表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/22

第7話 「違和感の正体」

 対面から帰った夜、高橋春香はアパートのソファに座ったまま、長いことそこにいた。


 テレビはつけなかった。

 スマホも見なかった。

 ただ、薄暗い部屋の中で、今日のことをなぞっていた。


 神崎美月という女性のことを、繰り返し思い出した。

 服装のことが最初に浮かんだ。

 紺のワンピース。

 シンプルだったが、素材が違うことが遠目にもわかった。

 アクセサリーは最小限で、それがかえって目立った。

 立ち振る舞いが静かで、椅子の引き方も、頭の下げ方も、どこかで練習してきたように整っていた。


 春香は自分が今日何を着ていたか思い出した。

 グレーのカットソーに、紺のパンツ。

 地味ではないが、特別でもない。

 いつも着ているものだった。

 比べることに意味はない、とわかっていた。

 でも、やめられなかった。


 あの人は、自分よりずっと洗練されていた。

 話し方も、座り方も、医師の言葉に静かに頷く様子も。

 春香が動揺を抑えるのに必死だった時間を、美月はどこか冷静に過ごしているように見えた。

 本当にそうだったのかどうかは、わからない。

 でも、そう見えた。


 自分が、なんだか粗く見えた。

 それから、会議室を出る間際のことを思い出した。

 扉の前で美月と向かい合った、あの一秒か二秒のこと。

 美月が何か言おうとして、言えなかった。

 自分も言えなかった。

 そのとき何を言うべきだったのか、今も答えが出ない。

 ごめんなさい、と言いたかった。

 なぜそう言いたいのかは、わからなかった。

 ただ、謝らなければならない気がした。

 何に対してなのかも、わからないまま。


 同じ夜に生まれた、ということは、今日確認されたわけではなかった。

 まだDNA検査の前だ。

 でも、もう春香の中では決まっていた。

 達也からメッセージが来ていた。

「今日どうだった?」

 春香は画面を見て、また置いた。

 今夜は、うまく話せる気がしなかった。


 神崎美月は、その夜、自分の部屋に戻ってしばらく天井を見ていた。

 対面の場にいた高橋家の三人のことを、順番に思い返した。

 父親は、ほとんど何も言わなかった。

 椅子に座ったまま、どこも見ていないような顔をしていた。

 その沈黙の重さが、美月には少し気になった。

 神崎の父の沈黙は「思考している」か「怒っている」かのどちらかだが、あの父親の沈黙はそのどちらでもない気がした。

 何かを、抱えている沈黙だと思った。


 春香という女性は、美月と同い年に見えた。

 服は普通だった。

 緊張していることがわかった。

 それでも、医師の言葉を遮るように「理論上、生まれないということですね」と自分から確認した。

 その一言が、ずっと頭に残っていた。

 動揺しているのに、確認を怠らない人だ、と思った。


 そして、高橋幸子という母親のことを考えた。

 穏やかな人だった。

 病人には見えない佇まいをしていたが、顔色が少し悪かった。

 それでも声が落ち着いていて、真理子が泣いたときに「いいえ」と言った声が、ずっと耳に残っていた。

 たったそれだけなのに、あの「いいえ」には何かが入っていた。


 そして、あの人は自分が右を向いたとき、それを見ていた。

 自分と春香が同時に同じ方向を向いた、あの瞬間を。

 幸子だけが見ていた。

 見て、目を伏せた。


 美月は起き上がり、デスクの引き出しを開けた。

 奥に、小さな木箱があった。

 オルゴールだった。

 子どもの頃から持っている。

 真理子が「生まれる前に買ったの」と言って渡してくれたもの。

 淡い桜色の箱で、蓋を開けると小さなメロディが流れる。

 何の曲なのか、大人になっても知らないままだった。


 蓋を開けた。

 チン、チン、チン、と、薄い金属音が鳴った。

 ゆっくりとした、子守唄のようなメロディ。

 美月はそれを聞きながら、幸子の顔を思い出していた。

 本来は誰のもの、という考えが頭をよぎった。

 美月はすぐに蓋を閉めた。

 でも、音は少しの間、部屋の中に残った。


 数日が過ぎた。

 春香は仕事に行き、帰り、飯を食べ、眠った。

 それだけのことが、少し重かった。

 同僚と昼食を取りながら「何かあった?」と聞かれた。

「ちょっと家のことで」と答えた。

 それ以上は言わなかった。

 言えなかった。

「赤ちゃんのとき取り違えられていたかもしれない」は、どう話しても昼食の席には乗らない話だった。


 達也と二回会った。

 一回目は普通に話せた。

 二回目は、達也が「最近なんか違くない?」と言った。

「大丈夫」と答えた。

 大丈夫ではないが、大丈夫と言うしかなかった。

 達也はそれ以上は聞かなかった。

 その優しさが、ありがたかった。

 そして少し、悲しかった。


 ある夜、春香は実家に電話した。

 母が出た。

「元気?」と聞いたら「まあまあね」と言った。

 本当に元気でも元気でなくても、いつも「まあまあ」と言う人だった。

「先日の、神崎さんのところの娘さん」と幸子が言った。

「うん」

「きれいな人だったわね。あなたに似てるとこがあったわ」

「どこが」と聞いた。

「目元。それから、ものを考えるときに口を少し開けるところ」


 春香は口を閉じた。

 今、自分は口を少し開けていた。

「お母さん」と春香は言った。

「今、私、口開いてた?」

 幸子が、電話の向こうで笑った。

 久しぶりに聞く、ちゃんとした笑い声だった。

「開いてたわよ、きっと」

 春香も笑った。

 泣きたいような気持ちが混じっていたが、笑った。

 この人の「きっと」が好きだと思った。

 確かめていないのに、確信している感じが。


 美月はその週、岸本と食事に行った。

 いつものレストランで、いつもの話をした。

 岸本の仕事の近況。

 両家の婚約発表の準備。

 招待客のリストについて。

 美月は相槌を打ちながら、それなりにちゃんと話した。

 でも、どこかで別のことを考えていた。


 幸子の「いいえ」という声のことを。

 あの一言の中に何があったのか、ずっと考えていた。

「あなたの涙は当然です」なのか、「私も同じです」なのか、「もう泣かなくていい」なのか。

 どれも当たっているような気がして、でもどれも違う気がした。


「美月、聞いてる?」と岸本が言った。

「聞いてる」と美月は答えた。

「ごめん、少し疲れてて」

「そうか」と岸本は言った。「無理しないで」

 その言葉は、正しかった。

 でも、何かが届かなかった。


 帰り道、美月はふと思った。

 この人と話しているとき、自分は何者でいるだろう、と。

 神崎美月。

 令嬢。

 婚約者候補。

 岸本清志の隣に座るのに相応しい女性。

 そういう枠組みの中にいる自分。

 今まではその枠組みが、当たり前のものとして体にフィットしていた。

 しかし今は、少しだけ緩い気がした。

 枠組みは変わっていない。

 でも、その中に入っている自分が、少し形を変えた。

 それが何なのか、美月にはまだわからなかった。

 病院の会議室で見た高橋幸子の顔が、なぜこんなに頭に残っているのか。

 あの穏やかな目が、なぜこんなに離れないのか。

 美月は窓の外を見た。夜の街が流れていった。


 二人はまだ、連絡を取っていなかった。

 次の対面の日程も、まだ決まっていなかった。

 DNA検査の同意書だけが、それぞれのかばんの中に入ったまま、数日が過ぎていた。

 春香は夜、洗面所で自分の顔を見た。

「誰に似ているんだろう」とは、もう思わなかった。

 今夜は別のことを思った。


 あの人は、ものを考えるとき、口を少し開けるのだろうか。

 美月は夜、オルゴールを引き出しの中に仕舞い直した。

 蓋は開けなかった。

 でも、チン、チン、という音が頭の中でまだ鳴っていた。

 誰のためのメロディなのかを問うのは、まだ怖かった。

 しかし、問わずにはいられない日が、もうすぐ来ることは、わかっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ