第92話 俺は本が読みたいだけなのに、どうして幼馴染と食べる昼ご飯まで特別に感じるんだ?
公園から駅へ向かう道は、来たときよりも少し賑やかになっていた。昼が近づいたせいか、通り沿いの飲食店には客が入り始め、歩道では買い物袋を提げた人や、これから公園へ向かうらしい家族連れが行き交っている。俺と雫は人の流れを妨げないよう並んで歩きながら、どこで昼食を取るか相談していた。
「駅の近くなら何かお店があると思うけど、雫は食べたいものある? 公園で結構歩いたし、ゆっくり座れるところがいいかなって思うんだけど」
俺が尋ねると、雫は少し考えてから、通りの向こうに並ぶ店の看板へ視線を向けた。公園へ向かうときには景色を見ることに夢中で、どんな店があったのか細かく覚えていなかったらしい。
「そうだね。私も座って食べられるところがいいな。春樹は何か食べたいものある? 朝ご飯を食べてから結構時間が経ってるし、お腹すいたでしょう?」
「うん、正直に言うと結構すいてる。でも、特にこれが食べたいっていうのはないかな。雫と一緒に入れそうなところを探せればいいと思ってる」
雫は俺の返事を聞いて、柔らかく笑った。公園の池の近くで見せた笑顔とは少し違い、今度は何かを楽しみにしているような表情だった。
「じゃあ、歩きながら探そうか。せっかく二人で来たんだし、普段あまり入らないようなお店でも楽しそうだね」
俺たちは頷き合い、駅へ続く大通りへ向かった。
横断歩道を渡ると、道路沿いには小さな飲食店がいくつか並んでいた。麺類の店からは温かい出汁の匂いが漂い、少し先の店では昼食の案内が入口に出されている。どちらも悪くなさそうだったが、ちょうど昼時で、店の前には何人かの客が待っていた。
雫はその様子を見て、無理に並ばなくてもいいよね、と小さく言った。俺も同じことを考えていたので、少し先まで歩いてみようと提案する。
休日の昼食を誰かと相談して決めるのは、考えてみれば珍しいことではない。家族と出かけるときにも似たような場面はあるし、悠斗と一緒なら、互いに食べたいものを適当に挙げて決めてしまうだろう。
それなのに、今日は雫がどんな店を選ぶのか気になっていた。何が好きなのか、どんな場所なら落ち着けるのか、そういうことを知るのも楽しいと思っている自分がいる。
(……最近、こういうことを考える時間が増えたな)
以前なら、昼食を済ませたあとに本屋へ寄れるかどうかが一番気になっていたはずだ。もちろん今でも本屋は好きだし、近くにあれば覗いてみたい。けれど今日は、それよりも雫が楽しめるかどうかを考えている。
そんなことを思いながら歩いていると、雫が一軒の店の前で足を緩めた。
「春樹、ここはどうかな?」
雫が指さしたのは、大通りから少し奥まった場所にある小さな洋食店だった。入口には木製の看板が置かれ、昼食のメニューが写真付きで紹介されている。窓越しに見える店内は明るく、いくつかのテーブルには客が座っていたが、入口の近くには空席も見えた。
「よさそうだね。メニューもいろいろあるし、ここなら二人とも好きなものを選べそう」
「うん。私、こういう落ち着いたお店、好きなんだ。春樹がよければ入ってみたいな」
「もちろん。俺も気になるし、ここにしようか」
そう答えると、雫は嬉しそうに頷いた。
入口の扉を開けると、温かい料理の匂いと、食器が触れ合う小さな音が迎えてくれた。店内では家族連れや友人同士らしい客が食事を楽しんでおり、賑やかすぎず、かといって静まり返っているわけでもない。
店員に二人であることを伝えると、窓際の小さなテーブルへ案内された。
向かい合って椅子に座り、俺たちはメニューを開いた。写真にはハンバーグやオムライス、パスタなどが並んでいる。どれもおいしそうで、空腹だった俺はしばらく迷ってしまった。
「春樹、すごく真剣な顔してる」
雫が笑いを含んだ声で言ったので、俺は顔を上げた。
「いや、どれもおいしそうでさ。こういうとき、何を基準に選べばいいか迷うんだよね」
「本を選ぶときと同じくらい悩んでる?」
「さすがに本ほどじゃないと思うけど……いや、今はお腹がすいてるから、結構真剣かもしれない」
俺がそう答えると、雫は声を抑えて笑った。周囲の客に迷惑にならないよう気をつけながら、それでも楽しそうに肩を揺らしている。
「春樹って、本当に変わらないね。何かを選ぶとき、ちゃんと考えてから決めたいんだよね」
「そうかな。雫はもう決まった?」
「私はオムライスにしようかなって思ってる。写真を見たら食べたくなっちゃった」
雫はメニューの一角を指さした。ふんわりした卵がご飯を包み、上にはソースが掛かっている。確かにおいしそうだったが、俺は隣に載っているハンバーグの写真にも惹かれていた。
「じゃあ、俺はハンバーグにしようかな。せっかくだし、違うものを頼んだ方が感想も話せそうだし」
「ふふ、それも楽しそう。春樹のハンバーグがおいしかったら、次に来たときは私も頼んでみようかな」
雫が何気なく言った言葉に、俺は少しだけ手を止めた。
次に来たとき。
それは、また一緒にこの店へ来ることがあるかもしれないという意味だろう。もちろん、単なる言い回しなのかもしれない。それでも、雫が今日の時間を一度きりのものとして考えていないように感じられて、胸の奥が温かくなった。
「うん。おいしかったらおすすめするよ。雫のオムライスの感想も聞かせて」
俺がそう返すと、雫は嬉しそうに頷いた。
注文を済ませると、店員が水の入ったグラスを置いていった。窓の外では人々が行き交い、時折、車の影が店内の床を横切る。公園の木陰とは違う落ち着いた空気の中で、俺たちは向かい合って座っていた。
学校では隣に並んで話すことが多いし、帰り道でも同じ方向を見ながら歩いている。こうして向かい合って座ると、雫の表情が普段よりよく見える気がした。
「春樹、さっきの池のところ、どうだった?」
雫が尋ねたので、俺は水を一口飲んでから答えた。
「すごくよかったよ。静かだったし、木の間から池が見えるところもきれいだった。あそこで座ってると、何もしなくても時間が過ぎるんだなって思った」
「私も。昔はどうしてあそこが好きだったのか、うまく説明できなかったんだけど、今日行ってみて少し分かった気がする」
雫はグラスを両手で包むように持ち、窓の外へ視線を向けた。
「前に家族と来たときは、ただ楽しかったっていう記憶だったの。でも今日は、春樹と一緒に歩いて、池の近くで座って、いろんなものを見つけたでしょう? だから、同じ場所なのに、前とは違う思い出ができた気がするんだ」
俺は雫の言葉を聞きながら、池のそばのベンチを思い出した。木の間から差し込む光、水面を泳いでいた鳥、雫が懐かしそうに景色を眺めていた横顔。
どれも特別な事件ではない。けれど、今日という一日の中では、確かに大切な場面だった。
「俺も、また行ってみたいと思ったよ。次に行ったとき、今日と同じ景色が見られるとは限らないけど、それも楽しそうだし」
「……うん。また一緒に行けたら嬉しいな」
雫はそう言って、少しだけ目を伏せた。グラスの縁を指先でなぞる仕草が、どこか照れくさそうに見える。
俺はその様子を見て、胸の奥が少し落ち着かなくなった。
(また一緒に行くって、普通に考えれば何もおかしくないよな。幼馴染なんだし、これまでも何度も一緒に出かけてるんだから)
そう考えても、今日の雫の言葉は妙に耳に残った。
◇◇◇
料理が運ばれてきたのは、それからしばらくしてからだった。
俺の前には湯気の立つハンバーグが置かれ、雫の前には黄色い卵が鮮やかなオムライスが並んだ。店員が皿の位置を整えてくれたあと、俺たちは礼を言い、料理が少し落ち着くのを待ってから食べ始めた。
「いただきます」
雫が小さく手を合わせたので、俺も同じようにしてからナイフとフォークを取った。
ハンバーグは思っていたより柔らかく、切ると中から肉汁がにじんだ。ソースには少し甘みがあり、付け合わせの野菜ともよく合う。朝から歩いたせいでお腹がすいていたこともあり、最初の一口が予想以上においしく感じられた。
「……うん、これ、おいしい」
思わず声に出すと、雫が顔を上げた。
「本当? 春樹、すごく嬉しそう。私のオムライスもおいしいよ。卵が柔らかくて、ソースも濃すぎないから食べやすいの」
雫はそう言って、もう一口食べた。口元に浮かんだ笑顔を見る限り、気に入ったらしい。
「それならよかった。お店選び、成功だったね」
「うん。春樹と一緒に探してよかった」
俺たちは食事を進めながら、料理の感想や公園で見たものについて話した。途中で雫が、広場に咲いていた花の色を思い出そうとして首を傾げたので、俺も記憶をたどってみた。二人とも細かな形までは覚えていなかったが、明るい色の花が風に揺れていたことは一致していた。
「私、帰ったらメモ帳に書いておこうかな。さっき池のところで書いたことと一緒に残しておきたいんだ」
「いいね。そういえば、あのとき何か書いてたよね。雫が自分で覚えておきたいことなら、無理に見せなくてもいいけど」
雫は少し驚いたように俺を見たあと、柔らかく笑った。
「ありがとう。まだちゃんとした文章になってないから、今は内緒にしておこうかな。でも、いつか春樹に見せられるくらいまとまったら、読んでほしいな」
「うん。そのときは楽しみにしてる。俺も今日のことを、帰ってから何か書いてみようかな」
「春樹の読書ノートに?」
「どうだろう。読書の感想とは違うから、別のページに書くかもしれない。でも、今日のことを忘れたくないっていう気持ちは、雫と同じだと思う」
雫は返事をする前に、少しだけ目を見開いた。やがて嬉しそうに微笑み、視線を自分の皿へ戻した。
その表情を見て、俺も自然と笑ってしまった。
食事が半分ほど進んだころ、窓の外を小さな子どもが親と一緒に歩いていった。子どもは店の看板を指さして何かを話し、親が笑いながら答えている。俺たちはその様子を少し眺めてから、また料理へ視線を戻した。
「春樹、子どものころって、外でご飯を食べるの好きだった?」
雫が尋ねたので、俺は少し考えた。
「好きだったと思うよ。でも、どちらかというと、帰りに本屋へ寄れるかどうかを気にしてた記憶の方が強いかな。家族で出かけたときも、近くに本屋があると嬉しかったし」
「ふふ、春樹らしいね。昔から本屋さんに入ると、なかなか出てこなかったもん」
「そうだったかな。いや、確かにそうだったかもしれない。棚を見てると、時間が過ぎるのが早いんだよね」
雫は懐かしそうに笑った。
「私、春樹が本を選んでるところを見るの、結構好きだったんだ。真剣な顔で棚を見てるのに、面白そうな本を見つけると、すぐ表情が変わるでしょう?」
俺はフォークを持ったまま、思わず雫を見た。
「……そんなに分かりやすい?」
「うん。少なくとも、私には分かるよ」
雫は少し照れたように笑った。
その言葉を聞いて、俺は何となく落ち着かなくなった。自分では普段どおりに本を選んでいるつもりなのに、雫はそんな細かなところまで見ていたらしい。
(雫って、俺のことを本当によく見てるんだな)
そう思うと同時に、俺は雫について、まだ知らないことがたくさんあるのではないかと感じた。
好きな本や食べ物、落ち着く場所。そういうことは少しずつ知ってきたけれど、今日の公園で聞いた話のように、彼女が大切にしている思い出の中には、俺の知らないものもある。
幼馴染だからといって、何もかも知っているわけではない。
それは以前読んだ恋愛小説でも描かれていたことだったが、今は物語の中の出来事としてではなく、隣にいる雫との関係として考えるようになっていた。
◇◇◇
食事を終えたあと、俺たちはしばらく席で休んでいた。
店内は昼の混雑が続いていたが、まだ空席がいくつかあり、店員から急かされるようなこともなかった。それでも長居しすぎないよう、飲み物を飲み終えたところで会計を済ませることにした。
「春樹、今日はありがとう。お店もおいしかったし、公園も楽しかった」
雫は席を立ちながら、そう言って笑った。
「まだ帰るには早いけどね。駅の方へ戻って、少し歩いてからどうするか決めようか」
「うん。春樹、疲れてない?」
「大丈夫。雫は?」
「私も平気。でも、歩きすぎないようにしようね。夕方までには帰りたいし」
俺たちは頷き合い、店を出た。
外へ出ると、午後の日差しが通りを明るく照らしていた。昼前よりも気温が少し上がったようで、上着を着て歩いていると、ほんのり暖かさを感じる。
駅へ向かう道を歩きながら、俺は何気なく周囲の店を眺めた。雑貨店や衣料品店が並ぶ中に、小さな書店の看板が見えたのは、そのときだった。
「あ、本屋さん」
思わず口にすると、雫が俺の視線を追った。
「本当だ。春樹、寄ってみたい?」
俺は一瞬迷った。
今日は雫と公園へ行くために出かけてきた。書店へ寄ることは最初から決めていたわけではないし、雫が疲れているなら、そのまま駅へ向かった方がいい。
けれど雫は、俺が何か言うより先に、嬉しそうに笑った。
「私も少し見てみたいな。春樹と本屋さんに行くの、好きだし。時間もまだあるから、無理のない範囲で寄ってみない?」
「……いいの?」
「もちろん。春樹が好きな場所にも、一緒に行きたいもの」
その言葉に、俺は思わず雫の顔を見た。
雫は少し恥ずかしそうに目を伏せたものの、すぐにこちらへ視線を戻した。俺が返事を待っていることに気づいたのか、鞄の紐を握り直しながら、小さく首を傾げる。
「春樹?」
「あ、うん。ありがとう。じゃあ、少しだけ寄ってみようか。雫も気になる本があったら、一緒に探そう」
俺たちは書店へ向かって歩き出した。
入口の自動扉が開くと、紙とインクの匂いが混ざった、慣れ親しんだ空気が流れてきた。店内には新刊の平台があり、奥には文庫本や実用書の棚が並んでいる。大きな書店ではなかったが、棚の配置が見やすく、ゆっくり本を探せそうな雰囲気だった。
俺は自然と新刊の平台へ目を向けた。
そこには最近話題になっている作品や、季節に合わせた特集の本が並んでいた。背表紙を眺めているだけで気になる題名がいくつも見つかり、思わず足を止めてしまう。
「春樹、もう楽しそう」
隣から雫の声が聞こえた。
「いや、まだ見始めたばかりだけど……でも、初めて入る本屋って、棚の並び方が違うから面白いんだよね」
「うん。私も、いつもと違う本が見つかりそうで楽しみ」
雫は俺の隣に立ち、平台に並ぶ本を眺め始めた。
しばらくすると、彼女が一冊の文庫本へ手を伸ばした。表紙には夕暮れの街並みが描かれ、窓辺に小さな明かりが灯っている。
「春樹、これ、ちょっと気になるな」
「どんな話?」
「小さな町に引っ越してきた主人公が、そこで出会う人たちとの関わりを通して、少しずつ自分の居場所を見つけていくお話みたい。今読んでる喫茶店の小説とは違うけど、雰囲気が好きかもしれない」
雫は裏表紙の紹介文を読みながら、少し考え込んでいた。
俺はその様子を見て、以前の自分なら、すぐに別のおすすめ作品を挙げていたかもしれないと思った。けれど今日は、雫が自分で見つけた本をどう感じているのか聞いてみたかった。
「雫は、こういう小さな町が舞台の話、好きなんだね」
「うん。大きな事件が起きなくても、登場人物たちが少しずつ仲良くなったり、何でもない日常を大切にするようになったりするお話が好きなのかもしれない」
雫は本を持ったまま、少し照れたように笑った。
「春樹に借りた喫茶店の小説を読んでから、そういうお話が前より気になるようになったんだ」
その言葉に、俺は胸の奥が温かくなった。
俺が好きで読んでいた本を、雫も楽しんでくれている。その本がきっかけで、彼女の興味が少し広がったのだとしたら、貸した側としてこんなに嬉しいことはない。
「そうなんだ。雫が気に入ってくれてよかった。今持ってる本も面白そうだし、気になるなら読んでみてもいいと思うよ」
「うん。でも、今日は買うかどうか少し考えてみる。まだ借りてる本も読み終わってないし、急いで増やさなくてもいいかなって」
雫はそう言って、本を元の位置へ丁寧に戻した。
俺はその判断に頷きながら、別の棚へ視線を向けた。
そこには短編集の特集があり、最近読んでいる日常の小さな謎を扱う作品と似た雰囲気の本が並んでいる。気になる題名を見つけたものの、今はまだ読みかけの短編集があるし、家には未読の本も残っている。
(今日は買わなくてもいいかな。せっかく雫と来たんだし、いろんな本を一緒に見られるだけでも楽しい)
そう考えた自分に、少し驚いた。
以前なら、気になる本を見つけたら買うかどうか真剣に悩み、その場でしばらく動けなくなっていたはずだ。もちろん、今でも本を選ぶ楽しさは変わらない。けれど今日は、買うことよりも、雫と棚を眺めながら話す時間が楽しかった。
◇◇◇
書店の奥には、読書用品を置いた小さな棚があった。
栞やブックカバー、読書記録用のノートなどが並んでおり、雫はその前で足を止めた。以前、一緒に栞を選んだときのことを思い出したのか、彼女は少し懐かしそうに笑っていた。
「春樹、こういう棚を見ると、前に栞を選んだときのこと思い出すね」
「うん。雫は葉っぱの形の栞を選んで、俺は三日月の栞を選んだんだよね」
「覚えててくれたんだ」
「もちろん。今も使ってるし、気に入ってるよ」
俺がそう答えると、雫は一瞬だけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そっか。嬉しいな」
雫は棚に並ぶ栞を眺めながら、少しだけ視線を落とした。
俺はその横顔を見て、何となく言葉を続けたくなった。
「雫が選んだ栞も、今使ってる?」
「うん。春樹に借りた本を読むときにも使ってるよ。葉っぱの形がかわいいし、ページを開くたびに、あの日のことを思い出すんだ」
雫はそう言って、俺を見た。
その目が思っていたより真剣だったので、俺は返事をするまで少し時間がかかった。
「……俺も、あの日のことは覚えてるよ。本を選んで、栞を見て、それからいろいろ話したよね」
「うん。私も覚えてる」
雫は小さく頷いた。
俺たちの間に、短い沈黙が生まれた。
けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。周囲では本を探す客が静かに歩き、棚の向こうからページをめくる音が聞こえる。俺は栞の並ぶ棚を眺めながら、雫と共有している思い出が少しずつ増えていることを感じていた。
以前なら、幼馴染だから昔から一緒にいるのは当たり前だと思っていた。
けれど最近は、その当たり前の中にも、一つずつ違う時間があるのだと気づくようになった。
今日の公園も、この書店も、きっとそうなのだろう。
「春樹、そろそろ出ようか。思ったより長く見ちゃったね」
雫が時計を確かめながら言った。
「そうだね。まだ夕方までは余裕があるけど、無理せず帰る方向で考えようか」
「うん。今日はいっぱい歩いたし、私も満足してる」
俺たちは何も買わずに書店を出た。
外へ出ると、午後の日差しが少し傾き始めていた。駅へ向かう人の流れは相変わらず多かったが、俺たちは急がず歩きながら、今日見つけた本の話を続けた。
「雫、さっき気になってた本、また読みたくなったら探してみようか。題名は覚えてる?」
「うん。表紙も覚えてるから、たぶん大丈夫。今借りてる本を読み終わってから、もう一度考えてみるね」
「それがいいと思う。読みたい本が増えるのは嬉しいけど、急いで読まなきゃって思うと、楽しむ時間が減っちゃうこともあるし」
雫は俺の言葉を聞いて、少し笑った。
「春樹がそれを言うと、なんだか説得力があるね。いつもたくさん本を読んでるけど、一冊ずつちゃんと楽しんでるもん」
「そうかな。まあ、読むのが好きだからね。気になる本は多いけど、読んでる時間そのものが楽しいんだと思う」
俺がそう答えると、雫は嬉しそうに頷いた。
「私も、最近は前より本を読む時間が好きになった気がする。春樹と感想を話せるのも楽しいし」
その言葉を聞いて、俺は自然と笑った。
雫が本を楽しんでくれることも嬉しいし、読んだあとに感想を聞けることも楽しみだった。けれど、それだけではない気がする。
今日一緒に公園を歩いて、昼食を食べて、書店を眺めた時間。
その全部が、俺にとって大切なものになっていた。
◇◇◇
駅の近くまで戻ると、俺たちは人通りの少ない場所で一度立ち止まった。
ここからはそれぞれ家へ帰る道になる。まだ夕方には少し早かったが、公園を歩き回ったこともあり、無理に予定を増やす必要はなかった。
「春樹、今日は本当にありがとう」
雫が改めてそう言った。
「公園に行く話をしたときは、こんなに楽しい一日になると思ってなかったの。池の道も見つけられたし、お昼もおいしかったし、本屋さんにも寄れたし……」
雫はそこで少し言葉を止めた。
俺は急かさず、彼女が続きを話すのを待った。
「……何より、春樹と一緒にいられて嬉しかった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し強く鳴った。
雫は俺を見上げていたが、すぐに恥ずかしそうに視線を落とした。鞄の紐を握る指先に少し力が入っている。
俺は何と返せばいいのか迷った。
幼馴染と一緒に出かけて楽しかった。それだけなら、いつもと変わらないはずだ。
けれど、今日の時間を思い返すと、ただ楽しかったという言葉だけでは足りない気がした。
「……俺も、すごく楽しかったよ」
俺はゆっくり答えた。
「雫が好きだった場所を教えてもらえて嬉しかったし、一緒に歩いてると、普段なら気づかないものがたくさん見つかった。昼ご飯もおいしかったし、本屋も楽しかった」
雫は顔を上げ、俺の言葉を聞いていた。
「それに、今日みたいに雫とゆっくり過ごす時間、俺は好きだなって思った」
言い終えてから、自分の言葉が少し照れくさいことに気づいた。
けれど、嘘ではなかった。
雫はしばらく俺を見つめていたが、やがて柔らかく笑った。
「……ありがとう、春樹。私も、今日みたいな時間が好き」
その声は小さかったが、はっきり聞こえた。
俺たちは少しの間、互いに笑い合っていた。
やがて雫が時計を確かめ、そろそろ帰ろうかと声を掛けた。俺も頷き、帰り道の方向を確認する。
「気をつけて帰ってね。家に着いたら、連絡してくれる?」
「うん。春樹も気をつけてね。私も帰ったら連絡する」
雫はそう言って、少し名残惜しそうに笑った。
「また学校でね、春樹」
「うん。また月曜日に」
俺たちは手を振って別れた。
雫が歩いていく姿をしばらく見送ってから、俺も家へ向かって歩き出した。
◇◇◇
帰り道、俺は何度も今日のことを思い返していた。
公園の池に映った木々の影。ベンチに座って聞いた雫の思い出。洋食店で向かい合って食べた昼食。書店で栞を見ながら話したこと。
どれも特別な事件ではない。
けれど、一つずつ思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。
(……楽しかったな)
俺は歩きながら、少しだけ笑った。
今日の外出は、雫が好きだった公園へ行くという約束から始まった。けれど実際には、公園だけでなく、昼食も書店も、全部が思い出になっている。
それは、行った場所が特別だったからだろうか。
それとも、一緒にいた相手が雫だったからだろうか。
そこまで考えたところで、俺は少し首を傾げた。
(……いや、どっちもなんだろうな)
雫が教えてくれた景色だから、あの池の道を好きになった。雫と一緒に選んだ店だから、昼食の時間が楽しかった。雫と並んで本を見たから、何も買わずに書店を出ても満足していた。
そう考えると、今日の出来事は全部つながっているように思えた。
家へ帰ると、俺は鞄を机の横へ置き、スマートフォンを取り出した。雫へ帰宅したことを伝えるメッセージを送ると、少しして彼女からも無事に帰ったという返事が届いた。
『今日は本当に楽しかったよ。池の道、一緒に見つけてくれてありがとう。またゆっくりお話ししようね』
俺はその文章を読み、自然と頬が緩むのを感じた。
『こちらこそありがとう。俺もすごく楽しかった。また今日の話、聞かせてね。ゆっくり休んで』
送信してから、俺はスマートフォンを机へ置いた。
窓の外では、午後の光が少しずつ柔らかくなっている。机の上には読みかけの短編集があり、昨夜挟んだ栞がページの間から少しだけ見えていた。
俺は本を手に取り、椅子へ座った。
続きを読みたい気持ちは、もちろんある。
けれど、ページを開く前に、今日のことを少しだけ書き留めておきたくなった。
読書ノートとは別のページを開き、俺は鉛筆を持った。
『雫と公園へ行った。池の近くの道がきれいだった。昼ご飯を食べて、本屋にも寄った。どれも楽しかったけど、一緒に見たり話したりした時間が一番印象に残っている。』
書き終えてから、俺は少し考えた。
何かもう一つ書きたいことがある気がしたが、うまく言葉にならない。
それでも、今はこれでいいと思った。
俺はノートを閉じ、短編集を開いた。
雨の日だけ窓辺に置かれる紙袋の謎は、まだ始まったばかりだ。登場人物が何を見つけ、どんな答えにたどり着くのか、これからゆっくり読んでいけばいい。
けれど、今日の俺には、本の中の謎とは別に、少し気になることができていた。
どうして雫と過ごす時間は、こんなに楽しいのだろう。
どうして別れたあとも、また会って話したいと思うのだろう。
その答えは、まだ分からない。
俺は本のページへ視線を落としながら、胸の奥に残る温かさを感じていた。
◇◇◇
同じころ、雫は自室の机に向かい、今日持っていったメモ帳を開いていた。
池の近くで書いた短い言葉の下に、彼女は新しくいくつかの文章を加えていく。
『春樹と一緒に、昔好きだった池の道を歩いた。前と同じ景色もあったけど、今日は今日の景色だった。春樹がきれいだと言ってくれたことが嬉しかった。』
雫はそこまで書いて、鉛筆を止めた。
窓の外には、夕方へ向かう柔らかな光が差し込んでいる。机の端には春樹から借りた喫茶店の小説が置かれ、葉の形をした栞がページの間に挟まっていた。
雫はその栞を見つめながら、今日の書店で交わした会話を思い出した。
(春樹、私が選んだ栞のこと、ちゃんと覚えててくれたんだ)
それが嬉しくて、胸の奥が少し苦しくなる。
今日、春樹は何度も自分の気持ちを言葉にしてくれた。公園が楽しかったことも、一緒に歩く時間が好きだということも、飾らずに伝えてくれた。
春樹にとっては、幼馴染への素直な感想なのかもしれない。
それでも雫には、一つ一つが大切な言葉だった。
(……私、もっと春樹と一緒にいたいな)
雫はそう思いながら、メモ帳の最後に短い一文を書き加えた。
『また、二人で出かけたい。』
書き終えた文字を見つめると、自然と笑みがこぼれた。
幼いころに交わした丘の上の約束は、まだ胸の奥にしまってある。いつか伝えたいと思う気持ちは変わらないが、今日の公園でその話をしなかったことを、雫は後悔していなかった。
今の春樹と一緒に、新しい思い出を作れたことが嬉しかったからだ。
雫はメモ帳を閉じ、春樹から借りた小説を手に取った。
ページを開くと、物語の中では小さな喫茶店に集まる人々が、いつものように穏やかな時間を過ごしている。
その何気ない日常を読みながら、雫は今日の出来事を思い出した。
特別なことをしなくても、一緒にいるだけで楽しい時間がある。
そんなことを、春樹と過ごした一日が教えてくれた気がした。
窓の外では、夕暮れの光が少しずつ薄くなっていく。
雫は本の続きを読み進めながら、月曜日に春樹と会ったら、今日の感想をもう少し話してみようと思った。
そして、いつかまた二人で出かけられる日を、静かに楽しみにしていた。




