第1話 「雪の夜の分岐点」
一九九五年一月。
雪が降っていた。
県内では珍しい、本格的な降り方だった。
正午頃から降り始めた雪は、夕方には道路を白く塗り替え、夜になっても止む気配を見せなかった。
病院の駐車場には、タイヤの跡が何本も刻まれていた。
どこへ向かった跡なのか、もうわからなかった。
雪がすべてを均していく。
積もるたびに世界が少しずつ平らになっていく。
産婦人科病棟は、病院の三階にあった。
廊下は白かった。
壁も、床も、天井も、蛍光灯の光に照らされてどこまでも白かった。
夜の深い時間帯、廊下に出る人影は少なかった。
分娩室のそばにある処置室から、断続的にモニターの電子音が聞こえていた。
胎児の心拍を追うCTGの機械が、ゆっくりとロール紙を吐き出し続けていた。
数字ではなく、波のかたちで記録される命の音。
それが折り畳まれ、また折り畳まれ、処置室の床に小さな山を作っていた。
ナースステーションの窓の外は、吹雪に近かった。
外灯の光が、舞う雪片を白く染めていた。
パーテーションで仕切られたステーションの内側では、深夜勤務の看護師二人が申し送りのノートをひろげていた。
一人は帰り支度を済ませた日勤の看護師で、もう一人が夜勤の担当だった。
夜勤の看護師は、四十代の半ばほどに見えた。
ナースキャップをきちんとつけ、白衣の前ボタンをすべて閉めていた。
立ち姿はまっすぐで、こなれた動きをする人だとわかった。
ステーションの蛍光灯の下で、申し送りのノートを受け取る手が、一瞬だけわずかに震えた。
目の縁が、少し赤かった。
それを日勤の看護師は気づかないふりをした。
聞かない方がいいことがある、ということを、長年の勤務が教えていた。
申し送りは淡々と続いた。
本日の分娩件数、各ベッドの産婦の状態、与薬の時刻、深夜に予定されているモニタリングの手順。
言葉は事務的に並び、二人の間の空気は静かなままだった。
申し送りが終わると、日勤の看護師は足早に帰っていった。
夜の病棟が、また静かになった。
新生児室は、ナースステーションから廊下を挟んだ向かいにあった。
六畳ほどの部屋だった。
壁際に沿って、白い枠のコット(新生児用ベッド)が並んでいた。
各コットには体重計が付属しており、赤ちゃんを移す際に自動で体重が記録できるようになっていた。
室内はやや暖かく保たれており、加湿器が低い音を立てて動いていた。
天井の蛍光灯は、夜間は半分を落としてあった。
その薄明かりの中で、コットの白が浮かび上がるように光っていた。
その夜、新生児室には二人の女の子がいた。
同じ夜に、ほぼ同じ時間帯に生まれた二人だった。
一人は午後九時十四分、もう一人は午後十一時五十二分。
雪の夜に、この病院に来た命が、二つ。
それぞれのコットには、足首に細いプラスチックのバンドが巻かれていた。
白いバンドに、手書きの文字で名前が書かれていた。
インクが滲まないよう、油性のマーカーで書く。
それが当時のやり方だった。
バーコードも、電子管理も、まだこの病棟には届いていなかった。
名前は、人の手が書いた。
確認するのも、人の目だった。
赤ちゃんは眠っていた。
二人とも、静かに眠っていた。
小さな胸が、上下した。
また、上下した。
それだけが繰り返されていた。
窓のない部屋の中で、外の吹雪も、深夜の静寂も、そのわずかな呼吸の音の前ではどこか遠かった。
生まれたばかりの命というのは、こんなに軽い。
そして、こんなに重い。
午前一時を過ぎた頃、夜勤の看護師が新生児室に入ってきた。
先に生まれた方の赤ちゃんが、ぐずり始めたのだ。
授乳の時間には少し早かったが、哺乳瓶での補充栄養が必要と判断した。
看護師はコットの脇に立ち、赤ちゃんを抱き上げた。
熟練した動きだった。
片方の手で首を支え、もう一方でお尻を包む。
その角度、その力の加減は、長年の経験が体に染み込んでいるものだった。
哺乳瓶を温め、量を確認し、赤ちゃんに飲ませる。
ゴクゴクという小さな音がした。
看護師はそれを聞きながら、窓のない壁を見ていた。
どこも見ていなかった。
その夜、彼女の頭の中には、別の病室があった。
別の病院の、別の病室。
白い天井。
点滴のスタンド。
モルヒネが入った透明な液体が、一滴ずつ管を下っていく。
細くなった腕。
笑おうとして、うまく笑えなかった顔。
あれが最後に見た顔だった、と彼女はようやく気づいていた。
気づいてしまっていた。
それがいつも、ふとした拍子に戻ってくる。
振り払おうとするたびに、より鮮明になる。
人の記憶というのは、そういうものだった。
「大丈夫」と、自分に言い聞かせた。
仕事の最中に、そっちへ行ってはいけない。
授乳が終わった。
看護師は赤ちゃんをコットへ戻し、記録票に時刻と授乳量を書き込んだ。
ボールペンの走る音がした。
それだけが、部屋の中の音だった。
午前二時を過ぎた。
夜勤看護師の巡回業務の時間だった。
各産後病室の産婦の状態確認を終えた後、新生児室へ戻る。
翌朝の沐浴に備え、二人の赤ちゃんの体を清拭する必要があった。
温めた蒸しタオルで体を拭く準備の一環として、足首のバンドを一時的に外してから清拭するのが、この病棟の手順だった。
看護師はまず、先に生まれた赤ちゃんのコットに近づいた。
体温を測る。正常。
呼吸を確認する。問題なし。
おむつを交換してから、足首のバンドをそっと外し、コットの縁の金属枠に引っかけておいた。
清拭を丁寧に進める。
首の後ろ、脇の下、膝の裏。
産まれたての皮膚は薄く、力の加減に慎重さが必要だった。
そのとき、隣のコットでかすかな声がした。
後から生まれた方の赤ちゃんが、ぐずり始めていた。
小さなうめき声が、大きくなる前の、息を溜めているような音だった。
看護師の体が、反射的に動いた。
先の赤ちゃんの清拭を一時中断し、隣のコットへ移る。
あやしながら、こちらの体温も確認する。
おむつも交換が必要だった。
抱き上げ、処置台へ移す。
足首のバンドを外す。
先のバンドと同じように、手近な処置台の縁に置いた。
二つのバンドが、処置台の端に並んだ。
蛍光灯が半分落とされた薄暗さの中で、白いバンドは白いバンドだった。
どちらも同じ色。
どちらも同じ大きさ。
どちらも油性マーカーで書かれた手書きの文字。
後から生まれた赤ちゃんのあやしを終え、おむつの交換を済ませる。
清拭も終わらせる。
バンドを取る。
「大丈夫」と、また思った。
声に出したわけではなかった。
思っただけだった。
私は顔を見ている、私はわかっている、という確信だった。
長く勤めてきた経験が、そう囁いた。
深夜の疲労が、確認の手を一歩省かせた。
別の病室の記憶が、まだ頭の端に残っていた。
バンドを、足首に巻いた。
先の赤ちゃんのコットへ戻り、処置台に残ったもう一つのバンドを取る。
こちらにも巻いた。
記録票に次の数字を書き込む。
部屋に、また静寂が戻る。
何かが変わった。
しかし、部屋の中では何も変わっていなかった。
蛍光灯は同じ光を落としていた。
加湿器は同じ音を立てていた。
二人の赤ちゃんはどちらも眠っていた。
小さな胸が、上下した。
また、上下した。
名前のバンドだけが、ひっそりと、入れ替わっていた。
その事実を知っているのは、今のところ誰もいなかった。
看護師は気づかなかった。
赤ちゃんたちは眠っていた。
病棟の廊下は静かだった。
モニターの電子音だけが、変わらず鳴り続けていた。
看護師はナースステーションへ戻り、記録の続きを書いた。
ボールペンが走る。
数字が並ぶ。
異常なし、異常なし、異常なし。
すべて正常。すべて問題なし。
記録の上では、この夜に何も起きなかった。
夜明けまで、あと少しだった。
ナースステーションの窓から、看護師はふと外を見た。
雪はまだ降っていた。
駐車場が、真っ白になっていた。
自分の車がどこにあるのか、もうわからなかった。
彼女はしばらく、その白さを見ていた。
頭の中に、また別の部屋が浮かんだ。
白い天井。
細くなった腕。
あの笑顔。
目を閉じた。
開けた。
窓の外には、雪だけがあった。
病棟のどこかで、赤ちゃんが泣いた。
小さな、短い泣き声だった。
看護師は立ち上がり、廊下へ出た。
足音が廊下に響いた。
まっすぐな、迷いのない足音だった。
新生児室のドアを開ける。
二人の赤ちゃんは、そこにいた。
白いコットの中で、それぞれの名前のバンドをつけて。
どちらが泣いたのか、看護師にはすぐにわかった。
長年の経験が、泣き声の質だけで判断できるようにしていた。
抱き上げる。
あやす。
泣き声が止んだ。
静かになった部屋の中で、看護師はもう一度、窓のない壁を見た。
今度は何かを思いかけて、やめた。
考えない方がいいことがある、ということを、長年の経験が教えていた。
この夜の残りを、ただ乗り越えなければならなかった。
赤ちゃんをコットへ戻す。
ドアを閉める。
廊下に出ると、窓の向こうで空がうっすらと白み始めていた。
夜が明ける。
雪の朝が来る。
病院の駐車場に積もった雪の上に、誰かが最初の足跡をつけた。
深くめり込む足跡が、一つ、また一つ。
その足跡が、どこへ向かうのかは、まだ誰も知らなかった。
雪は、降り続けていた。




