第3話 「完璧な令嬢」
神崎美月の朝は、いつも整っている。
カーテンを開ける前に、まず寝具を整える。
シーツの端を引いて、枕の位置を直して、それから窓を開ける。
空気を入れ替えたら洗面所へ行き、スキンケアを決まった順番で行う。
化粧水、乳液、日焼け止め。
朝食の前に着替えを済ませる。
神崎家では、朝食の席に寝間着で来ることを良しとしない。
それは父が決めたルールではなく、ただそういうものだった。
二十五歳の春。
神崎家の長女。
神崎グループは地元ではそれなりに知られた企業グループで、不動産と建設を中心に数社を束ねていた。
父・哲郎が現在の会長を務め、グループ全体の顔として地域の経済団体にも名を連ねていた。
美月はその娘として生まれ、その娘として育ち、今はグループ会社のひとつで総務の仕事をしながら、年明けに控えた婚約発表の準備を進めていた。
食堂に降りると、すでに母が席についていた。
テーブルには朝食の用意が整っていた。
家政婦の田辺さんが毎朝準備する、品数の多い和定食だった。
ご飯、味噌汁、焼き魚、小鉢が二つ。
父はもう食べ終えて出かけた後だった。
弟の陽介は大学の講義があるとかで、朝食を抜いたらしい。
食堂に残っているのは、美月と母の二人だった。
「おはよう」と美月は言った。
「おはよう」と母は言った。
そして、すぐに立ち上がった。
「お味噌汁、温め直してあげる」
「いいよ、そのままで」
「冷めてるから」と母は言って、もう台所へ向かっていた。
美月は椅子を引いて座った。
お味噌汁は、別に冷めていなかった。
触れてみれば、ちゃんと温かかった。
でも母はそういう人だった。
美月のために何かをしていないと、どこか落ち着かない人だった。
子どもの頃から、そうだった。
給食の日でも弁当を持たせようとする母だった。
遠足のしおりを全部暗記する母だった。
美月の予定表を、美月より正確に把握している母だった。
溺愛、という言葉が当てはまると、美月は中学の頃に気づいた。
でも、それだけでは説明のつかない何かが、ずっとそこにあった。
温め直されたお味噌汁が戻ってきた。
母はそれを美月の前に置いてから、しばらく美月の横に立っていた。
「髪、少し乱れてるわよ」
「後で直す」
「今直してあげる」と言って、母は手を伸ばした。
美月の耳の後ろの髪を、指でそっとなでた。
整えるというより、確かめるような手つきだった。
美月は黙ってそれをさせた。
子どもの頃から変わらない習慣だった。
母の指先が、美月の頬のあたりまで来た。
ほんの一瞬、そこで止まった。
「きれいな顔ね」と母は言った。
美月はお味噌汁を飲んだ。
「お母さんも座ってよ」
「そうね」と母は言ったが、すぐには座らなかった。
美月の後ろに少し立ってから、それからゆっくりと自分の席へ戻った。
席に着いても、しばらく美月の横顔を見ていた。
美月はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
食事を続けた。
母の視線は、いつもこういう質をしていた。
見る、というより、探す。
ぼんやりと美月の顔のどこかを見ながら、何かを探している。
何が見つかれば満足するのか、何が見つからないから続けているのか、美月にはわからなかった。
小さな頃に「お母さん、何見てるの」と聞いたことがある。
そのとき母は、少し間を置いてから「きれいだなと思って」と言った。
それが答えではないと、美月は子どもながらに感じた。
でも、それ以上は聞かなかった。
母の愛情は、いつもこういう形をしていた。
過剰で、でもどこかで寸止めになる。
触れようとして、触れ切らない。
見つめようとして、視線をずらす。
幼い頃の美月は、それを「うちの母は恥ずかしがりやなんだ」と解釈していた。
大人になってからは、特に解釈をしなくなっていた。
ただそういうものだと思っていた。
理由のないものとして、棚の上に置いていた。
昼頃、岸本から連絡があった。
「今夜、少し時間ある? 父が一緒に食事をしたいと言っていて」
岸本清志は同い年で、取引先の会社の後継ぎだった。
婚約の話は両家の間で数年かけて進んできたもので、美月自身が誰かを選んだわけではなかったが、かといって断る理由もなかった。
礼儀正しく、話が合い、見た目も悪くない。
何より、父が認めた相手だった。
「大丈夫」と美月は返信した。
夕方、母が美月の部屋に来た。
今夜の服を確認しに来たのだった。
クローゼットを開けて、一着ずつ見ながら「これはどう?」「これの方がいいかしら」と言った。
美月はその間、鏡の前に座っていた。
「これにしなさい」と母が決めた紺のワンピースは、美月自身が最初に選ぼうとしていたものだった。
けれど美月は「そうね」と言った。
それが二人のやり方だった。
母が後ろに立ち、鏡越しに美月の肩に手を置いた。
「岸本さんのご両親に、ちゃんと気に入ってもらわないとね」
「わかってる」
「美月は何でもできるから、大丈夫ね」
母の言葉はいつも、そういう形をしていた。
褒めているのか、確認しているのか、あるいは自分に言い聞かせているのか、美月にはよくわからなかった。
「何でもできる」という言葉が、どこか遠くから飛んでくるように聞こえることがあった。
娘への称賛ではなく、何か別のものに似ていた。
呪文か、あるいは祈りか。
鏡の中で、二人の目が合った。
母が、少し笑った。美月も笑った。
でもそのとき、ほんの一瞬だけ、母の視線がどこかへ逃げた。
美月の顔を正面から見ながら、見ていない瞬間があった。
何かを探して、見つからなかった瞬間のように見えた。
美月はそれを、今まで誰にも話したことがなかった。
夜の会食は、うまくいった。
岸本の父は話し好きで、自社の近況と地域の話題を交互に話した。
岸本は隣に座って、ときどき父を諫める役割をこなした。
美月はその様子を見ながら、きちんと相槌を打ち、適切なタイミングで笑い、必要なことを必要な量だけ話した。
それが自分の得意なことだと、美月は知っていた。
場を読む。
空気を合わせる。
求められた自分を演じる。
演じる、というと聞こえが悪いかもしれない。
でも美月にとって、それは特別なことではなかった。
物心ついた頃から、美月は「神崎の娘」だった。
それに相応しく振る舞うことが、求められ続けてきた。
そしてそれを、美月はちゃんとこなしてきた。
帰りの車の中、岸本が「今日もよかったよ」と言った。
「そう」と美月は言った。
窓の外の夜景を見ながら、美月はふと思った。
今夜の自分は、誰だっただろう、と。
神崎美月。
二十五歳。
令嬢。
婚約者候補。
会食の席での笑顔。
これらは全部、自分のことだ。
自分のことのはずだ。
なのに、帰りの車の中でふとした拍子に、それらが全部、薄い紙に書かれた文字のように感じることがある。
指で押せば、裏まで透ける。
「疲れた?」と岸本が聞いた。
「少し」と美月は答えた。
「そうだよな、今日は長かった」と岸本は言って、それ以上は聞かなかった。
美月は窓の外を見続けた。
夜の道が流れていく。
街灯が等間隔に並んでいた。
母が自分の顔を見るときの、あの一瞬の視線のずれ。
それが、また頭に浮かんだ。
なんだろう、と思った。
なんだったんだろう、と。
でも答えは出なかった。
出ないまま、車は神崎の家へ向かった。
大きな門が見えてきた。
表札に「神崎」と書いてある。
美月の名前が入った表札。
美月が生まれた家。
美月がずっと暮らしてきた場所。
それらはすべて、本当のことだった。
本当のことのはずだった。
——そう、本当のことの、はずだった。
美月は目を閉じた。
車が門をくぐった。
砂利を踏む音がした。
母は今頃、居間で待っているだろう。
帰ったら「どうだった?」と聞いてくるだろう。
そして美月が「うまくいったよ」と言えば、「そうでしょう、美月なら大丈夫だと思ってた」と言うだろう。
その言葉を聞いて、美月は少し安心して、でも何かが足りない気持ちのまま、自分の部屋へ戻るだろう。
それが、いつものことだった。
車が止まった。
美月はドアを開けた。
夜の空気が入ってきた。
玄関の電気がついていた。
母が、待っていた。




