなければ、続かなかったかもしれない」

 春香は海斗の顔を思い出した。

「優しい人ですよ」と言っていた青年の声を。


「あなたが語ってくれたことで」と蒼太が言った。

「私たちは真実を知ることができました。それが、春香さんにとって何を意味するかは、これから時間をかけて考えていくことだと思います。でも、語ってくれたことへの感謝は、今伝えたい」

「ありがとうございます」と野口は言った。

 声が、少し揺れた。


「一つだけ、聞いてもいいですか」と美月が言った。

 全員が美月を見た。

「三十年間・・高橋家や神崎家のことを、考えましたか。あの二人の赤ちゃんが、どう育っているかを」

 野口が美月を見た。

 美月の目は、責めていなかった。

 ただ聞いていた。


「考えました」と野口は言った。

「毎年、十二月になると・・あの夜に生まれた二人の子が、今年で何歳になる、と数えていました。七歳、十二歳、十五歳・・数えるたびに、二人の顔が浮かんだ。顔を見たことはないのに、浮かんだ」

 美月がうなずいた。

「怖かったです」と野口は続けた。

「元気に育っていることを願いながら、でも元気に育っているということが・・自分の罪を成立させているようで。子どもたちが幸せなら、自分の罪は表に出なくなる。そういう構造が怖かった。誰かの幸せの上に、自分の沈黙が乗っかっている」


「実際に」と美月は言った。

「どちらも、そこそこ元気に育ちました」

 野口が美月を見た。

「それは」と野口は言った。

「よかった、と言っていいのか・・よかったです。本当に」

「よかったです、と言っていい」と美月は言った。

「私はそう思っています。今日のところは」


 春香は美月の横顔を見た。

 今日のところは、という言葉が、また出た。

 美月はいつもその言葉を使う。

 今日で全部終わらせない、という意思が、その言葉の中にある。

 怒りも、受け入れも、まだ途中だという正直さが、その言葉の中にある。

 それが春香には、正直だと思えた。


 帰る前に、春香はもう一つだけ言いたかった。

「野口さん」と春香は言った。

「はい」

「私の母・・高橋幸子は、今入院中です。余命を告げられて、私たちがここまで来ることになった。それが、この話の始まりです」

 野口がうなずいた。知っていた、という顔だった。

「母は、取り違えのことを知っていたんでしょうか」と春香は聞いた。

「どこかで、感じていたんでしょうか」

「わかりません」と野口は言った。

「私には、わかりません。でも・・春香さんを育ててきた人ですよね。長い時間を、一緒に過ごしてきた人ですよね。そういう人には、何かが伝わっていても、不思議ではないと、私は思います。知識としてではなく、もっと別の形で」

 春香は頷いた。


 幸子は何を知っていたのか、知らなかったのか。

 それはまだわからない。

 でも野口の言葉の中に、一つの答えがあった気がした。

「知識としてではなく、もっと別の形で。」

 母の卵焼きを思い出した。

 母の手の温かさを思い出した。

 言葉で教えられたものではなく、二十五年間の時間の中で体に刻まれたものを、思い出した。


「ありがとうございました」と春香は言った。

「こちらこそ」と野口は言った。

 四人が立ち上がった。

 野口が玄関まで出てきた。

 扉を開けたとき、外の光が部屋に入った。

 曇りだったが、それでも光だった。


「また・・来てもいいですか」と春香は聞いた。

 自分でも驚いた。

 野口が少し間を置いた。

「はい」と野口は言った。

「どうぞ、来てください」

 その「はい」が、電話で聞いた「はい」とは違った。

 重さが違った。

 三十年の重さを下ろした後の、少し軽くなった「はい」だった。


 三人が路地に出た。

 昨日と同じ路地。

 昨日と同じ石畳。

 でも今日は、重さが違った。

 来るときと帰るときとでは、同じ道でも質感が変わる。

 体の中に何かが入ったから、その分、外の景色の見え方が違う。


 蒼太が少し歩いてから、立ち止まった。

「少し休みましょうか」と蒼太は言った。

 商店街に、小さな喫茶店があった。

 三人で入った。

 コーヒーを三つ頼んで、窓際の席に座った。


 しばらく、誰も話さなかった。

 コーヒーの香りがした。

 窓の外に人が通った。

 この町の、普通の朝だった。


「どうですか」と蒼太が春香に聞いた。

「わかりません」と春香は言った。

「怒っているのか、悲しいのか、ほっとしているのか・・全部が少しずつある感じで。まだ整理できていない」

「それでいいと思います」と蒼太は言った。

「美月さんは」と春香は聞いた。

「同じです」と美月は言った。

「全部が少しずつある。あと・・疲れました。よい疲れかどうかはわからないけれど、疲れました」

 春香は笑った。

 声を出して笑ったのが、久しぶりな気がした。

「そうですね」と春香は言った。

「疲れましたね」


 コーヒーを飲んだ。

 苦かった。

 でも今の体には、その苦さがよかった。

 苦いものを飲んで、胃の底に落として、それからもう一口飲む。

 そういう動作が、今は必要だった。


 窓の外に、海が見えた。

 野口節子も、今頃あの家でお茶を飲んでいるかもしれない、と春香は思った。

 一人で、窓の外の海を見ながら。

 今日という日が、あの人にとってどういう日だったかは、春香には測れなかった。

 楽になったのか、それとも別の重さが来たのか。

 告白した後に何が残るかは、した人間にしかわからない。

 でも、三十年間一人で持ってきたものを、今日は三人で受け取った。

 受け取った、ということだけは、確かだった。


「東京に戻ったら」と春香は言った。

「母に会いに行こうと思います」

「そうしてください」と蒼太は言った。


 美月が窓の外を見た。

 海を見ていた。

 春香も同じ方向を見た。

 二人で、しばらく黙って同じ海を見た。

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