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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第89話 俺は静かに本を読みたいだけなのに、どうして幼馴染との約束が気になってしまうんだ?


木曜日の朝、目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました俺は、枕元に置いていたスマートフォンへ手を伸ばした。


昨夜、雫と交わしたメッセージが画面に残っている。大学で再会した幼馴染同士を描いた恋愛小説を読み終えたことを報告すると、雫は自分のことのように喜んでくれた。結末については詳しく話していないけれど、俺がどんなところを面白いと思ったのか、最後まで丁寧に聞いてくれたのが嬉しかった。


机の上には、昨夜書いた読書ノートが開いたまま置かれていた。


昔から知っている相手でも、今の相手を全部知っているわけではない。


そんな感想を書いたことを思い出しながら、俺は布団から起き上がった。


(……読み終わったのに、まだあの物語のことを考えてるな)


普段なら、一冊読み終えた翌日には次の本を開いていることも珍しくない。もちろん、今回も読みたい本はあるし、以前買った日常の小さな謎を扱う短編集は、まだ手をつけられていないままだ。


けれど、今朝は新しい物語へ飛び込む前に、昨日読んだ結末をもう少し考えていたかった。


主人公が幼馴染へ気持ちを伝えたことだけではない。


その言葉を受け取った相手にも、主人公の知らなかった時間や思い出があったことが、妙に心に残っている。


同じ時間を過ごしていても、覚えていることは必ずしも同じではない。


俺と雫にも、きっとそういうことがあるのだろう。


実際、昔の丘の上で交わした約束について、雫は今も大切に覚えているようだった。俺はその内容をはっきりと思い出せていないし、雫がどんな気持ちであの約束を守ってきたのかも知らない。


ただ、今は無理に聞き出そうとは思わなかった。


雫はいつか自分から話したいと言ってくれたし、俺もそのときまで待つと答えている。


(……俺が覚えていないことを、雫はどんなふうに覚えてるんだろう)


気にならないわけではない。


けれど、その答えを知ることだけが大切なのではない気もした。


雫が話したいと思えるときに、ちゃんと話を聞ける自分でいたい。


そう考えながら、俺は読書ノートを閉じた。


今日は木曜日だ。


学校へ行けば、また雫に会える。


その当たり前のことを思い浮かべたところで、なぜか少しだけ気分が明るくなった。


◇◇◇


朝食を済ませて家を出ると、昨日よりも空が明るかった。


薄い雲は残っているものの、その隙間から日差しが落ちている。住宅街を抜ける風には少し涼しさがあり、道沿いの植え込みでは小さな葉が揺れていた。


いつもの角へ近づくと、雫が鞄を両手で持ちながら立っていた。


俺に気づいた雫は、ぱっと表情を明るくする。


「おはよう、春樹。今日は昨日よりいい天気になりそうだね。朝、窓を開けたら空が明るくて、ちょっと嬉しくなっちゃった」


「おはよう、雫。確かに今日は雨の心配もなさそうだな。昨日は風が強かったけど、今日は歩きやすそうだし」


「うん。……それと、昨日は本を読み終えたって教えてくれてありがとう。春樹がすごく楽しそうだったから、私まで嬉しくなっちゃった」


雫はそう言って、少し照れくさそうに笑った。


俺は昨日のやり取りを思い出しながら頷く。


「こちらこそ、感想を聞いてくれてありがとう。読み終わったあと、誰かに話したくなる本ってあるんだなって改めて思ったよ」


「ふふ。春樹はいつも本の感想を話してくれるけど、昨日は特に楽しそうだったよ」


「そうかな。自分ではあんまり意識してなかったけど、結構長く読んでた本だったから、最後まで読めたのが嬉しかったのかもしれない」


俺たちは並んで歩き始めた。


通学路には、同じ制服の生徒たちが少しずつ増えている。前を歩く男子生徒二人が週末の予定について話しており、反対側の歩道では自転車に乗った学生がゆっくりと通り過ぎていった。


雫はしばらく歩いてから、少し考えるように口を開いた。


「ねえ、春樹。その本の主人公って、最後にはちゃんと自分の気持ちを伝えられたの?」


俺は思わず雫を見た。


「……そこは、結構大事なところなんだけど。雫、結末を聞いても大丈夫?」


「あっ、そうだよね。ごめんね、つい気になっちゃって」


雫は慌てたように首を振った。


その様子がおかしくて、俺は小さく笑う。


「謝らなくていいよ。雫がいつか読むかもしれないから、詳しいところは取っておこうかなって思っただけ。結末を知らなくても話せることはいっぱいあるし」


「……うん。じゃあ、春樹が一番印象に残ったところを聞いてもいい?」


俺は少し考えた。


告白の場面も印象に残っている。


けれど、それ以上に心に残ったのは、主人公と幼馴染が互いの知らなかった気持ちを知っていく過程だった。


「相手のことを知ってるつもりでも、まだ知らないことがあるって気づくところかな。昔から一緒にいたからこそ、分かってると思い込んでたこともあってさ。でも、ちゃんと話してみると、相手が大切にしてた思い出が自分とは違ったりするんだ」


雫は黙って聞いていた。


俺が続けると、彼女はゆっくり頷いた。


「……そうなんだ。なんだか、ちょっと分かる気がする」


「雫もそう思う?」


「うん。昔から知ってる相手でも、今は知らないことが増えてるかもしれないし。逆に、ずっと覚えてることもあると思うから」


雫はそう言いながら、少しだけ視線を落とした。


俺はその横顔を見つめた。


雫が何を思い浮かべているのかは分からない。


けれど、昔のことを考えているのかもしれないとは思った。


「……そうだね。俺も、雫の知らないところがまだいっぱいあると思うし」


そう答えると、雫は顔を上げた。


「春樹も、そう思うの?」


「うん。昔から一緒にいたけど、最近になって知ったこともあるだろ? 雫がどんな本を好きなのかとか、どんな景色を見てきれいだと思うのかとか。そういうの、もっと知れたら面白いなって思う」


雫はしばらく俺を見つめていた。


それから、頬をほんのり赤くして微笑んだ。


「……私も、春樹のことをもっと知りたいな」


その声は、いつもより少しだけ小さかった。


けれど、ちゃんと聞こえた。


「じゃあ、これからもいろいろ話そうよ。本のことでも、学校のことでも、何でも」


「……うん。そうだね」


雫は嬉しそうに頷いた。


俺たちはそのまま学校へ向かった。


校門が見えてくるころには、朝の空気も少し暖かくなっていた。


◇◇◇


二年三組の教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席で鞄を整理していた。


俺に気づいた悠斗は、いつもの調子で片手を上げる。


「おはよう、春樹。今日は朝からずいぶん機嫌よさそうだな」


「おはよう。そう見える?」


「見える見える。何かいいことでもあったのか?」


俺は少し考えてから答えた。


「昨日、読んでた本を読み終えたんだよ。結構長く読んでたから、最後まで読めて嬉しくてさ」


「なるほどな。お前らしい理由だな」


悠斗は笑いながら頷いた。


それから、俺の鞄へちらりと視線を向ける。


「で、今日は次の本を持ってきたのか?」


「一応ね。まだ読み始めてない短編集があるから、時間があったら読もうかなって思ってる」


「相変わらずだな。……でもさ、春樹」


悠斗は少しだけ声を落とした。


「昨日の本、雫にも感想話したんだろ?」


俺は頷いた。


「うん。読み終わったあとにメッセージで少しだけ。雫が感想を聞いてみたいって言ってくれてたから」


「へえ。わざわざ夜に連絡したんだ」


「わざわざっていうか、読み終わったから報告しただけだよ。雫も喜んでくれたし」


俺がそう答えると、悠斗は何とも言えない顔をした。


呆れているようにも、面白がっているようにも見える。


「……お前って、本当にそういうところだよな」


「どういうところ?」


「いや、別に。まあ、雫が喜んでたならよかったんじゃないか」


悠斗はそう言って、机の上に教科書を並べ始めた。


俺は少し首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


悠斗は時々、俺にはよく分からないことを言う。


けれど、本人が説明するつもりがないなら、無理に聞く必要もないだろう。


そこへ赤木紗弥が教室へ入ってきた。


「おはよう、高坂君、七瀬君。何の話してたの?」


赤木さんは明るく挨拶しながら、悠斗の机の近くへやってきた。


悠斗は少し姿勢を正した。


「おはよう、紗弥。春樹が昨日、本を読み終わったって話してたんだ」


「そうなんだ。七瀬君、どんな本だったの?」


「大学で再会した幼馴染同士の恋愛小説だよ。昔から知ってる相手のことを、もう一度知っていく話なんだ」


赤木さんは興味深そうに目を輝かせた。


「へえ、面白そう。昔から知ってる相手でも、久しぶりに会うと印象が変わることってありそうだよね」


「そうなんだよ。俺もそこが面白いと思ったんだ」


俺が答えると、赤木さんは楽しそうに笑った。


「そういう話、好きかもしれないな。今読んでる本が終わったら、探してみようかな」


悠斗はその言葉を聞き、少しだけ嬉しそうな顔をした。


「紗弥、前に貸した本は急がなくていいからな。読み終わったら、また感想聞かせてほしいけど」


「うん。私も話したいところがあるから、読み終わったらちゃんと伝えるね」


二人は自然に笑い合った。


俺はその様子を見ながら、昨日悠斗が感想をメモしていたことを思い出した。


悠斗も、赤木さんと本の話をするのが楽しみなのだろう。


それなら、俺が雫へ感想を伝えたくなったのと少し似ているのかもしれない。


(……やっぱり、好きな本の話をできる相手がいるのっていいな)


俺はそう思いながら、自分の席へ向かった。


◇◇◇


昼休みになると、俺は鞄から短編集を取り出した。


以前買った、日常の小さな謎を扱う作品だ。


表紙には、静かな住宅街と小さな喫茶店のような建物が描かれている。派手な事件が起きる話ではなく、普段の生活の中にあるちょっとした疑問を解いていく物語らしい。


俺は最初のページを開いた。


冒頭では、主人公がいつもの帰り道で見つけた小さな変化に気づく場面が描かれていた。


普段なら何も考えずに通り過ぎる場所でも、少し注意して見てみると、昨日とは違うものがある。


そんな始まり方だった。


俺は思わず昨日の帰り道を思い出した。


雫と一緒に見つけた、小さな花。


名前はまだ分からないけれど、昨日よりも葉の形をよく見ることができた。


あれも、普段なら見過ごしていたかもしれないものだ。


(……こういう話、結構好きかもしれない)


俺は続きを読み進めた。


物語の主人公は、近所の店先に置かれた小さな鉢植えの位置が、毎日少しずつ変わっていることに気づく。


最初は誰かが動かしているだけだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。


まだ謎の答えは分からない。


けれど、何でもない日常の中に小さな疑問があるというだけで、いつもの景色が少し違って見える。


俺はページをめくりながら、静かに物語へ入り込んでいった。


しばらくして、隣から声が掛かった。


「春樹、何読んでるの?」


顔を上げると、雫が俺の席の近くに立っていた。


手には飲み物を持っており、昼休みの教室を見回してからこちらへ来たらしい。


「この前買った短編集だよ。日常の小さな謎を扱う話なんだけど、今ちょうど最初の話を読んでたところ」


「へえ、面白そう。どんな謎なの?」


雫は興味深そうに尋ねてきた。


俺は本を閉じ、表紙を見せながら答える。


「まだ答えは分からないんだけど、近所のお店の前にある鉢植えの位置が、毎日少しずつ変わってるんだって。主人公がそれに気づいて、どうしてだろうって考え始めるんだ」


「鉢植えの位置が?」


「うん。誰かが動かしてるだけかもしれないけど、何か理由があるのかもしれない。そういう小さな疑問から話が始まるんだ」


雫は少し考えるように首を傾げた。


「……それって、ちょっと面白いね。私だったら、たぶん気づかずに通り過ぎちゃうかも」


「俺もそうだと思う。でも、昨日の花みたいに、一度気になると次からは自然に目が向くんだよね」


「……あ、確かに」


雫は嬉しそうに笑った。


「私も昨日、あの花のことを考えてたよ。名前が分かったら嬉しいけど、分からないままでも、また見に行きたいなって」


「俺もそう思ってた。今度通るとき、また少し観察してみようか」


「うん。楽しみ」


雫はそう答え、俺の机の上にある本へもう一度目を向けた。


「春樹って、本を読んでるとき、よく周りのことにも気づくようになるよね」


「そうかな?」


「うん。前は本の中のことを楽しそうに話してくれることが多かったけど、最近は本を読んで、実際の景色を見て、それをまた本の話につなげてる気がする」


俺は少し驚いた。


自分では、そこまで意識していなかったからだ。


「……そう言われると、確かにそうかもしれない。雫と一緒に歩いてると、いろんなものを見るようになった気がするし」


雫は一瞬だけ目を見開いた。


それから、ゆっくりと微笑んだ。


「……私と一緒に?」


「うん。雫がきれいだって言った花とか、面白そうだって言ったお店とか。俺一人だったら気づかなかったかもしれないものもあるから」


雫は少しだけ頬を赤くした。


けれど、すぐに嬉しそうな表情へ変わる。


「……そっか。私も、春樹と一緒にいると、本のことを前より考えるようになったよ」


「そうなの?」


「うん。前は何となく読んでた場面でも、春樹ならどう感じるかなって考えることがあるの。だから、読み終わったあとに話すのが楽しみになるんだ」


俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


雫も、俺と同じように本の感想を話す時間を楽しみにしてくれている。


そう思うと、何だか嬉しかった。


「じゃあ、雫が今読んでる喫茶店の小説も、読み終わったらいろいろ話そうよ。俺も、雫がどこを面白いと思ったのか聞きたいし」


「……うん。ちゃんと最後まで読んでから、いっぱい話したいな」


雫はそう言って、柔らかく笑った。


昼休みの教室には、ほかの生徒たちの話し声が広がっている。


窓際では数人が楽しそうに笑っており、廊下からは誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。


そんな何でもない時間の中で、俺は雫と本の話をしていた。


それが、いつの間にか当たり前のことになっている。


俺はその事実を、少し不思議に感じた。


◇◇◇


放課後、俺は図書室へ向かった。


今日は特別な用事があるわけではない。


ただ、昼休みに読み始めた短編集の続きを、静かな場所で少し読みたかった。


図書室へ入ると、窓際の席には数人の生徒が座っていた。


受付では白石栞先輩が本の整理をしており、俺に気づくと穏やかに微笑んでくれた。


「こんにちは、七瀬君。今日は読書?」


「こんにちは、白石先輩。はい。昨日まで読んでた本を読み終えたので、今日から新しい短編集を読み始めたんです」


「あら、そうなの。あの幼馴染の恋愛小説、最後まで読めたのね」


「はい。すごく面白かったです。読み終わったあと、しばらく感想を考えちゃいました」


先輩は嬉しそうに頷いた。


「それだけ心に残る作品だったのね。どんなところが印象的だった?」


俺は少し考えてから答えた。


「主人公が、昔から知ってる相手のことを、今になってもう一度知ろうとするところです。相手のことを分かってるつもりでも、まだ知らないことがあって、それを知ることで関係が少しずつ変わっていくのが面白かったです」


先輩は静かに聞いていた。


それから、少しだけ目を細める。


「……七瀬君らしい感想ね」


「そうですか?」


「ええ。結末そのものより、そこへたどり着くまでの気持ちの変化を大切にしているところが、七瀬君らしいと思ったの」


俺は少し照れくさくなった。


けれど、先輩の言葉は嬉しかった。


「ありがとうございます。自分でも、読み終わってからそこが一番心に残ったんだなって気づきました」


「それなら、紹介カードの下書きも、また違う見え方になるかもしれないわね」


「はい。昨日も少し考えたんですけど、読み終わった今なら、もう一度見直してみたいです」


先輩は頷いた。


「今日は無理に作業しなくてもいいわよ。せっかく新しい本を読み始めたんでしょう? まずは読書を楽しんで」


「ありがとうございます。じゃあ、少し読んでから帰ります」


俺は礼を伝え、窓際の空いている席へ向かった。


鞄を置き、短編集を開く。


昼休みに読んでいた鉢植えの謎は、まだ解決していない。


俺は続きを読みながら、主人公がどんなふうに答えへ近づいていくのかを楽しんだ。


物語の中では、主人公が近所の人へ話を聞き始めていた。


ただし、誰も特別なことをしているつもりはないらしい。


店の人は毎朝鉢植えを外へ出しているし、通りかかった人は時々その花を眺めている。


それぞれにとっては何でもない行動が、少しずつ重なっている。


俺はその描写を読みながら、昨日の帰り道を思い出した。


雫と一緒に花を見たこと。


名前を調べようと思ったこと。


そして、今日もまた見に行きたいと思っていること。


(……何でもないことでも、誰かと一緒だと覚えてるものなんだな)


俺はページをめくった。


物語の主人公も、少しずつそのことに気づき始めているようだった。


◇◇◇


図書室を出るころには、窓の外が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。


俺は鞄を肩へ掛け、廊下を歩きながら昇降口へ向かった。


途中、掲示板の前で九条凛が資料を確認しているのが見えた。


凛は俺に気づくと、少しだけ表情を和らげる。


「七瀬君。今日は図書室にいたの?」


「うん。新しい本を読み始めたから、少し読んでたんだ」


「そうなのね。……あ、そうだ。昨日相談した掲示のことなんだけど、まだ候補を整理しているところだから、正式に決まったらまた話すわ」


「分かった。急がなくていいと思うよ。ちゃんと確認してからの方が安心だし」


凛は真面目な表情で頷いた。


「ありがとう。私もそう思ってる。読書マナーの案内だからこそ、分かりやすくて、無理のない形にしたいの」


「うん。いいものになるといいね」


俺がそう答えると、凛は少しだけ微笑んだ。


「……七瀬君にそう言ってもらえると、頑張ろうって思えるわ」


その言葉に、俺は素直に頷いた。


凛は資料を揃え直し、軽く会釈してから廊下の向こうへ歩いていった。


俺はその背中を見送りながら、学校の中でも少しずついろいろなことが進んでいるのだと思った。


紹介カードも、読書マナーの案内も、まだ完成していない。


けれど、誰かが考え、相談し、少しずつ形にしようとしている。


それは、本を読むこととはまた違った楽しさがあるのかもしれない。


◇◇◇


昇降口へ向かうと、雫が靴を履き替えているところだった。


俺に気づいた雫は、ぱっと表情を明るくした。


「春樹、お疲れさま。今日は図書室で本を読んでたの?」


「うん。昼休みに読み始めた短編集の続きを少しね。雫は今から帰るところ?」


「そうだよ。ちょうどよかった。もし春樹がよかったら、一緒に帰らない?」


「もちろん。俺も今から帰るところだったし」


雫は嬉しそうに笑った。


俺たちは並んで昇降口を出た。


校門へ向かう道には、部活動へ向かう生徒たちの声が響いている。校庭では運動部の生徒が準備を始めており、遠くからボールの弾む音が聞こえてきた。


空は朝よりも少し曇っていたが、雨が降りそうな気配はない。


俺たちはいつもの通学路へ向かった。


「春樹、今日の短編集はどうだった?」


雫が楽しそうに尋ねてきた。


俺は少し考えながら答える。


「まだ最初の話の途中なんだけど、結構面白いよ。何でもないことをちゃんと見てみると、意外な理由があるかもしれないっていう話でさ」


「へえ。鉢植えの謎だよね?」


「うん。まだ答えは分からないけど、主人公が少しずつ周りの人に話を聞いてるところなんだ。大きな事件じゃないからこそ、誰かの普段の生活が見えてくる感じがする」


雫は興味深そうに頷いた。


「……なんだか、春樹が好きそうな話だね」


「そうかもしれない。派手な展開がなくても、読んでて楽しいんだよね」


俺たちは本の話をしながら歩いた。


しばらくすると、以前から気になっていた小さな花のある場所が見えてきた。


雫は自然と歩く速度を緩めた。


「あ、春樹。今日も咲いてるね」


「本当だ。昨日より少し花が開いてるように見えるな」


俺たちは歩道の端で立ち止まり、植え込みへ目を向けた。


小さな花は、今日も風に揺れている。


昨日より日差しが弱いせいか、花の色が少し落ち着いて見えた。


「……春樹、私ね」


雫が小さく声を掛けてきた。


俺が顔を向けると、彼女は花を見つめたまま続けた。


「この花、名前が分からないままでも、ちょっと好きになってきちゃった」


俺は思わず笑った。


「分かる気がする。俺も、もう何回も見てるから、何となく気になる存在になってきたよ」


「ふふ。春樹も?」


「うん。名前が分かったら嬉しいけど、分からなくても、また見に来たいなって思う」


雫は嬉しそうに頷いた。


それから、少しだけこちらへ顔を向ける。


「……ねえ、春樹。今度の公園も、こんなふうにゆっくり歩けたらいいね」


俺はその言葉に頷いた。


駅の向こうにある大きな公園。


雫が以前、家族と行ったことがあるという場所だ。


まだ日にちも時間も決まっていないけれど、二人で行ってみようと話している。


「そうだね。広い道があるって言ってたし、景色を見ながら歩くのも楽しそうだな」


「うん。ベンチもあるから、疲れたら座って休めると思う。……それに、春樹と本の話をしながら歩けたら、きっと楽しいと思うの」


雫は少し照れくさそうに笑った。


俺も自然と笑顔になる。


「俺も楽しみだよ。せっかくだから、急いで回るんじゃなくて、ゆっくり過ごしたいな」


「……うん。私もそう思う」


雫は嬉しそうに頷いた。


そのあと、少しだけ考えるように視線を落とす。


「でも、まだ日にちを決めてなかったよね。春樹、今週末って何か予定ある?」


俺は少し考えた。


今週末は、特別な用事が入っていた記憶はない。


ただ、家の予定も確認しておきたいし、天気も気になる。


「今のところ大きな予定はないと思うけど、家に帰って確認してみるよ。雫も予定あるだろうし、無理に今週末じゃなくてもいいからね」


「うん。私も家で確認してみる。天気がいい日だと嬉しいな」


「そうだね。雨だったら公園を歩くのは大変だし、別の日にした方がよさそうだ」


俺たちはそう話しながら、また歩き始めた。


雫は少しだけ嬉しそうにしている。


俺も、何となく気分が明るくなっていた。


まだ決まっていない約束なのに、こうして少しずつ考えるだけで楽しい。


そのことが、少し不思議だった。


◇◇◇


その夜、俺は夕食を済ませたあと、机の前でスマートフォンを眺めていた。


雫と話した公園のことが気になり、家の予定を確認してみたところ、今週末は今のところ特別な用事が入っていないことが分かった。


ただ、天気がどうなるかはまだ分からない。


それに、雫の予定も確認してから決める必要がある。


俺は少し考えてから、雫へメッセージを送った。


『雫、こんばんは。家の予定を確認したら、今週末は今のところ大丈夫そうだったよ。雫の方はどうだった?』


送信してから、俺はスマートフォンを机へ置いた。


返事を待つ間、昼休みに読み始めた短編集を開く。


鉢植えの謎は、まだ解決していない。


俺は続きを読みながら、主人公が少しずつ周りの人の話を聞いていく様子を楽しんだ。


けれど、数ページ進んだところでスマートフォンが震えた。


画面を見ると、雫から返事が届いている。


『こんばんは、春樹。私も家で確認してみたよ。今週末は今のところ大丈夫そう! でも、天気も気になるから、もう少し様子を見て決めようか』


俺はその言葉を読み、自然と笑顔になった。


『そうだね。天気がよさそうなら行こう。時間とか待ち合わせ場所も、また相談しようか』


『うん。楽しみにしてるね。春樹とゆっくり歩けるの、嬉しいな』


そのメッセージを見て、俺は少しだけ手を止めた。


雫は、俺と一緒に歩くことを楽しみにしてくれている。


それは朝も、帰り道も聞いていたはずなのに、改めて文字で見ると少し照れくさかった。


(……俺も、雫と出かけるのが楽しみなんだよな)


俺はそう思いながら返事を打った。


『俺も楽しみだよ。公園の景色も見たいし、雫が前に行ったときの話も聞いてみたいな』


少し間を置いて、雫から返事が届いた。


『ふふ。じゃあ、いろいろ話すね。私も、春樹がどんな景色を好きだと思うのか知りたいな』


俺はその言葉に笑った。


雫は本当に、俺のことをいろいろ知ろうとしてくれている。


俺も、雫がどんなものを好きなのか、もっと知りたいと思う。


そんな気持ちが、最近は少しずつ大きくなっている気がした。


けれど、それが何なのかを深く考える前に、俺はもう一度短編集へ目を向けた。


本の続きも気になる。


公園の約束も楽しみだ。


どちらも大切にしたいと思えることが、今は嬉しかった。


◇◇◇


同じころ、西条雫は自室の机に向かい、スマートフォンを両手で持っていた。


春樹から届いたメッセージを読み返すたびに、頬が少しだけ緩んでしまう。


今週末は、今のところ二人とも予定が合いそうだった。


もちろん、まだ日にちも時間も決まっていない。


天気によっては別の日になるかもしれないし、家の都合が変わる可能性もある。


それでも、春樹が自分との外出を楽しみにしてくれていることが、雫には何より嬉しかった。


(……春樹、ちゃんと予定を確認してくれたんだね)


雫はスマートフォンを机へ置き、窓の外へ目を向けた。


夜空には薄い雲が広がっている。


その向こうに月があるのかどうかは、今はよく分からなかった。


けれど、雫の胸の中には、柔らかな明るさが広がっていた。


春樹と一緒に公園へ行く。


それだけのことなのに、考えるだけで胸が弾む。


広い道を歩いて、ベンチに座って、本の話をする。


もし近くの喫茶店が今も営業していたら、少し休んでいくのもいいかもしれない。


ただし、その店が今もあるかどうかはまだ確認できていない。


雫は無理に予定を詰め込むつもりはなかった。


春樹がゆっくり過ごしたいと言ってくれたことが、何より嬉しかったからだ。


(……特別なことをしなくても、春樹と一緒なら楽しいと思う)


雫はそう考えながら、机の上に置いていた喫茶店の小説を手に取った。


まだ読み終わっていない。


けれど、最近はこの本を読む時間も大切になっていた。


春樹が貸してくれた本だからという理由もある。


それ以上に、物語の中で描かれている何でもない日常が、今の自分の気持ちと少し重なるように感じるのだ。


主人公は、喫茶店で誰かと話す時間を少しずつ楽しみにするようになっている。


最初はただ静かに過ごせる場所だったのに、今はそこへ行けば誰かに会えるかもしれないと思う。


雫はその描写を読みながら、春樹のことを思い浮かべた。


春樹にとって、図書室は昔から大切な場所だった。


けれど最近は、そこで誰かと本の話をすることも楽しみにしている。


白石先輩やほかの生徒たちと話すことも増えたし、自分と一緒に過ごす時間も楽しんでくれている。


その変化が嬉しい反面、少しだけ寂しく感じることもある。


春樹の世界が広がっていく。


それは、とても素敵なことだ。


けれど、その広がった世界の中で、自分がどんな存在でいられるのか、雫にはまだ分からなかった。


(……私も、春樹の隣にいたいな)


雫は小さく息を吐き、ページへ視線を戻した。


昔、丘の上で交わした約束。


そのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ苦しくなる。


けれど、今は急いで答えを出すつもりはなかった。


春樹は待ってくれると言ってくれた。


だからこそ、自分もちゃんと気持ちを整理してから話したい。


雫はそう思いながら、ゆっくりとページをめくった。


◇◇◇


夜が更ける少し前、俺は短編集を閉じた。


鉢植えの謎は、まだ最後まで読めていない。


けれど、主人公が少しずつ答えへ近づいていることは分かった。


何でもない日常の中にある小さな変化。


それを見つけることで、普段の景色が少し違って見える。


俺はその物語を読みながら、今日一日のことを思い返した。


朝、雫と本の感想を話したこと。


昼休み、短編集の謎について話したこと。


放課後、図書室で静かに本を読んだこと。


そして帰り道、小さな花を眺めながら、公園へ行く約束について相談したこと。


どれも、特別な事件ではない。


けれど、どれも俺にとっては楽しい時間だった。


俺は読書ノートを開き、今日の短編集について簡単に感想を書いた。


『普段なら見過ごしてしまう小さな変化にも、誰かの行動や気持ちが関わっていることがある。何でもない景色をもう少しよく見てみたくなる物語』


そこまで書いて、ペンを置いた。


まだ読み終わっていないので、感想は途中のものだ。


けれど、今の時点で感じたことを残しておくのも悪くない。


俺はノートを閉じ、スマートフォンへ目を向けた。


雫とのやり取りは、さっき終わったばかりだ。


それでも、もう少し話したいような気がした。


(……明日も学校で会えるんだけどな)


そう考えて、俺は小さく笑った。


昔から知っている幼馴染。


学校へ行けば会えるし、帰り道も一緒になることがある。


それなのに、最近は次に話すことを考える時間が増えている。


何を話そうか。


どんな本を紹介しようか。


今度の公園では、どんな景色を見られるだろうか。


そんなことを考えていると、自然と気持ちが明るくなる。


俺は机の明かりを落とし、窓の外を眺めた。


夜空には薄い雲が広がっている。


明日は晴れるだろうか。


週末も、いい天気になるといい。


そう思いながら、俺は静かに目を閉じた。


俺は本が読みたいだけだ。


それは、今も変わらない。


けれど最近は、本を読む時間と同じくらい、誰かと過ごす時間を楽しみにしている。


その誰かの顔を思い浮かべると、なぜかいつも雫が最初に出てくるのだった。


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