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第26話 変わっただけ

 翌朝、旅館を出るとき、空が少し明るかった。


 昨日の曇りが引いて、薄い青が覗いていた。

 完全に晴れてはいないが、光があった。

 春香はその光を見ながら、荷物を車に積んだ。

 空の色が少し変わっただけで、気持ちの置き場が変わる気がした。

 昨日の空は白かった。

 今日の空には、わずかに色がある。


 来るときと同じ道を通った。

 商店街を抜けたとき、魚屋の前を通った。

 海斗はまだ店を開けていなかった。

 シャッターが閉まっていた。

 次の木曜日に野口節子が来たとき、今週の鯖を買っていくのだろう、と春香は思った。

 そういう日常が、あの海辺の町で続いていく。

 春香たちがいなくなった後も。


 車が高速道路に入った。

 帰りの車の中で、三人はあまり話さなかった。

 来るときは美月と生い立ちを話していた。

 靴のサイズ、歩き方の癖、同時に口をついた言葉。

 あれから二日が経って、話すべきことは話した、という静かさがあった。

 今はただ座って、窓の外を見ていた。

 海が見えなくなって、山になって、それから平地になった。

 景色が変わるたびに、あの家から少し遠ざかっていくのがわかった。


 野口節子は今頃、何をしているだろう。

 鉢植えに水をやっているかもしれない。

 朝のお茶を飲んでいるかもしれない。

 窓の外の海を見ているかもしれない。

 何かが変わって、何かは変わっていない、その中間にいるかもしれない。

 三十年間抱えてきたものを、昨日三人に渡した。

 渡したからといって、なくなるわけではない。

 でも一人で持つのとは、重さが違う。

 荷物は同じでも、持つ人数が増えれば、一人あたりの重さは変わる。


「春香さん」と蒼太がハンドルを握りながら言った。

「幸子さんのところへ、いつ行きますか」

「今日、直接行こうと思います」と春香は言った。

「荷物を置いて、すぐ」

「そうしてください」と蒼太は言った。


 美月が窓の外を見たまま、何も言わなかった。

 その沈黙が、春香には言葉より伝わるものがあった。

 行ってきなさい、という沈黙だった。


 春香はシートに背中を預けて、目を閉じた。

 野口の声を思い出した。

「一九九五年の十二月」と言い始めた声を。

「話します」と言ったときの声を。

 閉じた目の奥で、あの小さな部屋が浮かんだ。

 湯呑みを両手で包んでいた野口の手が浮かんだ。

 窓の外に見えていた海が浮かんだ。

 春香はゆっくりと目を開けた。

 窓の外は、もう海ではなかった。


 病院の廊下は、いつも通りだった。

 消毒液の匂い。

 床の光り方。

 ナースステーションを通り過ぎるときの靴音。

 春香はここに来るたびに、自分の歩き方が変わる気がしていた。

 構えて歩く、という感じがどうしてもあった。

 今日は少し違った。

 構えはあるが、その下に何か別のものがあった。

 会いたい、という気持ちが、今日は構えより先にあった。


 幸子の部屋のドアをノックした。

「はい」と声がした。

 春香は扉を開けた。

 幸子がベッドに半分起き上がっていた。

 枕をいくつか積んで、背中を持たせかけていた。

 顔色は悪くなかったが、やせていた。

 腕が、前より細くなっていた。

 首のラインが変わっていた。

 でも目が、いつもと同じだった。

 春香を見る目が、変わっていなかった。


「春香」と幸子は言った。

「おかえり」

「ただいま」と春香は言った。


 椅子を引いてベッドのそばに座った。

 幸子が春香の手を取ろうとした。

 春香がその手を握った。

 幸子の手が、冷たかった。

 でも少しの間握っていると、温かくなってきた。


「顔色がいいじゃない」と幸子は言った。

「疲れてるかと思ったけど」

「疲れてるよ」と春香は言った。

「でも、いい疲れかな」

 幸子が少し笑った。

「いい疲れ、ね」と繰り返した。

 その繰り返し方が、いつもの幸子だった。

 春香の言葉をそのまま拾って、もう一度丁寧に置き直す。

 こうしてずっと、春香の言葉を受け取ってきた人だった。


「どこかに行ってきたの?」と幸子はやがて聞いた。

 遠慮がちに、でも聞きたそうに。

「うん」と春香は言った。

「遠くに」

「そう」と幸子は言った。

「よかった」


 何の理由もなく「よかった」と言えるのが、幸子だった。

 行ってきたことが、それだけでいいことだった、という意味で言える人だった。

 行ってきた先を聞かない。

 行った理由を問わない。

 ただ、行ってこられたことを喜ぶ。

 春香はその「よかった」が、ずっと好きだった。

 子どもの頃も、大人になってからも、変わらずにそこにある言葉だった。


「お母さん」と春香は言った。

「一つだけ、聞いていい?」

「なに?」

「桜のこと」

 幸子が少し首を傾けた。

「桜?」

「昔・・私が子どもの頃かな。お花見に行ったとき、お母さんが言ってたこと、覚えてる?」


 幸子が天井を少し見た。

 記憶を探している顔だった。

 春香はその顔を見ながら待った。

 幸子が記憶を探すときの顔は、昔から変わっていない。

 少し目を細めて、口を閉じて、どこか遠くを見る。

 子どもの頃から見てきた顔だった。


「桜は変わってない、見てる私たちが変わってる、って」

 幸子が春香を見た。

「言ったかしら」と幸子は言った。

「そういうこと」

「言ったよ」と春香は言った。

「私、ずっと覚えてる」

「そう」と幸子は言った。

 少し照れたような顔をした。

「何歳のときだっけ」

「小学校の低学年か、それくらい。公園の桜を見ながら言ってた。毎年同じ桜なのに、って私が言ったら」

「確かに言いそうね、私」と幸子は笑った。

「変なこと言うから」

「変じゃないよ」と春香は言った。

「ずっと、頭に残ってたんだから」

 幸子が春香の手を少し強く握った。


「なんでそんなこと聞くの」と幸子は言った。

「急に」

 春香は少し間を置いた。

 窓から光が入っていた。

 薄い光だったが、確かにあった。


「今、その言葉のことをずっと考えてたから」と春香は言った。

「桜は変わってない、見てる私たちが変わってる、って。なんか・・今の自分に、すごく当てはまる気がして」

 幸子が春香の顔を見た。

 聞きたそうな顔だったが、聞かなかった。

 いつもの幸子の待ち方だった。


「壊れたわけじゃないな、って思えてきた」と春香は言った。

「色んなことが。変わったけど、壊れたわけじゃない。そういう気がしてきた、最近」

 幸子がうなずいた。

 ゆっくりと、深く。

「そうね」と幸子は言った。

「変わっただけ」

 春香は頷いた。

 変わっただけ。


 その言葉が、今日ここに来るまでの道中で春香が探していた言葉だった。

 ずっと探していて、自分では見つけられなくて、幸子に言ってもらってはじめて、手に収まった。

 そういうことが、この二十五年間に何度もあった。

 春香が言葉に詰まると、幸子が見つけてくれた。

 今日も同じだった。幸子が入院していても、やせていても、その役割は変わらなかった。

 春香は幸子の手を、両手で包んだ。

 冷たかった手が、今は温かかった。


 帰り際、幸子が「少し歩きたい」と言った。

 看護師に許可を取って、廊下を少し歩いた。

 幸子が点滴スタンドをゆっくり押して、春香がその隣を歩いた。

 歩くスピードが、前より遅くなっていた。

 でも幸子は歩こうとしていた。

 立とうとしていた。

 その意志が、細い体の中にあった。


 廊下の突き当たりに、小さな窓があった。

 外が見えた。

「木が見える」と幸子は言った。

 病院の裏手に、大きな木が一本あった。

 葉がもうほとんど落ちていた。

 冬の始まりの木だった。

 枝だけになって、空に向かって広がっていた。

 でも幹が太くて、根が深そうで、立派だった。

 枯れているのではなく、眠っているように見えた。


「あの木、桜かしら」と幸子は言った。

「どうだろう」と春香は言った。

「春になればわかるよ」

「そうね」と幸子は言った。

「春になれば」

 二人でしばらく、その木を見た。


 幸子がまた来る春を見られるかどうか、春香にはわからなかった。

 それを考えると、胸の奥が痛くなった。

 でも今は、「春になれば」という言葉だけを持っていたかった。

 その木が桜かどうかを、一緒に確かめるために春まで待つ。

 そういう希望だけを持っていたかった。


 春香は幸子の手を見た。

 点滴スタンドを握っている手が、骨ばっていた。

 やせて、少し乾燥していた。

 でも温かかった。


 この手が、二十五年間自分の隣にあった。

 この手が、卵焼きを作った。

 離乳食を作った。

 お弁当を詰めた。

 熱の夜に春香の額に触れた。

 卒業式に泣いた。

 この手が、自分を育てた。

 血が繋がっていなくても、この手が育てた。

 その事実は、何も変わっていない。

 変えようがない。

 どんな真実が出てきても、二十五年間のこの手の記憶は、消えない。

 消えるはずがない。


 壊れたわけじゃない。

 変わっただけ。

 幸子が少し疲れてきた様子だった。

「戻ろうか」と春香は言った。

「うん」と幸子は言った。

「ありがとう、来てくれて」

「また来るよ」と春香は言った。

「すぐ来る」

「うん」と幸子は言った。

「来てね」

 その「来てね」が、「来てほしい」ではなく、「来てくれると信じている」という言い方だった。

 春香にはそう聞こえた。


 廊下に一人になった。

 消毒液の匂いがした。

 床が光っていた。

 いつもの病院の廊下だった。

 でも今日は、その廊下が少しだけ違う感じがした。


 春香は歩きながら、野口節子のことを考えた。

 野口はあの告白の後、どんな夜を過ごしただろうか。

 三十年間の沈黙が終わった翌朝、あの家で目を覚ましたとき、何が変わっていて、何が変わっていなかったか。

 窓の外に海はあっただろう。

 鉢植えは、水を必要としていただろう。

 木曜日になれば、魚屋に行く用事があっただろう。

 三十年間続けてきた日常は、告白の翌日も続く。

 でも、その日常を送る野口の内側が、少しだけ変わっている。

 それが告白というものかもしれない。

 外は変わらない。

 内側が、少し変わる。

 呪縛が解けた、というより・・呪縛の重さが、変わった。


 一人で持つのをやめただけで、なくなってはいない。

 でも一人で持つのをやめることが、どれほど大事なことか、今日はわかる気がした。

 幸子の手を握りながら、「変わっただけ」という言葉を一緒に持ったように。

 重さは同じでも、持ち方が変わる。


 春香は出口に向かって歩いた。

 一歩ずつ、前に向かって、歩いた。

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