第29話 決別の儀式
葬儀は、幸子が亡くなってから三日後に行われた。
斎場は、幸子の家から近い、こじんまりした建物だった。
春香が子どもの頃に近所の人の葬儀でついてきた、あの斎場だった。
駐車場に白い菊が飾られていて、入り口に「高橋幸子儀」と書かれた立て看板があった。
春香は受付に立っていた。
和彦が隣にいた。
喪服を着た親戚や知人が来るたびに、頭を下げた。
来てくれた、という感謝と、来てしまった、という複雑さが、同時にあった。
葬儀というのはそういうものだと、今日初めてわかった。
美月が来たのは、受付が始まって三十分ほど経ったころだった。
真理子と並んで、駐車場から歩いてきた。
二人とも黒い服を着ていた。
美月の足取りが、春香には見えた。
迷っていない足取りだった。
ここに来ると決めて来た、という歩き方だった。
「来てくれた」と春香は言った。
「はい」と美月は言った。
それだけだった。
春香は美月の顔を見た。
緊張しているのだとわかった。
でも、それを顔の外に出さないようにしている、というのもわかった。
美月がいつもそうするように、内側に押し込んで、その上に別の顔を被せて、ここに立っていた。
真理子が春香に頭を下げた。
春香も頭を下げた。
「ありがとうございます」と春香は言った。
「母が……喜んでいると思います」
真理子が少し目を細めた。
「高橋さんに」と真理子は言った。
「お線香を上げさせてください」
「はい」と春香は言った。
「ぜひ」
式場の中に入ると、参列者たちの視線が集まった。
春香には、それがわかった。
美月と真理子が来た瞬間に、いくつかの視線が動いたのを感じた。
誰だろう、という視線だった。
高橋家の葬儀に来た、見知らぬ二人の女性。
春香と一緒に入ってきた。
和彦の妹の節子おばが、最初に近づいてきた。
「春香ちゃん」と節子おばは言った。
「この方たちは……?」
春香は少し間を置いた。
どう説明するか、まだ決めていなかった。
でも、美月が先に口を開いた。
「神崎美月と申します」と美月は言った。
声が、落ち着いていた。
「高橋幸子さんとは、深いご縁がありまして」
深いご縁、という言い方だった。
嘘ではなかった。
でも全部でもなかった。
節子おばが「そうですか」と言って、少し首を傾けた。
よくわからない、という顔だった。
でも、葬儀の場でそれ以上聞くのもはばかられる、という顔でもあった。
美月はその視線を、正面から受け取った。
怯まなかった。
春香は美月の横顔を見た。
式が始まる前に、美月は祭壇のそばに立って、幸子の遺影を見た。
春香が六十歳のときに撮った写真だった。
少し微笑んでいる。
いつもの幸子の顔だった。
美月がその遺影をどのくらい見ていたか、春香には測れなかった。
一分か、二分か。
その間、美月は動かなかった。
春香はすこし離れた場所に立って、それを見ていた。
美月は血の上では幸子の娘だった。
でも、幸子と過ごした時間はない。
幸子の声も、幸子の卵焼きも、幸子の「よかった」も、知らない。
知らないまま、ここに立っている。
それがどういうことなのか、春香には想像しきれなかった。
美月は遺影を見ながら、この人が誰なのかを考えていた。
高橋幸子。
一九五八年生まれ。
六十五歳で逝った。
この人が自分を産んだ。
正確には・・この人のお腹に、十ヶ月いた。
それだけが、確かな事実だった。
声を聞いたことはない。
顔を見たこともなかった。
でも確かに、私の体はこの人の中にいた。
写真の中の幸子は、穏やかに笑っていた。
厳しい顔ではなかった。
きつい目でもなかった。
ただ、穏やかだった。
春香から聞いた幸子の印象と、重なる顔だった。
「よかった」と言う人。
理由を問わない人。
来てくれたことが、それだけで「よかった」人。
自分はこの人に育てられなかった。
でも、この人が春香を育てた。
春香という人間を二十五年間育て上げた。
その事実が、今日ここにある。
美月は自分の手を、一瞬だけ見た。
この手を。どこかでこの手と似た手がかつてあった、と思った。
この手の中に、この遺影の中にある何かが、流れているかもしれない。
確かめようがない。
でも、そういうことが、あるかもしれない。
美月は遺影から目を離せなかった。
知らない人を悼むことができるのか、今日来るまで自分でもわからなかった。
でも今、この場所に立って、この写真を見て・・知らないけれど、悼んでいると思った。
知らないからこそ、かもしれなかった。
知っていれば複雑になりすぎて、こんなふうに静かには立っていられなかったかもしれない。
知らないまま来たから、ただここに立っていられた。
式の途中で、和彦の弟の隆おじが、春香のそばに来た。
「あの神崎さんという方は」と隆おじは小声で言った。
「どういう関係の人なんだい」
春香は少し考えた。
「母と、縁のある方です」と春香は言った。
「来てくれてよかったと思っています」
「それはわかるけど」と隆おじは言った。
「あの人、なんか……様子が、ただの知人じゃない感じがするんだよな」
春香は隆おじの顔を見た。
「そうですね」と春香は言った。
「ただの知人ではないです」
隆おじが何か言いかけて、止まった。
葬儀の場でこれ以上聞くのは違う、と判断したのだろう。
「そうか」と言って、自分の席に戻った。
春香は視線を美月の方に戻した。
美月は焼香の列に並んでいた。
真理子が後ろにいた。
二人とも、静かに順番を待っていた。
美月の番が来た。
美月が祭壇の前に立った。
線香を取って、火をつけた。
香炉に立てた。
両手を合わせた。
その動作が、丁寧だった。
急いでいなかった。
誰かに見せるためではなかった。
ただ、自分がそうしたいから、そうしていた。
春香は、その背中を見た。
美月が席に戻ると、真理子がそっと美月の手に触れた。
ほんの一瞬だった。
それだけだった。
何も言わなかった。
美月はその手の温もりを感じた。
真理子が今日ここに来てくれたことを、美月はずっと考えていた。
来なくてよかった。
むしろ来ない方が、話がシンプルだった。
でも来てくれた。
自分の娘が、自分を産んだ別の女性の葬儀に行くと言ったとき、「一緒に行く」と言ってくれた。
美月は子どもの頃、真理子のことを「普通のお母さん」だと思っていた。
どこにでもいる、普通のお母さん。
でも今日、隣に座っているこの人が、どれほど普通ではないことをしているか、初めてわかった気がした。
自分の娘が、別の家族の葬儀で泣くかもしれない。
別の「お母さん」の前で頭を下げるかもしれない。
それでも来てくれた。
隣にいてくれた。
美月は真理子の手を、少しだけ握り返した。
式が終わった後、出棺の前に少しだけ時間があった。
棺の蓋が開かれて、参列者が最後のお別れをする時間だった。
親族が並んで、順番に幸子の顔を見た。
美月は列の端にいた。
親族でも、友人でもない、という位置にいた。
春香は美月のそばに行った。
「一緒に来て」と春香は言った。
美月が春香を見た。
「いいですか」と美月は言った。
「来て」と春香は言った。
二人で、棺のそばに立った。
母の顔があった。
白い布の中に、穏やかな顔があった。
眠っているようだった。
写真で見た顔よりも、少し小さかった。
細かった。
でも、同じ顔だった。
穏やかさだけが、そこにあった。
美月は、その顔をじっと見た。
春香には、美月が何を考えているかは、わからなかった。
でも、何かを伝えようとしているのだとは、わかった。
声を出さずに、何かを言っていた。
美月は声に出さずに、言っていた。
生んでくれて、ありがとう。
それだけだった。
最初に来た言葉が、それだった。
恨むとか、責めるとか、会いたかったとか、そういう感情より先に、それが来た。
自分でも驚いた。
でも来た。
あなたが私を産んでくれた。
あなたのお腹の中にいた。
それは事実で、変えようのない事実で、今日この顔を見てやっと、その事実が体に降りてきた気がした。
知識として知っていたことが、今日初めて、本当のことになった。
そして・・春香を育ててくれて、ありがとう。
それも来た。
あなたが春香を育てなければ、春香という人間はいなかった。
今の春香を作ったのは、あなただった。
そして春香を通して、自分は今ここにいる。
春香がいなければ、この真実にたどり着けなかった。
この場所に来ることもなかった。
美月は、ひとつ息を吐いた。
「お母さん」と春香は言った。
声に出して言った。
「美月さんが来てくれた」
幸子の顔は動かなかった。
でも、春香はそれでよかった。
言いたかったから、言った。
美月の目から、涙が一粒、出た。
音を立てずに。
拭こうとしたが、一瞬遅れた。
その一粒が、美月の中の何かが決壊した、ということではなかった。
決壊ではなかった。
ただ、あふれた。
満ちていたものが、一粒だけこぼれた。
それだけだった。
美月は涙をすぐに拭いた。
袖で、素早く。
人に見せるつもりはない、という拭き方だった。
でも春香には見えた。
見えていたが、見なかったことにした。
火葬が終わって、骨を拾う時間になった。
美月と真理子は、その前に席を外した。
春香は見送った。
「また」と美月は言った。
「うん」と春香は言った。
「また」
美月が少し何かを言いたそうにした。
でも言わなかった。
「今日、来てよかったです」と美月はやがて言った。
「来てくれてよかった」と春香は言った。
美月がうなずいた。
真理子が「高橋さんのご冥福を」と言って、頭を下げた。
春香も頭を下げた。
二人が駐車場を歩いていくのを、春香は見ていた。
美月の足取りは、来たときと同じだった。
迷いがなかった。
でも来たときとは、何かが少し違った。
少し重くなった、というより、少し根が生えた、という感じだった。
どこかに立った、という感じ。
春香はその背中を見ながら、今日という日のことを思った。
美月は今日、ここに来た。
親族でも、旧知でもない場所に来た。
「高橋幸子さんとは深いご縁がありまして」と言った。
それ以上も、それ以下も言わなかった。
でも来た。
並んで、線香を立てた。
棺のそばに立った。
泣いた。
それが、美月なりの「決別の儀式」だったのかもしれない、と春香は思った。
血の縁を、今日初めて体の外に出した。
言葉ではなく、行動で。
誰に説明するわけでもなく、ただここに来て、幸子の前に立った。
それだけのことが、どれほどのことだったか。
夕方になって、斎場から引き上げるとき、節子おばがもう一度春香のそばに来た。
「さっきの神崎さんという方ね」と節子おばは言った。
「あとで教えてくれる? どういう方なのか」
「はい」と春香は言った。
「いつか、話します。今日は……まだ、今日じゃないです」
節子おばが春香の顔を見た。
「そうね」と節子おばは言った。
「今日じゃないね」
それだけだった。
春香は和彦の隣に戻った。
和彦が春香を見た。
「美月さん、来てくれたな」と和彦は言った。
「うん」と春香は言った。
「……よかった」と和彦は言った。
その「よかった」が、幸子の「よかった」とは違う重さだった。
でも、同じ言葉だった。
春香は少し目を閉じた。
幸子の「よかった」が、今日もどこかにあった。




