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第31話 続く海【エピローグ】

 海は、今日も同じだった。


 野口節子は、砂浜の手前の石段に腰を下ろした。

 石段のコンクリートが、コート越しに冷たかった。

 波が来た。

 波が引いた。

 また来た。

 また引いた。

 この景色を、何年見てきたかわからなかった。

 この町に移り住んできて、もう三十年以上になる。

 あの日から、ずっとここにいた。


 あの日というのは、三十一年前のことだった。

 節子は海を見た。

 水平線が、灰色の空と溶け合っていた。

 三月の海は、まだ冷たい顔をしていた。

 でも光は春に近づいていた。

 遠くの水面が、少し白く光っていた。


 潮の匂いがした。

 海辺特有の、湿った砂と塩気が混じったにおいだった。

 節子はそのにおいが好きとか、嫌いだとか、そういう感情をとっくに持たなくなっていた。

 このにおいは節子の日常のにおいで、それ以上の何もなかった。


 去年の秋に、高橋幸子が亡くなった。

 知らせは、春香からではなかった。

 地元の新聞の訃報欄に、小さく名前があった。

 それを見て、節子は何も言えなくなった。

 訃報欄というのは他人には何でもない情報で、でも節子には止まれない情報だった。


 その日の朝、節子は朝食を食べていた。

 少し古い新聞をどこかからもらってきて、やることもなく見ていた。

 訃報欄の小さな文字が、目に飛び込んできた。

 高橋幸子。

 享年六十八。

 女性。

 形式的な文字が並んでいただけだった。

 でも節子の耳の中に、初めて会った日のことが蘇った。

 三十一年間、ずっと気にしてきた人が、いなくなった。


 葬儀に行ったのは、自分でも驚いた判断だった。

 行かなくてよかった。

 行かない方がよかった。

 でも、行かないことができなかった。

 一度だけ、最後に、頭を下げたかった。

 春香に見つかっても、それでよかった。

 見つかった方が、むしろよかった、と思っていた。

 春香に見つかった。

 でも、追い返されなかった。

 追い返されなかった、ということが、一年経った今も、節子には信じられなかった。


 海を見た。

 波がまた来た。引いた。

 春香から手紙が来たのは、冬の終わりだった。


 便箋二枚の手紙だった。

 読むのに時間がかかった。

 読んで、また読んだ。

 最初の段落から、文字が顔を通り抜けていく感情があった。

 中身が入ってこない。

 でも止められなかった。


 春香は、幸子が亡くなってから一年の間のことを書いていた。

 幸子の育児日記を読み終えたこと。

 日記の中に、自分の二十四歳の日が書いてあったこと。

 そして最後に、一行あった。

「先月、赤ちゃんが生まれました。女の子です。」


 節子はその一行を読んで、手紙を置いた。

 窓の外に海が見えた。

 いつもの海だった。

 本日も明日も変わらない海だった。

 でも節子の目には、今日は少し違って見えた。


 女の子。

 三十一年前、節子が取り違えたのも、女の子が二人だった。

 その子たちの一人が、今、自分の娘を持った。

 節子は目を閉じた。

 涙が来た。

 声は出なかった。

 でも来た。

 三十一年分の何かが、この一行で、少し動いた気がした。


 手紙をもう一度、手に取った。

 薄色の便箋に、春香の文字が丁寧な小さな字で並んでいた。

 春香は節子に恐れていなかった。

 怒っていなかった。

 それだけはわかった。

 手紙を読んでいる間、節子にはその安堵だけがあった。

 よかった、と思った。

 声に出さずに、ただそう思った。


 春から少し時間を遡る。


 春香が産んだのは、二月の終わりだった。

 病院の分娩室の外で、和彦と蒼太が並んで座っていた。

 二人とも、何も言わなかった。

 言葉がなかったのではなく、言葉が要らなかった。

 ただ、廊下の椅子に並んで、扉が開くのを待っていた。


 廊下の荷物置き場の白い壁に、削り取ったような傷が一条あった。

 年季ではなかった。

 和彦はそれを見て、また目を廊下に向けた。

 蒼太は両手を膝の上に置いて、少し前を向いていた。

 それだけだった。


 廊下の空気が、冷たかった。

 夜の十一時に近い廊下は、訪問者の足音も少なく、二人の呼吸だけが聴こえていた。

 扉が開いたのは、夜の十一時を過ぎたころだった。

 看護師が「元気な女の子ですよ」と言った。

 和彦が立ち上がった。

 そのまま少し止まって、また座った。

 目が赤くなっていた。

 そこまで気が付かないサイズの涙だった。


「よかった」と和彦は言った。

 蒼太も立ち上がった。

 何も言わなかった。

 目を拭った。

 慣れない手つきで拭いていた。

 廊下が、しんとしていた。

 看護師が戻っていった通路の消毒液のにおいが、廊下に残っていた。


 春香は、産まれたばかりの赤ちゃんを抱いていた。

 小さかった。

 こんなに小さいのか、と思った。

 頭が丸かった。

 目が閉じていた。

 呼吸をしていた。

 春香の腕の中で、その呼吸が伝わってきた。

 小さな体が、呼吸するたびに少し動いた。


 小さな手が、春香の肌に触れていた。

 五本の指が、母の指の形に似ていた。

 春香はそれに気づいて、少しの間、目が止まった。


 この子は、何も知らない。

 春香はそのことを、腕の中の重さを感じながら思った。

 三十年前の取り違えも、母のことも、美月のことも、野口節子のことも、何も知らない。

 これからを生きていく。

 でも、いつか話す。

 全部ではないかもしれない。

 どこから話せばいいかも、まだわからない。

 でも、隠さない。

 隠すことで守ろうとしない。

 それだけは、決めていた。


 母が隠し続けた。

 その重さを、春香は知っている。

 だから、隠さない。

 この子が知りたいと思ったとき、話せるように生きていく。

 それが、今日から自分がすることだった。


 春香は赤ちゃんの頭に、そっと頬を寄せた。

 温かかった。

 生命の温もりだった。

 母の手もこんな温かさだった。

 生命の温もりを、今春香が受け継いでいる気がした。


「おいで」と春香は言った。

 今度は、声に出して言った。

「待ってたよ」

 赤ちゃんの目が、わずかに動いた。

 目を閉じたまま、小さな口がひとつ、動いた。

 何も言っていなかった。

 でも春香には、それで十分だった。


 退院した日、春香は新しいノートを買った。

 幸子がくれた育児日記と、同じくらいの大きさのノートだった。

 夜、赤ちゃんが眠った後、春香はノートを開いた。

 一ページ目が白かった。

 ペンを持った。

 何を書こうか、少しの間考えた。

 でも、考えるより先に、手が動いた。

 日付を書いた。

 それから、一行だけ書いた。


 ***


 二月二十八日。

 今日、あなたが来た。


 ***


 春香はノートを閉じた。

 母の書き方に、似ていた。

 似ていていい、と思った。

 母から受け取ったものを、今日から書いていく。

 母が書いてくれたものがあったから、春香はここにいる。

 今日から春香が書いていくものが、この子の中に残る。

 バトンは、渡した後もなくならない。


 三月に入ると、節子は久しぶりに海岸まで歩いた。

 風が冷たかったが、光が春だった。

 砂浜の手前の石段に座って、海を見た。

 波が来た。

 引いた。

 また来た。


 三十一年前も、この海はここにあった。

 あの日、節子がやったことを、この海は知らない。

 波は今日も同じように来て、同じように引いていく。

 責めない。

 でも忘れない。

 ただ、続いている。


 春香から来た手紙に、赤ちゃんの写真が一枚入っていた。

 白い産着を着て、目を閉じている。

 小さな手が見えた。

 節子はその写真を、コートのポケットに入れていた。

 海の前で出して、見た。


 小さな手が、写真の中にあった。

 この子は何も知らない。

 でも、この子がいる世界は、三十一年前に節子がしたことの、その先にある世界だった。

 そのことを節子は、ずっと背負って生きてきた。

 これからも背負う。

 でも今日は、その重さが少し、違う感触だった。


 重さは変わらない。

 でも、その重さの意味が、少し変わった。

 節子は写真をポケットに戻した。

 海を見た。

 波がまた来た。

 白い泡が砂に残って、引いていった。


 始まりは、桜の下だった。

 あの日、節子は病院の桜を見ながら出勤した。

 今日、その桜はまだ咲いていない。

 三月の海岸に、桜はなかった。

 でも来月には、この町にも桜が咲く。

 同じ桜が、また咲く。


 節子は、ゆっくり立ち上がった。

 石段を上がって、町の方に戻った。

 後ろで、海が続いていた。

 来た。

 引いた。

 来た。

 引いた。


 誰が見ていても、誰が見ていなくても、海は続いていた。

 それだけが、変わらなかった。

 それだけが、ずっとそこにあった。

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