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第6話 「交差する家族」

 会議室は、病院の四階にあった。


 患者支援センターが管理する小さな部屋で、長方形のテーブルと六脚の椅子が置かれていた。

 窓の外には駐車場が見えた。

 白い壁。

 掛け時計。

 空調の低い音。

 消毒液のにおいが薄く漂っていた。

 家でも職場でもない、中立の場所。

 誰のものでもない場所。

 そういう場所がこの世には必要で、病院がこの部屋を管理している理由がそこにある、と春香は思った。


 高橋家が先に着いた。

 春香と幸子と和彦の三人で、病院の医療ソーシャルワーカーである田所さんに案内されて部屋に入った。

 幸子はいつもより背筋が伸びていた。

 病人には見えないよう、そう決めて来たことが春香にはわかった。

 花柄ではない服を選んできた。

 いつもより少し丁寧な化粧をしていた。

 母のそういう準備を見ると、春香は胸の奥が痛くなった。


 和彦は何も言わなかった。

 椅子に座ってから、一度だけ手を膝の上に置き直した。

 それだけだった。

 今朝から、和彦はずっとそうだった。

 車の中でも、病院のエントランスでも、ほとんど口を開かなかった。

 春香はその沈黙の重さに気づいていたが、その理由まではまだわからなかった。


「もうすぐいらっしゃいます」と田所さんが言って、部屋を出た。

 三人で待った。

 時計の針が動く音がした。

 幸子がハンカチを握ったまま、テーブルの木目を見ていた。

 春香はその隣に座って、扉を見ていた。

 和彦だけが、どこも見ていなかった。

 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、田所さんだった。

 その後ろに、三人の人間が続いた。

 春香は、その瞬間に息を止めた気がした。

 先頭を歩く男性は、背が高く、濃紺のスーツを着ていた。

 六十に近い年齢に見えたが、立ち姿が整っていた。

 髪はきれいに整えられ、腕時計の光が蛍光灯の下で少し光った。

 感情が顔に出ていなかった。

 出さないことに慣れている人間の顔をしていた。


 その後ろに、上品な女性が続いた。

 白髪が混じり始めた髪を、丁寧にまとめていた。

 目元が少し赤かった。

 来る前に泣いていたのか、今朝ずっと泣いていたのか、そのどちらかだと春香は思った。


 そして最後に、一人の女性が入ってきた。

 春香は、その顔を見た。

 見た、という言葉では足りない気がした。

 二十五歳くらいで、春香と同い年に見えた。

 服装は整っていて、立ち振る舞いが静かだった。

 春香と目が合った。

 相手も、春香を見ていた。

 二人が同時に相手の顔を見て、同時に何も言えなかった。

 一秒か、二秒か。


「それではご紹介します」という田所さんの声が、その沈黙を破った。

「こちらが神崎さんご家族です。神崎哲郎様、真理子様、そして美月様です」

 哲郎が頭を下げた。

 真理子がそれに続いた。

 美月は一拍遅れて頭を下げた。

 その一拍の遅れが、春香には不思議と自分に似ている気がした。


 向かい合って座った。

 テーブルを挟んで、高橋家と神崎家。

 六人が、同じ部屋の同じ空気の中にいた。


 田所さんが経緯の説明を始めた。

 両家がそれぞれ医療機関から同様の通知を受けたこと、遺伝子鑑定による確認が今後の選択肢としてあること、今日はまず双方が顔を合わせる場を設けたかったこと。

 事務的な言葉が並んだ。

 その言葉の中には「取り違え」という言葉はまだ出てこなかった。

 それを言ってしまうと何かが確定してしまう、とでも言うように、全員がその単語を避けていた。

 部屋にいる全員が避けていた。


 哲郎が口を開いた。

「神崎家の血液型はAB型が当家の家系に受け継がれてきた。今回その点で矛盾が生じているということは、病院側の管理体制に問題があったということになる。その点について、正式な説明を求めることになる」

 会社の会議のような口調だった。

 感情がなかった。

 それがこの男性の怒り方なのだと、春香は思った。

 怒りを冷やして言葉にする人間の怒り方。


 幸子が「私どもも、娘の血液型について先日確認をしまして」と言った。

 声は穏やかだった。

「春香がA型で、私たち夫婦が二人ともO型でしたので——」

「はい」と田所さんが引き取った。

「両家ともに、医学的な矛盾があることが確認されております。DNA検査を経て、正式な確認を進める前に、まずお互いにお会いいただくことが大切だと判断しました」


「大切」という言葉が、室内に少し漂ってから消えた。

 六人が、静かになった。

 空調の音だけがあった。


 そのとき、真理子が突然涙をこぼした。

 声は出さなかった。

 ただ、目から涙が落ちた。

 彼女はすぐにハンカチで押さえた。

「すみません」と言った。

「失礼しました。すみません」

 哲郎が真理子を一瞥したが、何も言わなかった。

 幸子が「いいえ」とだけ言った。

 その声が、とても静かだった。

 静かだったけれど、その「いいえ」の中に何かが入っていた。

 あなたの涙は当然です、というような、あるいは、私も同じです、というような何かが。

 真理子が、幸子を見た。

 二人の母親が、初めてちゃんと相手の目を見た。

 それだけで、春香はまた息が苦しくなった。


 しばらくして、田所さんが「もしよろしければ、お写真など持参されていれば、参考までに」と言った。

 幸子がかばんから茶封筒を取り出した。

 神崎真理子も、同じように封筒を出した。

 二人が示し合わせたわけではなかった。

 それでも同じタイミングで同じものが出てきたことに、部屋の中の全員が気づいた。


 テーブルの上に写真が並んだ。

 春香の写真と、美月の写真。

 それぞれ七歳、十歳、十四歳。

 同じ年齢ごとに縦に並べると、六枚が並んだ。


 七歳の春香は公園の砂場の前で笑っていた。

 七歳の美月は七五三の着物姿で神社の石段に立っていた。

 服も場所も違う。

 まったく別の人生を生きている二人に見えた。


 十歳の写真。

 春香は運動会のリレーで走り終えた直後の写真で、汗をかいて笑っている。

 美月はピアノの発表会の写真で、舞台の上に立っている。

 違う。

 どこまでも違う。

 でも。


 春香は自分の写真と美月の写真を交互に見た。

 表情ではなかった。

 笑い方でも、目の形でもなかった。

 写真の中の自分たちが、カメラに向かって体を置く角度が、似ていた。

 どちらも少しだけ右肩が前に出ていた。

 それが癖なのか偶然なのか、春香には判断できなかった。


 十四歳の写真では、二人とも笑っていなかった。

 カメラを見ているが、笑っていなかった。

 そういう年齢なのだと言えばそれだけのことだ。

 でも、二人が笑わないときの顔の、何かが重なった。

 表情の作り方ではなくて、表情が作られる前の、顔の構えのようなものが。


「目の形が」と、幸子が言いかけて、止まった。

 続きは言わなかった。言えなかった。

 哲郎が「これでは何も証明されない」と言った。

「DNA検査を早急に進めることを要請したい」

 その言葉も正しかった。

 写真では何も証明されない。

 ただ、この部屋にいる全員が、もう心のどこかでは知っていた。

 知っていて、それでも証明を待っていた。


 田所さんが「今後のDNA検査についてですが」と言いながら、部屋の右側の壁に貼ったフローチャートを指した。

 春香と美月が、同時に右を向いた。

 首が、同じ角度で、同じ方向へ、同じ速さで動いた。

 幸子が、それを見た。


 春香を見て、美月を見て、また春香を見た。

 幸子の手がテーブルの上で静かに止まった。

 ハンカチが、少しだけ握られた。

 それだけだった。

 幸子は何も言わなかった。

 誰も、その動きについて何も言わなかった。

 田所さんはフローチャートの説明を続けた。

 哲郎は手元の資料を見ていた。

 和彦は、また、どこも見ていなかった。

 幸子だけが、その瞬間を見ていた。

 そして幸子だけが、静かに目を伏せた。


 一時間が過ぎた。

 具体的な取り決めはほとんど決まらなかった。

 次回の日程を設けること、DNA検査の同意書を各自持ち帰ること。

 それだけが決まった。


 神崎家が先に部屋を出た。

 哲郎が田所さんにさらなる確認があると言って廊下に出た。

 真理子が続いた。

 美月は最後に立ち上がった。

 椅子を引いて、立って、振り返ったところで春香と目が合った。


 廊下には誰もいなかった。

 一瞬だけ、二人が部屋の入り口で向かい合う形になった。

 美月が何か言おうとした。

 口が少し開いた。

 でも言葉は出なかった。

 春香も何も言えなかった。

 ごめんなさい、と言いたかった。

 なぜそう言いたいのかは、わからなかった。

 ただ、何かに謝りたかった。

 美月は小さく頭を下げて、廊下に出た。

 扉が、静かに閉まった。


 エレベーターの前で、春香は窓の外を見た。

 駐車場に二台の車が並んでいた。

 一台は高橋家の古い軽自動車で、もう一台は黒い大きなセダンだった。

 どちらが神崎家の車かは、見ればわかった。


 幸子が春香の隣に来て、一緒に外を見た。

「きれいな人ね」と幸子が言った。

 美月のことだと、すぐにわかった。

「うん」と春香は言った。

「目の形が、あなたに似てる」と幸子は言った。

 そして「ごめんね」と続けた。


 春香は幸子を見た。

 幸子は駐車場を見ていた。

「何が」と春香は聞こうとして、やめた。

 聞かなくても、わかった気がした。

 何が、ではなかった。

 全部が、だった。

 エレベーターが来た。

 ドアが開いた。

 三人で乗り込んだ。

 和彦は最後まで、ほとんど何も言わなかった。


 一階に着いて、自動ドアを抜けて、外の光の中に出た。

 春香は少し目を細めた。

 今日のことを、どこから考えればいいのか、まだわからなかった。

 ただ、もう元の場所には戻れない、ということだけは、はっきりとわかっていた。

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