第4話 「ひびわれる日常」
電話が鳴ったのは、水曜日の夕方だった。
画面に「お母さん」と表示された。
春香は通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、春香。ちょっとね」
それだけで、春香の手が止まった。
声が、いつもとちがった。
特定のどこかがおかしいわけではなかった。
音量も、速さも、普段通りだった。
でも、何かがちがった。
声の奥にある何かが、いつもとちがっていた。
長い年月をかけて耳に沁み込んだ母の声の、その奥の奥。
そこだけが、細くなっていた。
「どうしたの」と春香は聞いた。
「大したことじゃないんだけど、ちょっとお腹の調子が良くなくて。念のため病院に行こうと思って、明日付き添ってもらえないかしら」
「わかった、行く」と春香はすぐに答えた。
「ありがとう。じゃあ午前十時に家来てくれる?」
「うん」
電話が切れた。
春香はスマホを持ったまま、しばらく動かなかった。
泣きたい気持ちになっていた。
なぜそんな気持ちになるのか、自分でもわからなかった。
お腹の調子が悪い、というだけのことだ。
病院に行くだけのことだ。
大したことではない、と母自身も言っていた。
なのに、受話器を置いた後の手に、何か重たいものが残っていた。
声だ、と春香は思った。
いつもの母の声ではなかった。
翌朝、実家に向かう途中で、春香は先週の日曜日のことを思い出した。
庭で母が桜の木を眺めていた。
もう葉桜になっていたのに、ぼんやりと見上げていた。
春香が縁側に出ると、「あ、来てたの」と言って少し笑った。
「この桜、見てると飽きないのよ」と母が言った。
「散ってるじゃない、もう」
「そうだけど。この木はね、いつもタイミングがずれて咲くの。みんなが咲き終わった頃にのんびり咲いてきて、誰も見てないときにひっそり散る。でも、そこが好きなの」
春香は特に何も言わなかった。
そういう話し方を母はする。
ものを見ながら、関係のないようなことを言う。
それがずっと前から変わらなかった。
今、その言葉が急に鮮明に戻ってきた。
いつもタイミングがずれて咲くの。
でも、そこが好きなの。
なぜ今それを思い出すのかわからないまま、春香は自転車を漕いだ。
市立病院の内科外来は、午前中から混んでいた。
受付を済ませ、問診票を書く。
幸子の隣に座って、「書き方わからないとこあったら言って」と言いながら、春香は自分も周りを見ていた。
待合室の椅子に並ぶ人たち。
テレビの音。
番号を呼ぶ院内放送。
病院のにおい。
消毒液と、古い空調と、それから人の多い場所の特有のにおい。
問診の後、血液検査と腹部エコーを指示された。
血液検査室は廊下の奥にあった。
採血担当の看護師が、ゴム手袋をつけて幸子の腕に駆血帯を巻いた。
静脈を浮かせて、アルコール綿で拭いて、針を刺す。
スピッツと呼ばれる採血管が、次々と血液で満たされていく。
赤、茶色がかった赤。
それを見ながら、春香は椅子の端に座っていた。
「血液型って、わかりますか?」と看護師が幸子に聞いた。
「O型です」と幸子が答えた。
春香はそのとき、特に何も思わなかった。
検査が終わり、結果が出るまでの間、院内のコンビニでお茶を買って飲んだ。
幸子は「大げさな検査させてもらっちゃって」と言いながら、おにぎりを食べた。
春香はサンドイッチを食べた。
病院のコンビニにしては、案外おいしかった。
「お父さんには言った?」と春香が聞いた。
「言ってない。心配かけてもかわいそうだから」
「それは逆にかわいそうじゃない」
「そうね」と幸子は笑った。
その笑い方は、いつもの笑い方だった。
電話越しに感じた、声の細さとは別の、普段の顔だった。
安心した、と春香は思った。
「お父さんの血液型、何型だっけ」と春香は聞いた。
特に意味はなかった。
さっき採血室でO型と聞いたのを引きずった、それだけのことだった。
「O型よ」と幸子は言った。
「二人ともO型。珍しいでしょって昔よく言ってたわ」
春香はサンドイッチを食べ続けた。
その言葉が、頭の中で静かに止まった。
O型。
二人とも、O型。
春香は自分の血液型を知っていた。
中学一年の健康診断で調べて、その後ずっと覚えている。
自分はA型だ。
献血のカードにも書いてある。
病院の問診票にも書いたことがある。
A型。
O型の父と、O型の母から、A型の子は生まれない。
それは中学の理科で習う、基本的な遺伝の話だった。
O型はどちらの遺伝子も持ち寄らない。
OとOから生まれる子は、必ずOになる。
A型が生まれる可能性は、ない。
春香は知っていた、それを。
ずっと前から、知っていた。
知っていた、というのは正確ではないかもしれない。
気づいていた、の方が近い。
薄く、薄く、気づいていた。
高校生の頃に一度、遺伝の授業を聞きながら、ふっとそのことが頭をよぎった。
でもすぐに、別のことを考えた。
問題の続きを見た。
それで終わりだった。
一度だけ考えかけて、考えるのをやめた。
そういうことが、あった。
誤解かもしれない、と思った。
血液型の遺伝はもっと複雑で、自分が習ったことが正確とは限らない。
あるいは自分の血液型の記憶が間違っているかもしれない。
そういうふうに、自分に言った。
言い訳ではなかった、本当にそう思おうとした。
なぜか。
家族を傷つけたくなかったから、だと、今なら思う。
問いを持ち込むことが、何かを壊すかもしれないと、どこかで感じていた。
だから置かなかった。
問いを持ったまま、ただ棚の上に乗せて、見ないようにしていた。
コンビニの窓から、病院の中庭が見えた。
小さな花壇があって、パンジーが咲いていた。
春香はそれを見ていた。
「どうかした?」と幸子が言った。
「ううん、なんでもない」と春香は言った。
「顔色が悪いわよ」
「大丈夫」
そう言いながら、春香は手元のお茶のボトルを持ち直した。
ひんやりとしていた。
それだけが、今確かなものだった。
検査結果は、その日の午後に出た。
血液検査の数値に、一部気になる項目があった。
腫瘍マーカーのひとつが、基準値をわずかに上回っていた。
担当医は「精密検査が必要です」と静かな口調で言った。
大きな声ではなかった。
パニックになるような話し方でもなかった。
ただ、次のステップを示すように、淡々と言った。
幸子は「そうですか」と言った。
春香は隣に座って、その言葉を聞いていた。
帰り道、幸子は「心配しないで、大げさなものじゃないと思う」と言った。
春香は「うん」と言った。
二人並んで、病院の廊下を歩いた。
幸子の歩き方は、いつもと変わらなかった。
背筋が伸びて、足取りが確かで、それだけを見ていれば何もおかしくなかった。
自動ドアを抜けると、外の光が明るかった。
春香は少し目を細めた。
頭の中には、さっきのコンビニの会話がまだあった。
O型とO型の両親から、A型の子は生まれない。
その一文が、静かに、ただそこにあった。
どこかへ消えなかった。
今日は、消えなかった。
その夜、春香は実家に泊まることにした。
夕食の後、母が先に寝てしまってから、春香は一人で居間に座っていた。
本棚の端に、古いアルバムが並んでいた。
その隣に、小さな木箱があった。
子どもの頃から知っている箱だった。
一度だけ母が開けるところを見たことがあって、中に白い和紙に包まれた何かが入っていると知っていた。
「へその緒よ」と母が言った、あのとき。
春香の生まれたときのへその緒。
大切に保管してあるから、と言って、また閉めた。
春香はその箱を、手には取らなかった。
ただ眺めた。
居間の時計が、静かに時を刻んでいた。
春香はしばらくそこに座っていた。
起き上がる気力が、今夜はどこかへ行っていた。
庭の方から、夜風の音がした。
葉桜の木が揺れているのかもしれなかった。
いつもタイミングがずれて咲くの。
でも、そこが好きなの。
母の声が、また戻ってきた。
春香は目を閉じた。
開けた。
答えを探すつもりはなかった。
ただ、今夜はここにいようと思った。
この家に、この居間に、母が眠っているこの家に。
それだけでよかった。
それだけでいい、と自分に言い聞かせた。
ひびは入った。
でも、まだ割れていない。
そのことを、春香はまだ言葉にしていなかった。




