第27話 最後の時間
電話が来たのは、夜の十一時を過ぎたころだった。
春香はすでに眠っていた。
着信音で目が覚めた。
画面に「病院」と出ていた。
その二文字を見た瞬間に、体が起き上がっていた。
考えてから動いたのではなかった。
体が先に動いた。
「高橋幸子さんのご家族の方ですか」と女性の声が言った。
「今すぐ来ていただけますか。状態が変わりまして」
状態が変わりまして、という言い方だった。
変わった、という言葉が、こんなに重く来るとは思っていなかった。
いつかこの言葉を聞く日が来ると思っていた。
来ると思いながら、でも来るとは本当には信じていなかった。
こういうことは、信じるより先に来るものだった。
春香は服を着た。
財布を取った。
スマホを握ったまま玄関を出た。
外に出ると、夜の空気が冷たかった。
深呼吸をした。
肺の中が冷えて、少し頭が動くようになった。
タクシーを拾うまでの数分間、春香は自分の足音を聞いていた。
夜の道に、自分の足音だけがあった。
どこかで車が通った。
それ以外は静かだった。
静かな夜だった。
幸子の状態が変わっている夜だとは思えないくらい、外は何も変わっていなかった。
父の和彦には、タクシーの中から電話した。
「わかった、すぐ行く」と和彦は言った。
短く、静かに言った。
その短さの中に、和彦もずっと待っていたものが、来てしまった、という気配があった。
もう少し後であってほしかった、でも来てしまった。
そういう声だった。
電話を切って、春香は窓の外を見た。
夜の街が流れていった。
いつもと同じ夜の街だった。
病院に着いたのは、午前零時に近かった。
幸子の部屋には、酸素マスクがついていた。
それだけで、状況がわかった。
昨日まではなかったものが、今夜はある。
ベッドの周りに機械が増えていた。
小さな画面に数字が並んで、光っていた。
看護師が一人、部屋の中にいた。
静かな部屋だったが、静かさの種類が違った。
病室の静かさには、いくつかの種類がある。
今夜の静かさは、昨日までとは違う種類だった。
春香は幸子の手を取った。
温かかった。
それだけで、少し息ができた。
手が温かいうちは、まだここにいる。
それだけを思った。
幸子の目が、薄く開いた。
春香を見た。
春香だとわかっているのかどうか、はっきりしなかった。
でも、目が春香の方を向いた。
その動きが、意識があるということを伝えていた。
「来たよ」と春香は言った。
「来たよ、お母さん」
幸子が何か言おうとした。
酸素マスクがあったから、声は聞こえなかった。
でも口が動いた。
マスクの中で、何かを言った。
春香は幸子の口元を見た。
読もうとした。
読めなかった。
でも、何かを言おうとしていた、ということだけは、確かだった。
和彦が少し遅れて来た。
息が少し荒かった。
急いで来たのだろう。
幸子の反対側に立って、幸子の手を取った。
和彦が何も言わなかった。
その沈黙の中に、二人が一緒に過ごしてきた長い時間があった。
三十年以上の時間が、今この部屋の中に静かにあった。
口を聞かなくても、隣に立つだけで伝わるものが、この二人の間には積み重なっていた。
春香は和彦の顔を見た。
老いていた。
この数ヶ月で、急に老いた気がした。
頬がこけて、目の下に影ができていた。
隠蔽のことは、まだ赦しきれていなかった。
でも今夜は、その話ではなかった。
今夜は、幸子の手が温かいことだけがあった。
それ以外のことは、今夜は棚の上に置いておいてよかった。
美月から連絡が来たのは、春香が病院に来て一時間ほど経ったころだった。
「蒼太さんから聞きました」とメッセージがあった。
「今夜、母と一緒に行っていいですか」
母、という言葉があった。
神崎真理子のことだった。
春香はメッセージを見て、少し考えた。
今夜、この部屋に真理子が来る。
高橋幸子と神崎真理子が、同じ部屋で向き合う。
三十年間、存在を知らなかった二人が。
春香が生まれたあの夜に、同じ病院の産科にいた二人が。
来てください、と春香は返した。
返してから、手が震えていることに気がついた。
来てほしいと思って返したのか、来てもらわなければならないと思って返したのか、自分でもわからなかった。
でも返した。
そういう夜だった。
待つ時間が、長かった。
幸子の呼吸の音を聞きながら、春香は廊下に出たり、また部屋に戻ったりした。
自動販売機でお茶を買って、飲んだ。
和彦がいつの間にか椅子に座って、目を閉じていた。
眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか、わからなかった。
春香はもう一度、幸子の手を握った。
まだ温かかった。
真理子が来たのは、午前二時を過ぎたころだった。
美月と並んで、病室の入り口に現れた。
真理子は黒い上着を羽織っていた。
背筋が伸びていた。
いつも通りに見えた。
でも顔が、いつもより白かった。
目の周りに疲れがあった。
春香に会釈した。
春香も会釈した。
二人の間で、言葉はなかった。
真理子が部屋に入った。
美月がその後ろについた。
春香が一番後ろに立った。
真理子が幸子を見た。
それだけで、しばらく何も起きなかった。
真理子が幸子を見て、幸子が・・目が薄く開いていて・・真理子の方を向いた。
真理子の顔を見た。
真理子が幸子の顔を見た。
その数秒間が、長かった。
この二人が同じ空間にいる。
春香にはそれだけで、胸の奥の何かが静かに動いた。
動いたものが何なのか、言葉にできなかった。
三十年前の夜、同じ病院で、数時間の差で赤ちゃんを産んだ二人。
それぞれが、相手の娘を二十五年間育てた。
知らないまま、育てた。
今、この部屋で向き合っている。
何年もかけてここまで来た、と春香は思った。
何年もかけて、ではなく、三十年かけて、だった。
この二人の間には、三十年間の時間がある。
真理子がゆっくりと幸子のそばに寄った。
春香の反対側に立った。
「高橋さん」と真理子は言った。
声が、小さかった。
幸子の目が、真理子の方を見た。
真理子を見た目に、何かが動いた。
認識しているのかどうか、春香にはわからなかった。
でも、見ていた。
真理子が何かを言おうとした。
でも、声が出なかった。
口が少し動いて、止まった。
春香は真理子の横顔を見た。
真理子の目が、赤くなっていた。
来る前に泣いたのか、今泣いているのか、どちらかはわからなかった。
幸子が真理子を見ていた。
やがて幸子が、右手を少し動かした。
点滴のチューブがついた方の手を、ゆっくりと動かした。
真理子の方へ、少し伸ばすように。
真理子が、その手にそっと触れた。
マスクの下で、幸子の口が動いた。
聞こえなかった。
でも春香には、その口の動きが読めた気がした。
「春香を、ありがとう」と言ったのかもしれなかった。
「美月ちゃんを、よろしく」と言ったのかもしれなかった。
あるいは、二つとも言ったのかもしれなかった。
どちらかわからなかった。
でも、どちらでもよかった。
どちらでも、同じことだったから。
真理子がうなずいた。
声を出さずに、ゆっくりとうなずいた。
ただそれだけだった。
それ以外の言葉はなかった。
でも、触れた、ということだけが・・手と手が、この部屋で触れたということだけが・・あの夜から続いてきた何かの、ひとつの答えだった気がした。
和彦が静かに泣いていた。
声を出さずに、涙だけが流れていた。
顔を伏せていた。
春香は和彦の泣き顔を見た。
この人に、まだ言えていないことがある。
でも今夜は、それではなかった。
今夜は、ただここにいることだけがあった。
それだけで、十分だった。
廊下に出ると、美月がいた。
美月は壁に背中をもたせかけて、立っていた。
腕を組んでいた。
春香を見た。
二人は廊下のベンチに並んで座った。
「お母さん、今日初めて見ました」と美月は言った。
「高橋幸子さんを」
「うん」と春香は言った。
「小さい人ですね」と美月は言った。
「思ったより」
「うん」と春香は言った。
「最近、小さくなった。この数ヶ月で」
少しの間があった。
夜の病院の廊下だった。
遠くでナースステーションの電話が鳴って、すぐに止んだ。
「春香さんに似てます」と美月は言った。
春香は美月を見た。
「どこが」と春香は言った。
「目元」と美月は言った。
「目の形が。閉じている間も、目元の感じが似てる。あと、手」
春香は自分の手を見た。
膝の上に置いた手を。
「それは、育ちだと思う」と春香は言った。
「血じゃなくて」
「そうかもしれない」と美月は言った。
「でも、似てます。確かに似てる」
似ている、と言われることの重さが、今日は違った。
血が繋がっていないのに似ている、ということの意味が、今日は別の形で来た。
二十五年間、同じ空気を吸って、同じ食卓に座って、同じ人の声を聞いてきた。
同じ卵焼きを食べてきた。
そういうことが、体に刻まれる。
目元に出る。
手に出る。
「美月さんは」と春香は言った。
「神崎さんに・・真理子さんに、似てますか」
「似てるって言われます」と美月は言った。
「笑い方が似てるって。目が細くなる感じが」
「そう」と春香は言った。
「でも」と美月は続けた。
「自分ではよくわからない。似てると言われるたびに、どこで似たんだろう、と思う。血じゃないなら、どこで」
「暮らしで似るんだと思う」と春香は言った。
「同じ笑い方を、毎日見てきたんだから」
「そうですね」と美月は言った。
春香は少し泣いた。
声を出さずに、涙が出た。
隣を見ると、美月も泣いていた。
どちらかが先ではなかった。
同時だった。
声を出さずに、ただ涙が流れた。
同じタイミングで、同じ泣き方で。
春香が気がついて、美月も気がついて、二人でしばらくそのまま廊下に座っていた。
何も言わなかった。
言う必要がなかった。
この二人の間にある話は、今夜は言葉にならなかった。
でも、同じタイミングで泣いたことが、言葉の代わりになった気がした。
同じ夜に同じ病院で生まれた二人が、三十年後に同じ廊下で、同じように泣いている。
ここまで来るのに三十年かかった。でも来た。
夜明けが近づくころ、幸子の状態が少し落ち着いた。
数字が安定した。
看護師が「今夜はこのまま経過を見ましょう」と言った。
その言葉に、春香は少し息をついた。
今夜ではない。
今夜ではない、ということだけが、今は十分だった。
真理子と美月は、待合室で休んでいた。
和彦は病室の隅の椅子で、浅く眠っていた。
部屋が静かになった。
機械の音と、幸子の呼吸の音だけが残った。
春香は幸子のそばの椅子に座った。
眠るつもりはなかったが、目を閉じた。
幸子の呼吸の音が聞こえた。
酸素マスクを通した、規則正しい呼吸。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
それだけの音が、今夜はとても大きく聞こえた。
この音がある限り、ここにいる。
この音を、ただ聞いていた。
春香は幸子の手を、そっと握り直した。
細い手だった。
骨ばっていた。
でも温かかった。
今夜もまだ、温かかった。
「お母さん」と春香は声に出さずに言った。
「もう少しいてね」
声は出なかった。
でも言った。
口が動いた。
幸子に聞こえたかどうかは、わからなかった。
でも言った。
言いたかったから、言った。
窓の外が、少しずつ明るくなり始めていた。
最初は、暗い中に薄い灰色が混じる程度だった。
それが少しずつ、青くなった。
夜が終わろうとしていた。
終わることで、また新しい時間が来る。
その繰り返しが、今夜も続いていた。
幸子の呼吸と同じように、来ては戻り、戻っては来る。
春香は握った手の温もりを感じながら、窓の外を見た。
空が明るくなっていた。
今夜、二人の母が同じ部屋で手を触れた。
それは、誰かが計画したことではなかった。
ただ、そういう夜が来た。
三十年間の時間が積み重なって、今夜になった。
次の夜は、また違う夜になるだろう。
でも今夜という夜は、もうここに刻まれた。
消えない。
春香は目を閉じたまま、幸子の呼吸の音を聞いていた。
夜が明けた。




