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第30話 再生の桜

 桜が咲いていた。


 四月の初旬、風が少し残っていたが、光は春だった。

 公園の木々が一斉に白くなって、その白さの中に薄いピンクが混じっていた。

 見上げると花びらが光を透かして、空が白く滲んでいた。


 春香は病院の前に立っていた。

 母が亡くなってから、一年が経っていた。

 今日、ここに来たのは目的があったわけではなかった。

 近くで用事を済ませた帰りに、足が向いた。

 そういう日が、この一年に何度かあった。

 帰り道に気がついたら病院の前に来ていた、ということが。


 建物を見た。

 母のいた病室があった側の棟を見た。

 五階の、角の窓を見た。

 それから、病院の裏手に目を向けた。

 去年の冬、母と廊下を歩いて、突き当たりの窓から見た木が見えた。

 今日、その木は咲いていた。

 白に近いピンクの花が、枝いっぱいに開いていた。

 紛れもない桜だった。

 冬に葉を落として、枝だけで空に向かっていたあの木が、今日は満開だった。

 春香は動けなかった。


 母と並んで見た裸木が、今年の春を迎えていた。

 あの日、母が「春になればわかるよ」と言った。

 春香が「そうね、春になれば」と答えた。

 あの会話が、今日この桜で、答えになった。


 母はこの桜を見ただろうか、と春香は思った。

 ここには来なかったが、知っていただろうか。

 毎年この季節にこの木の側を歩いて、春の度に「やっぱり桜の木だった」と思っていただろうか。

 答えは、「そうだ」だった。

 一年越しに、母は正しかった。

 冬の間一本だった裸木が、今日、春香に答えを返していた。

 桜だった。

 やっぱり、桜だった。


 公園のベンチに、しばらく座った。

 育児日記を、バッグから出した。

 母の葬儀の後、春香は日記を一度しまった。

 読む気になれなかった。

 一度に全部読んでしまうのが怖かった、という気持ちもあった。

 だから少しずつ、読めるときに読んだ。

 冬の間に、半分ほど読んだ。

 今日、最後まで読もうと思っていた。


 バッグの中に入れたまま、何となく手を置いた。

 風が吹いた。

 桜の花びらが舞って、ベンチの上に一枚落ちた。

 春香はその花びらを拾った。

 薄くて、軽かった。

 指で持つとすぐに温まった。


 母が毎年二月になると「もうすぐ春だ」と言った。

 その声が、今耳の奥から来た。

 声の記憶は、匂いに似ている。

 ふとしたときに来て、そのたびに少し胸が詰まる。

 でも今日は、詰まる感じの奥に、温かいものがあった。

 一年が経った、ということだった。

 日記を開いた。

 しおりを挟んでいたところから読み始めた。


 ***


 二月七日。

 春香、十四歳。

 今日、初めて口をきかない日があった。

 思春期、というやつかもしれない。

 夕食のとき、隣に座っているのに、春香は一言も話さなかった。

 私も話しかけなかった。

 食べ終わって、春香が「ごちそうさま」だけ言って立った。

 それでよかったと思う。

 言葉がない日も、ご飯を一緒に食べた、ということは残る。

 それだけでいい。


 ***


 春香は少し笑った。

 十四歳の自分が、そこにいた。

 反抗期といえば反抗期だが、春香の記憶では単に疲れていた一日だったような気がする。

 でも母は「思春期」と書き留めて、それでよかったと書いていた。

 ページをめくった。


 ***


 九月三日。

 春香、大学一年生。

 秋学期が始まった。

 今日、帰ってきたら少し顔色がよかった。

「どうだった」と聞いたら「まあまあ」と言った。

 その「まあまあ」が、嬉しそうだった。

 まあまあのことが起きている毎日を、この子は生きている。

 それでいい。


 ***


 まあまあのことが起きている毎日。

 春香はその言葉を、声に出さずに繰り返した。

 大学のとき、何がまあまあだったのかは、もう覚えていない。

 でも母は「嬉しそうだった」と書いていた。

 母から見た春香の「まあまあ」が、ここにあった。

 もう少しだけ、ページをめくった。

 最後に近いところまで来ていた。


 ***


 三月十九日。

 春香、二十四歳。

 今日、春香と二人で桜を見に行った。

「毎年同じ桜なのにね」と春香が言った。

 私は「桜は変わってない、見てる私たちが変わってるのよ」と言った。

 春香が「そうかな」と言った顔が、小さかった頃と同じだった。

 大人になっても、この子のこういう顔は変わらない。

 私の方が、変わっている。


 ***


 止まった。

 春香が二十四歳のとき、二人で見た桜。

 春香が「毎年同じ桜なのにね」と言った日。

 あのとき母が言った言葉が、今日ここで、また来た。


 桜は変わってない、見てる私たちが変わってるのよ。

 母は「私の方が、変わっている」と書いていた。

 春香は日記を胸に抱えた。

 桜の花びらが、日記の表紙に一粒落ちた。


 あのとき二十四歳だった春香が、今二十六歳になって、ここに座っている。

 母はもういない。

 でも母の言葉は、日記の中に、春香の記憶の中に、ある。

 変わらずある。


 母は、春香が変わることを、ずっと見てきた人だった。

 面白がったとか、悲しんだとか、大人になっていくとか、全部を少し離れて座って見ていた人だった。

 そしてその変化を、日記に書き留めていた。

 変わる春香を、変わらない感覚で、ゆっくり見ていた。


 桜が散り始めていた。

 風が吹くたびに、花びらが舞った。

 変わったのは春香だった。

 母が言った通りだった。


 美月から連絡が来たのは、そのころだった。

「今日、花見をするんですが、来られますか」

 春香はその文面を見て、少し考えた。

 それから「行きます」と返した。

 待ち合わせは川沿いの公園だった。

 蒼太と一緒に向かった。


 美月は真理子と、それから一人の男性と一緒にいた。

 春香は見た瞬間に察した。

 美月の隣に自然に立っている人だった。

 美月が誰かの隣に立つとき、あんなふうに自然には立てない、とかつて春香は思っていた。

 でも今日の美月は、自然だった。


「紹介します」と美月は言った。

「澤田さん。同じ職場の人です」

 澤田という男性が、落ち着いた目をしていた。

 会釈した。

 春香も会釈した。

「よろしくお願いします」と春香は言った。

 真理子が「来てくれてよかった」と言った。

「よかった」という言葉が、今日また来た。


 五人で川沿いを歩いた。

 桜が川の上に張り出していて、花びらが水面に落ちていた。

 風が来るたびに、花びらが動いた。

 上からも落ちて、水の上でも流れた。

 二重に桜が動く景色だった。

 光が水面で跳ねて、それが揺れるたびに、桜の影も揺れた。


「きれいですね」と美月は言った。

「毎年同じなのに」と春香は言った。

 美月が少し間を置いた。


「見てる私たちが変わってるから」と美月は続けた。

 春香は美月を見た。

 美月が少し笑った。

「春香さんから聞きました。幸子さんの言葉」と美月は言った。

「ずっと覚えてました」

 春香は何も言わなかった。

 言う必要がなかった。

 母の言葉が、今日は美月の口から来た。

 桜の下で、美月が言った。

 その言葉が春香から美月へ、美月から今この川沿いへ渡ってきた。

 バトンのように。


 帰り道、蒼太と二人になった。

 川沿いの道を歩いた。

 人が多かったが、静かな歩き方ができる道だった。

 桜の並木が続いていて、頭の上が白かった。

 花びらが時折落ちて、二人の間を通り過ぎた。


 春香は、今日言おうと思っていたことを、まだ言っていなかった。

 言うタイミングを探していた。

 言葉を選ぶのではなく、ただ言えるときを待っていた。


「蒼太さん」と春香は言った。

「はい」と蒼太は言った。

「一つ、話があります」

 蒼太が春香を見た。

 春香はまっすぐ前を見ていた。

 桜の並木の向こうに、川が光っていた。


「赤ちゃんができました」

 蒼太が、止まった。

 春香も止まった。

 二人で、並木の中に立ち止まった。

「……本当に」と蒼太は言った。

「本当に」と春香は言った。

「先週、確認しました」

 蒼太がしばらく、何も言わなかった。


 春香は蒼太の顔を見た。

 蒼太は前を向いていた。

 桜の方を向いていた。

 目が、少し赤くなっていた。

 声を出さずに、ただそこに立っていた。

 風が吹いた。

 二人の上に、花びらが降った。


「よかった」と蒼太は言った。

 その一言だった。

 よかった。

 母の「よかった」と、同じ言葉だった。

 でも蒼太の声で来た。

 声の温度が、母とは違った。

 でも意味は同じだった。

 来てくれたことが、それだけで、よかった、という意味だった。


 春香は泣かなかった。

 その代わりに、笑った。

 久しぶりに、曇りのない笑いだった。

 胸の奥から来る、重さのない笑いだった。

 こういう笑い方を、いつぶりにしたかわからなかった。

 でも、今日、できた。


 蒼太が春香を見た。

 春香が笑っているのを見て、蒼太も笑った。

 涙を拭いていたが、笑った。

 そういう笑い方ができる人だった、と春香は思った。

 母の「よかった」も、和彦の「よかった」も、蒼太の「よかった」も。

 その言葉を言える人が、自分の周りにいる。

 それだけで、十分だった。

 桜の花びらが、二人の上を通り過ぎた。


 その夜、春香は育児日記の最後のページをもう一度開いた。

 母が最後に書いた言葉を、もう一度読んだ。


 ***


 それだけで、十分だった。


 ***


 春香はノートを閉じた。

 明かりを消した。

 お腹に手を当てた。

 まだわからない。

 何も感じない。

 でも、そこに何かが始まっていた。


 母はこれを知らない。

 でも、知っていたら「よかった」と言っていただろう。

 理由を問わずに。来てくれたことが、それだけでよかった、という意味で。

 春香はそのことを、暗い部屋の中で、静かに思った。


 お腹の上に置いた手が、少し温かかった。

 自分の手の温もりだったが、その先に何かがある気がした。

 今はまだ何も感じない。

 でもそこにあることだけは、確かだった。


 外に桜があった。

 夜の中で、咲いていた。

 見えなくても、そこにあった。

 来年の春にも、その桜は咲くだろう。

 同じ桜が、また咲く。

 見ている人が変わっても、桜は変わらずにそこに咲く。

 母が言った通りだった。


 一つの命が終わって、別の命が始まる。

 でも桜だけは変わらずに、毎年また咲く。

 それを見る人が変わりながら、桜だけはそこにいる。


 春香はお腹の上に置いた手に、少しだけ力を込めた。

 おいで、と思った。

 声には出なかった。

 でも思った。


 この子がどんな子になるか、母に見せたかった、と春香は思った。

 母なら、理由を問わずに「よかった」と言ってただろう。

 そして少し先のことが、知れない未来のことが、この小さな命にとってよいものでありますように、との願いが、暗闇の中に静かにあった。


 外で、夜風が吹いた。桜の木が揺れる音が、かすかにした。

 春香は目を閉じた。

 眠りにつくまで、その音を聞いていた。

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