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第0話 「始まりの桜」

 桜が咲いていた。

 季節外れの、ひっそりとした咲き方だった。


 暦の上ではとっくに花の盛りは過ぎているはずで、近所の並木道はとうに葉桜に変わって久しかった。

 五月の陽気の中、周りの木々はすでに青々とした葉を茂らせ、人々は花見の記憶をとうに日常の底へと沈めていた。

 それでもその木だけは、庭の隅でこっそりと、白に近い薄桃色の花びらをほどいていた。

 まるで世間の決まりごとを知らないかのように。

 あるいは知っていて、それでも構わないように。


 女が門の前で立ち止まったのは、その花に気づいたからだった。

 足音が止まる。

 春の日差しが細い枝の向こうで光る。

 まだ午前の、どこかやわらかい光だった。

 影がくっきりしていなかった。

 空気のどこかにまだ朝のやわらかさが残っていて、通りを行き交う人の数も少なかった。

 しばらく、女はそこに立ったままでいた。

 特に何かを考えているわけではなかった。

 ただ、咲いている、という事実を、じっくりと確かめるように眺めていた。

 花びらが一枚、ふわりと落ちた。

 風はなかったのに。


 女は手の中にある封筒に視線を落とした。

 白い、薄い封筒だった。

 角がわずかに折れていた。

 何度も持ち直していたから、あるいはかばんの中でずっと眠らせていたからか。

 指の腹でその角をそっと押した。

 完全には戻らなかった。


 封筒には宛名が書いてあった。

 差出人の名前は、なかった。

 女は門を開けた。

 古びた蝶番が、かさりと鳴いた。

 その音が、かつてここへ来たときと同じだとわかった。

 いくつかのことが変わって、いくつかのことはまるで変わっていなかった。

 それが生きていくということの形なのかもしれないと、女は思った。

 あるいは思わなかった。

 そういう言葉を頭の中に置くよりも先に、体が動いていた。


 玄関脇に古い長靴が置かれていた。

 黒のゴム長靴で、かかとのあたりが少し白くなっていた。

 持ち主はもういない。

 けれど誰も片づけようとしていないのは、それを決意するための時間が、まだ十分に流れていないからだろう。

 あるいは、誰かがそこに置き続けることを選んでいるからか。

 女にはどちらでもよかった。


 庭は、記憶よりも少し広く見えた。

 季節が変わるたびに人の記憶は場所を縮めてしまうのか、それとも女の体のほうがいくらか小さくなったのか。

 石の踏み台、軒先に引っかかったままのカゴ、色あせた表札。

 表札だけは変わっていなかった。

 名前はここにある。

 それだけが変わらなかった。


 今日は誰もいない。

 女はそれを知っていてここへ来た。

 庭を横切る。

 踏みしめるたびに、草がやわらかく沈んだ。

 土のにおいがした。

 春の土のにおいは、秋のそれより少しだけ軽い気がした。

 草の緑が混じっているからか。

 あるいは女の鼻がそう覚えているからか。

 いずれにしても、その匂いを嗅いだ瞬間に、固く保っていた何かが少しだけゆるんだ。


 桜の木は庭の隅、石の縁石に囲まれてあった。

 幹は細かった。

 それなりの年月を経ているはずなのに、枝ぶりだけが立派で、幹だけが細い。

 そういう木だった。

 根元の土は少ししっとりとしていた。

 誰かが水をやっているのか、それともこの木が自分でそうしているのか。この木は不思議な木だ、と女は思った。

 決まりごとに従わない木。

 正しい季節に咲かない木。

 それでも毎年、ちゃんと咲く木。

 女はしゃがんだ。

 膝が少し軋んだ。

 年をとった、と思った。

 それを悲しいとは思わなかった。

 ただ、時間が流れたのだという確認に過ぎなかった。

 時間はいつでも流れる。

 止められない。それでいい。


 根元に、封筒を置いた。

 ただ置いた。それだけだった。

 土のにおいがした。草のにおいが混じった。

 花の香りはほとんどなかった。

 この桜は、控えめに咲く木なのだ。

 主張せず、ただそこにある。

 それで十分だと知っている木。

 人の手を借りなくても、ずれた季節に、ひっそりと咲く木。


 女は立ち上がった。

 空を見上げた。

 薄い青だった。雲はなかった。

 飛行機雲が一本だけ、遠くの空を横切りながら少しずつ消えていくところだった。

 消えながら、それでも存在している。

 そういうものがある。


 この木が好きだ、と言った人がいた。

 ある春の日に、庭に立って、桜を見上げながら言ったのだ。

 いつもタイミングがずれて咲くの。でも、そこが好きなの。

 その声が、唐突に耳の中に戻ってきた。

 もう聞けない声だった。

 それでも、はっきりと聞こえた。

 人の声というのは体のどこかに沈んでいて、何かの拍子に浮き上がってくる。

 記憶というより、もっと肉体的な何かだ。

 骨の奥にある何か。

 脂肪の中に眠った何か。

 女はそう思った。


 ずれていても、好き。

 そういうふうに言える人が、世の中にどれだけいるだろう。

 ずれているものを嫌う方が、ずっとたやすい。

 正しい季節に咲かなければ桜ではない、という声のほうが、世界にはずっと多い。

 あの人も、あの人も、咲くべき時に咲かなかったものを、どれだけ切り捨ててきたか。

 女は数えようとして、やめた。

 数える必要はなかった。

 今日は、そのためにここへ来たのではない。

 でもこの木は、毎年ずれて咲く。

 そして、この木を愛した人は、もうここにいない。

 女は根元を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 いつだったか、別の場所で似たような問いを立てたことがあった。

 海を見ながら、波の向こうを見ながら。

 波は戻らない、と思った。

 同じ波は二度と来ない。

 それでも海は続く。

 打ち寄せては返し、返しては打ち寄せる。

 その繰り返しのことを人は「時間」と呼んでいるのかもしれない。

 もしそうなら、三十年という時間はずいぶん長い。

 ずいぶん、たくさんの波が砂浜を濡らした。

 でも、波は戻らなくても、砂浜はそこにある。

 それでいい、と女は思った。

 それで、いいのだ。

 女は一度だけ振り返った。


 封筒は根元にあった。

 白い封筒が、春の土の上に置かれていた。

 誰かがいつかここへ来て、それを手に取るだろう。

 そのとき、何が起きるかを女はある程度知っていた。

 あるいは知っているつもりだった。

 人のことというのは、最後まで読めない。

 それでも、ここに置いていくしかなかった。

 もっと早くそうするべきだったのかもしれない。

 しかし、早くできなかったのだ。それだけのことだ。

 今日できたのだから、今日でいい。


 女は門を出た。

 蝶番が、また鳴いた。

 通りに出ると、風があった。

 庭の中には来なかった風が、外ではちゃんと吹いていた。

 女のコートの裾を揺らし、前髪を少し乱した。

 女はそれを手でなでつけながら、歩き始めた。

 どこへ向かうか、通りを歩く人には見当もつかないだろう。

 女の背中はまっすぐで、足取りは静かだった。

 急いでも、迷ってもいなかった。

 ただ、歩いていた。

 坂が始まった。下りの坂だった。

 坂の上から、遠くに水の光が見えた。

 海だった。


 春の海は、おだやかな色をしていた。

 灰色でも青でもない、その中間のような色。

 どこまでも続いているように見えて、その実、空とどこかで溶けている。

 境目がわからない。

 それでも海は海だし、空は空だ。

 どちらが先に始まったのかは、もう、どうでもよかった。

 女は坂を下りながら、後ろを振り返らなかった。

 庭に残した封筒のことを、もう考えていなかった。

 考え終わったから、置いてきたのだ。


 春は、こういう朝を持っている。

 誰も気づかないうちに、何かが動き出す朝。

 誰も見ていないところで、何かが決まる朝。

 昨日と今日の間に、細い境界線が引かれる朝。

 それを知っているのは、たいていの場合、その場にいた誰か一人だけで、あとの人たちはずっとあとになってから、あのとき何かが変わったのだとようやく気がつく。


 庭の桜は、まだ咲いていた。

 誰もいない庭で、誰にも見られないまま、ずれた季節に咲き続けていた。

 根元には、白い封筒が置かれていた。

 差出人の名前のない、白い封筒が。

 春の光の中で、それはただ静かに、誰かが来るのを待っていた。

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