第87話 俺は本の続きを読みたいだけなのに、どうして幼馴染と過ごす休日のことばかり考えてしまうんだ?
火曜日の朝、目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました俺は、カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、昨夜のことを思い返していた。机の上には、大学で再会した幼馴染同士を描いた恋愛小説が置かれている。昨日も寝る前に続きを読んだのだが、主人公がようやく自分の気持ちと向き合い始めたところで、翌日の授業を考えて本を閉じた。
物語はもう終盤だ。ここまで読んできた以上、二人がどんな結末を迎えるのかは気になるし、できれば今日中に読み終えてしまいたいとも思っている。けれど、昨日は読み進める途中で何度か雫との会話を思い出してしまい、普段よりも一ページに掛ける時間が長くなっていた。
(……本を読んでるときに別のことを考えるなんて、前だったらあまりなかったんだけどな)
俺は布団から起き上がり、机の上の文庫本を手に取った。紺色の三日月が描かれた栞は、雫と一緒に買ったものだ。栞を挟んだページを確かめてから本を閉じると、その表紙をしばらく眺めた。
今読んでいる小説では、主人公が幼馴染のことを以前より意識するようになっている。昔から知っている相手だからこそ、気持ちを伝えることで関係が変わってしまうのを怖がっているらしい。俺にはまだ、その怖さを実感として理解できるわけではないけれど、大切な相手との関係を失いたくないという気持ちは分かるような気がした。
雫とは小さいころから一緒に過ごしてきた。最近は以前より話す機会が増えているし、今度は二人で出かける予定まで相談している。それが嬉しいことなのは確かだが、だからといって小説の主人公と自分を同じように考えるのは、少し違う気もする。
(……まあ、今は本の結末を楽しみにしておこう。俺のことまで無理に答えを出す必要はないし)
そう考えて文庫本を鞄へ入れ、制服に着替えることにした。
朝食を済ませたあと、玄関で靴を履いていると、窓の向こうから鳥の鳴き声が聞こえてきた。昨日もいい天気だったが、今日も空には薄い雲が浮かぶ程度で、雨の心配はなさそうだった。
俺は鞄の持ち手を握り直し、家を出た。
住宅街の道には朝の涼しい空気が残っている。通勤する人の自転車が通り過ぎ、少し離れた家の庭では、葉の先に残った露が朝日を受けて光っていた。
昨日、雫と一緒に見た花のことを思い出す。
名前を調べるのは、まだこれからだ。昨日の夜も気になってはいたのだが、見た目の記憶だけで調べて間違えるより、もう一度特徴を確かめてから図鑑を探した方がよさそうだと思った。
そんなことを考えながら歩いていると、いつもの角に雫の姿が見えた。
雫は道の端に立ち、鞄を両手で持ちながら空を見上げていた。こちらの足音に気づいたらしく、顔を向けると柔らかく微笑んでくれる。
「おはよう、春樹。今日も早いね。昨日はちゃんと眠れた?」
「おはよう、雫。うん、昨日は本を読みすぎないようにしたから大丈夫。雫はどう? 朝から元気そうだけど」
「私もちゃんと眠れたよ。昨日は春樹と話したあと、少しだけ本を読んでから寝たの。喫茶店の小説、また続きが気になるところまで進んじゃって」
雫はそう言いながら、少し困ったように笑った。俺はその表情を見て、借りた本を楽しんでもらえていることが嬉しくなる。
「それは分かるな。あの小説、何か大きな事件が起きるわけじゃないのに、続きが読みたくなるんだよね。登場人物の何気ない会話が、少しずつ変わっていくのが面白いから」
「うん。最初はお店の雰囲気が好きだったんだけど、今は主人公がそこへ通う理由も分かってきた気がするの。誰かと話すのが楽しみになる場所って、いいよね」
雫の言葉に頷きながら、俺たちは学校へ向かって歩き始めた。住宅街を抜ける道には、同じ制服を着た生徒たちが少しずつ増えている。俺たちは歩道の端を並んで歩き、前を行く生徒との距離を保ちながら会話を続けた。
「そういえば春樹、昨日の花のことなんだけど、少し気になって考えてたの」
「花の名前、何か思い出した?」
「ううん、名前はまだ分からないんだけどね。あの花、道の端に咲いていたから、いつもなら気づかずに通り過ぎてたかもしれないなって思ったの」
雫は前を向いたまま、少しだけ声を柔らかくした。
「でも、春樹が見つけてくれたから、私も立ち止まって見ることができたでしょ。そういうのって、何だか嬉しいなって」
俺はその言葉に少し驚いた。
昨日、俺は雫が景色のきれいなところを見つけるのが上手だと思った。だから、雫が喜びそうなものを自分も見つけられたらいいと考えていたのだが、雫は俺が花に気づいたこと自体を嬉しく思ってくれていたらしい。
「……そっか。俺は雫が好きそうだと思って立ち止まったんだけど、そう言ってもらえると嬉しいな」
「春樹が私の好きなものを覚えていてくれるの、すごく嬉しいよ。でも、春樹が自分で気になったものを教えてくれるのも好きなの。昨日の花みたいに、二人で初めて気づくものがあったら楽しいと思うから」
雫はそう言って、こちらへ微笑みかけた。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少し温かくなった。俺は雫に喜んでもらいたくて景色を気にするようになったけれど、雫は俺自身が何を面白いと思うのかも知りたいらしい。
(……何だか、今読んでる小説の話と少し似てるな。相手のことを知りたいと思うだけじゃなくて、自分のことも知ってもらうっていうか)
そんなことを考えていると、雫が不思議そうに首を傾げた。
「春樹、どうしたの? 何か考えごと?」
「ああ、ちょっと今読んでる本のことを思い出してた。相手のことを知っていく話なんだけど、知ってもらうことも同じくらい大事なのかなって」
「……うん。私は、そう思うな」
雫はすぐに答えたあと、少しだけ視線を落とした。
「春樹の好きな本の話を聞くの、私も楽しいよ。春樹が何を面白いと思ったのか分かるし、同じ本を読んでも違うところが気になったりするから」
「俺も雫の感想を聞くのが好きだよ。自分じゃ気づかなかったところを教えてもらえるし、同じ場面でも見方が違うんだなって思えるからね」
雫は嬉しそうに頷いた。
校門が近づいてくると、朝の挨拶を交わす生徒たちの声が聞こえ始めた。俺たちはその流れに合わせて歩きながら、今日も学校で何か面白い本の話ができたらいいね、と笑い合った。
いつも通りの通学路だったはずなのに、雫と話しているうちに、学校へ着くまでの時間が少し短く感じられた。
◇◇◇
二年三組の教室へ入ると、高坂悠斗が窓際の席で赤木紗弥と話していた。
赤木さんは机の上に小さなノートを広げており、悠斗はその隣に立って、何やら真剣な顔で説明している。俺が近づくと、悠斗がこちらへ気づいて片手を上げた。
「おはよう、春樹。ちょうどよかった。お前、物語の登場人物が昔と違う考え方をするようになる場面って、どういうところが面白いと思う?」
「おはよう。ずいぶん急な質問だな。何かあったの?」
「この前見た映画の話をしてたんだよ。紗弥が、主人公の考え方が変わるところをもう少し整理したいって言っててさ」
赤木さんは少し照れたように笑いながら、ノートを閉じた。
「おはよう、七瀬君。高坂君と感想を話してたら、最初に見たときとは違うところが気になってきたんだよね。主人公が誰かの言葉を聞いて変わる場面って、急に変わったように見えることもあるけど、それまでの積み重ねがあるから自然に感じるのかなって」
「それはあると思うよ。最初から少しずつ考え方が変わるきっかけが描かれてると、最後の行動にも納得できるし。逆に、何もないところから急に変わると、ちょっと違和感があるかもしれない」
俺がそう答えると、赤木さんは嬉しそうに頷いた。悠斗も何か納得したらしく、机の端へ軽く手を置きながら話を続ける。
「やっぱりそうだよな。俺は最初、最後の場面が一番印象に残ってたんだけど、紗弥と話してるうちに、そこへつながる小さい場面の方が大事だったんじゃないかと思ってさ」
「高坂君、最初は主人公の行動がかっこよかったって言ってたもんね。でも、私はその前に何度も迷ってたところが好きだったんだ」
「いや、今でも最後の場面はかっこいいと思ってるぞ。ただ、そこに至るまでの迷いがあったからこそ、余計によかったんだなって」
悠斗は少し慌てたように付け加えたが、赤木さんは楽しそうに笑っていた。
俺は二人の会話を聞きながら、昨日の朝に悠斗が話していたことを思い出した。映画を見終わってからも、こうして感想を話すたびに新しい発見があるらしい。
「二人とも、ずいぶん楽しそうだね。映画を見たあとも、そこまで話せるのはいいな」
「そうなんだよ。最初は映画を見に行くこと自体が楽しみだったんだけど、今は感想を話すのも同じくらい楽しくてさ」
悠斗はそう言ってから、自分の言葉に少し照れたらしく、視線を窓の方へ向けた。
赤木さんも頬を緩めたまま、机の上のノートへ目を落としている。
その様子を見ていると、二人の間には俺が知らない話題がいくつも増えているのだろうと思った。けれど、それは寂しいことではなく、むしろ嬉しい変化のように感じられた。
「そういえば春樹、お前の方はどうなんだ? 雫と出かける話、少しは進んだのか?」
悠斗が何気ない調子で尋ねてきたので、俺は鞄を机へ置きながら答えた。
「公園が候補になってるのは変わらないよ。駅の向こうにある大きな公園なんだけど、どんな道があるかとか、近くの喫茶店が今も営業してるかとか、まだ確認してないことがあるんだ」
「なるほど。場所を決める前に調べることがあるわけか。まあ、そこまで話してるなら、あとは二人の都合を合わせるくらいじゃないか?」
「そうだね。でも、急いで決める必要もないかなって。雫も一緒に考える時間が楽しいって言ってくれたし」
俺がそう答えると、赤木さんが少し驚いたように目を丸くした。
それから、何かを納得したように柔らかく微笑む。
「……そっか。西条さん、きっと嬉しいんだと思うよ。七瀬君が自分の好きな場所に興味を持ってくれて、一緒に考えてくれることが」
「俺も楽しいよ。今まで本屋以外の場所をそこまで詳しく調べることはなかったけど、雫が好きな景色を見られるなら面白そうだし」
そう話すと、悠斗は俺の顔をじっと見つめた。
「……お前、最近ちょっと変わったよな」
「そうかな。自分じゃあんまり分からないけど」
「いや、いい意味でだぞ。前だったら休日の予定を聞くと、まず読む本の話が出てきたからな。今は雫と何を見るかとか、どこを歩くかとか、そういう話をするようになった」
悠斗は笑いながら言ったが、その声にはからかうだけではない親しみがあった。
俺は少し考えてから、素直に頷いた。
「確かに、最近はそうかもしれない。でも、本を読むのが好きなのは変わってないよ。昨日も結局、夜まで恋愛小説を読んでたし」
「そこは心配してないって。お前が本を読まなくなったら、むしろ何かあったのかと思うくらいだからな」
赤木さんがその言葉に笑い、俺もつられて笑ってしまった。
やがて予鈴が鳴り、教室にいた生徒たちが席へ戻り始めた。悠斗と赤木さんも会話を切り上げ、それぞれの席へ向かう。
俺は教科書を取り出しながら、悠斗の言葉を思い返した。
最近、少し変わった。
自分では大きな変化があったつもりはないけれど、周囲から見るとそうなのかもしれない。
(……でも、変わったからって本を読む時間が嫌になったわけじゃないんだよな。むしろ、読んだ本のことを雫に話したくなることが増えた気がする)
俺は机の中へ文庫本をしまい、授業の準備を始めた。
◇◇◇
昼休みになり、俺は図書室へ向かった。
今日は昨日の花について調べるため、植物の図鑑がないか探してみるつもりだった。もちろん、授業の合間に読む本を探すのも楽しみだが、今回は目的がはっきりしている。
図書室へ入ると、受付の近くには数人の生徒が並んでいた。奥の棚では一人の生徒が本を選んでおり、窓際の席では参考書を広げた生徒が静かに勉強している。
白石栞先輩は受付の内側で本の整理をしていたが、俺に気づくと軽く会釈してくれた。
「こんにちは、七瀬君。今日は何か探している本があるの?」
「こんにちは、白石先輩。実は、昨日帰り道で見つけた花の名前が気になってて。植物の図鑑があれば、少し見てみたいなと思ったんです」
「花の図鑑ね。それなら、自然科学の棚に何冊かあったと思うわ。ただ、どんな本があるかは実際に確認した方がいいから、一緒に見てみましょうか」
先輩は受付の仕事が一段落したところで、俺を棚の方へ案内してくれた。
自然科学の棚には、動物や植物、天気などについての本が並んでいる。俺は背表紙を眺めながら、普段あまり手に取らない分野の本が思った以上に多いことに気づいた。
「七瀬君が植物の本を探すなんて、少し意外ね。何かきっかけがあったの?」
「昨日、雫と帰ってるときに小さな花を見つけたんです。俺も名前が分からなかったし、雫も気になってるみたいだったので、調べてみようと思って」
先輩はその言葉に小さく頷いた。
「そうだったのね。身近なものでも、名前を知らないことって意外と多いものね。私も本を読んでいて、知らない植物が出てくると気になることがあるわ」
「そうなんですよ。今までは物語に出てくる花の名前を調べることはあっても、道端で見た花を調べようとはあまり思わなかったんですけど」
「……西条さんと一緒に見たことで、印象に残ったのかもしれないわね」
先輩は穏やかな声でそう言った。
俺は少し考えてから頷いた。
「はい。雫がきれいだって笑ってたのも覚えてるし、せっかくなら名前を知っておきたいなって」
先輩はその言葉を聞くと、少しだけ視線を棚へ戻した。
けれど、すぐに一冊の図鑑を取り出し、俺へ見せてくれる。
「それなら、まずはこの本が見やすいかもしれないわ。写真が多いから、花の色や形から探せると思う。ただ、似た花もあるでしょうし、写真だけで断定しない方がいいかもしれないわね」
「ありがとうございます。確かに、昨日は細かいところまで見てなかったので、似た花があっても区別できるか分からないです」
俺は図鑑を受け取り、近くの閲覧席へ移動した。
先輩は受付へ戻る前に、何か分からないことがあれば声を掛けてね、と言ってくれた。俺は礼を伝え、窓際の席へ座って図鑑を開く。
ページには、色とりどりの花の写真が並んでいた。
普段は物語の文章を読むことが多いので、こうして写真を眺めながら情報を探すのは少し新鮮だった。花の色だけでなく、葉の形や茎の伸び方、咲く季節など、見分けるための特徴がいくつもあるらしい。
昨日見た花は淡い色で、背丈が低かった。
けれど、葉の形まではよく覚えていない。
俺は似た花の写真をいくつか見つけたものの、どれも決め手に欠けていた。
(……やっぱり、もう一度ちゃんと見た方がよさそうだな。名前だけ調べようとしても、肝心の特徴を覚えてなかったら分からないし)
そう考えてページをめくっていると、近くの棚から小さな声が聞こえた。
「……あ、七瀬先輩」
顔を上げると、新海真実が少し離れたところに立っていた。
真実は手に一冊の本を持ち、こちらへ近づいていいか迷っているような様子だった。俺が軽く手を振ると、安心したように小さく会釈する。
「こんにちは、新海さん。今日は本を探しに来たの?」
「はい。少し気になる本があって……。でも、先輩が図鑑を読んでいるのが見えたので、珍しいなと思って」
真実はそう言いながら、俺の前に開かれたページへ視線を落とした。
「植物の本、ですか?」
「うん。昨日見つけた花の名前が気になってて。でも、似た花が多くて、まだ分からないんだ」
「……そうなんですね。写真だけだと、難しいこともありますよね」
真実は少し考えてから、手に持っていた本を胸元へ寄せた。
「私も前に、物語に出てきた花を調べたことがあります。でも、同じような色の花がいくつもあって、結局、説明を読まないと分からなかったんです」
「やっぱりそうなんだ。俺も、もう一度実物を見てから調べ直そうと思ってるよ」
俺がそう答えると、真実は小さく頷いた。
それから、少しだけ迷ったように視線を動かし、静かな声で尋ねてくる。
「……先輩は、どうしてその花を調べようと思ったんですか?」
「昨日、雫と一緒に見たんだ。小さな花だったんだけど、雫がきれいだって言っててさ。俺も名前が分からなかったから、せっかくなら知っておきたいと思ったんだよ」
真実はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
けれど、すぐに柔らかく微笑んでくれた。
「……そうだったんですね。誰かと一緒に見たものって、あとから気になることがありますよね」
「うん。新海さんも、そういうことある?」
「あります。……本を読んでいて、誰かと感想を話した場面が、あとから印象に残ることもありますから」
真実はそう言いながら、手に持っている本の表紙へ目を向けた。
俺はその言葉に頷いた。
「それ、分かるな。同じ本でも誰かと話すと違うところに気づけるし、あとから読み返したくなることもあるよね」
「……はい。私も、そういう時間が好きです」
真実は小さく微笑んだ。
そのあと、彼女は探していた本を借りるために受付へ向かうと言い、俺に会釈して離れていった。
俺は再び図鑑へ視線を戻したが、先ほどの会話が少し心に残っていた。
真実も、誰かと本の感想を話す時間を大切にしているらしい。
そう考えると、以前彼女が提案していた『誰かと話したくなる本』という分類も、彼女自身の気持ちが込められたものなのだろうと思った。
まだ正式な企画になったわけではないけれど、ああいう考え方は面白い。
俺は図鑑を閉じ、棚へ戻すために立ち上がった。
結局、花の名前は分からなかった。
けれど、調べるために何を見ればいいのかは少し分かった気がする。
次に雫とあの道を歩くときは、花だけでなく葉や茎の形も確かめてみよう。
そう考えながら、俺は図鑑を元の場所へ戻した。
◇◇◇
放課後、教室で帰り支度をしていると、悠斗がこちらへ近づいてきた。
「春樹、今日はどうする? また図書室に寄るのか?」
「昼休みに行ってきたから、今日はそのまま帰ろうと思ってる。ちょっと調べたいことがあったんだけど、まだ分からなかったから、今度もう一度確認するつもり」
「調べたいこと? また新しい本でも見つけたのか?」
「いや、花の名前だよ。昨日、雫と帰る途中に見つけた花があってさ。図鑑を見たんだけど、特徴をちゃんと覚えてなかったから、似た花が多くて分からなかったんだ」
悠斗は俺の説明を聞くと、少し驚いたように眉を上げた。
「へえ。お前が花の名前を調べるのは分かるけど、わざわざ昼休みに図書室まで行くとはな。相当気になってるんだな」
「まあ、気になったことは調べたくなるからね。それに、雫も知りたいって言ってたし」
俺がそう答えると、悠斗は何かを納得したように笑った。
「なるほどな。雫も気になってるなら、なおさらってわけか」
「そういうこと。別に大した理由じゃないよ」
「いや、別に大した理由じゃないなんて言ってないぞ。誰かと一緒に気になったものを調べるのって、楽しそうじゃないか」
悠斗はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「俺も紗弥と映画の感想を話してると、相手が気になったところをもう一度確かめたくなるんだよ。そういうの、結構楽しいんだよな」
その表情を見て、俺は自然と笑ってしまった。
悠斗も、赤木さんと過ごす時間を楽しみにしているのだろう。
「じゃあ、悠斗も同じようなものじゃないか。俺が雫と花を調べたいと思うのと、悠斗が赤木さんと映画の話をしたいと思うのって」
「……まあ、そうかもしれないな」
悠斗は少し照れたように笑った。
その反応が珍しくて、俺は思わずもう一度笑ってしまった。
「何だよ、春樹。お前にそんなこと言われるとは思わなかったぞ」
「別に変なことは言ってないだろ。悠斗が楽しそうだったから、そう思っただけだよ」
「……お前、最近ちょっと鋭くなったんじゃないか?」
悠斗はそう言いながら、苦笑した。
俺は首を傾げたものの、特に深く考えずに鞄を肩へ掛けた。
教室を出る前、悠斗がもう一度声を掛けてくる。
「そういえば、公園のことも忘れるなよ。調べることがあるなら、雫と一緒に確認してみたらどうだ?」
「うん。今日は帰りに会えたら、少し話してみるつもり」
「それならいいんじゃないか。まあ、楽しんでこいよ」
悠斗は笑いながら手を振り、俺もそれに応えて教室を出た。
廊下には下校する生徒たちが行き交っている。階段を下りながら、俺は今日の図書室でのことを思い返していた。
花の名前は分からなかった。
けれど、分からなかったからこそ、もう一度雫と見に行く理由ができた。
そう考えると、不思議と残念な気持ちはあまりなかった。
◇◇◇
昇降口へ向かうと、雫が靴箱の近くで友人と話していた。
俺に気づいた雫は、少し嬉しそうに表情を明るくする。友人へ軽く挨拶してからこちらへ歩いてきたので、俺も靴を履き替えながら声を掛けた。
「雫、お疲れさま。今日はもう帰るところ?」
「うん。春樹も? もしよかったら、一緒に帰らない?」
「もちろん。俺もちょうど雫と話したいことがあったんだ」
俺がそう言うと、雫は少し驚いたように目を丸くした。
「……私と話したいこと?」
「昨日の花のこと。今日、図書室で図鑑を見てみたんだけど、まだ名前が分からなかったんだ」
「あ、そうだったんだ。春樹、もう調べてくれたんだね」
雫は嬉しそうに笑った。
俺たちは昇降口を出て、校門へ向かって歩き始めた。
午後の空には薄い雲が広がっていたが、日差しはまだ暖かい。校庭では部活動の準備が始まっており、遠くから掛け声やボールの弾む音が聞こえてくる。
「図鑑には似た花がいくつも載ってたんだけど、葉の形とか茎の特徴を覚えてなかったから、どれか分からなくてさ。今度、もう一度見てみようと思ってる」
「そっか。でも、そういうところまで見ないと分からないんだね。私も昨日は花の色ばかり見てたから、葉っぱの形までは覚えてないな」
「俺も同じだよ。だから、次はもう少しよく見てみようかなって」
雫は頷きながら、少し考えるように空を見上げた。
「……じゃあ、またあの道を通るとき、一緒に見てみようか。春樹となら、きっと調べるのも楽しいと思う」
「うん。俺もそう思う」
そう答えると、雫は嬉しそうに微笑んだ。
俺たちはそのまま住宅街へ続く道を歩いた。
途中、雫が今度の公園について話し始めた。
「春樹、あの公園のことなんだけど、昨日もう少し考えてみたの。広い散歩道があるのは覚えてるけど、今も同じように歩けるかは分からないから、行く前に確認した方がいいかなって」
「そうだね。俺もそう思う。あと、近くの喫茶店が今も営業してるかどうかも調べたいし、駅の近くに本屋があるって話も、どの辺りなのか分かるといいよね」
「うん。でも、全部行こうとすると疲れちゃうかもしれないから、無理に予定を詰め込まなくてもいいと思うの」
雫はそう言いながら、少しだけこちらの様子をうかがった。
「春樹は、本屋にも寄りたい?」
その質問を聞いて、俺は少し考えた。
もちろん、本屋は好きだ。
初めて行く本屋なら、どんな本が並んでいるのか気になるし、時間があればゆっくり棚を眺めたいとも思う。
けれど、今回の外出で一番楽しみにしていることは、それだけではなかった。
「本屋も気になるけど、今回は雫と公園を歩くのも楽しみなんだ。だから、時間に余裕があったら寄るくらいでいいんじゃないかな。無理に全部回らなくても、楽しく過ごせればそれでいいと思う」
俺がそう答えると、雫は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ頬を赤くして微笑んだ。
「……春樹、そんなふうに考えてくれてたんだ」
「うん。雫が好きな景色を見てみたいし、歩きながらいろんな話ができたら楽しそうだなって」
雫はすぐには返事をしなかった。
少しだけ視線を落とし、鞄の持ち手を握り直してから、ゆっくり顔を上げる。
「……ありがとう。私も、春樹と一緒に歩けたら嬉しいな。きっと、いつもと違う景色が見られると思う」
その声は、普段より少し柔らかかった。
俺は雫の表情を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ただ公園へ行くだけの話なのに、こうして相談している時間が楽しい。
まだ日程も決まっていないし、場所も正式に決めたわけではない。
それでも、雫と一緒に考えているうちに、少しずつ楽しみが大きくなっている。
「じゃあ、まずは公園の情報を確認してみようか。道の様子とか、休める場所があるかとか。喫茶店や本屋は、そのあと考えてもいいと思う」
「うん。そうしよう。私も家で確認してみるね。春樹も、無理のない範囲で調べてくれたら嬉しいな」
「もちろん。分かったことがあったら、また話そう」
雫は嬉しそうに頷いた。
俺たちはそのあとも、どんな景色が見られたら楽しいか、どんなふうに歩きたいかについて話しながら帰り道を進んだ。
雫は、木々の間をゆっくり歩ける道が好きだと言った。
俺は、途中で座って本の話ができる場所があれば嬉しいと答えた。
どちらの希望も、無理に合わせる必要はなさそうだった。
むしろ、二人の好きなものを少しずつ組み合わせていけば、自然と楽しい予定になる気がした。
やがて、昨日花を見つけた場所が近づいてきた。
俺たちは歩道の端へ寄り、通行の邪魔にならないようにしながら植え込みを眺めた。
昨日と同じように、小さな花が風に揺れている。
「……あ、まだ咲いてるね」
雫が嬉しそうに声を上げた。
俺も頷き、昨日はあまり見ていなかった葉の形へ目を向ける。
細い茎から小さな葉が伸びており、花はその先にいくつか集まっていた。けれど、図鑑で見た写真と正確に比べられるほど、俺はまだ特徴を覚えていない。
「昨日より少し分かった気がするけど、やっぱり名前を決めるには難しいな。今度はこの形も覚えておこう」
「うん。でも、春樹と一緒に見てると、名前が分からなくても楽しいね」
雫はそう言って、花から俺へ視線を移した。
俺はその笑顔を見て、自然と頷いた。
「俺もそう思う。調べるのは楽しいけど、こうして一緒に見る時間もいいなって」
雫は少しだけ頬を赤くした。
そのあと、何かを言いかけたように唇を開いたが、すぐに小さく笑って視線を花へ戻した。
俺はその様子を不思議に思ったものの、無理に尋ねることはしなかった。
雫には、話したいときに話してもらえればいい。
以前、昔の約束についてもそう決めた。
だから、今は一緒に花を眺める時間を大切にしたかった。
◇◇◇
その日の夜、西条雫は自室の机に向かい、春樹から借りている喫茶店の小説を開いていた。
窓の外はすっかり暗くなり、部屋の中には机の照明だけが柔らかく広がっている。ページの間には葉っぱの形をした栞が挟まれており、雫はそれを指先でそっと持ち上げてから、読みかけの場所を確かめた。
小説の主人公は、少しずつ喫茶店の常連客たちと打ち解けてきている。
最初は一人で静かに過ごすために通っていた場所が、今では誰かと話すことを楽しみにする場所へ変わり始めていた。
雫はその描写を読みながら、今日の春樹との帰り道を思い出した。
(……春樹、今日も花のことを調べてくれたんだよね)
昨日、二人で立ち止まって見た小さな花。
雫にとっては、名前が分からなくても十分にきれいな花だった。
けれど、春樹はその名前を知りたいと思い、昼休みに図書室で図鑑まで探してくれたらしい。
そのことが、雫にはとても嬉しかった。
昔から春樹は、気になったことがあると本で調べようとする子だった。
幼いころ、二人で図鑑を広げたときもそうだった。
春樹は花の名前を知りたくて、ページを何度もめくっていた。
雫はその隣で、春樹が楽しそうに調べている姿を見るのが好きだった。
今も、その気持ちはあまり変わっていない。
ただ、最近は少し違うことも増えている。
春樹が、自分の好きな景色を知ろうとしてくれる。
自分が何を見て嬉しいと思うのか、何を大切にしているのかを聞いてくれる。
そのたびに、雫は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(……春樹は、まだ気づいてないんだろうな。私がどれくらい嬉しいか)
雫は小さく息を吐き、机の上へ視線を落とした。
春樹と出かける話は、まだ具体的には決まっていない。
駅の向こうの公園が候補になっているけれど、日にちも待ち合わせの場所も決まっていないし、喫茶店が今も営業しているかどうかも確認できていない。
それでも、雫は焦っていなかった。
春樹が自分と一緒に考えてくれていることが、何より嬉しかったからだ。
今日、春樹は本屋へ寄ることよりも、一緒に公園を歩くことを楽しみにしていると言ってくれた。
その言葉を思い出すと、今でも頬が少し熱くなる。
(……春樹、本当にそう思ってくれてるんだよね。私と歩くのが楽しいって)
雫は胸元へ手を当て、静かに微笑んだ。
小さいころ、丘の上で交わした約束のことが、ふと頭に浮かぶ。
あのときの春樹は、今よりずっと幼かった。
それでも、雫にとっては大切な思い出だった。
まだ、その約束のことを春樹へ詳しく話す勇気はない。
けれど、いつか話せる日が来たらいいと思っている。
春樹は、雫が話せるようになるまで待つと言ってくれた。
だから、雫も少しずつ自分の気持ちと向き合っていきたい。
雫は葉っぱの栞をそっと持ち直し、もう一度小説へ目を落とした。
物語の主人公が、喫茶店を好きになっていく理由。
それは、そこにあるものだけではなく、そこで出会う人たちとの時間が大切になっていくからなのだろう。
雫はそのことを考えながら、今日の帰り道をもう一度思い返した。
小さな花。
夕方の光。
隣を歩く春樹の声。
どれも特別な出来事ではない。
けれど、雫にとっては大切な思い出になっていた。
◇◇◇
同じころ、俺は自室の机に向かっていた。
夕食を済ませ、明日の授業の準備を終えたところで、ようやく落ち着いて本を読める時間になった。机の上には大学で再会した幼馴染の恋愛小説が置かれており、隣には読書ノートが開かれている。
今日は、できれば最後まで読み終えたい。
そう思って文庫本を開いたのだが、読み始める前に、ふと今日の帰り道のことを思い出した。
雫と一緒に見た花。
公園へ行く予定について話したこと。
そして、雫が嬉しそうに笑ってくれたこと。
俺は少し考えてから、読書ノートの端へ短いメモを書き込んだ。
『相手の好きなものを知ることと、自分の好きなものを知ってもらうことは、どちらも大切なのかもしれない』
書き終えてから、俺はしばらくその文章を眺めた。
今朝、雫と話していて感じたことだ。
俺は雫の好きな景色を知りたいと思っている。
けれど、雫も俺が何を面白いと思うのかを知りたいと言ってくれた。
それは、何となく嬉しいことだった。
(……こうして考えると、最近は本の感想だけじゃなくて、雫と話したこともノートに書くようになってるな)
俺は小さく笑い、ペンを置いた。
そのあと、文庫本を開いて続きを読み始める。
物語の主人公は、幼馴染への気持ちを認めたことで、今まで何気なく過ごしてきた時間の意味を考え直していた。
昔から知っている相手。
当たり前のように隣にいた人。
その相手と過ごす時間が、いつの間にか特別になっていたこと。
俺はその描写を読みながら、少しだけページをめくる手を止めた。
雫と過ごす時間も、最近は以前より楽しみになっている。
朝、一緒に学校へ行けたら嬉しい。
帰り道で会えたら、何を話そうか考える。
雫が好きな景色を見てみたいと思うし、雫が楽しそうにしていると自分まで嬉しくなる。
それは、昔からの幼馴染だからだろうか。
それとも、最近になって何かが変わり始めているのだろうか。
(……分からないな。でも、今すぐ答えを出さなくてもいい気がする)
俺は静かに息を吐き、もう一度ページへ視線を戻した。
物語の主人公は、自分の気持ちに気づいたあとも、すぐに行動できるわけではないらしい。
相手の気持ちが分からないこと。
今までの関係を変えてしまうかもしれないこと。
そうした不安を抱えながら、それでも相手を大切にしたいと思っている。
俺にはまだ、その気持ちを完全に理解できるわけではない。
けれど、相手を大切にしたいという部分には、少し共感できるようになっていた。
雫が話したくないことを、無理に聞かない。
雫が好きなものを、ちゃんと知ろうとする。
そして、雫と過ごす時間を大切にする。
今の俺にできるのは、きっとそういうことなのだろう。
しばらく読み進めたところで、スマートフォンが小さく震えた。
画面には、雫からのメッセージが表示されている。
『春樹、こんばんは。今日は花のことを調べてくれてありがとう。私も、今度もう少しよく見てみようと思ってるよ』
俺は思わず笑顔になった。
雫も、あの花のことを覚えていてくれたらしい。
『こんばんは、雫。こちらこそ、一緒に見られて楽しかったよ。次は葉っぱの形とかも確認してみよう。図鑑で見つけられたらいいね』
送信すると、少しして返事が届いた。
『うん。春樹と一緒なら、調べるのも楽しそう。……それと、公園のことも、また相談しようね』
『もちろん。俺も楽しみにしてるよ。まずは道の様子とか、休める場所があるか確認してみよう』
『そうだね。私も調べてみる。おやすみ、春樹。また明日ね』
『おやすみ、雫。また明日』
俺はスマートフォンを机へ置き、しばらく画面を眺めていた。
雫との外出は、まだ決まっていない。
けれど、こうして少しずつ話が進んでいる。
そのことが嬉しかった。
俺は文庫本を手に取り、もう一度続きを読み始めた。
物語の結末までは、あと少し。
けれど、今夜は急いで読み終えるより、登場人物の気持ちを丁寧に追いかけたいと思った。
昔から知っている相手を、もう一度知ろうとする物語。
その結末がどうなるのか、今の俺にはまだ分からない。
ただ、読み終えたときには、きっと以前とは違う感想を持つのだろう。
そして、その感想を誰かに話したくなったとき、真っ先に思い浮かぶ相手がいることにも、俺は少しずつ気づき始めていた。
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしている。
俺はその音を聞きながら、ゆっくりと次のページをめくった。
本を読む時間は、今も変わらず大切だ。
けれど最近は、本を閉じたあとに誰かと話す時間も、同じくらい楽しみになっている。
その変化が何を意味するのかは、まだ分からない。
それでも、雫と過ごす次の時間を楽しみにしている自分がいることだけは、確かだった。




