第2話 「二つの世界」
四月の日曜日の朝は、どこかのんびりした音がする。
遠くで踏切が鳴る。
鳥が鳴く。
どこかの家の洗濯機が止まる音。
高橋春香はそういう音の中で目を覚まし、カーテンの隙間から差し込む光の色を確認してから、もう少しだけ布団の中にいることにした。
二十五歳の春。
アパートの一室。
六畳と三畳のDKで、収納が少ないのが難点だが、駅から歩いて七分で、実家まで自転車で十五分という立地が気に入っていた。
家賃は会社の先輩に紹介してもらった格安物件で、壁が薄いのと台所の換気扇がうるさいのだけが欠点だった。
それ以外は、気に入っていた。
部屋の隅に小さな観葉植物を置いていたが、水をやり忘れることが多く、達也に「もう少し頑張れ」といつも言われていた。
起き上がり、顔を洗い、コーヒーを淹れる。
インスタントではなく、ドリップバッグだった。
たったそれだけの違いだが、達也が「せっかくだからちゃんとしたの飲もうよ」と言って買ってきてから、なんとなくそれが習慣になっていた。
豆の種類にこだわりはなかった。
ただ、朝にコーヒーのにおいがするのが、いつしか自分の一日の始まりになっていた。
スマホに達也からメッセージが来ていた。
「今日、昼から行っていい? 昨日の残り物で何か作れる気がする」
春香は少し笑った。
達也は料理が得意というわけではなかったが、こういうことを思いついたらすぐに実行しようとするところがあった。
余りもので「何か作れる気がする」という根拠のない自信も、いつものことだった。
それが当たることはあまりないのだが、外れたところで誰も傷つかないし、春香も大げさに笑えるので、それはそれでよかった。
「どうぞ」とだけ返信して、コーヒーを飲んだ。
達也は正午を少し過ぎた頃に来た。
スーパーの袋を持って、「卵が安かったから多めに買ってきた」と言いながら上がり込んだ。
実際に余りものを使う気はあまりなかったようで、台所を少し眺めてから「やっぱりオムライスにしよう」と言った。
春香は椅子に座って、彼が台所に立つのを眺めた。
背が高くて、肩幅がある。
料理のときだけエプロンをする律儀なところがある。
玉ねぎを炒める音がして、バターのにおいがした。
フライパンを持つ手が思ったより様になっていた。
隣の市で働く普通の会社員で、休日は特別なことをするわけでもなかったが、こうして台所に立っている後ろ姿を見ていると、春香はなんとなく、これが自分の日常だということを確かめるような気持ちになった。
嬉しいというより、ほっとする、に近い感覚だった。
「ケチャップ、ちゃんとある?」と達也が聞いた。
「冷蔵庫の右上」と春香が答えた。
そういう会話だった。
それだけのことが、なぜか心地よかった。
オムライスは、ちゃんとおいしかった。
達也はケチャップで何か書こうとして失敗し、「ハート」が「ひし形」になったと言った。
春香は「三角形にも見える」と返した。
二人で笑った。
大した理由もなく笑えるのが、この人といるときの一番いいところだと春香は思っていた。
食後、二人でテレビを見た。
バラエティ番組だった。
面白いわけでも、つまらないわけでもなかったが、誰かとソファに並んでぼんやりと見ている時間というのは、それだけで何かが充足される。
春香はそれをよく知っていた。
「ねえ、今度どこか行かない?」と達也が言った。
「どこでもいいよ」と春香が返した。
「どこでもいいって言われると困るんだよな」と達也が笑った。
春香も笑った。
この会話も、もう何度もしていた。
そして結局、毎回どこかへ行っていた。
どこへ行っても特別なことはなかったが、どこへ行っても帰りの電車が心地よかった。
それで十分だと、二人はどちらも知っていた。
午後から、実家へ顔を出すことにした。
達也は「じゃあ俺は帰る、ちゃんと挨拶してきて」と言った。
別れ際に「また来週」と言って、それが自然だった。
次の約束を念押ししなくても、次があると思えるのが、付き合って二年という時間の重さだった。
自転車で実家へ向かう。
桜はすでに散っていたが、街路樹の緑が新しく、日差しの中を走ると気持ちよかった。
坂を下りきったところで、子どもが三輪車を漕いでいるのが見えた。
転びそうになったのを、後ろから来た父親が支えた。
春香はそのすれ違いざまに、なんとなく目が離せなかった。
父親の手が、子どもの肩に添えられていた。
大きな手だった。
実家の呼び鈴を押すと、母が出てきた。
「あら、達也くんは?」というのが第一声だった。
「帰った」と答えると、「もったいない」と言いながら門を開けた。
幸子はいつもそうだった。
達也が来るたびに何か食べさせようとして、帰るたびに「もったいない」と言う。
春香にとって、その繰り返しがもう長いこと続いている。
そしてそれが、好きだった。
変わらないことの安心感、というのは、時間が経てば経つほど体に染みていくものだ。
縁側に出ると、庭の桜の木がよく見えた。
この木だけは毎年、周りより少し遅れて咲く。
もうとっくに葉桜になっていたが、それでも幸子はよくここに座って、その木を眺めていた。
「お茶にしましょう」と言いながら台所へ戻る母の背中を見ながら、春香は縁側に腰かけた。
座布団の感触が、子どもの頃から変わっていなかった。
お茶を飲みながら、二人でとりとめのない話をした。
近所の田中さんの息子が結婚したこと。
スーパーの特売の話。
幸子が最近ハマっているテレビドラマのこと。
春香の仕事でちょっとした失敗があったこと。
それを聞いて幸子が「そうなの、大変だったわね」と言い、次の瞬間には「でもあなたは昔からそういうところあるものね」と笑ったこと。
笑われたのに、春香は怒らなかった。
その「そういうところ」が具体的に何なのかも、特に確認しなかった。
母が笑うなら、そういうところがあるのだろう、と思えた。
特別なことは何もない話だった。
それでも時間は過ぎた。
帰り際、洗面所を借りようとして、廊下を通りかかった。
廊下の壁に、家族写真が並んでいた。ずっとそこにある写真だった。
春香が三歳のとき。
小学校の入学式。
中学の運動会。
高校の卒業式。
それから先は飾られていないが、引き出しの中にはもっとある。
母はときどきそれを出してきて、眺めては仕舞う、ということを繰り返していた。
春香は立ち止まって、その写真を見た。
中学の頃の自分。
校庭に立って、父と母の間で笑っている。
三人が並んでいる。
こんなにも当たり前のように、三人が並んでいる。
そのまま洗面所のドアを開けると、正面に鏡があった。
自分の顔が映っていた。
春香はしばらく、自分の顔を見た。
特に何かを考えていたわけではなかった。
ただ見ていた。
今日の疲れ、とか、化粧が薄れてきた、とか、そういうことを確認するつもりだった。
でも、気づいたら別のことを思っていた。
——誰に、似ているんだろう。
廊下に並んだ父の顔。
母の顔。
自分の顔。
それらを順番に思い浮かべながら、どれとも重ならない何かがある気がした。
気がした、というだけで、具体的に何かがおかしいわけではなかった。
友達に「お母さんに似てるね」と言われたこともある。
そう言われればそうかな、と思うことができた。
でも、この鏡の中の顔は。
——誰に、似ているんだろう。
洗面台の水を出した。
顔を洗う。
タオルで拭く。
それだけのことをして、春香は洗面所を出た。
廊下に戻ると、写真はまだそこにあった。
三人が並んでいた。
当たり前のように、笑っていた。
春香はそのまま居間へ戻った。
「顔色悪くない?」と母が言った。
「大丈夫」と春香は言った。
それ以上は言わなかった。
言う必要がなかった。
鏡の中で浮かんだ問いも、廊下の写真の前で感じた引っかかりも、口にしてしまえばどこかへ飛んでいくような気がした。
言葉にしなければ、ただの気のせいで済む。
「もう少しいたら?」と母が言った。
「うん」と春香は言った。
縁側から見える庭で、葉桜の木が夕風に揺れていた。
もう花はない。
ただ葉だけが揺れている。
それでも春香は、この木がなんとなく好きだった。
理由はよくわからないまま、ずっと好きだった。
帰り際、母が玄関先まで見送りに出てきた。
「また来週もおいで」と言った。
「うん」と春香は言った。
自転車のライトをつけて、夜道を走った。
街灯が等間隔に並んでいた。
信号が青に変わるのを待ちながら、春香はふと手元を見た。
ハンドルを握る自分の手。
日焼けも傷もない、ただの手だった。
誰の手に似ているのか、わからなかった。
信号が青になった。
春香はペダルを踏んだ。
夜の空気の中を、真っすぐに走った。
アパートに着いて、電気をつける。
静かな部屋だった。
台所には、達也が洗って伏せておいたフライパンがあった。
昼の話し声も、笑い声も、もうどこにもなかった。
でも、なぜかここには今日の時間が残っている気がした。
においとか、温度とか、そういう形のないものとして。
春香はソファに座って、しばらく何もしなかった。
今日は、いい一日だったと思った。
それは本当のことだった。
鏡の前で思ったことは、もうあまり思い出せなかった。
夜になると、昼のことは少しずつ薄れていく。
それで、よかった。




