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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第91話 俺は本が読みたいだけなのに、どうして待ち合わせの十分前から幼馴染を探しているんだ?


 土曜日の朝、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む光は思ったより明るく、窓を開けると、夜のうちに冷えた空気が部屋へ流れ込んできた。雲はところどころ浮かんでいるものの、少なくとも今すぐ雨が降り出しそうな空ではない。


 机には昨夜閉じた短編集が置いてある。雨の日だけ窓辺に現れる紙袋の謎は、まだ最初の数ページを読んだところで止まっていた。いつもの休日なら、朝食のあとすぐ続きを開くはずなのに、今日は先に時計を確かめ、鞄の中身をもう一度点検していた。


(十一時に駅の案内板の前。家を出る時間を考えても、まだ十分余裕はあるんだけどな)


 財布、スマートフォン、ハンカチ、小さな折り畳み傘。昨日揃えたものがそのまま入っていることを確認し、俺は鞄を椅子の背に掛け直した。読みかけの本を持っていくかどうかは、まだ少し迷っていたが、今日は雫と歩くための外出なのだから、荷物は軽い方がいいだろう。


 それでも本棚の前を通ると、つい足が止まる。積んである未読の本を眺めているうちに、雫が以前言っていた言葉が浮かんだ。公園で景色を見たり、疲れたら休んだりするだけでも楽しい、と彼女は笑っていた。俺は本棚から手を離し、今日は帰ってから続きを読めばいいと決めた。


 朝食を済ませたあと、天気予報を確認すると、昨日の予報から大きな変化はなかった。雫からも予定変更の連絡は来ていない。こちらから何か送ろうかと思って画面を開いたが、まだ早い時間に何度も連絡するのも変な気がして、スマートフォンを机に戻した。


(楽しみにしてるのは確かだけど、こんなに時計を気にする必要はないだろ。普通に駅へ行って、普通に公園を歩くだけなんだから)


 そう考えながら短編集を開いてみたものの、登場人物が紙袋の置かれた窓を調べ始めたあたりで、ふと明日の予定ではなく今日の予定を考えている自分に気づいた。文字は読めているのに、物語の続きを追うより先に、駅の案内板の前で雫を見つける場面を想像してしまう。俺は栞を挟んで本を閉じ、少し早めに支度を整えることにした。


     ◇◇◇


 家を出ると、住宅街には休日らしい静けさがあった。庭木の手入れをしている人がいて、遠くからは自転車のブレーキが鳴る音が聞こえる。平日の通学路と同じ道を歩いているのに、制服を着ていないだけで、見慣れた家並みが少し違って見えた。


 駅へ近づくにつれて人通りが増え、買い物袋を提げた人や、小さな子どもの手を引く家族連れが行き交うようになった。改札の外にある案内板は、駅前の広い通路から少し奥まったところに設置されている。俺はまず場所を確かめ、それからスマートフォンの時刻を見た。


 待ち合わせまでは、まだ十分以上ある。早く着きすぎたかもしれないと思いながら案内板の端に寄ると、近くで電車の到着を知らせる放送が響いた。人の流れを邪魔しない場所に立ち、俺は無意識に、駅へ続く道と改札の方を交互に見ていた。


(雫は家から来るんだから、改札の方ばかり見てても仕方ないか。いや、駅前のどこから来るかは分からないけど)


 普段の俺なら、こういう待ち時間こそ本を開く。けれど今日は、鞄の中に本がないことを残念だと思う前に、雫がどこから歩いてくるのか気になっていた。通り過ぎる人の服装に目を向けるたび、知らない誰かを雫と見間違えそうになり、自分でも少しおかしくなる。


「春樹?」


 声がしたのは、俺が三度目に時計を確認しようとしたときだった。振り向くと、雫が案内板から少し離れたところに立っていた。柔らかな色の上着に動きやすそうな靴を合わせ、肩から小さな鞄を掛けている。制服姿とは違う雰囲気に一瞬言葉を探していると、雫がこちらへ歩み寄ってきた。


「おはよう。待たせちゃったかな。十一時より前に着いたつもりだったんだけど、春樹がもういたから、ちょっとびっくりした」


「おはよう、雫。俺が早く来ただけだから、全然待ってないよ。家を出る時間を考えたら、思ったより早く着いちゃってさ」


 雫はほっとしたように笑い、俺の横へ並んだ。近くを通った人が案内板を見ようとしていたので、俺たちは自然に一歩脇へ移る。そんな小さな動きまでいつもと変わらないことに安心しながら、俺は改めて雫の方を見た。


「その服、似合ってるね。公園を歩きやすそうだし、色も雫らしいと思う」


 口にしてから、普段なら服装について自分から感想を言うことはあまりないと気づいた。雫は目を丸くし、鞄の紐に添えていた手を少しだけ強く握る。すぐに嬉しそうな笑顔になったが、頬には淡い赤みが差していた。


「……ありがとう。春樹と歩くから、動きやすい服にしようと思って選んだの。春樹も、今日はいつもと少し違って見えるね」


「そうかな。服は普通のつもりだけど、鞄が軽いからかもしれない。今日は本を持ってこなかったんだ」


 俺が言うと、雫は驚いたあとで、くすりと笑った。笑われるほど珍しいことなのかと考えたが、よく思い返せば、休日に出かけるときも俺はほとんど必ず本を一冊入れている。


「春樹が本を持ってこないなんて、ちょっと意外。でも、無理して置いてきたなら、帰りに本屋さんへ寄ってもいいんだよ?」


「無理はしてないよ。今日は雫と公園を歩きたいから、荷物を減らしただけ。帰ってから読めるし、途中で面白い本を見つけたら、そのとき考えよう」


 雫は何かを言おうとして、少しだけ唇を開いた。けれど結局、嬉しそうに頷くだけだった。俺たちは駅前の案内表示を確かめ、公園へ向かう道を探し始めた。


     ◇◇◇


 駅の向こう側へ出るには、広い連絡通路を通る必要があった。休日の駅には買い物客や家族連れが多く、歩く速さも人によって違う。俺たちは急ぐ人の邪魔にならないよう端を歩きながら、案内表示に書かれた出口の方向を確かめた。


「こっちから出ると、大きな通りに出るはずだよ。前に家族と来たときは、もう少し別の道を通った気もするんだけど、あまりはっきり覚えてなくて」


 雫はそう言って、連絡通路の先を見つめた。以前来たときの記憶を無理に頼りにするのではなく、今ある案内を見ながら進もうとしているらしい。俺は頷き、壁に掲示された周辺地図へ目を向けた。


「公園の入口は何か所かあるみたいだね。池に近い場所から入ることもできそうだけど、初めてだから、分かりやすい入口を使った方が安心かな」


「うん。今日は急いで池に行かなくてもいいもの。入口から歩いて、途中で面白そうなところがあったら見ていこう」


 雫がそう言ったので、俺たちは大通りに面した入口を目指すことにした。駅の外へ出ると、建物の間を通り抜ける風が少し強く、雫の髪が頬に掛かった。彼女が片手で髪を押さえる間、俺は立ち止まって車の流れを確認し、横断歩道の信号が変わるのを待った。


 歩道には街路樹が並び、足元には朝のうちに落ちた葉がいくつか転がっている。通り沿いの店には昼前の客が入り始めていたが、俺たちはまだ食事をするつもりはなく、公園まで歩いてから相談することにした。雫は店先の花を見つけるたびに視線を向け、俺もつられて足元の植え込みを眺めるようになった。


「春樹、あそこの花、昨日見たのとは違う種類かな。色は似てるけど、葉っぱの形が少し違う気がする」


「本当だ。花だけ見たら似てるけど、葉の付き方は違うね。名前を知らないから断言できないけど、同じように見えるものでも、よく見ると違うところがあるんだな」


 雫は嬉しそうに頷いた。俺たちは歩道を塞がない位置から少し眺め、それ以上近づかずに歩き出す。道端の植物を気にするようになったのは最近のことだが、雫が見つけたものを一緒に確かめる時間は、思っていた以上に楽しかった。


 大通りを離れると、車の音が少し遠くなった。前方には背の高い木々が連なり、その向こうから子どもの声と鳥の鳴き声が混ざって聞こえてくる。公園の入口らしい広い道が見えたところで、雫が立ち止まり、目を細めた。


「……あ、ここ。たぶん、前に来たときも見た入口だと思う。こんなに木が大きかったかな」


 雫は確信が持てない様子で笑ったが、その声には懐かしさがにじんでいた。俺は入口の脇に立つ案内板を指さし、まずは園内の道を確かめようと提案する。雫はすぐに頷き、二人で並んで地図の前に立った。


     ◇◇◇


 園内の案内図には、広場や散策路、池の位置が色分けされていた。現在地から池まではいくつか道があり、まっすぐ向かうことも、木立の間を回って歩くこともできるらしい。雫は地図の端から端まで目を動かし、やがて池の横に伸びる細い線を指さした。


「私が好きだったの、たぶんこの辺りの道だと思う。池が見えて、少し木が多くて、歩いていると水の音が聞こえた記憶があるの。でも、入口からどっちへ進んだかは覚えてなくて」


「だったら、広い散策路を通って池の方へ行こうか。途中にベンチもあるみたいだし、疲れたら休めそうだよ」


 俺は地図に描かれた道を目で追い、池の周囲を一周する必要はないことを確認した。今日は全部の場所を回るのが目的ではない。雫が覚えている道を探しながら、二人で気になるものを見つけられれば、それで十分だ。


 入口を抜けると、街の音が一段遠ざかった。広い道の両側には木が並び、葉の間を抜けた光が地面に細かな模様を作っている。遠くの広場では子どもたちが走り回り、少し離れたベンチには飲み物を持った年配の夫婦が座っていた。


「思ってたより広いね。駅の近くにこんな場所があるの、ちょっと不思議だな」


「私も久しぶりに来たら、こんなに広かったんだって思った。前は家族について歩いていたから、道の長さをあまり気にしてなかったのかもしれないね」


 雫は足元の木漏れ日を眺めながら話した。俺たちは歩く速さを揃え、追い越していく人がいれば道の端へ寄る。風が吹くと葉が擦れ合い、遠くで聞こえる声が一瞬かき消された。


 道の途中には、季節の植物について説明する小さな札が立っていた。俺は近づいて文字を読もうとしたが、すぐ横を通る人の邪魔になりそうだったので、雫と一緒に少し位置を変えた。札には近くの木の特徴が書かれており、見上げると確かに葉の形が説明と一致している。


「こういう札があると、名前を知らない木でも覚えやすいね。昨日までなら、きれいな木だなって思うだけで通り過ぎてたかもしれない」


「春樹、文字があると嬉しそうだね。でも、ちゃんと木の方も見てるから、私も一緒に読むのが楽しい」


 雫が笑いながら言ったので、俺は少し照れくさくなった。確かに、説明が書いてあるものを見つけると、つい読まずにはいられない。ただ今日は、読んだことを雫に話して、彼女が見つけた特徴を教えてもらうところまで含めて楽しいのだと思った。


 木立を抜けた先で、道が二つに分かれていた。片方は広場へ続き、もう片方は緩やかな曲線を描いて池の方向へ伸びている。俺たちは案内図で確かめた道を選び、少しずつ水辺へ近づいていった。


     ◇◇◇


 池が見えたのは、道を曲がってからしばらく歩いたところだった。木々の隙間に光を反射する水面が現れ、その向こうには低い植え込みと、ゆるやかに続く散策路が見える。風が水面を渡るたびに細かな波が生まれ、陽の当たる場所だけが白くきらめいていた。


 雫は歩幅を緩め、池を見つめたまま小さく息を吸った。俺も立ち止まり、彼女の隣から同じ景色を眺める。池の周りには何組かの人がいたが、互いに距離を取りながら静かに過ごしており、子どもたちの声もここまでは遠く聞こえた。


「……こんな感じだったと思う。もっと小さな池だと思ってたけど、今見ると広いね」


「うん。木が水に映ってるところ、きれいだね。雫が言ってた水の音も、もう少し近くへ行けば聞こえるかな」


 雫は俺の言葉に頷いたが、すぐには歩き出さなかった。彼女の目は池そのものよりも、その脇に続く木陰の道を探しているようだった。俺は急かさずに待ち、雫が自分の記憶と今の景色を重ねられるよう、しばらく一緒に立っていた。


「春樹、あの道、少し歩いてみてもいい? 前に来たとき、あっちの方が静かで好きだった気がするの」


「もちろん。今日はそこを探しに来たんだし、行ってみよう。もし違ったら、また地図を見ればいいよ」


 雫は安心したように笑い、俺たちは池に沿った道へ進んだ。木陰へ入ると空気が少しひんやりし、足元の土も乾いた舗装路とは違う柔らかさを帯びている。道は十分な幅があったが、向こうから歩いてくる人とすれ違うときには、自然と肩を寄せて端へ寄った。


 池の近くには鳥が一羽浮かび、ときどき水面へ頭を下げていた。雫はそれに気づくと立ち止まり、声を抑えて俺を呼んだ。俺たちは鳥を驚かせない距離からしばらく眺めたが、種類は分からず、無理に名前を当てることはしなかった。


「春樹、あの鳥、何を探してるんだろうね。水の中に食べ物があるのかな」


「そうかもしれないね。俺も詳しくないから分からないけど、同じところに何度も潜ってるように見える。観察してると、時間が過ぎるのが早いな」


 雫は小さく笑い、鳥が水面に作った輪を目で追った。俺も彼女の横顔を見てから、もう一度池へ視線を戻す。誰かと同じものを眺めていると、黙っている時間まで気まずくないのが不思議だった。


 しばらく歩くと、道の脇に古い木のベンチが見えてきた。背後には低い木立があり、正面には池が広がっている。雫はその場所を見た瞬間、足を止めた。


「……ここ、覚えてる。たぶん、この辺りだったと思う」


 声は大きくなかったが、さっきまでとは違う確かさがあった。雫はベンチへすぐに近づくのではなく、少し離れたところから周囲を見回している。俺は彼女の横に立ち、何が記憶につながったのかを尋ねた。


「前に来たときも、こんなふうに木の間から池が見えたの。家族が少し休んでいる間、私はあっちの水面をずっと見てた気がする。ベンチが同じものかは分からないけど、景色の感じが似てるんだ」


「そっか。覚えてた場所に近いところが見つかってよかったね。少し座ってみる?」


 雫は嬉しそうに頷いた。ベンチにはほかの人が座っていなかったので、俺たちは端に荷物を置かず、それぞれ膝の上へ鞄を抱えるようにして腰掛けた。座ると立っていたときより水面が低く見え、枝の間から差す光が目の前でゆっくり揺れていた。


     ◇◇◇


 ベンチに座ってしばらくは、二人とも景色を眺めていた。木々の向こうから聞こえる足音や、鳥の羽ばたく音が、静かな水辺に小さく響く。雫は膝の上で鞄の紐を整えながら、何かを思い出すように目を細めていた。


「私ね、前にここへ来たとき、何がそんなに楽しかったのか、はっきり説明できなかったんだ。池を見てただけだし、特別な遊具があるわけでもなかったから。でも、帰ってからもこの道のことを覚えてたの」


 雫は水面へ視線を向けたまま、ゆっくり言葉を続けた。俺は途中で口を挟まず、彼女の声を聞いていた。普段なら、本の登場人物がどうしてある場所を忘れられないのか考えるところだが、今は隣にいる雫自身の話だった。


「今日、春樹と歩いてみて、少し分かった気がする。ここは何かをしなくても、ゆっくり見ていられる場所なんだね。昔の私は、それが好きだったのかもしれない」


「うん。俺も、ここなら長く座っていられそうだと思ったよ。静かだけど何もないわけじゃなくて、見てると水の模様も木の影も少しずつ変わるから」


 雫は俺の方を向き、驚いたように目を瞬かせた。それから嬉しそうに笑い、再び池へ視線を戻した。俺はその横顔を見ながら、ここへ来る前に考えていたことを思い出す。


(雫の好きだった景色を知りたいと思ってたけど、こうして一緒に座ってると、景色だけじゃなくて、雫がここを好きだった理由も少し分かる気がする)


 俺はすぐに感想を言葉にしようとして、やめた。まだうまくまとまらないし、今は何かを説明するより、雫と同じ時間を過ごしていたかった。鞄から本を取り出すこともできないけれど、不思議と手持ち無沙汰にはならなかった。


「春樹、退屈じゃない?」


 雫が少し心配そうに尋ねたので、俺は首を横に振った。彼女は俺が本好きだから、何もせず座っている時間を退屈に感じると思ったのかもしれない。けれど、そんな心配は必要なかった。


「全然。雫がここを好きだった理由を聞けたし、俺もこの景色が好きになってきたよ。ずっと歩いてると気づかないこともあるから、休んでよかったと思う」


「よかった。私、春樹が楽しめるかなって少し気になってたの。公園へ行きたいって言ったのは私だから、春樹にも何か面白いものがあればいいなって」


 雫は鞄の紐を指先でなぞり、少しだけ視線を落とした。その仕草を見て、俺は彼女も今日の予定についていろいろ考えてくれていたのだと気づく。自分ばかりが緊張していたわけではないらしい。


「雫が見せたいと思った場所を、俺も見てみたかったんだ。だから、来られてよかったよ。それに、帰ってから今日のことを思い出したら、きっと本を読むときにも違うことに気づけそうな気がする」


 雫は顔を上げ、しばらく俺を見つめた。頬にかかった髪を耳へ掛けると、柔らかな声で「ありがとう」と言った。いつも聞いている言葉なのに、今日はその響きが少し違って聞こえ、俺は返事をするまで一拍遅れてしまった。


 池の向こうでは、小さな子どもが親に手を引かれて歩いていた。子どもは水面の鳥を指さし、親がしゃがんで同じ方向を見ている。俺たちはその様子を邪魔しないよう静かに眺め、しばらくしてから立ち上がることにした。


     ◇◇◇


 ベンチを離れる前に、雫は鞄から薄いメモ帳を取り出した。小さな鉛筆も一緒に入っており、彼女は膝の上でページを開いて、短い言葉をいくつか書き留めた。俺が不思議そうに見ていると、雫は少し照れたように笑った。


「今日見つけたもの、あとで忘れないように書いておこうと思って。写真もいいけど、私が何を好きだと思ったのか、言葉でも残したくて」


「いいね。俺の読書ノートみたいな感じかな。でも、本じゃなくて景色の感想を書くんだね」


「うん。春樹が本を読んで感じたことを残してるのを見て、私もやってみたくなったの。まだ何を書けばいいか分からないから、今日は短くてもいいかなって」


 俺は頷き、メモ帳の中身を覗き込まないよう視線を池へ戻した。雫が自分のために書いている言葉なら、見せたいと思ったときに見せてくれればいい。しばらくして鉛筆をしまう音が聞こえ、彼女は満足そうにメモ帳を鞄へ戻した。


「春樹は、今日のことを読書ノートに書く?」


「どうだろう。読書の感想とは少し違うから、別のページに書くかもしれない。少なくとも、ここへ来てよかったってことは覚えておきたいな」


 雫はその返事を聞いて、嬉しそうに目を細めた。俺たちはベンチを離れ、池に沿って続く道をゆっくり歩き始める。木陰を抜けると少し日差しが強くなり、時計を確認すると、もう昼が近づいていた。


「そろそろお腹すいてきたね。雫はどう? まだ歩けそうなら、入口の方へ戻りながら食事の場所を考えようか」


「私も少しお腹すいたかも。さっきの案内図の近くに休憩できるところがあった気がするけど、何か売ってるかは分からないよね」


「うん。お店があるかどうかは確認してないし、駅の方へ戻れば選べるところもあると思う。どっちにしても、慌てずに決めよう」


 俺たちは分岐点まで戻り、案内板の表示を確かめた。近くに休憩施設の記号はあったが、食事を買えるかどうかまでは書かれていない。雫は少し考えたあと、もう少し園内を歩いてから駅の方へ戻る案を出した。


「せっかくだから、帰る前にもう少しだけ歩きたいな。春樹が疲れてなければ、広場の方も少し見てみたい。お昼は駅の近くで探してもいいし」


「俺は大丈夫だよ。さっき座って休めたし、広場の方へ行ってみようか。ただ、混んでいたら無理に中へ入らず、道から眺めるだけでもいいと思う」


 雫は頷き、俺たちは地図で方向を確かめて歩き出した。広場へ続く道には小さな子どもを連れた家族が多く、途中には犬を散歩させている人もいた。俺たちは周囲の歩く速さに合わせながら、気になる木や花を見つけるたびに少しだけ立ち止まった。


 広場が見えてくると、芝生の上では何組かの人が思い思いに過ごしていた。走り回る子どもたちから離れた場所では、敷物の上に座って話す家族もいる。雫はその光景を眺めながら、懐かしそうに笑った。


「前に来たときも、こんなふうに家族連れが多かった気がする。池の道は静かだったけど、こっちは賑やかで、同じ公園なのに雰囲気が全然違うね」


「本当だね。静かな場所も賑やかな場所もあるから、その日の気分で歩くところを変えられそうだ。今日は両方見られてよかったな」


 雫は俺の言葉に頷き、芝生の端を通る道へ視線を向けた。そこには小さな花がいくつか咲いていたが、俺たちは名前を調べるために近づくことはせず、歩きながら色や形を眺めるだけにした。今日の目的は、知らないものを全部知ることではない。見つけたものを雫と一緒に楽しむことだった。


     ◇◇◇


 広場をひと回りする前に、俺たちは人の少ない道へ戻った。昼が近づくにつれて園内の人出が増え、入口の方からは新しく入ってくる家族連れの姿が見える。雫は時計を確かめ、そろそろ駅へ戻って昼食を探そうかと提案した。


「うん。ちょうどいい時間だと思う。雫、池の道を見つけられてよかったね。来る前は、記憶と違ってたらどうしようって少し心配してた?」


 俺が尋ねると、雫はすぐには答えず、歩道の脇に並ぶ木を見上げた。風で葉が揺れるたびに、地面の影がゆっくり動いている。彼女はその様子を眺めながら、言葉を選ぶように話し始めた。


「少しだけね。前に好きだった場所が変わっていたら、寂しいかもしれないって思ったの。でも、今日来てみたら、同じところも違うところもあって、それが嫌じゃなかった。春樹と一緒に歩いたから、前とは別の思い出もできたし」


 雫は最後の言葉を少し小さな声で言った。俺は隣を歩きながら、池のそばのベンチで見た水面を思い出す。雫にとって懐かしい場所が、俺にとっては今日初めて好きになった場所になったのだ。


「そう言ってもらえると嬉しいな。俺も、あの道はまた歩いてみたいと思ったよ。次に来たら違う季節かもしれないし、今日とは別の景色が見られそうだね」


 雫は一瞬だけこちらを見て、すぐに前へ視線を戻した。頬が少し赤くなっているように見えたが、日差しの中を歩いているせいかもしれない。俺は深く考えず、歩道の先にある案内表示を確かめた。


「……また、来られたらいいね。春樹がよかったら、だけど」


「うん。また来たいよ。今日みたいに、ゆっくり歩ける日があればいいな」


 雫はほっとしたように笑った。俺たちはそれ以上先の予定を決めず、今歩いている道の話へ戻る。未来の約束を急いで増やさなくても、今日ここへ来られたことだけで十分に嬉しかった。


 公園の入口が近づくと、街の車の音が少しずつ大きくなった。木立の間から見えていた水面はもう見えないが、池の近くで感じた風や、ベンチから眺めた光の揺れは、まだ鮮明に覚えている。俺はふと鞄の軽さを意識し、今日は本を持ってこなくてよかったのかもしれないと思った。


(本があったら、待ち時間に読めたかもしれない。でも、今日は雫が見つけたものを、できるだけ一緒に見ていたかったんだ)


 入口の案内板まで戻ると、雫が足を止めて振り向いた。彼女は木々の向こうを一度眺め、満足そうに息をついた。俺も同じ方向を見て、今日初めて歩いた公園の道を頭の中でたどった。


「春樹、連れてきてよかった。私が好きだった場所を、一緒に見てくれてありがとう」


「こちらこそ、教えてくれてありがとう。雫がいなかったら、あの池の道には気づかずに広場だけ見て帰ってたかもしれないし」


 雫は笑い、俺たちは駅へ向かう歩道へ出た。昼食をどこで取るかは、まだ決めていない。駅の近くには何軒か店があるはずだが、混み具合も分からないので、歩きながら相談することにした。


 横断歩道の信号が赤に変わり、俺たちはほかの歩行者と一緒に立ち止まった。雫は鞄の中にあるメモ帳をそっと押さえ、俺はその仕草を見て、さっき彼女が何を書いたのか少し気になった。けれど尋ねるより先に信号が青へ変わり、俺たちは並んで道を渡り始めた。


 公園を出ても、今日の時間はまだ終わっていない。昼食を食べて、駅まで戻って、夕方になる前に帰る。その間にも雫と話したいことがいくつも浮かんでくる自分に気づき、俺は少しだけ笑った。


(本の続きも気になるけど、今はこっちの続きを楽しみたいな)


 隣で雫が「どうしたの?」と首を傾げたので、俺は何でもないよと笑って答えた。雫もつられるように笑い、俺たちは昼前の明るい街を、急がず駅の方へ歩いていった。

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