表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/32

第28話 バトンを渡す手

 母が最後に目を開けたのは、十二月の、朝だった。


 前の晩から容体が落ち着いていた。

 夜通し付き添った春香は、明け方に少しだけ眠ったが、七時過ぎに母の手が動いた気がして、目が覚めた。

 母が春香の手を握り返そうとしていた。


「お母さん」と春香は言った。

 母がゆっくりと目を開けた。

 焦点が合うまで、少し時間がかかった。

 天井を見て、窓を見て、それから春香を見た。


「春香」と幸子は言った。

 声が出た。

 かすれていたが、確かに声だった。

「ここにいるよ」と春香は言った。


 母が春香の手を、もう少し強く握ろうとした。

 力は弱かったが、握ろうとする意志があった。

 その意志が、春香の手に伝わってきた。


「……寒い?」と幸子は言った。

「寒くないよ」と春香は言った。

「暖かいよ、ここ」

「そう」と幸子は言った。

「よかった」


 母の「よかった」が来た。

 最後まで、この言葉が来た。

 春香は母の手を、両手で包んだ。

 母の「よかった」は、いつも理由を問わなかった。

 母が嬉しいとか、暖かいとか、そういう評価ではなかった。

 母にとって、春香がここにいてくれたことそれ自体が、よかったことだった。

 それが、二十五年間ずっとそうだった。


 和彦が気配に気づいて、廊下から部屋に入ってきた。

 幸子を見て、足が少し止まった。

 それから幸子のそばに来て、幸子の手に触れた。


「幸子」と和彦は言った。

 母が和彦を見た。

「おはよう」と母は言った。

 和彦が少し笑った。

 泣きそうな顔で、でも笑った。

「おはよう」と言った。

 母が目をまた細めた。

 窓の外に光があった。

 十二月の朝の光だった。

 白くて、薄くて、それでも光だった。


 その日の昼前に、母の意識が少し戻った。

 看護師が「今日は少し楽そうですね」と言った。

 楽そう、という言葉の意味が、今日ここでは違う重さを持っていた。

 楽そうというのは、穏やかな状態にいるということだった。


 母が春香に、何か言いたいことがある、という顔をした。

 春香はそれがわかった。

 口の形で言っているのか、目で言っているのか、はっきりしなかった。

 でも、何かを伝えたい、という気持ちが伝わってきた。


「なに?」と春香は聞いた。

「ゆっくりでいいよ」

 母がわずかに顔を動かした。

 視線が、窓際の棚の方に向いた。


 春香は棚を見た。

 一冊のノートがあった。

 日付がわかるくらいに年季の入った、薄いブルーのノートだった。

 春香は見覚えがなかった。

 でも、幸子の視線がそこにある、ということは伝わった。


 春香はノートを取った。

 表紙に、鉛筆で「春香」と書いてあった。

 母の字だった。

「これ?」と春香は聞いた。

 母がゆっくりとまぶたを動かした。

 瞬きというより、うなずきに近い動きだった。


 春香はノートを開いた。

 一ページ目に、日付があった。

 一九九九年三月十七日。

 春香が生まれてから三ヶ月後の日付だった。


 ***


 三月十七日。

 今日で春香が三ヶ月になった。

 朝、沐浴をした。

 泣かなかった。

 お湯の中で足を動かして、気持ちよさそうな顔をした。

 この子は、水が好きなのかもしれない。

 顔が丸くなってきた。

 笑う時間が増えた。

 誰に似ているかは、まだわからない。

 でも、この子はこの子の顔をしていると思う。


 ***


 春香はそのページをゆっくりと読んだ。

 三ヶ月の自分がそこにいた。

 水が好きだったことを、幸子が書き留めていた。

 次のページをめくった。


 ***


 五月二日。

 春香、五ヶ月。

 今日、初めて声を出して笑った。

 台所で洗い物をしていたら、後ろから声がして、振り返ったら笑っていた。

 驚いて、私も笑った。

 春香がまた笑った。

 こういうことが、毎日ある。

 毎日、初めてのことがある。

 この子と暮らすのは、毎日が初めての日みたいだ。


 ***


 春香の目が、にじんできた。

 読み続けた。


 ***


 八月二十日。

 春香、八ヶ月。

 先月からハイハイを始めた。

 今日は台所まで来た。

 追いかけながら、ふと思った。

 この子は、どこまで行くのだろう。

 私の手の届かないところまで、いつか行くのだろう。

 それが嬉しいような、少し怖いような。

 母親というのは、そういうものなのかもしれない。


 ***


 春香はページを閉じなかった。

 母が春香を見ていた。

 春香が読んでいるのを、ただ見ていた。

 それが母の望むことだったのだと、春香にはわかった。

 今、ここで、春香にこれを読んでもらうことが、母の望みだった。

 春香はまた、めくった。


 ずっと後ろのページ。

 春香が小学生のころの記録があった。


 ***


 六月十四日。

 春香、七歳。

 今日、学校から帰って「お母さん、友達が来たらだめ?」と言った。

 部屋に友達を招きたいのだという。

 嬉しかった。

 春香がこの家に友達を連れてきたがっている。

 ここが春香の「うち」になっている。

 この子に「うち」と思ってもらえる場所を作れたこと、それだけで十分だと、今日は思った。


 ***


 春香は、あの頃の自分を思い出した。

 友達を呼んで、母が麦茶と型抜きクッキーを出してくれたことを。

 型抜きの型が、花と星と兎で、友達がいつも花を取り合っていたことを。

 ページをめくった。


 ***


 三月二十五日。

 春香、中学卒業式。

 泣いてしまった。

 春香に笑われた。

「お母さん、なんで泣くの」と言われた。

 なんで泣くの、と聞かれても、うまく答えられなかった。

 ただ、この子がここまで来た、ということが、嬉しかった。

 ここまで来るのに、色々あった。

 色々あったけど、ここまで来た。

 それだけで、涙が出た。


 ***


 春香は声を出して泣いた。

 止められなかった。

 声が出た。

 母の手を握りながら、声を出して泣いた。

 母が春香の手を、また握り返そうとした。

 今日一番の力で、握ろうとした。


「ごめん」と春香は言った。

「泣かないつもりだったのに」

 母が、何か言おうとした。

 春香は母の口元を見た。

「いい」と言ったのだと思った。

 もしくは「いいの」と言ったのかもしれなかった。

 口の形が、そう言っていた。

 泣いていい、ということだった。


 夕方になって、和彦が部屋に入ってきた。

 春香は少し席を外した。

 廊下に出て、窓から外を見た。

 十二月の空が、暗くなり始めていた。


 春香は携帯を取り出した。

 美月にメッセージを送った。

「今日、会いに来られますか」と。

 返信はすぐに来た。「行きます」と。

 一時間後、美月と真理子が来た。

 病室の前で、春香と少し話した。


「母が」と春香は言った。

「今日は少し、意識があります。もしよければ、会っていってほしくて」

 美月が春香を見た。

「いいですか」と美月は言った。

「うん」と春香は言った。

「母が会いたいと思うかどうかはわからない。でも、今日逃したら、もう・・」


 言葉が途中で止まった。

 続けられなかった。

 美月がうなずいた。

 真理子が静かに頭を下げた。


 四人で部屋に入った。

 母が目を開けていた。

 美月を見た。

 真理子を見た。


 母が、真理子をじっと見た。

 真理子が、母のそばに来た。

「高橋さん」と言った。

 二度目の、その呼びかけだった。


 母が真理子を見て、何か言った。

 声が小さすぎて聞こえなかった。

 でも真理子が顔を近づけて、聞いた。

 真理子が顔を上げたとき、目が赤くなっていた。

 何を言ったのかを、春香は聞かなかった。

 聞く必要が、なかった。


 夜になって、真理子と美月は帰った。

 和彦が春香の隣に来た。

 二人で、母のそばに座った。

 母の呼吸が、少しずつゆっくりになっていた。


「春香」と和彦は言った。

「あのことを・・ずっと言えなくて、すまなかった」

 春香は和彦を見た。

「今はいい」と春香は言った。

「今じゃなきゃ言えない気がして」と和彦は言った。

 春香は少し考えた。


「わかった」と春香は言った。

「でも・・謝らなくていいよ。謝るより、ここにいて」

 和彦がうなずいた。

 目を拭った。


 母の呼吸の音が、続いていた。

 来ては、戻る。

 来ては、戻る。

 それだけが、部屋にあった。


 春香は育児日記を、膝の上に置いた。

 まだ開いていない後ろのページが、たくさんある。

 全部は読めなかった。

 でも、もう少しだけ、と思って、また開いた。

 最後から二枚目のページに、日付があった。

 今年の春の日付だった。


 ***


 四月三日。

 桜が散り始めた。

 春香が来て、一緒に窓から見た。

 春香が「毎年同じ桜なのにね」と言った。

 私は「見てる私たちが変わってるのよ」と言った。

 春香が「そうかな」と言った。

 そうかな、と言ったその顔が、子どもの頃から変わっていない。


 ***


 春香は、その場所で止まった。

 今年の春の記録だった。

 母が入院する少し前。

 二人で窓から桜を見ていたあの日。

 その日のことが、ここにあった。


 最後のページをめくった。

 日付は先月だった。

 病院に入ってから書いた、最後の記録だった。


 ***


 十一月九日。

 今日、春香が来た。

 顔色がよかった。

 どこかに行ってきたみたいで、少し遠くを見る目をしていた。

 聞かなかった。

 聞かなくていいと思った。

 この子が見てきたものは、この子の中にある。

 私が知らなくても、春香の中にある。

 母親というのは、ずっとそうだった。

 知らないことの方が多い。

 でも、知らなくても、この子はここにいた。

 ここにいてくれた。

 それだけで、十分だった。


 ***


 春香はノートを閉じた。

 閉じて、胸に抱えた。

 母の呼吸が、聞こえた。

 まだ、あった。


「お母さん」と春香は言った。

 声に出して言った。

「読んだよ。全部じゃないけど、読んだ」

 幸子の目が、わずかに動いた。


「ありがとう」と春香は言った。

「育ててくれて。ここにいてくれて。日記を書いてくれて。全部・・ありがとう」

 母が、口元をわずかに動かした。

 春香には読めなかった。

 でも、何かを言った。

 母の呼吸が、しばらく続いた。


 春香はその呼吸の音を聞いていた。

 一回ごとを聞いていた。

 来て、戻る。

 来て、戻る。

 三十年前も、二十五年前も、昨日も、今夜も、ずっと続いてきた呼吸だった。

 それが、ヴァイオリンの弦が少しずつ張りをなくすように、ヴィブラートが落ちていくように、静かになっていった。


 来て、戻る。

 来て、戻る。

 それがゆっくりになって、もっとゆっくりになって・・


 部屋が静かになったのは、夜の十時を過ぎたころだった。

 和彦が泣いた。

 声を出して泣いた。

 春香は泣かなかった。

 泣けなかった。

 ただ、母の手を握り続けた。

 まだ温かかった。

 少しずつ冷えていくのがわかっていたが、それでも握り続けた。


 母の手の温もりが変わっていくのを、春香は手の内側で感じた。

 子どものころ、母の手は常に温かかった。

 風邪の夜に小さな春香の手を包んでくれた手が。

 洗面後にタオルで顔を拭いてくれた手が。

 学芸会の前夜に衣装の紐を結んでくれた手が。

 そのすべてが、今この手にあった。


 春香は手を離せなかった。

 主治医が来た。

 確認をした。

 後のことを話した。

 春香は返事をしたが、何を話したか、よく覚えていなかった。

 母の手だけが引力になっていた。


 母の手を放したのは、午前二時ごろだった。

 大人の手だった。

 母はすでに息をしていなかったが、その手はまだ母の手の形をしていた。

 春香はその形を目に焼きつけた。

 二十五年分の形だった。

 手の内側にあるものが、少しずつ春香の手の内側に移ってくるような気がした。

 母が持ち続けてきたものが、今ここで手渡された気がした。


 育児日記が、胸の上にあった。

 和彦は処置の人たちと何か話していた。

 春香は少し離れた場所に立った。

 窓の外が見えた。

 深夜の後の空が、少しだけ明るくなり始めていた。


 母が一年で一番好きな季節は、春だった。

 春香はそれを知っていた。

 春になると母が少し元気になると言って、春香が子どものころからかったことを。

 二月の終わりに「もうすぐ春だ」と母が言うのを聞くたびに、春香は安心した。

 その声が、毎年来た。

 今年が最後だったとは、思っていなかった。


 でも、二月になれば、春香はこの人を思い出す。

 これからも、毎年思い出す。

 それだけでよかった。

 それが、母から渡されたものの一つだった。


 春香は目を閉じた。

 涙が、やっと出た。

 声は出なかった。

 嵐の後の静かな海のように、ゆっくりと涙が流れた。

 母に認めてもらったような気がした。

 泣いていい、と母がいつかこの部屋で言ったような気がした。


 外が、少しずつ明るくなり始めた。

 母のいなくなった夜の終わりに、空が明け始めていた。

 この部屋の外の世界は、今日も明日も続いていく。

 母がいなくなっても、空は明ける。

 海辺の町では野口節子も今夜この空を見ているかもしれない。

 美月もどこかでこの夜を過ごしている。


 母がいた世界は、母を中心とした世界ではなくなった。

 でも、母が春香に渡したものが、母の育児日記の中に、春香の手の内側に、まだある。

 なくならない。

 バトンとは、渡した後もなくならないものだと、今日初めてわかった気がした。


 春香は育児日記を抱えたまま、窓の外を見た。

 夜が明けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ