第5話 「暴かれたカルテ」
同じ日の、朝と午後のことだった。
二人の女が、それぞれ別の場所で、同じ問いの前に立った。
二人はまだ、互いの存在を知らない。
高橋春香 午前十時。
幸子の精密検査の結果を聞くため、市立病院の消化器内科を訪れた。
担当医は四十代の男性で、穏やかな声をしていた。
デスクの上にパソコンと書類を置き、幸子と春香の二人に向かって、検査の結果を一つずつ説明した。
腫瘍マーカーの数値について、エコーで見えた影について、次に行う必要のある生検について。
幸子は「そうですか」「わかりました」と静かに答えた。
春香はメモを取りながら、できるだけ正確に聞いた。
「ご家族の健康状態についても少し伺えますか」と医師が言った。
家族歴の確認だった。
がん、糖尿病、高血圧。
幸子が「夫の父が胃がんで」と答えた。
医師がそれをカルテに入力しながら、「血液型はわかりますか」と聞いた。
「O型です」と幸子が答えた。
「夫もO型で」
「ご本人はいかがですか」と医師が春香を見た。
「私はA型です」と春香は答えた。
普通に答えた。
何かを意識したわけではなかった。
ただ聞かれたから、答えた。
医師が、一瞬、手を止めた。
カルテへの入力が止まった。
ほんの一秒か、二秒か。
それだけのことだった。
でも春香はその止まり方に気づいた。
「お父様もお母様もO型で、春香さんはA型、ということですね」と医師が確認するように言った。
「はい」と春香は答えた。
「少し確認させてください」と医師は言った。
声は変わらず穏やかだった。
「本日、血液型の再確認もさせていただいてよろしいですか。記録として残しておきたいので」
「はい」と春香はまた言った。
幸子は春香を見た。
春香は幸子を見なかった。
採血室で腕を出しながら、春香は天井を見ていた。
駆血帯が腕を締める。
アルコールの冷たさ。
針が入る。
スピッツに赤が満ちていく。
それを見ながら、春香は静かに息を吸った。
結果が出るまで、一時間待った。
神崎美月 午後二時。
婚前健康診断のクリニックは、駅から徒歩三分の清潔なビルの三階にあった。
岸本との婚約発表を年明けに控え、両家の取り決めとして健康診断を受けることになっていた。
婚前に双方の健康状態を確認する、古い慣習に近いやり方だったが、神崎家の父がそれを望んだ。
美月は特に異論はなかった。
自分の体に自信はあったし、健康診断の結果を出すことに抵抗もなかった。
問診票に記入する。
身長、体重、既往歴、家族歴。
血液型の欄に「不明」と書こうとして、やめた。
昔から自分がO型だと思っていた。
自己申告で聞いた話ではなく、小学校の健康診断で調べた記憶があった。
O型、と書いた。
採血があった。
視力、聴力、心電図。
一通りの検査を終えて、結果の確認のため別室に通された。
「血液型なんですが」と担当医が言った。
「こちらの記録ではO型とありますが、今回の採血の結果でも同じ結果が出ています。O型で間違いないですね」
「はい」と美月は答えた。
「ご両親の血液型はわかりますか」と医師が聞いた。
「父がAB型です。母は、確かB型だったと思います」
医師がペンを止めた。
今度の間は、もう少し長かった。
「AB型のお父様から生まれた場合、お子さんはA型かB型になります」と医師はゆっくりと言った。
「AB型の方はA遺伝子とB遺伝子を持っていて、必ずどちらかをお子さんに渡します。ですのでAB型の親御さんから、O型のお子さんが生まれることは……」
美月は医師の顔を見た。
「理論上、ないということですね」と美月は言った。
「はい」と医師は言った。
「念のため再検査をされますか」
「お願いします」
美月の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
高橋春香 同日、午後。
血液検査の結果は、A型だった。
医師は「確かにA型です」と言ってから、少し間を置いた。
「ご両親がお二人ともO型の場合、お子さんは必ずO型になります。O型はO遺伝子しか持っていないため、どちらの親からもO遺伝子しか渡せない。ですので——」
「はい」と春香は言った。
医師の続きを、聞きたくなかった。
でも聞かなければならなかった。
「理論上、生まれないということですね」
「医学的には、そういうことになります」と医師は言った。
「念のため、お父様の血液型も改めて確認されることをお勧めします。記録の誤りという可能性もありますので」
幸子は黙っていた。
診察室を出るまで、一言も言わなかった。
廊下に出ても、エレベーターに乗っても、幸子は黙っていた。
春香も黙っていた。
自動ドアを抜けて、外の空気の中に出てから、幸子がようやく口を開いた。
「春香」と、幸子は言った。
「うん」
「ごめんなさい」
それだけだった。
何に対してのごめんなさいなのかは、言わなかった。
言わなくてもわかった。
わかってしまった。
春香は「大丈夫」と言おうとして、声が出なかった。
神崎美月 同日、夕方。
再検査の結果は変わらなかった。
O型。
「ご両親にも検査を受けていただくことをお勧めします」と医師は言った。
「記録の確認のためにも」
美月はクリニックのビルを出た。
エレベーターのドアが閉まる直前、鏡に自分の顔が映った。
整った顔。
乱れていない髪。
完璧な表情。
その顔が、少しだけ他人に見えた。
駅へ向かいながら、美月は父のことを考えた。
AB型の父。美月に会うたびに「おまえは神崎の顔をしていない」と言う父。
それは冗談のように言われてきたが、美月は一度もその言葉を笑い飛ばせたことがなかった。
笑ったふりをしたことは、何度もあった。
どういう意味だったのか、今ならわかる気がした。
わかりたくない気持ちの方が、ずっと大きかったけれど。
その夜。
春香は実家の居間で、本棚の端にある小さな木箱を手に取った。
白い和紙に包まれた、小さな何かが入っていた。
自分のへその緒だと、母から聞いていた。
大切に保管してあると。
開けた。
和紙を、そっとほどいた。
細く乾いた、小さなものがあった。
それを見ても、何もわからなかった。
何も変わらなかった。
遺伝子も、血液型も、この小さなものを見ただけでは判明しない。
それはわかっていた。
でも、春香はそれをしばらく持っていた。
ここから自分は生まれた、と言われてきたものを、両手で持っていた。
今日、医師が言ったことは、正しい。
O型の親からA型の子は生まれない。
それは正しい。
正しいことは、変えられない。
春香は和紙を元通りに包んで、箱に戻した。
蓋を閉めた。
居間の時計が、九時を告げた。
美月は、自分の部屋のデスクの前に座っていた。
父の書斎に行って確認しようとした。
血液型の記録を。
でも、書斎のドアの前で足が止まった。
どうしても、開けられなかった。
開けてしまえば、何かが終わる。
そういう気がした。
廊下に立ったまま、美月はしばらくそこにいた。
書斎の向こうから、父がテレビを見ている音がした。
ニュースの音だった。
いつもの夜の音だった。
美月は自分の部屋へ戻った。
デスクの上に、今日クリニックでもらった検査結果の紙があった。
血液型の欄に「O」と印字されていた。
その一文字を、美月はしばらく見ていた。
——これは本当のことのはずだ。
以前の夜と同じ言葉が、また浮かんだ。
でも今夜は、「はずだ」が揺れていた。
その夜、二人は互いを知らなかった。
同じ日に、同じ問いの前に立ったことも、知らなかった。
ただそれぞれの部屋で、それぞれの沈黙の中に、いた。
同じ夜の同じ時間に、二人の世界に入ったひびが、静かに、少しずつ広がっていた。




