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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第88話 俺は本の結末が知りたいだけなのに、どうして幼馴染に最初に感想を話したくなるんだ?



 水曜日の朝、俺は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


 カーテンの向こうから差し込む光はまだ柔らかく、部屋の中には夜の涼しさが少しだけ残っている。机の上には昨夜読んでいた文庫本と読書ノートが並んでおり、枕元に置いたスマートフォンには、雫と交わした最後のメッセージが残っていた。


 昨日は結局、大学で再会した幼馴染同士を描いた恋愛小説を読み終えられなかった。


 残っているページはそれほど多くない。主人公が自分の気持ちを認め、幼馴染との関係をどうするべきか考え始めたところまで進んでいるので、あと少し読めば結末にたどり着けるはずだ。


 それなのに、昨夜は途中で本を閉じてしまった。


 眠くなったからという理由もあるが、それだけではない。主人公が自分の気持ちを伝えるべきか迷う場面を読んでいるうちに、何となく続きを急ぎたくなくなったのだ。


(……いつもなら結末が気になって、一気に読んじゃうところなんだけどな)


 俺は布団から起き上がり、机の前へ移動した。


 文庫本を手に取ると、紺色の三日月が描かれた栞がページの間から少しだけ顔を出している。雫と一緒に買った栞だと思い出したところで、昨日の帰り道に見た小さな花のことまで頭に浮かんだ。


 図鑑では結局、名前を特定できなかった。


 似た花がいくつもあったし、俺が覚えていた特徴も十分ではなかったからだ。雫とは今度もう一度よく見てみようと話しているので、次にあの道を通るときは、葉の形や花の付き方にも注意してみようと思う。


 そこまで考えて、俺は小さく笑った。


(本を読む前から、雫と話すことばっかり考えてるな)


 別に嫌なわけではない。


 むしろ、昨日の帰り道のことを思い出すと、自然と気持ちが明るくなる。


 ただ、朝から考えごとをしていると準備が遅れてしまう。俺は文庫本を鞄へしまい、制服に着替えるために立ち上がった。


 朝食を済ませて家を出ると、住宅街には少し湿った風が吹いていた。


 昨夜のうちに雨が降ったわけではなさそうだが、空には薄い雲が広がっている。道沿いの植え込みには朝露が残り、通り過ぎる車の音に混じって、どこかの家から食器を片づけるような音が聞こえてきた。


 いつもの角へ近づくと、雫が立っているのが見えた。


 今日は鞄を片手に持ち、もう片方の手で髪を整えている。こちらに気づいた雫は、すぐに表情を明るくして小さく手を振ってくれた。


「おはよう、春樹。今日は少し涼しいね。朝、窓を開けたら思ったより風が冷たくてびっくりしちゃった」


「おはよう、雫。確かに昨日より涼しいかも。歩いてるとちょうどいいくらいだけど、教室で窓を開けっぱなしにしてたら寒く感じそうだな」


「うん。そういえば春樹、昨日は本の続きを読めた? この前、もうすぐ読み終わりそうだって言ってたよね」


 雫は俺の鞄へちらりと視線を向けてから、楽しそうに尋ねてきた。


 俺は少し苦笑しながら答える。


「それが、まだ読み終わってないんだ。結末が近いのは分かるんだけど、主人公がいろいろ考えてるところだから、何となく急いで読みたくなくてさ」


「そうなんだ。春樹が読み終わるのを急がないなんて、ちょっと珍しい気がする」


「自分でもそう思うよ。でも、ここまで読んできた二人の関係がどうなるのか、ちゃんと考えながら読みたいんだよね」


 俺がそう言うと、雫は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、少し考えるように視線を落とす。


「……そっか。大切な場面だから、ゆっくり読みたいんだね」


「うん。主人公が昔から知ってる相手のことを、今になってもう一度知ろうとしてる話なんだ。だから、結末だけ分かればいいって感じじゃなくて、そこまでの気持ちもちゃんと読みたいなって」


 雫は静かに頷いた。


 その表情はいつもより少し真剣で、俺の言葉を一つずつ確かめているように見えた。


「春樹が読み終わったら、感想を聞いてみたいな。もちろん、私がまだ読んでない本だから、結末は言わなくてもいいんだけど」


「それなら、ネタバレにならない範囲で話すよ。雫なら、きっと面白いところに気づいてくれそうだし」


「……うん。楽しみにしてる」


 雫はそう答え、少しだけ頬を緩めた。


 俺たちは並んで歩き始めた。


 通学路には同じ制服の生徒たちが増えており、前を歩く二人組が何か楽しそうに話している。俺たちはその後ろを少し距離を空けて歩きながら、昨日読んだ本の話を続けた。


「雫の方は、喫茶店の小説どう? 昨日も少し読んだって言ってたよね」


「うん。まだ最後までは読んでないんだけど、主人公が少しずつお店の人たちと打ち解けていくところが好きなの。最初は一人で静かに過ごす場所だったのに、今は誰かに会えるのが楽しみになってるみたいで」


「そうそう。あの変化、いいよね。大きな出来事があったわけじゃなくても、何度も顔を合わせて話してるうちに、少しずつ居心地のいい場所になっていくんだ」


「私、そういう場所って素敵だと思う。何か特別なことをしなくても、そこへ行くと落ち着くとか、誰かと話したくなるとか。……春樹にとっては、図書室がそういう場所なのかな?」


 突然そう尋ねられて、俺は少し考えた。


 図書室は昔から好きな場所だ。


 静かに本を読めるし、知らない作品に出会える。白石先輩と本の話をすることもあるし、最近は雫やほかの生徒と話す機会も増えた。


 けれど、図書室へ行く理由が以前とまったく同じかと聞かれたら、少し違う気もする。


「そうかもしれないな。前は静かに本を読めることが一番だったけど、最近は誰かと感想を話すのも楽しいから。雫に借りた本の話をしたり、白石先輩におすすめを聞いたりするのも、図書室へ行く楽しみの一つになってると思う」


「……そっか」


 雫は小さく頷いたあと、少しだけ笑った。


「春樹の好きな場所が、もっと楽しい場所になってるなら嬉しいな」


 その言葉に、俺も自然と笑顔になった。


「ありがとう。雫と話せるようになったのも、その理由の一つだと思うよ」


 雫は歩く速度をほんの少し緩めた。


 俺が顔を向けると、彼女は前を見つめたまま、鞄の持ち手を握り直している。


「……そう言ってもらえると、私も嬉しい」


 声は小さかったが、確かに聞こえた。


 俺たちはそのまま学校へ向かって歩き続けた。


 校門が見えてくるころには、雲の間から少しだけ日差しが差し込み、朝の涼しい空気も柔らかくなっていた。


     ◇◇◇


 二年三組の教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席で何やら紙を眺めていた。


 机の上には教科書と筆箱が置かれているが、悠斗の視線はその紙に向けられたままだ。俺が近づいて声を掛けると、悠斗は少し驚いたように顔を上げた。


「おはよう、春樹。ちょうどよかった。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」


「おはよう。どうしたの? 朝からずいぶん真剣な顔してるけど」


「いや、別に大したことじゃないんだ。今度、紗弥と本の話をすることになってるんだけど、俺が貸した本の感想を聞く前に、自分の感想を整理しとこうと思ってさ」


 悠斗はそう言いながら、手元の紙を軽く持ち上げた。


 そこには箇条書きでいくつかの言葉が並んでいる。どうやら、以前赤木さんへ貸した本について、印象に残った場面をまとめているらしい。


「へえ、悠斗も感想をメモするようになったんだ」


「お前みたいに本格的な読書ノートじゃないけどな。映画のときもそうだったけど、紗弥と話してると、自分が何を面白いと思ったのか説明するのが意外と難しくてさ」


 悠斗は少し照れくさそうに笑った。


「だから、忘れないうちに書いとこうかなって。別に全部話すつもりじゃないんだけど、感想を聞かれたときに何も出てこなかったらもったいないだろ」


「いいと思うよ。俺もノートに書いてから、自分がどこを面白いと思ったのか整理しやすくなったし。書いてる途中で、最初は気づかなかったことが見えてくることもあるから」


「やっぱりそうなんだな。……それで、一つ聞きたいんだけどさ」


 悠斗は紙を机へ置き、少しだけ声を落とした。


「本の感想って、相手と違ってても気にしなくていいよな?」


 俺はその質問に少し驚いた。


 悠斗が感想の違いを気にするなんて、珍しい気がしたからだ。


「もちろん。むしろ違う方が面白いこともあるよ。同じ場面を読んでても、気になるところが違うのは普通だし」


「そうだよな。いや、紗弥が前に映画の感想を話してくれたとき、俺とは違うところを大事にしててさ。それが面白かったんだけど、本でも同じように話せるかなって思ったんだ」


「話せると思うよ。悠斗が面白いと思ったところをちゃんと話せば、赤木さんも嬉しいんじゃないかな」


 俺がそう答えると、悠斗は少し安心したように息を吐いた。


「そっか。じゃあ、変に合わせようとしないで、自分の感想を話してみるか」


「うん。その方が自然だと思う」


 そこで悠斗は、何かを思いついたように俺を見た。


「そういえば春樹、お前も雫と本の感想を話すとき、違う意見になることあるだろ?」


「あるよ。雫が好きだって言った場面を、俺はそこまで気にしてなかったこともあるし、その逆もある。でも、そういうときに理由を聞くと面白いんだよね」


「なるほどな。……お前、そういう話してるとき、ほんと楽しそうだよな」


 悠斗は笑いながら言った。


 俺は少し首を傾げる。


「そうかな。まあ、本の話は好きだからね」


「本の話だけじゃないと思うけどな」


 悠斗は意味ありげに笑ったが、それ以上は何も言わなかった。


 俺が続きを尋ねようとしたところで、教室の入り口から赤木さんが入ってきた。


「おはよう、高坂君、七瀬君。二人で何の話してたの?」


 赤木さんは明るい声で挨拶しながら、悠斗の机へ近づいてきた。


 悠斗は一瞬だけ紙を隠そうとしたが、途中で思い直したらしく、そのまま机の上へ置いておいた。


「おはよう、紗弥。ちょっと本の感想を整理してたんだ。前に貸した本のこと、また話せたらいいなと思ってさ」


「えっ、そうなんだ。私も少しずつ読んでるよ。まだ返せるところまでは読めてないんだけど、気になる場面があったから、読み終わったら話したいなって思ってた」


 赤木さんは嬉しそうに笑った。


 悠斗もその表情を見て、少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「それならよかった。急がなくていいから、読み終わったら教えてくれよ。俺ももう一回読み返してみようかなって思ってるし」


「うん。高坂君がどこを好きだったのか、聞くの楽しみにしてるね」


 二人の会話を聞きながら、俺は何となく微笑ましい気持ちになった。


 悠斗はさっきまで、感想が違っていても大丈夫かと心配していた。


 けれど、赤木さんの方も悠斗の感想を楽しみにしているらしい。


(……やっぱり、誰かと本の話をするのっていいな)


 俺はそう思いながら、自分の席へ向かった。


 今日こそ、あの恋愛小説を読み終えたい。


 そして、読み終わったら感想をノートにまとめよう。


 そう考えたところで、今朝の雫の言葉を思い出した。


『春樹が読み終わったら、感想を聞いてみたいな』


 俺は鞄の中にある文庫本を思い浮かべ、少しだけ笑った。


 感想を話す相手がいるというのは、思っていた以上に楽しみなことらしい。


     ◇◇◇


 昼休み、俺は図書室へ向かった。


 今日は本を探すだけでなく、以前から進めている紹介カードの下書きについて、白石先輩に少し相談したいと思っていた。


 図書室へ入ると、窓際の席には数人の生徒が座っており、受付では白石先輩が返却された本を確認していた。俺はほかの利用者の邪魔にならないように受付の端で待ち、先輩の手が空いたところで声を掛けた。


「こんにちは、白石先輩。今日は少し、紹介カードのことで相談してもいいですか?」


「こんにちは、七瀬君。もちろんいいわよ。ちょうど昨日、下書きの文字の配置をもう一度見直していたところなの」


 先輩はそう言って、受付の内側に置かれたファイルを取り出した。


 中には、以前から相談している二種類の紹介カードの下書きが入っている。


 一つは、大学で再会した幼馴染同士の恋愛小説を紹介するもの。


 もう一つは、小さな店とそこへ集まる人々の日常を描いた短編集を紹介するものだ。


 どちらも文章そのものはある程度まとまっているが、まだ正式な掲示物にはなっていない。


「この前、見出しと本文の間隔を少し調整したでしょう? あれで読みやすくなったと思うんだけど、実際に掲示するときの大きさで見ると、また印象が変わるかもしれないのよね」


 先輩は机の上に二枚の下書きを並べた。


 恋愛小説の紹介カードには、見出しとして『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』と書かれている。


 その下には、大学で再会した幼馴染の二人が、懐かしい思い出の先で今の相手を知っていく物語だという説明が添えられていた。


 俺はその文章を眺めながら、今読んでいる小説のことを思い出した。


「……この見出し、前より好きになった気がします」


 思わずそう言うと、先輩は少し驚いたように顔を上げた。


「そうなの? 何か印象が変わった?」


「はい。最初は、昔から知ってる相手の気持ちを知らないっていうところが面白いと思ってたんです。でも、読み進めるうちに、相手のことを知ってるつもりでも、今の気持ちはちゃんと聞かないと分からないんだなって思うようになって」


 俺は下書きの見出しへ視線を戻した。


「だから、この質問って、読んだ人によって受け取り方が違うのかもしれないなって思いました。昔から知ってる相手がいる人と、そうじゃない人でも、感じ方が違いそうですし」


 先輩はしばらく黙って文章を眺めていた。


 それから、ゆっくり頷く。


「……そうね。見出しって、内容を説明するだけじゃなくて、読む人が自分のこととして考えるきっかけにもなるのかもしれないわ」


「はい。俺も最初に考えたときより、今の方が少し意味を感じるようになった気がします」


「七瀬君が実際に読み進めているからこそ、気づいたことなのかもしれないわね」


 先輩は穏やかに微笑んだ。


 そのあと、もう一枚の日常系短編集のカードへ目を向ける。


「こっちの『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』という見出しも、私は好きなの。大きな出来事がなくても、読んだあとに普段の景色が少し違って見えるような本ってあるでしょう?」


「ありますね。昨日も道端の花が気になって図鑑を探したんですけど、そういう小さいことに目が向くようになるのも、本を読んでる影響があるのかもしれません」


「花を調べていたのは、そういう理由だったのね」


 先輩は昨日のことを思い出したらしく、少し楽しそうに笑った。


「名前は分かった?」


「まだなんです。似た花が多くて、葉の形とかをちゃんと見ないと区別できそうになくて。だから、もう一度見てから調べようと思ってます」


「それもいいと思うわ。調べてすぐに答えが分からなくても、次に何を見ればいいか分かるだけで、前より詳しく見られるようになるものね」


 先輩はそう言いながら、二枚の下書きをもう一度並べ直した。


 窓から差し込む光が机の上を照らし、紙の端に薄い影が落ちている。


「紹介カードも、少し似ているのかもしれないわね。一度書いて終わりじゃなくて、読み返して、違うところに気づいて、また少し直していく。そうしているうちに、自分が何を伝えたいのかもはっきりしてくるのかもしれない」


「確かにそうですね。最初は本の内容を分かりやすく紹介することばかり考えてましたけど、今は読んだ人がどんなところに興味を持つかも考えるようになりました」


 俺がそう答えると、先輩は嬉しそうに頷いた。


「七瀬君と一緒に考えていると、私も新しいことに気づけるわ。だから、こうして相談する時間が好きなの」


 先輩は自然な調子でそう言った。


 俺はその言葉が嬉しくて、素直に礼を伝えた。


「ありがとうございます。俺も先輩と相談するの、楽しいです。自分だけじゃ思いつかないことを教えてもらえるので」


 先輩は一瞬だけ目を伏せた。


 けれど、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。


「……それならよかった。これからも、無理のない範囲で一緒に考えていきましょう」


「はい。お願いします」


 俺たちはそのあと、文字の大きさや余白について少し確認した。


 ただし、正式な掲示にはまだ確認が必要だ。


 紹介カードをどこへ置くか、どの本を実際に紹介できるか、ほかの図書室の予定と重ならないかといったことも考えなければならない。


 俺は下書きを見ながら、急いで完成させる必要はないと思った。


 せっかく作るなら、読んだ人が本を手に取りたくなるものにしたい。


 そのためには、もう少し丁寧に考えてもいいはずだ。


「そういえば七瀬君、今読んでいる恋愛小説は、もう読み終わったの?」


 先輩が尋ねてきたので、俺は首を横に振った。


「まだです。でも、あと少しなので、今日中には読み終えたいと思ってます」


「そう。じゃあ、結末を知ったあとで、この紹介文をもう一度見てみるのもいいかもしれないわね。今までとは違う印象になるかもしれないから」


「確かに。読み終わってから、もう一度考えてみます」


 先輩は頷き、下書きをファイルへ戻した。


 俺は礼を伝えて受付を離れ、図書室の奥へ向かった。


 昼休みの残り時間は、それほど長くない。


 それでも、少しだけ本棚を眺めてから教室へ戻ろうと思った。


     ◇◇◇


 午後の授業が終わるころには、朝の薄い雲が少しずつ広がり、窓の外は柔らかな灰色に変わっていた。


 雨が降りそうなほど暗いわけではないが、朝よりも風が強くなっている。校庭の木々が揺れるたびに、教室の窓から小さな葉擦れの音が聞こえてきた。


 俺は最後の授業のノートを閉じ、鞄へしまった。


 今日は帰宅したら、まず本の続きを読もう。


 そう決めていたのだが、教室を出ようとしたところで、九条凛が廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。


 凛は風紀委員の資料らしい紙を何枚か持っており、掲示板の前で立ち止まっている。俺に気づくと、少しだけ表情を和らげた。


「七瀬君。ちょうどよかった。少し時間ある?」


「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」


「前に話していた読書マナーの掲示について、少し確認したいことがあって。まだ正式に決まったわけじゃないんだけど、掲示する場所の候補を考えているところなの」


 凛はそう言って、手元の資料を見せてくれた。


 そこには、校内のいくつかの場所が簡単に書き出されている。


 廊下の掲示板、図書室の入口付近、階段近くの案内スペース。


 どこも生徒の目に入りやすそうだが、掲示できるかどうかはまだ分からないらしい。


「前に七瀬君が言ってくれた『本の続きは、安全な場所で』っていう言葉、私はいいと思ってるの。ただ、実際に掲示するなら、ほかの案内と重ならないようにしないといけないし、目立ちすぎても逆に読みにくいかもしれないから」


「なるほど。確かに、掲示板がいっぱいだったら、せっかく貼っても見てもらえないかもしれないね」


「そうなの。だから、今は候補を整理してるだけ。場所も文章も、まだ決定じゃないわ」


 凛はきちんとそう付け加えた。


 俺は頷き、資料へ目を落とす。


 以前から話している読書マナーの案内は、歩きながら本を読むことへの注意を呼び掛けるものだ。


 俺自身は歩きながら読書をしないが、本に夢中になる気持ちはよく分かる。


 だからこそ、ただ禁止するような言葉よりも、安全な場所で続きを楽しんでほしいという伝え方の方がいいと思っていた。


「俺は、図書室の入口に近いところなら、自然に目に入るかもしれないと思う。でも、図書室の案内もあるだろうし、そこは白石先輩たちにも確認しないと分からないね」


「うん。私もそう思ってた。掲示板の空き具合も確認しないといけないし、図書室の人たちの意見も聞いてから考えたいの」


 凛は真面目な表情で頷いた。


 それから、少しだけ視線を上げる。


「……七瀬君は、こういう案内を作るとき、どんなことが一番大事だと思う?」


 俺は少し考えた。


 普段、本の紹介文を考えるときは、読んだ人が興味を持てるかどうかを意識している。


 けれど、安全についての案内なら、また違うことも必要になるはずだ。


「読んだ人が、何をしてほしいのかすぐに分かることかな。長い説明だと立ち止まらないと読めないし、廊下なら特に、短くて分かりやすい方がいいと思う」


「……そうね。廊下で読ませる案内なのに、立ち止まらないと理解できないくらい長かったら本末転倒だものね」


 凛は少し笑った。


 俺もその言葉に笑いながら頷く。


「そういうこと。もちろん、内容が伝わるのが一番だけど、場所に合った長さも大事なんじゃないかな」


「ありがとう。参考になったわ」


 凛は資料へ目を落とし、何かを小さく書き加えた。


 その横顔はいつも通り真剣だったが、少しだけ楽しそうにも見えた。


「七瀬君と話していると、読書が好きな人の気持ちも考えられるから助かるの。注意する側の都合だけで決めたくないし」


「俺も、好きなことを安全に楽しめるようになるなら嬉しいよ。何か手伝えることがあったら、また言って」


 俺がそう答えると、凛は一瞬だけ顔を上げた。


 それから、少し照れたように視線を逸らす。


「……うん。そのときは、また相談させてね」


 凛は資料を揃え直し、軽く会釈してから廊下の向こうへ歩いていった。


 俺はその背中を見送りながら、今日の昼休みに白石先輩と話したことを思い出した。


 紹介カードも、読書マナーの案内も、まだ完成していない。


 けれど、少しずつ考えていくことで、最初よりも伝えたいことがはっきりしてきている。


(……本を読むのも好きだけど、こうして本に関係することを誰かと考えるのも、結構楽しいんだよな)


 そんなことを思いながら、俺は昇降口へ向かった。


     ◇◇◇


 その日の帰り道、雫とは校門の近くで合流した。


 空には雲が広がっていたが、雨は降っていない。風が少し強かったので、俺たちは人通りの多い道を避けることなく、いつもの通学路をゆっくり歩いた。


「春樹、今日は図書室に行った?」


「昼休みに行ってきたよ。白石先輩と紹介カードの下書きについて少し相談してたんだ。前に考えた文章をもう一度見直してみたら、読み終わったあとで印象が変わるかもしれないなって思って」


「そうなんだ。春樹が今読んでる恋愛小説の紹介カードだよね?」


「うん。まだ正式に掲示するものじゃないけど、文章を考えるのは面白いよ。読んでる途中と読み終わったあとでは、同じ見出しでも感じ方が違うかもしれないし」


 雫は少し考えるように頷いた。


「……それって、読んだ人がどこを大切に感じたかで変わるってことかな」


「そうだと思う。俺も最初は幼馴染同士が再会する話っていうところに興味があったけど、今は相手の変化を知ろうとするところが面白いと思ってるから」


 雫は俺の言葉を聞きながら、少しだけ視線を落とした。


 けれど、すぐに顔を上げて微笑む。


「春樹、その本を読む前より、感想が増えてるんだね」


「うん。読み進めるほど考えることが増えてる気がする。だから、結末もちゃんと読みたいんだ」


「……そっか。読み終わったら、どんな感想になるんだろうね」


 雫はそう言って、少しだけ楽しそうに笑った。


 俺も笑いながら頷く。


「それは俺も楽しみだよ。今日こそ読み終えられるといいんだけど」


「ふふ。春樹なら、きっとちゃんと読み終えられるよ。でも、無理して急がなくてもいいと思うな」


 その言葉に、俺は少し安心したような気持ちになった。


 雫はいつも、俺が本を読むことを大切にしてくれる。


 けれど最近は、本を読む以外の時間についても、一緒に考えてくれるようになった。


 それが嬉しかった。


 しばらく歩いたところで、昨日見た花のある場所が近づいてきた。


 俺たちは自然と歩く速度を緩め、植え込みへ目を向ける。


 小さな花は今日も咲いていた。


 風が少し強いせいか、昨日よりも大きく揺れている。


「……あ、春樹。昨日より葉っぱが見やすいかも」


 雫がそう言って、少し身をかがめた。


 俺も隣から眺めると、花の下に細長い葉がいくつか伸びているのが見えた。


 昨日は花の色ばかり見ていたが、こうして改めて見ると、葉の付き方にも特徴があるらしい。


「本当だ。昨日は気づかなかったな。これなら、図鑑でももう少し絞り込めるかもしれない」


「うん。……でも、春樹」


 雫が小さく声を掛けてきた。


 俺が顔を向けると、彼女は少しだけ困ったように笑っている。


「私、名前が分かるのも楽しみだけど、こうして春樹と一緒に見られるのも好きだな」


 その言葉に、俺は一瞬だけ返事を忘れた。


 雫は花へ視線を戻し、柔らかい声で続ける。


「最初に見つけたときは、ただきれいだなって思っただけだったの。でも、春樹が調べてくれて、また一緒に見に来てくれて……。そうしてるうちに、あの花を見るたびに今日のことも思い出すんだろうなって思ったの」


 俺は雫の横顔を眺めた。


 風に揺れる髪を耳へ掛ける仕草も、花を見つめる目も、いつもより少し大人びて見えた。


「……そっか。俺も、あの花を見ると雫のことを思い出すと思うよ」


 そう答えると、雫はゆっくりこちらを向いた。


 驚いたように目を見開き、それから少しだけ頬を赤くする。


「……春樹も?」


「うん。雫がきれいだって言ってたの、覚えてるから。たぶん、同じような花を見つけたら、また雫に教えたくなると思う」


 雫はしばらく黙っていた。


 やがて、嬉しそうに目を細める。


「……ありがとう。私も、春樹に教えたいものがあったら、ちゃんと伝えるね」


「うん。楽しみにしてる」


 俺たちは花をもう一度眺めてから、帰り道を歩き始めた。


 風は少し冷たかったが、不思議と寒くは感じなかった。


     ◇◇◇


 その夜、俺は夕食と入浴を済ませ、机の前へ座っていた。


 部屋の時計はまだ遅すぎない時間を示している。明日の授業の準備も終わっているので、今日は落ち着いて本を読めそうだった。


 俺は文庫本を開き、昨日の続きから読み始めた。


 物語の主人公は、幼馴染へ自分の気持ちを伝えるべきか迷っていた。


 大学で再会してから、二人は少しずつ一緒に過ごす時間を増やしてきた。


 昔の思い出を話し、今の生活について知り、以前とは違う相手の表情に気づくようになった。


 けれど、主人公は自分の気持ちを伝えることで、今の関係が壊れてしまうかもしれないと恐れていた。


 俺はその場面を読みながら、ゆっくりページをめくった。


 主人公が怖がっているのは、相手に嫌われることだけではない。


 今まで当たり前だった時間が、もう戻らなくなるかもしれないこと。


 それが一番怖いのだろう。


(……大切な相手だからこそ、簡単には言えないこともあるんだな)


 俺はそう考えながら、少しだけ本を持つ手に力を込めた。


 雫にも、まだ俺へ話していない大切なことがある。


 昔、丘の上で交わした約束のことだ。


 俺はその内容をはっきりと思い出せていないし、雫が何を大切に覚えているのかも分からない。


 けれど、雫はいつか話したいと言ってくれた。


 俺は、そのときまで待つと答えた。


 今読んでいる物語とは状況が違うけれど、相手が大切にしているものを急いで聞き出さないことも、関係を守るためには必要なのかもしれない。


 俺はそう思いながら、続きを読み進めた。


 物語の中で、主人公は幼馴染と再び会う約束をしていた。


 特別な場所ではない。


 大学の近くにある、小さな喫茶店だ。


 以前にも二人で訪れたことがあり、何気ない会話を交わした場所だった。


 主人公はそこで、自分の気持ちを伝えようとする。


 けれど、いざ相手を前にすると、用意していた言葉がうまく出てこない。


 幼馴染はそんな主人公の様子に気づき、無理に話さなくてもいいと言う。


 その言葉を聞いた主人公は、かえって自分の気持ちを伝えたくなる。


 俺はその場面で、思わずページをめくる手を止めた。


 相手が待ってくれるからこそ、自分から話したくなる。


 その気持ちは、少し分かるような気がした。


 雫が俺の話を聞いてくれるときも、急かされることはほとんどない。


 俺が本の感想をうまく言葉にできないときも、雫は楽しそうに待ってくれる。


 だから、俺も雫の話をちゃんと聞きたいと思う。


 それは、きっと一方通行ではない。


 俺は静かに息を吐き、続きを読み始めた。


 主人公は、幼馴染へ自分の気持ちを伝えた。


 昔から知っている相手だからこそ、今の相手をもっと知りたいと思ったこと。


 再会してから一緒に過ごす時間が、以前よりも大切になっていたこと。


 そして、これからも隣にいたいと思っていること。


 言葉は決して飾られたものではなかった。


 けれど、主人公がここまで迷いながら考えてきたことが、ちゃんと伝わるような告白だった。


 俺はその場面を読みながら、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


(……ああ、こういう言葉になるんだ)


 物語の序盤では、主人公は幼馴染との再会をただ懐かしい出来事として受け止めていた。


 けれど、今は違う。


 昔の相手を知っているからこそ、今の相手も知りたい。


 そして、これから先の時間も一緒に過ごしたい。


 その変化が、ようやく一つの言葉になったのだ。


 幼馴染は、すぐには返事をしなかった。


 主人公は不安になり、思わず視線を落とす。


 けれど、彼女は少しだけ涙を浮かべながら笑い、同じ気持ちだったと伝える。


 ただし、彼女も最初から自分の気持ちを整理できていたわけではなかった。


 再会したときは懐かしさの方が大きかったし、昔とは違う主人公の姿に戸惑うこともあった。


 それでも、一緒に過ごす時間が増えるうちに、今の主人公を好きになっていったのだという。


 俺はその言葉を読み、しばらくページをめくれなかった。


 主人公だけが相手を知ろうとしていたわけではない。


 幼馴染の方も、同じように相手の変化を見つめていた。


 ただ、二人が大切にしていた場面は、必ずしも同じではなかったらしい。


 主人公が何気なく言った言葉を、彼女はずっと覚えていた。


 反対に、主人公が忘れられずにいた出来事を、彼女は少し違う意味で覚えていた。


 それでも、二人は互いの記憶を否定しなかった。


 同じ時間を過ごしていても、見えているものは違う。


 だからこそ、話すことで初めて分かることがある。


 俺はその場面を読みながら、以前読書ノートに書いた言葉を思い出した。


 同じ思い出でも、二人が大切にしている部分は違う。


 その違いが、物語の最後でこんなふうにつながるとは思っていなかった。


 主人公と幼馴染は、これからも互いの知らない部分を少しずつ知っていこうと約束する。


 そして、二人は喫茶店を出て、夕方の道を並んで歩き始めた。


 物語の最後に描かれていたのは、大きな事件でも劇的な出来事でもなかった。


 これから先も、二人で同じ道を歩いていく。


 そんな穏やかな場面だった。


 俺は最後の一文を読み終え、ゆっくり本を閉じた。


 部屋の中には時計の音が小さく響いている。


 窓の外では風が吹いているらしく、カーテンの端がわずかに揺れていた。


 俺は文庫本を机へ置き、しばらく表紙を眺めた。


(……読み終わったんだな)


 ずいぶん長く付き合った物語だった。


 途中で何度も考えごとをしたし、登場人物の気持ちが分からなくてページを戻したこともあった。


 それでも、最後まで読んでよかったと思う。


 俺は読書ノートを開き、ペンを手に取った。


 すぐには言葉が出てこなかった。


 物語の結末について書きたいことはたくさんある。


 主人公が気持ちを伝えた場面。


 幼馴染が同じ気持ちだったと答えた場面。


 そして、二人がこれからも互いを知っていこうと決めたこと。


 どれも印象に残っている。


 けれど、俺が一番心に残ったのは、少し違うところだった。


 俺はゆっくりペンを動かした。


『昔から知っている相手でも、今の相手を全部知っているわけではない。だからこそ、これからも知っていきたいと思えることが大切なのかもしれない』


 書き終えてから、少し考える。


 これだけでは、まだ足りない気がした。


 俺はもう一度ペンを動かした。


『同じ時間を過ごしていても、覚えていることや大切にしていることは違う。その違いを知ったとき、相手との時間がもっと大切になることもある』


 そこまで書いて、ようやく少し落ち着いた。


 俺はペンを置き、椅子の背もたれへ体を預けた。


 読み終えたあとに、こんなに長く考えることになるとは思っていなかった。


 恋愛小説だから、恋愛の結末が一番気になるはずだった。


 もちろん、二人が互いの気持ちを伝え合えたことは嬉しい。


 けれど、俺が本当に面白いと思ったのは、そこへたどり着くまでの時間だったのかもしれない。


 何度も会話を重ね、昔の思い出を話し、今の相手を知っていく。


 そうして少しずつ関係が変わっていくところが、最後の場面につながっていた。


(……雫と話す時間も、最近は前より楽しいんだよな)


 俺は机の上のスマートフォンへ視線を向けた。


 今朝、雫は読み終わったら感想を聞いてみたいと言っていた。


 結末はまだ話せないけれど、ネタバレにならない範囲なら感想を伝えられる。


 そう思ったところで、少しだけ迷った。


 今から連絡しても大丈夫だろうか。


 時計を見ると、まだ遅すぎる時間ではない。


 けれど、雫も本を読んでいるかもしれないし、明日の準備をしているかもしれない。


 俺は少し考えてから、短いメッセージを送ることにした。


『雫、こんばんは。さっき、あの恋愛小説を読み終わったよ。今朝、感想を聞いてみたいって言ってくれたから、先に報告しようと思って』


 送信してから、俺はスマートフォンを机へ置いた。


 返事を待つ間、もう一度読書ノートへ目を向ける。


 書いたばかりの言葉は、まだ少し照れくさいようにも感じられた。


 けれど、自分が本を読んで感じたことなのだから、無理に書き直す必要はないだろう。


 しばらくして、スマートフォンが震えた。


『こんばんは、春樹。読み終わったんだね! おめでとう。どうだった? 面白かった?』


 画面に表示された言葉を見て、俺は思わず笑顔になった。


 雫はきっと、今も本を読んでいるのだろうか。


 そんなことを考えながら、俺は返事を打ち始めた。


『すごく面白かったよ。最後まで読んで、主人公がどうしてあんなに迷ってたのか、少し分かった気がする。昔から知ってる相手でも、今の相手をちゃんと知ることが大事なんだなって思った』


 送信すると、少し間を置いて返事が届いた。


『そっか。春樹がそこを面白いと思ったんだね。……私も、そういう話は好きだな』


 俺はその言葉を読み、少し考えた。


 雫は今、俺から借りた喫茶店の小説を読んでいる。


 あの物語も、誰かと過ごす時間が少しずつ大切になっていく話だった。


 ジャンルは違うけれど、どこか似ているところがあるのかもしれない。


『雫が読んでる喫茶店の小説にも、少し似てるところがあるかもしれない。誰かと話す時間が増えて、その人のことをもっと知りたくなるところとか』


『うん。私も今、そんなことを考えながら読んでたよ。春樹に借りた本だから、読み終わったら感想をちゃんと話したいな』


『楽しみにしてる。急がなくていいから、雫のペースで読んでね』


『ありがとう。春樹も、今日は読み終わったばかりなんだから、ゆっくり休んでね』


 俺はその言葉に小さく笑い、礼を伝えた。


 やり取りを終えてスマートフォンを置くと、部屋の中は再び静かになった。


 けれど、さっきまでとは少し違う静けさだった。


 本を読み終えた満足感がある。


 そして、その感想を雫へ伝えられたことが嬉しかった。


 俺は読書ノートを閉じ、文庫本を本棚へ戻すために立ち上がった。


 棚には、これまで読んできた本が並んでいる。


 まだ読んでいない日常の小さな謎を扱った短編集もあるし、読み返したい本もいくつかある。


 次に何を読むか考えるだけでも楽しい。


 けれど、今夜は新しい本を開く前に、もう少しだけ今日読んだ物語の余韻を楽しみたいと思った。


 俺は文庫本を棚へ戻し、机の上に残った紺色の三日月の栞を手に取った。


 雫と一緒に選んだ栞。


 今まで何度も本に挟んできたものなのに、今日は少し違って見える。


 俺はその理由を考えながら、指先で栞の端をそっとなぞった。


(……今度、雫と公園へ行くときも、こういう話ができたらいいな)


 何か特別なことをしなくてもいい。


 景色を見ながら歩いて、本の話をして、気になったものがあれば立ち止まる。


 それだけでも、きっと楽しい時間になると思う。


 俺は栞を机の引き出しへしまい、窓の外へ目を向けた。


 雲の切れ間から、夜空が少しだけ見えている。


 明日はどんな天気になるだろう。


 雫と一緒に帰れたら、またあの花を見られるかもしれない。


 そんなことを考えながら、俺は部屋の明かりを少し落とした。


     ◇◇◇


 同じころ、西条雫は自室のベッドに腰掛け、スマートフォンの画面を眺めていた。


 春樹から届いたメッセージには、読み終えた恋愛小説の感想が書かれている。


 昔から知っている相手でも、今の相手をちゃんと知ることが大事。


 その言葉を読み返すたびに、雫の胸は少しだけ温かくなった。


(……春樹、そんなふうに思ったんだね)


 雫はスマートフォンを胸元へ寄せ、ゆっくり息を吐いた。


 春樹が読んでいた小説の詳しい結末は、まだ知らない。


 けれど、彼がどんなところを大切に感じたのかは、少し伝わってきた気がした。


 昔から知っている相手。


 今の相手を知ろうとすること。


 そして、これからも一緒に過ごす時間を大切にすること。


 雫にとって、それらはどれも簡単に聞き流せる言葉ではなかった。


 春樹はまだ、自分がどんな気持ちで彼の隣にいるのか知らない。


 昔、丘の上で交わした約束についても、詳しいことは思い出せていない。


 それでも、最近の春樹は少しずつ変わっている。


 雫が好きな景色を知ろうとしてくれる。


 一緒に出かける場所を考えてくれる。


 そして、本を読み終えたとき、最初に感想を伝えてくれる。


 その一つ一つが、雫には大切だった。


(……私も、春樹のことをもっと知りたいな)


 雫は静かに微笑み、ベッドの脇へ置いていた喫茶店の小説を手に取った。


 まだ読み終わっていない。


 けれど、今はその続きを読むことが楽しみだった。


 春樹が好きだと言っていた物語。


 自分が読んで感じたことを、いつか春樹へ伝えたい。


 そのとき、春樹はどんな顔をするだろう。


 きっと、いつものように楽しそうに話を聞いてくれるのだろう。


 雫は葉っぱの栞を外し、読みかけのページを開いた。


 机の照明が柔らかく広がる部屋で、紙の擦れる音が小さく響く。


 物語の主人公は、今日も喫茶店で誰かと話していた。


 何でもない会話の中に、少しずつ大切なものが増えていく。


 雫はその描写を読みながら、春樹と歩いた帰り道を思い出した。


 小さな花。


 風に揺れる葉。


 隣で楽しそうに話す春樹の声。


 どれも、特別な出来事ではない。


 けれど、雫にとっては忘れたくない時間だった。


 春樹が読んだ恋愛小説の主人公たちは、最後にどんな答えを見つけたのだろう。


 雫にはまだ分からない。


 けれど、春樹がその物語を読んで何を感じたのか、いつかもっと詳しく聞いてみたいと思った。


 そして、自分もいつか、春樹へ大切な気持ちを伝えられたらいい。


 雫はその願いを胸にしまい、ゆっくりと次のページをめくった。

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