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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第90話 俺は本が読みたいだけなのに、どうして幼馴染とのお出かけを決めるだけでこんなに緊張するんだ?


 金曜日の朝、俺は机の上に置いたスマートフォンの天気予報を、歯を磨く前から二度も確認していた。


 土曜日の欄には小さな雲と太陽の印が並び、日曜日には曇りの印が少し多い。どちらも雨の可能性は高くなさそうだったが、予報は変わることもあるし、駅の向こうにある大きな公園へ行くなら、できれば気持ちよく歩ける日を選びたい。そう考えて画面を見比べているうちに、昨日までなら真っ先に開いていたはずの電子書店の新刊情報を、一度も確認していないことに気づいた。


(いや、別に天気を気にするのは普通だろ。公園に行く話をしてるんだから)


 誰に弁解するわけでもなく、俺はスマートフォンを伏せて洗面所へ向かった。鏡に映った自分はいつもと変わらないはずなのに、週末の予定がまだ決まっていないというだけで、朝の支度を少し急いでいるような気がする。


 昨日の夜、雫と確認したのは、二人とも今週末に大きな予定がないというところまでだった。行く日も、待ち合わせの場所も時間も決まっていない。公園の近くにあるかもしれない小さな喫茶店については、雫が昔訪れたときの記憶しかなく、今も営業しているかどうか分からない。駅の近くの書店に寄る案も、あくまで時間があればという話だ。


 予定を決めるなら、今日は少し話しておいた方がいい。そう思う一方で、俺はなぜか、普段の帰り道の約束よりも慎重になっていた。


(雫が楽しみにしてくれてるんだから、無理のない予定にしたいな)


 そんなことを考えながら鞄を持ち上げると、中で本の角が硬く当たった。昨日読み始めた日常の小さな謎を扱う短編集だ。鉢植えの位置が少しずつ変わる最初の話は、まだ途中までしか読んでいない。続きを開きたい気持ちと、雫に会って週末の相談をしたい気持ちが、奇妙なほど同じくらい強かった。


     ◇◇◇


 いつもの角へ着くと、雫は植え込みの向こうを眺めながら待っていた。朝の日差しが髪の端を照らし、風が吹くたびに制服のリボンがわずかに揺れる。俺の足音に気づいた雫は振り向き、顔を見た途端に柔らかく笑った。


「おはよう、春樹。今日は少し早いね。私も今来たところなんだけど、空がきれいだったから、つい見てたの」


「おはよう。俺も天気が気になってたんだ。週末、今の予報だと土曜日の方が晴れ間が多そうなんだけど、雫はどっちがよさそう?」


 言ってから、いきなり本題に入ってしまったことに気づいた。雫は一瞬きょとんとしたものの、すぐに嬉しそうに目を細めた。


「私も朝、予報を見たよ。土曜日の方が歩きやすそうだなって思ってた。でも、春樹がゆっくりできる方がいいから、無理しないでね」


「俺はどっちでも大丈夫。むしろ、明日の方が天気がよさそうなら、そうしようかなって。あとは時間を決めればいいんだけど」


 雫は鞄の持ち手を握り直し、少し考え込んだ。道の向こうでは通学途中の生徒が数人、部活動の荷物を抱えて歩いている。俺たちも通行の邪魔にならないよう歩き始めると、雫は隣でゆっくり口を開いた。


「午前中から行くのもいいけど、春樹は休日の朝に本を読むのが好きでしょう? お昼前くらいに駅で会って、そこから公園に向かうのはどうかな。お昼をどうするかは、あとで相談してもいいし」


「それ、いいね。朝から急いで出かけなくて済むし、公園も明るい時間に歩ける。雫は早めに帰りたい時間とかある?」


「夕方までには帰りたいかな。遅くならない方が家でも安心してもらえると思うし、私も帰ってから本の続きを読みたいから」


 雫が最後に付け足した言葉に、俺は思わず笑った。彼女の手元には、俺が貸した小さな町の喫茶店の小説がまだある。急いで返す必要はないと伝えてあるが、物語を楽しんでくれていることが分かると、貸した側としては嬉しい。


「じゃあ、お昼前に駅で待ち合わせて、公園を散歩して、疲れたら休むくらいにしようか。喫茶店は営業してるか確認できてないから、そこを当てにして予定を組まない方がいいと思う」


「うん。もし見つけて、入れそうだったら考えよう。私、春樹と歩けるだけでも十分楽しみだから」


 雫は何気なく言ったつもりなのかもしれない。しかし俺は、返事をするまでほんの少し時間がかかった。通り過ぎる自転車のベルの音が聞こえ、雫がこちらを見上げていることに気づいて、ようやく頷いた。


「俺も楽しみだよ。公園で雫が好きな場所を教えてくれたら嬉しいし、何か面白いものを見つけられたらいいな」


「……うん。私が前に行ったときと、変わってるところもあるかもしれないけど。それも一緒に見られたらいいね」


 その言葉を聞いて、俺は昨日読み終えた恋愛小説のことを思い出した。昔の思い出を大切にしながら、今の相手を知っていく二人。物語の主人公たちは大学生で、俺たちとは状況が違う。それでも、以前と同じ場所を訪ねたときに、今だから気づけることがあるという感覚には、少し共通するものがある気がした。


 雫は前に家族と行った公園を、今度は俺と歩こうとしている。俺が知らないその場所で、雫はどんな景色を覚えているのだろう。尋ねたいことがいくつも浮かんだが、明日まで取っておくのも悪くないと思い、俺は学校までの道を雫と並んで歩いた。


     ◇◇◇


 教室に入ると、悠斗は窓際で赤木さんと話していた。机の間を抜けて自分の席へ向かう途中、二人の笑い声が聞こえてくる。赤木さんは借りている本の途中で気になった場面があるらしく、結末を話してしまわないよう言葉を選びながら、悠斗へ何か説明していた。


「おはよう。二人とも、朝から楽しそうだね」


 声を掛けると、悠斗が振り向いた。赤木さんも笑顔で挨拶を返し、開いていたノートをそっと閉じる。


「おはよう、春樹。紗弥がさ、前に貸した本の登場人物について、ちょっと面白いこと言うんだよ。俺が読んだときには気づかなかった見方でさ」


「高坂君が教えてくれた本だから、読み終わったらちゃんと話したいんだけど、今のところでも聞いてほしくなっちゃって。七瀬君も、途中の感想を誰かに話したくなることある?」


「あるよ。昨日も雫と短編集の話をしたんだけど、まだ謎が解けてないから、結末を予想するところまでしか話せなくて。でも、それも楽しいんだよね」


 赤木さんは納得したように頷き、悠斗へ視線を戻した。悠斗はその視線を受けると少し照れたように笑い、机の端に置いていた筆箱を直す。二人の間には、話しかけるタイミングを探るようなぎこちなさが以前より減っているように見えた。


「ところで春樹、お前は明日も本を読んで過ごすのか? この前、休みの日に出かける話が出てた気がしたけど」


 悠斗が何気ない調子で尋ねた瞬間、俺は鞄から出しかけていた教科書を止めた。赤木さんもこちらを見る。隠すような話ではないのに、二人の前で口にするとなぜか少しだけ落ち着かない。


「雫と、駅の向こうの公園に行く話をしてるんだ。今日の朝、土曜日がよさそうだって相談したところ。まだ待ち合わせの細かい時間は決めてないけど」


「へえ、いいじゃん。大きい公園なら歩くところも多そうだし、のんびりできそうだね」


 赤木さんは素直にそう言ってくれたが、悠斗は俺をじっと見たまま、口元だけを緩めていた。その顔を見たことがある。俺が雫の話をするとき、悠斗は時々こんな表情になる。


「……何だよ、その顔」


「いや、別に。お前が休日の予定を自分から気にするようになったんだなって感心してただけだよ。普段なら、新しい本を買うかどうかで一日悩んでるだろ」


「本を買うかどうかも大事な問題だろ。置き場所だって考えなきゃいけないし」


 俺が真面目に返すと、赤木さんが小さく吹き出した。悠斗は肩を揺らしながら笑っていたが、すぐに声を落とし、俺にだけ聞こえるくらいの調子で続けた。


「まあ、楽しんでこいよ。予定を全部決めようとしなくても、相手が何をしたいか聞けばいいんだからさ。お前、雫の話はちゃんと聞くだろ」


 からかうつもりだけではない言い方だった。俺は少し驚いて悠斗を見る。いつもの軽口の奥に、友人として気に掛けてくれている気配があり、俺は素直に頷いた。


「うん。雫もゆっくり歩きたいって言ってたし、無理のない予定にするよ。ありがとう」


「おう。あと、帰ってから何を話したか聞かせろよ。公園にどんな本が落ちてたか、じゃなくてな」


「公園で本を拾う予定はないよ。落ちてたとしても、勝手に持って帰らないし」


 赤木さんがまた笑い、悠斗は机に肘をついて大げさに息を吐いた。どうしてそこまで笑われるのか分からなかったが、二人が楽しそうなので、俺もつられて笑ってしまった。


     ◇◇◇


 午前の授業が終わり、昼休みになった。教室の窓から差し込む光は朝より柔らかくなり、机の上には弁当箱や飲み物が並んでいる。俺は食事を済ませてから短編集を開き、鉢植えの謎の続きを読み始めた。


 主人公は、鉢植えを動かしている人物を突き止めようとするうちに、近所の人たちがそれぞれ少しずつ花の世話をしていることを知る。店主が日当たりを考えて置き直し、通りかかった人が風の強い日に倒れない位置へ寄せ、別の日には子どもが花をよく見ようとして近づけていた。誰か一人が秘密を隠しているのではなく、いくつもの小さな親切が重なった結果、鉢植えの位置が変わっていたのだ。


 最後の数ページを読み進めると、主人公は謎の答えを知ったあとも、その店先を通るたびに鉢植えを気に掛けるようになる。謎を解く前よりも、その場所に親しみを覚えるという結末だった。俺は本を閉じずに膝の上へ置き、しばらく窓の外を眺めた。


(答えが分かったら終わり、じゃないんだな。知ったことで、前より好きになるものもある)


 昨日、雫と眺めた小さな花のことが浮かんだ。名前はまだ分からないけれど、何度か見に行くうちに、ただの道端の花ではなくなっている。雫が最初に気づいて、俺が立ち止まり、二人で少しずつ変化を確かめている。その時間ごと覚えているからだろう。


「春樹、もう最初のお話、読み終わった?」


 顔を上げると、雫が机の横に立っていた。周りの生徒の邪魔にならないよう鞄を抱え直し、俺の返事を待っている。俺は栞を挟む必要がないことを確かめてから本を閉じ、彼女に表紙を見せた。


「ちょうど読み終わったところ。鉢植えの謎、思ってたより優しい答えだったよ。大きな事件じゃないけど、読んだあとに近所の景色を見たくなる話だった」


「そうなんだ。昨日聞いたときから気になってたんだよね。答えを聞いたら読む楽しみが減っちゃうかな?」


「雫が読んでみたいなら、答えはまだ内緒にしておこうかな。短い話だから、気軽に読めると思うよ。ただ、今貸してる喫茶店の小説は、急いで返さなくていいからね」


 雫はほっとしたように笑った。彼女はまだその小説を読み終えておらず、最近ようやく登場人物たちの関係が変わり始めたところだという。俺は結末を知っているけれど、彼女が何を感じるのかを聞ける日を楽しみにしていた。


「ありがとう。あの喫茶店のお話、今ちょうど好きな場面が増えてきたところなの。読み終わったら、春樹にちゃんと感想を伝えたいな」


「うん、楽しみにしてる。そうだ、明日のことなんだけど、待ち合わせは駅の改札の外にしようか。人が多かったら見つけにくいかもしれないから、場所をもう少し具体的に決めておきたいんだ」


 雫は少し考え、駅の外にある案内板の辺りなら分かりやすいのではないかと提案した。俺も何度か通ったことのある場所だったので、それなら迷わずに済みそうだと答える。昼休みの教室は騒がしく、話しているうちに何人かの生徒が横を通ったため、俺たちは机の端へ寄って通路を空けた。


「時間は十一時くらいでどうかな。公園まで行って、途中でお腹がすいたら、駅の近くで何か買うか、入れそうなお店を探すこともできるし」


「十一時なら大丈夫だよ。お昼は、混んでいたら無理にお店に入らなくてもいいよね。公園で座れる場所があったら、そこで少し休むのも楽しそう」


「そうだね。ただ、食べ物を持ち込める場所かどうかは、行ってから案内を確認しよう。ベンチがあっても、何でもしていいとは限らないし」


 俺がそう言うと、雫は目を丸くしてから笑った。


「春樹って、そういうところ丁寧だよね。私、ただベンチに座って景色を見られたら嬉しいなって考えてたけど、確かに案内は見ておいた方がいいね」


「せっかく行くなら、気持ちよく過ごしたいからさ。それに、雫が前に見た景色を教えてくれるなら、俺もちゃんと見たい」


 言い終えた途端、雫が少し黙った。彼女は鞄の持ち手を指でなぞり、窓から差し込む光へ一度目を向けてから、俺を見た。笑っているのに、どこか緊張しているようにも見える。


「……ありがとう、春樹。私ね、昔その公園に行ったとき、池の近くの道が好きだったの。今も同じ景色かどうか分からないけど、もし時間があったら、一緒に探してみたいな」


「いいね。池の近くなら、季節によって見えるものも変わりそうだし。公園の案内図を見ながら探してみようか」


 雫は嬉しそうに頷き、俺たちは改めて明日の約束を確かめた。土曜日の午前十一時、駅の改札を出たところにある案内板の前。天気が大きく崩れたり、家の都合が変わったりしたら、出発前に連絡を取り合う。細かな行き先は現地で相談し、無理に全部回ろうとはしない。


 こうして言葉にすると、ごく普通の外出の予定だった。けれど俺は、雫が「明日だね」と笑った瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなるのを感じた。


     ◇◇◇


 放課後の図書室には、窓を通した午後の光が斜めに差し込んでいた。廊下の騒がしさから離れて扉を開けると、紙と木の棚の匂いが混ざった静かな空気が迎えてくれる。俺は受付にいる白石栞先輩へ挨拶し、空いている机へ向かった。


「こんにちは、七瀬君。今日は少し早いのね。新しい本、楽しめてる?」


「こんにちは、白石先輩。はい、最初の短編を読み終わりました。日常の小さな謎が、最後には周りの人の優しさにつながる話で、読んでよかったです」


 先輩は手元の返却本を揃えながら、穏やかに頷いた。俺が短編集の表紙を見せると、少し身を乗り出して眺める。受付の奥では別の図書委員が書架の整理をしており、時折、本の背を揃える小さな音が聞こえていた。


「そういう作品って、読み終わったあとに日常の見え方が変わることがあるわよね。七瀬君が前に考えていた『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』という紹介カードにも、通じるものがありそう」


「俺も少しそう思いました。ただ、あのカードは別の短編集の下書きですし、今読んでる本の感想と混ぜないようにしたいです。似た雰囲気でも、作品ごとに大事なところは違いますから」


「ええ、それがいいと思う。紹介する本の魅力を、自分の言葉で正確に伝えることが大切だもの。まだ掲示の承認も受けていないし、今は急がず下書きを育てていきましょう」


 先輩はそう言って、保管していた紹介カードの草案を取り出した。大学で再会した幼馴染の恋愛小説については、読み終わる前に考えた見出しと紹介文が残っている。俺は机の上で紙を並べ、改めて読み返した。


『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』


『大学で再会した幼馴染の二人。懐かしい思い出の先で、今の相手を知っていく恋の物語。』


 読み終えた今でも、見出しそのものは気に入っていた。ただ、結末を知ったことで、この言葉が単に相手の秘密を探る話ではなく、相手が自分とは違う時間を生きてきたことを受け止める物語にも重なっていると分かる。俺はカードの余白へ鉛筆で小さくメモを書いた。


「先輩、今の文章はそのままでもいい気がします。でも、もし補足を加えるなら、相手を知ることは昔の思い出を確かめるだけじゃないっていう感じも出せるといいのかなと思って」


「なるほど。読み終わったからこその視点ね。ただ、紹介カードは短い文章で興味を持ってもらうものだから、全部説明しようとすると結末に触れすぎるかもしれないわ」


 先輩は草案を指で押さえ、見出しと本文の間にある余白を確かめた。俺も頷く。読み終えたからこそ書きたいことは増えたが、これから読む人が自分で見つける楽しみを奪ってしまっては意味がない。


「じゃあ、文章を増やすより、今の言葉が何を伝えてるのかをもう一度確かめる方がいいですね。俺は、あの二人が今の相手を知っていくところが一番好きでしたし」


「そうね。今の草案には、その魅力がちゃんと入っていると思うわ。完成を急ぐより、読んだあとにも納得できる言葉を選べているか確認しましょう」


 俺たちはしばらく、言葉の長さや読みやすさについて話した。窓際の机で勉強していた生徒が席を立ち、椅子を静かに戻してから図書室を出ていく。先輩はその生徒に小さく会釈し、俺も自然と声を落とした。


「そういえば七瀬君、週末は何か読む予定があるの?」


 先輩の問いに、俺は一瞬迷った。普段なら、読みたい本の話をいくらでもできる。けれど明日は雫と公園へ行く予定が決まり、休日の読書時間はいつもより少なくなりそうだった。


「明日は雫と公園へ行くことになったんです。駅の向こうの大きな公園で、前に雫が行ったことがある場所らしくて。だから本は、帰ってから読もうかなと思ってます」


 先輩は一度だけ瞬きをし、それからいつも通りの柔らかな笑顔を浮かべた。ただ、草案の端を揃えていた指がほんの少し止まったことに、俺は気づかなかった。


「そう。西条さんと一緒なのね。天気がよいといいわね。公園なら、読書とは違う発見もありそう」


「はい。雫が好きだった池の近くの道を探す予定なんです。まだ詳しい場所は分からないですけど、案内図を見ながら歩こうと思って」


「それは素敵ね。誰かが大切にしている場所を一緒に訪ねるのって、その人のことを少し知る機会にもなると思うわ」


 先輩の言葉は、今日の朝から俺が考えていたことに近かった。俺は嬉しくなって頷き、草案を丁寧に重ねる。先輩はその様子を見ながら、無理に続きを聞こうとはせず、紹介カードを元の保管場所へ戻した。


「楽しんできてね、七瀬君。帰ってきて何か本の感想につながる発見があったら、また聞かせて」


「ありがとうございます。先輩も、よい週末を」


 俺は礼を言い、図書室の静けさを邪魔しないよう椅子を戻した。まだ短編集の続きを読みたい気持ちはあったが、今日は帰って明日の準備をしておこうと思った。鞄の中で本が軽く揺れる感触を確かめながら、俺は廊下へ出た。


     ◇◇◇


 七瀬春樹が図書室を出たあと、白石栞は受付の机へ視線を落とした。整理する本はまだ数冊残っている。彼女は一冊ずつ背表紙の番号を確かめ、所定の場所へ積み直したが、作業の合間に、先ほど聞いた週末の予定がふと頭をよぎった。


(西条さんと、公園へ行くのね)


 七瀬君が楽しそうに話していたことは、すぐに分かった。彼は本について語るときと同じくらい、行ったことのない公園の景色を楽しみにしているようだった。しかも、自分が見たいものだけではなく、西条さんが以前好きだった場所を知りたいと言っていた。


 栞はそのことを、少し眩しく感じた。誰かの大切な場所に興味を持つというのは、その人自身へ目を向けることでもあるのだろう。七瀬君がそれをどこまで自覚しているのかは分からない。けれど、彼の言葉には無理をしているところがなかった。


(……楽しんできてほしいと思うのは、本当なのよ)


 胸の奥に小さな寂しさがあることも、栞は否定しなかった。自分も七瀬君と本屋や喫茶店で過ごした時間を大切に覚えている。彼から借りた古書店の謎を扱う本も、まだ読み終えておらず、返すときには感想をきちんと伝えたいと思っている。


 それでも、彼の休日を自分の都合で測るつもりはなかった。彼が楽しそうに話してくれたことを、そのまま受け取っていたい。栞は返却本の最後の一冊を持ち上げ、窓の外に傾き始めた光を眺めてから、書架へ向かった。


     ◇◇◇


 昇降口へ向かう途中、廊下の掲示板の前で九条凛に会った。凛は資料の入った薄いファイルを抱え、掲示板の空いている部分を見上げている。俺が挨拶すると、彼女は少しだけ驚いた顔をしたあと、きちんと姿勢を正した。


「こんにちは、七瀬君。今、帰るところ?」


「うん。図書室で少し紹介カードの相談をしてたんだ。凛は掲示の場所を確認してるの?」


「ええ。読書マナーの案内を置くとしたら、どこが見やすいか考えていたの。ただ、まだ候補を比較している段階で、許可も取れていないから、ここに決めたわけじゃないわ」


 凛はそう断ってから、ファイルの中にある紙を見せてくれた。そこには以前話した「続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう」という案と、「本の続きは、安全な場所で」という短い文が書かれている。どちらも、歩きながら読書をしないよう促すためのものだ。


「文章はどっちも伝わりやすいと思うよ。掲示する場所によっては、遠くから見える文字の大きさも考えた方がよさそうだね」


「そうね。見てもらえなければ意味がないし、目立たせすぎてほかの掲示の邪魔になっても困るから。来週、担当の先生に相談する前に、もう少し整理してみるつもり」


 俺は頷き、掲示板から少し離れて全体を見た。行事のお知らせや委員会の案内が並び、余白はあるものの、すぐに新しい紙を貼れるとは限らない。凛も同じことを考えていたらしく、ファイルを閉じながら小さく息を吐いた。


「ありがとう、七瀬君。あなたに意見を聞くと、読む人の側から考え直せる気がするわ。もちろん、正式な判断は先生や委員会で確認してからだけど」


「うん。その方が安心だと思う。俺も本を読む場所には気をつけたいし、役に立つことがあればまた言って」


 凛は穏やかに笑い、俺たちはそこで別れた。廊下を進みながら、俺はふと、明日の公園でも案内表示を確認しようと考えた。読書の注意書きも、公園の利用案内も、誰かが安全に過ごすために用意しているものだ。そういう当たり前のことに目を向ける機会が増えたのも、学校でいろいろな人と話すようになったからかもしれない。


     ◇◇◇


 校門を出ると、雫が少し先で待っていた。午後の風は朝よりも柔らかく、道端の木の葉が小さく揺れている。雫は俺の姿を見つけると、嬉しそうに手を振った。


「春樹、お疲れさま。図書室の用事、終わった?」


「うん。紹介カードの下書きを少し見直してきたよ。まだ正式に掲示するわけじゃないけど、読み終わった本の感想を反映できるか考えてたんだ」


「そっか。春樹、あの本を読み終わってから、前より楽しそうに話すよね。今度、私も読んでみたいな」


「雫が興味あるなら、いつか貸すよ。今の喫茶店の小説を読み終わってからでもいいし、無理に急がなくていいからね」


 雫は頷き、俺たちは並んで歩き始めた。校門から離れるにつれて生徒の声が遠ざかり、代わりに車の走る音や、住宅街のどこかから聞こえる犬の鳴き声が耳に入る。道沿いの花壇には小さな花が咲いており、雫は通り過ぎるときに少しだけ視線を向けた。


「明日、十一時に駅の案内板の前だよね。私、帰ったら家でもう一度確認しておくね。春樹も、もし予定が変わったら遠慮しないで言って」


「うん。俺もそうする。あとは天気が大きく変わらなければ大丈夫そうだね。歩きやすい靴で行こうかなって考えてる」


「私もそうする。前に家族と行ったとき、思ったより道が長かったから。途中で疲れたら、ちゃんと休もうね」


 雫は笑って言ったが、その目には少しだけ真剣な色もあった。俺は、彼女が自分だけでなく俺のことも気に掛けてくれているのだと分かった。だから、俺も同じように答えた。


「もちろん。どっちかが疲れたら遠慮せず言おう。せっかくの休みなんだから、無理して歩き回る必要はないし」


「……うん。そういう約束、いいね」


 雫はそう言って、少し歩幅を緩めた。俺も自然と速度を合わせる。歩く速さを変えたことに、特別な意味があるとは思わない。ただ、こうして隣にいる相手に合わせるのは、思っていたより気持ちのいいことだった。


 しばらく歩くと、昨日まで眺めていた小さな花のある場所に着いた。花は今日も咲いていたが、風で揺れるたびに葉の裏側が見え、昨日とは少し違う姿を見せている。雫はしゃがみ込まず、歩道の端から静かに眺めた。


「春樹、明日の公園にも、こういう小さな花があるかな」


「ありそうだね。大きな公園なら、見たことのない植物もあるかもしれない。でも、名前が分からなくても楽しめるって、最近分かってきた気がする」


 俺がそう答えると、雫は目を細めた。彼女が何かを言いかけたように唇を開いたので、俺は待った。しかし雫はすぐには続けず、花から俺へ視線を戻して、ゆっくり笑った。


「……春樹と一緒に見つけたものが増えるの、嬉しいな」


 俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。昨日読んだ小説の主人公なら、こういうときにもっと上手な言葉を返せるのだろうか。けれど俺には、今の気持ちを飾らずに伝える方が自然な気がした。


「俺も嬉しいよ。雫と歩いてると、前は気づかなかったものが見えるから。明日も、何か見つけられるといいな」


 雫は一瞬だけ息を止めたように見えたが、すぐに頷いた。頬が少し赤くなっているようにも見えたのは、夕方の光のせいかもしれない。俺たちは花を傷つけないようその場を離れ、いつもの道をゆっくり歩き出した。


     ◇◇◇


 家へ帰ったあと、俺は鞄から短編集を取り出して机に置いた。明日の持ち物を考えると、本を一冊持っていくかどうかで少し迷う。移動中に読むつもりはないし、雫と話しながら歩くなら、鞄を軽くしておいた方がいいだろう。それでも、本を持たずに出かける休日というのは、何となく落ち着かない。


(いや、公園で読書をする約束じゃないんだから、無理に持っていかなくてもいいか)


 俺は短編集を机の端へ戻し、代わりに小さな折り畳み傘を確認した。天気予報では雨の可能性は低そうだが、急に変わることもある。荷物が重くならない程度に準備しておけば安心だ。財布とスマートフォン、ハンカチも忘れないように、普段使っている鞄の中を整理した。


 準備を終えると、スマートフォンに雫からメッセージが届いた。家でも明日の予定を確認できたらしく、十一時に駅の案内板の前で会うことで問題ないという。俺はすぐに返事を打った。


『こっちも大丈夫。明日、十一時に駅の案内板の前で。天気が変わったら朝に連絡しよう。無理せず、ゆっくり楽しもうね』


 しばらくして届いた返事には、明日が楽しみだという言葉と、小さな笑顔の絵文字が添えられていた。俺はそれを見て、思わず頬が緩む。予定が決まっただけなのに、急に明日が近づいたような気がした。


 机へ戻り、読書ノートを開く。今日読み終えた短編について、途中まで書いていた感想の続きをまとめることにした。鉢植えの位置が変わる理由を知った主人公が、その店先を以前より好きになるという結末。俺は、謎の答えそのものより、答えを知ったあとに景色の見え方が変わるところを面白いと思った。


『何でもない変化にも、誰かの小さな行動が重なっていることがある。理由を知ることで、いつもの場所が前より親しみのある景色に変わるところがよかった。』


 そう書き終えてから、俺は少し考えた。明日の公園も、雫にとっては以前から知っている場所だ。俺は初めて訪れるけれど、雫が覚えている景色を教えてくれたら、その場所は最初から少し違って見えるのかもしれない。


 そんなことを考えながらノートを閉じると、机の端に置いてある紺色の三日月の栞が目に入った。以前、雫と一緒に選んだものだ。雫は葉の形をした栞を選び、俺はこの三日月の栞を選んだ。あの日も、本屋へ行っただけのはずなのに、帰ってから何度も栞を眺めていたことを覚えている。


(明日も、そんなふうに覚えてる一日になるのかな)


 答えはまだ分からない。公園の景色が思っていたものと違うかもしれないし、予定どおりに歩けないこともあるだろう。それでも、雫と相談して決めた時間を楽しみにしている自分がいる。


 俺はスマートフォンのアラームをいつもの休日より少し早めに設定し、短編集を開いた。次の話の冒頭には、雨の日だけ窓辺に置かれる小さな紙袋が登場する。続きが気になったが、明日に備えて夜更かしはしない方がいいと思い、区切りのよいところで本を閉じた。


     ◇◇◇


 同じころ、雫は自室の机に、明日使う予定の小さな鞄を置いていた。中には財布とハンカチ、それから必要なものを入れられる程度の余裕がある。何かをたくさん買うつもりはないけれど、公園で見つけたものを覚えておけるよう、薄いメモ帳を入れるかどうか迷っていた。


 机の端には、春樹から借りた小さな町の喫茶店の小説が置かれている。今日も少しだけ読み進めたが、まだ結末にはたどり着いていない。登場人物たちが互いの何気ない言葉を覚えている場面を読むたびに、雫は春樹との会話を思い出してしまった。


(春樹、私が好きだった池の道を、一緒に探してくれるって言ってくれた)


 その言葉が、何より嬉しかった。公園にはほかにも見どころがあるだろうし、春樹なら初めて見るものをいくつも見つけるはずだ。それでも、自分の思い出に興味を持ってくれたことが、雫には特別に感じられた。


 雫はメモ帳を鞄へ入れ、窓辺に立った。夜の住宅街には家々の明かりが点在し、遠くで車の走る音がする。明日は晴れるだろうか。春樹と並んで歩く道には、どんな花が咲いているだろうか。考えるだけで胸が弾む一方、少しだけ緊張もしていた。


 昔、丘の上で交わした約束については、まだ話せない。春樹は待ってくれると言ってくれたし、雫もいつか自分の言葉で伝えたいと思っている。だからといって、明日の公園でその話をしなければならないわけではなかった。約束を明かすための外出にしてしまえば、春樹と過ごす時間を楽しみにしている気持ちまで、どこか窮屈になってしまいそうだった。


(明日は、ちゃんと明日の時間を楽しもう。春樹と一緒に見たいものを、ひとつずつ見つけられたらいいな)


 雫はそう考え、机へ戻った。スマートフォンには春樹からの最後のメッセージが残っている。無理せず、ゆっくり楽しもうという言葉を読み返すと、緊張が少し和らいだ。


 彼女は小説を開き、栞を挟んでいたページから続きを読み始めた。窓の外の風がカーテンをわずかに揺らし、静かな部屋には紙をめくる音だけが残った。


     ◇◇◇


 眠る前、俺はもう一度だけ明日の天気予報を確かめた。大きな変化はなく、午前から午後にかけては晴れ間が見込まれている。もちろん朝になれば確認し直すつもりだが、今のところ予定を変える理由はなさそうだった。


 スマートフォンを伏せると、部屋が静かになった。机には読みかけの短編集があり、棚にはまだ読んでいない本も並んでいる。いつもの週末なら、どれから読もうか考えるだけで時間が過ぎていくところだ。


 けれど今夜、俺が一番楽しみにしているのは、本の続きを開く時間ではなかった。


 明日、駅の案内板の前で雫と会うこと。彼女が好きだった池の近くの道を探すこと。知らない景色を見つけたら、二人で立ち止まって眺めること。そうした予定を思い浮かべると、胸の奥が静かに弾んだ。


(本を読むのも好きだけど、雫と出かけるのも、こんなに楽しみなんだな)


 その気持ちに名前を付けようとは思わなかった。今はただ、明日を楽しみにしている自分を、そのまま受け止めていたかった。


 俺は部屋の明かりを消し、布団へ入った。窓の向こうには、雲の切れ間から淡い月の光が落ちている。明日、雫と一緒に歩く公園にも、こんな穏やかな光が差しているといい。


 そう願いながら目を閉じると、眠りにつく直前まで、駅の案内板の前で笑う雫の姿が頭に浮かんでいた。

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