↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
86/130

第86話 月曜日は本の話をしていたいだけなのに、どうして幼馴染の好きな景色まで覚えてしまうんだ?


 月曜日の朝、目覚まし時計の音で目を覚ました俺は、枕元へ伸ばした手でアラームを止めると、しばらく天井を眺めていた。昨日までの二日間は好きな時間に本を読めたけれど、今日からはまた学校が始まる。休日が終わってしまったことを少し残念に思いながらも、制服に着替えるために身体を起こしたところで、机の上に置いてある文庫本が目に入った。


 大学で再会した幼馴染同士を描いた恋愛小説は、昨日の夕方にも読み進めたものの、まだ最後まで読み終えていない。物語は終盤に入り、主人公がヒロインへの気持ちを自覚したことで、二人の何気ない会話にも以前とは違う意味が生まれ始めていた。結末が気になって仕方がないのだが、昨夜は翌日の授業を考えて、区切りのいいところで三日月の栞を挟んでおいた。


(……今日の帰りに時間があれば、続きを読もう。あの二人がどうなるのか、そろそろ知りたいし)


 そう考えてから、俺はふと昨日のことを思い出した。日曜日は本を読みながら感想ノートを書き、午後には家の近くを散歩して、道端に咲いている小さな花を眺めた。普段なら名前も気にせず通り過ぎてしまうような花だったのに、昨日は雫なら知っているだろうかと考えたことまで、妙にはっきり覚えている。


 雫が好きだと言っていた、季節によって変わる景色。駅の向こうにある大きな公園も、そういう変化を楽しめる場所なのだろう。まだ日にちも行き先も決まっていないけれど、二人で相談しているうちに、俺まで公園を歩くのが楽しみになっていた。


(……そういえば、昨日見た花の名前、結局分からなかったな。雫に聞いてみるのもいいけど、まずは自分で調べてみようかな)


 昔、雫と一緒に植物の図鑑を眺めたことがあった。あのころは気になったものがあると、家にある本を持ち出して調べようとしていたらしい。雫が以前、そのことを楽しそうに話してくれたのを思い出すと、今度は久しぶりに植物の本を読んでみるのも悪くない気がした。


 ただし、今日は学校がある。朝から図鑑を探し始めて遅刻するわけにはいかないので、俺は文庫本から視線を外し、制服へ袖を通した。


 朝食を済ませ、鞄の中身を確認する。教科書とノート、筆箱、それから休み時間に読むための文庫本を入れたところで、机の上に残っていた読書ノートが目に入った。


 昨日書いたのは、同じ思い出でも二人が大切にしている部分は違う、という感想だった。


 物語の主人公は、幼馴染が自分とは違う気持ちで過去を覚えていたことを知り、驚きながらも相手をもっと理解しようとしている。俺も雫との昔の出来事について、まだ知らないことがあるのだろうと思った。


 それでも、雫が話せるようになるまで待つという約束は変わらない。


 俺はノートを机の引き出しへしまい、鞄を肩に掛けた。玄関へ向かう途中、窓の外には昨日と同じような青空が広がっていたが、今朝はその下を雫と一緒に歩けるかもしれないと思うと、いつもの通学路が少し楽しみに感じられた。


     ◇◇◇


 家を出て住宅街の道を進んでいると、少し先の角から見慣れた姿が現れた。


 西条雫は、こちらに気づくと足を緩め、柔らかく微笑みながら手を振ってくれた。朝の光を受けた髪が風に揺れ、その様子を見た俺も自然と手を上げて応える。


「おはよう、春樹。今日は少し早いんだね。私もいつもより余裕を持って出てきたから、会えてよかった」


「おはよう、雫。昨日は早めに寝たからかな。朝もちゃんと起きられたし、せっかくだから少し余裕を持って出ようと思ったんだ」


「ふふ。春樹が早めに寝るなんて、珍しいね。読みかけの本があると、つい遅くまで読んじゃうことが多いのに」


 雫はからかうように笑ったが、その声には昔から変わらない親しみがあった。俺は否定しようとして、実際に何度も読書の区切りを見失っていることを思い出し、素直に頷くことにした。


「昨日も続きは気になったんだけど、月曜日から眠いのは困るからな。あの恋愛小説、もう終盤まで来てるんだよ」


「大学で再会した幼馴染のお話だよね。春樹がそこまで続きを気にしてるなら、きっと面白いんだろうな。前に話してくれたときも、登場人物の気持ちが丁寧に描かれてるって言ってたし」


「うん。最初は再会した二人が少しずつ距離を縮める話だと思ってたけど、最近は昔から知っている相手だからこその難しさが出てきてるんだ。相手を大切に思う気持ちと、今までの関係を変えるのが怖い気持ちが、うまく重なってるというか」


 説明しているうちに、昨日ノートへ書いた感想が頭に浮かんだ。主人公とヒロインは同じ思い出を共有しているけれど、そこに込めた気持ちは必ずしも同じではない。その違いを知っていく過程が面白いのだと話すと、雫はしばらく黙って俺の言葉を聞いていた。


 横断歩道の手前で信号を待っていると、雫が少しだけ視線を落とした。何か考えているような表情だったので、俺は言葉を続けず、車が通り過ぎる音を聞きながら待つことにした。


「……同じ思い出でも、大切にしてるところが違うって、ちょっと分かる気がするな」


 雫はそう言ってから、ゆっくり顔を上げた。いつもの笑顔に戻っていたけれど、その声には少しだけ懐かしむような響きがあった。


「たとえば小さいころ、春樹と一緒に図鑑を見たことがあったでしょ。春樹は花の名前を調べるのに夢中だったけど、私は春樹が一緒に調べてくれたことの方をよく覚えてるんだ」


「ああ、前にも話してくれたよね。俺はどんな花だったかまでは覚えてないんだけど、雫と図鑑を見たことは何となく覚えてるよ」


「うん。そういう違いがあっても、同じ時間を大切に覚えていられるのって、いいことだと思う」


 信号が青へ変わり、俺たちは周囲の人たちと一緒に横断歩道を渡った。雫はそれ以上昔の話を続けなかったので、俺も無理に尋ねることはしなかった。


 ただ、今の言葉は何となく心に残った。


(……雫は、俺が何を調べたかより、一緒に調べたことを覚えてるんだな。そういう思い出の残り方もあるのか)


 学校へ向かう道には、同じ制服を着た生徒たちが少しずつ増えていた。前を歩く二人組が週末に見た映画について話しており、その隣では部活動の道具を持った生徒が眠そうに欠伸をしている。いつもの月曜日の朝なのに、俺は雫と並んで歩いているだけで、何となく落ち着いた気持ちになっていた。


「そういえば雫、昨日も喫茶店の小説を読んでたんだよね。どの辺りまで進んだ?」


「主人公が、常連のお客さんと少し長く話せるようになったところかな。最初は何を話したらいいか分からなかったのに、相手の好きなものを知ってから会話が増えていくのが、すごく自然でよかった」


「その辺り、俺も好きだったな。会話が増える理由がちゃんと描かれてるから、急に仲良くなった感じがしないんだよね」


 雫は嬉しそうに頷き、まだ読み終わっていないからこそ、これから主人公がどんなふうに変わっていくのか楽しみだと話してくれた。俺は結末を知っているけれど、そこへ至る過程を雫自身に楽しんでもらいたかったので、先の展開については触れないことにした。


 やがて校門が見えてくると、雫がふと空を見上げた。


「今日もいい天気だね。朝は少し涼しいけど、昼間は暖かくなりそう」


「そうだね。こういう天気なら、公園を歩くのも気持ちよさそうだな」


 俺が何気なくそう答えると、雫は一瞬だけ目を丸くした。それから、嬉しそうに頬を緩め、鞄の持ち手を両手で握り直した。


「……春樹、ちゃんと覚えててくれたんだ。公園のこと」


「もちろん。雫が考えてくれた場所だし、俺も楽しみにしてるからね。ただ、日にちはまだ決めてないし、喫茶店が今も営業してるかも分からないから、そこは調べないとな」


「うん。急いで決めなくても大丈夫だよ。私も、春樹と一緒に考える時間が楽しいから」


 雫の声がいつもより少し柔らかく聞こえた。俺はその言葉に頷きながら、校舎の入口へ向かって歩き始めた。


 出かける日を決めるのは、もう少し先でもいい。


 けれど、こうして話すたびに楽しみが増えていくのは、不思議な感覚だった。


     ◇◇◇


 二年三組の教室へ入ると、窓際の席で高坂悠斗が鞄を机に置いているところだった。こちらに気づいた悠斗は片手を上げ、俺が自分の席へ向かうのを待ってから、何やら面白そうな顔で近づいてきた。


「おはよう、春樹。朝から随分と機嫌がよさそうじゃないか。週末に面白い本でも見つけたのか?」


「おはよう。読んでる本は面白かったけど、新しい本は買ってないよ。昨日は家で読書したり、少し散歩したりしてた」


「散歩か。お前が休日に外へ出るのは珍しくないけど、本屋が目的じゃないっていうのは、ちょっと意外だな」


 悠斗は椅子の背に手を掛けながら笑った。俺はその言葉に反論しかけたものの、以前の休日なら確かに本屋へ行くことを中心に予定を考えていた気がして、少しだけ考え直した。


「別に、散歩することもあるよ。ただ、最近は歩いてると気になるものが増えたかもしれない。昨日も道端の花を見て、名前を調べたくなったんだ」


「へえ。お前、昔からそういうのは図鑑で調べるのが好きだったよな。でも、最近は本そのものより、誰かと見た景色の話をすることが増えた気がするぞ」


 悠斗は何気なく言ったようだったが、俺はその指摘に少し驚いた。確かに、雫と夕方の空を見たり、公園の話をしたりしてから、以前より周囲の景色を意識するようになっている。


「雫が、季節によって変わる景色を見るのが好きなんだって。それを聞いてから、俺も少し気にするようになったのかもしれない」


「なるほどな。自分じゃ気づかなかったものに、誰かのおかげで気づけるようになるっていうのは、悪くない話だ」


 悠斗はそう言うと、窓の外へ視線を向けた。朝の校庭では運動部の生徒たちが片づけをしており、少し離れた場所から掛け声が聞こえてくる。


「俺もこの前、紗弥と映画の話をしてて似たようなことを思ったんだよ。自分が気にしてなかった場面を相手が覚えてると、もう一度見たくなるんだよな」


「分かる気がする。赤木さんとは、土曜日に見た映画の話もまだしてるの?」


「ああ。感想を話してると、思ってたより話題が出てくるんだよ。あいつ、登場人物の表情の変化をよく見てるんだ。俺は話の流れを追う方に意識が向いてたから、そこが面白くてさ」


 悠斗は少し照れたように笑いながら、昨日も映画のパンフレットを読み返していたと話した。俺はその様子を見て、悠斗も赤木さんと話す時間を大切にしているのだろうと思った。


 そこへ、教室の入口から赤木紗弥が入ってきた。俺たちの姿に気づいた赤木さんは軽く手を振り、悠斗の方へ目を向けると、少しだけ表情を明るくした。


「おはよう、二人とも。何の話してたの? 高坂君、何だか楽しそうだけど」


「おはよう、赤木さん。週末の話をしてたんだ。悠斗が、映画の感想をまだいろいろ考えてるって」


「えっ、そうなの? 実は私も昨日、あの場面のことを思い出してたんだよね。主人公が最後に振り返るところ、最初に見たときとは印象が変わってきて」


 赤木さんは話しながら悠斗へ向き直った。悠斗も興味を引かれたようで、すぐに映画の場面について質問し始める。


 俺は二人の邪魔にならないよう、自分の席へ鞄を置いた。


 赤木さんが身振りを交えながら説明すると、悠斗は何度も頷き、ときどき自分の考えを付け加えている。二人とも楽しそうで、俺まで少し嬉しくなった。


(……同じ作品の感想を話せる相手がいるって、やっぱりいいよな。俺も雫や白石先輩と本の話をすると、気づかなかったところが見えてくるし)


 そう考えたところで、赤木さんがこちらを振り返った。


「そういえば七瀬君、前に言ってたお出かけの話はどうなったの? 場所を考えてるって言ってたよね」


「ああ、雫が公園を一つ候補に挙げてくれたんだ。広い散歩道があるらしくて、近くに喫茶店もあるかもしれないって。まだ決めてないけど、よさそうだなと思ってる」


「いいね。公園なら景色を見ながらゆっくり話せそうだし、予定を詰め込みすぎなくても楽しめそう」


 赤木さんは穏やかに笑いながら、以前自分が話したことを覚えていてくれたんだね、と付け加えた。俺が頷くと、悠斗は少しだけ意味ありげな顔をしたが、すぐに普段の調子へ戻った。


「まあ、無理して完璧な予定を作る必要はないだろ。行く相手と相談しながら決めればいいんだし、途中で気になるものが見つかったら寄り道するのも楽しそうじゃないか」


「そうだね。雫も、あまり予定を詰め込まない方がいいって言ってた。俺もその方が落ち着いて過ごせそうだと思う」


「それなら、いい感じに話が進んでるんじゃない? 日にちを決めるときも、二人の都合をちゃんと合わせれば大丈夫だと思うよ」


 赤木さんの言葉に、俺は素直に頷いた。


 その後、始業前の予鈴が鳴り、教室にいた生徒たちがそれぞれの席へ戻り始めた。悠斗と赤木さんも会話を切り上げたが、二人ともまだ話し足りなさそうな様子だった。


 俺は教科書を取り出しながら、朝の雫との会話を思い返した。


 公園へ行く日を決めることも大切だけれど、二人で相談しながら少しずつ予定を形にしていく時間も、きっと楽しいのだろう。


 そう思うと、次に雫と話せる時間が少し待ち遠しくなった。


     ◇◇◇


 午前の授業が終わり、昼休みになったころ、俺は図書室へ向かうことにした。


 今日の目的は、読みたい本を探すことだけではない。以前から白石栞先輩と話している推薦カードのことが、少し気になっていたのだ。まだ正式に掲示することが決まったわけではないけれど、文章や見せ方について考えるのは楽しいし、先輩がその後どうしているのかも聞いてみたかった。


 廊下を歩いていると、窓から差し込む日差しが床に長い四角形を作っていた。昼休みの校舎には生徒たちの話し声が響き、教室へ戻る人と購買へ向かう人がすれ違っている。


 図書室の近くまで来たところで、風紀委員の九条凛と顔を合わせた。


 凛は廊下の壁際に立ち、手元の用紙へ目を落としていた。俺に気づくと顔を上げ、いつもの落ち着いた表情で軽く会釈する。


「七瀬君、こんにちは。図書室へ行くところですか?」


「こんにちは、九条さん。うん、ちょっと本を見ようと思って。九条さんは、前に話してた掲示場所の確認?」


「ええ。安全啓発の掲示について、通行の妨げにならない位置をもう少し整理しているところです。ただ、まだ案をまとめている段階なので、実際に掲示できるかどうかはこれから確認する必要があります」


 凛は用紙を少し傾け、廊下のどの位置なら人の流れを妨げにくいかを説明してくれた。そこにはいくつかの候補が書き込まれていたが、どれもまだ検討中のものらしい。


「前に考えてた『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』っていう文章、俺はいいと思うよ。本を読むこと自体を注意するんじゃなくて、安全な場所で楽しもうって伝わるから」


「ありがとうございます。私も、その方向がよいと思っています。ただ、文章がよくても、掲示する場所が悪ければ意味がありませんから。読んでいる人が立ち止まって、かえって通行の妨げになる可能性も考えなければなりません」


 凛は真面目な表情でそう話した。俺はその説明を聞きながら、掲示物は文章だけで完成するわけではないのだと改めて感じた。


 図書室の推薦カードも、内容がよければすぐ掲示できるわけではない。所蔵されている本を確認し、設置場所や管理する人のことまで考える必要がある。


「そう考えると、場所を決めるのって難しいんだね。読んでもらいたいけど、立ち止まって困るところには置けないし」


「そうですね。ですから、今は急いで結論を出さないつもりです。風紀委員会で内容を整理してから、必要な確認を進めようと思っています」


 凛はそう言うと、少しだけ表情を和らげた。


「それに、七瀬君が以前から歩きながら読まないようにしていることも、私には参考になっています。本を好きな人が無理なく守れる注意の仕方を考えたいので」


「俺の場合は、歩きながら読むと本にも集中できないからね。せっかく面白いところを読んでるなら、落ち着いた場所で読みたいし」


「……七瀬君らしい考え方ですね」


 凛は小さく笑い、用紙を胸元へ戻した。その笑顔はほんの一瞬だったが、普段のきりっとした表情とは少し違って見えた。


 ちょうど廊下の向こうから生徒たちが歩いてきたため、俺たちは壁際へ寄って道を空けた。凛はその流れを確かめるように一度視線を動かしてから、再び俺へ向き直る。


「引き止めてしまいましたね。図書室へ行くところだったのでしょう?」


「大丈夫だよ。九条さんの話も参考になったし、推薦カードを考えるときにも役立ちそうだと思った」


「そう言っていただけるならよかったです。掲示については、まだ決まったことがありませんので、その点だけは忘れないでくださいね」


「もちろん。決まってないことを、もう掲示するみたいには話さないよ」


 俺がそう答えると、凛は安心したように頷いた。


 図書室へ向かう俺を見送る彼女の視線が、少しだけ長く背中へ残っていたことには、もちろん気づかなかった。


     ◇◇◇


 図書室の扉を開けると、紙と木の棚が混ざったような、慣れ親しんだ匂いがした。


 昼休みということもあって、室内には何人かの生徒がいる。窓際の席では一人の生徒が参考書を広げており、奥の棚では別の生徒が背表紙を順番に眺めていた。受付の近くでは、白石栞先輩が机の上に数枚の紙を並べ、何かを確認しているところだった。


「こんにちは、白石先輩。今日は推薦カードの作業をしてるんですか?」


 声を掛けると、先輩は顔を上げ、穏やかな笑顔を見せてくれた。


「こんにちは、七瀬君。ええ、少しだけね。前に考えていた文章を見直していたんだけど、今日は本当に図書室にある本と結びつけられるか、確認する順番を整理していたところなの」


「なるほど。文章ができても、その本が借りられる状態かどうか分からないと、推薦しにくいですもんね」


「そうなの。読んでみたいと思ってもらえても、どの本を紹介しているのか分からなかったり、所蔵を確認していなかったりすると、かえって困らせてしまうでしょう?」


 先輩は机の上の紙を少しずらし、以前から考えている推薦文の下書きを見せてくれた。恋愛小説のカードには『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』という見出しがあり、その下に大学で再会した幼馴染の二人についての紹介文が書かれている。


 もう一枚の日常小説のカードには、『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』という見出しが使われていた。


 どちらも以前見せてもらった文章で、今は文字の間隔や読みやすさを確認している段階らしい。先輩はまだ正式な掲示物ではないことを説明してから、机の端に置いていたメモを指差した。


「今日は、文章を増やすより先に、必要な確認を分けてみようと思っているの。紹介したい本が図書室にあるか、内容が実際の本と合っているか、それから掲示する場所や方法を相談できるか。そこを整理してから、先生に確認する方がいいと思って」


「いいですね。そうすれば、文章だけ先に完成させて、あとから大きく直すことも減りそうです」


「ええ。それに、読んだ人がどんな本なのか想像しやすい文章になっているかも、最後にもう一度見直したいの。七瀬君、少しだけ意見を聞いてもいい?」


 先輩はそう言いながら、恋愛小説のカードを俺の方へ向けた。


 俺は机の前に立ち、見出しと紹介文を順番に読んだ。


 大学で再会した幼馴染の二人。懐かしい思い出の先で、今の相手を知っていく恋の物語。


 文章は短いけれど、物語の中心にあるものが伝わってくる。俺が今読んでいる小説も、まさに昔の相手を知っていることと、今の相手を知ろうとすることの違いが大切になっている。


「この見出し、やっぱりいいと思います。昔から知ってる相手でも、今の気持ちまでは分からないっていうところが、ちゃんと伝わる気がするので」


「そう言ってもらえると嬉しいわ。七瀬君、前よりもこの文章を読むときの表情が少し変わった気がするのだけど、何かあった?」


 先輩にそう尋ねられ、俺は少し驚いた。


 以前も同じ文章を読んだはずなのに、今は違う印象を受けているらしい。


 考えてみれば、あれから恋愛小説をかなり読み進めているし、雫とも昔の思い出について話す機会があった。


「最近読んでる小説で、同じ思い出でも二人が大切にしてる部分が違うっていう場面があったんです。それが印象に残っていて、こういう見出しの意味も前より分かる気がするんですよ」


「……そうなのね。物語の中で、同じ時間を過ごしていた二人が、それぞれ違うものを覚えているということかしら」


「はい。主人公は何気ない出来事だと思っていたのに、相手にとっては大切な思い出だったりして。それを知ってから、今まで当たり前だと思っていた関係を見直すようになるんです」


 先輩は俺の説明を聞きながら、ゆっくり頷いた。手元の紙へ目を落としたあと、少し考えるように指先を止める。


「それは、素敵な描き方ね。長い時間を一緒に過ごしていても、知らないことが残っているからこそ、相手を知る楽しさがあるのかもしれないわ」


「俺もそう思います。昔から知ってる相手だから、全部分かってるつもりになるのは違うんだなって」


 そこまで話したところで、雫のことが頭に浮かんだ。


 今朝、雫は昔一緒に図鑑を見たことについて、俺とは違う部分を覚えていると話してくれた。


 俺は花の名前を調べようとしていたことを覚えているけれど、雫は一緒に調べてくれたことが嬉しかったらしい。


 その違いを知れたことが、何となく嬉しかった。


「実際、雫と昔の話をしていても、そういうことがあるんですよ。俺が何を調べてたか覚えてる出来事を、雫は一緒に調べたことが嬉しかったって覚えてたりして」


 俺が何気なくそう話すと、先輩の指先が一瞬だけ止まった。


 けれど、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻り、静かに微笑んでくれた。


「西条さんとは、本当に長い付き合いなのね。そうやって昔のことを話せる相手がいるのは、きっと大切なことだと思うわ」


「そうですね。最近は、前より雫の話を聞くのが楽しくなってる気がします。昔のこともそうですけど、今好きなものについて話してくれるのも面白くて」


 先輩はその言葉に頷いたものの、少しだけ視線を下げた。


 机の上の推薦カードを指先で整える仕草が、普段より慎重に見える。


 俺は何か気になることでもあったのだろうかと思ったが、先輩はすぐに別の紙を取り上げた。


「七瀬君がそうやって本の感想を深く考えるようになったのは、私も嬉しいわ。ところで、こちらの日常小説のカードも見てもらえるかしら。文章自体は変えていないのだけど、見出しと紹介文の間を少し広くしたの」


 俺は先輩が示してくれた紙へ視線を移した。


 見出しと本文の間に余白ができたことで、最初に目を向ける場所が分かりやすくなっている。文章そのものを変えなくても、見せ方で印象が変わるのだと感心した。


「前より読みやすいと思います。見出しを読んでから、自然に下の文章へ目が移る感じがしますね」


「よかった。あとは実際の本との対応を確認してから、掲示できるか相談することになると思うの。まだ時間は掛かるけれど、急いで中途半端なものにしたくないから」


「俺もその方がいいと思います。せっかくなら、読んだ人が本当にその本を手に取りたくなるようなカードにしたいですし」


 先輩はその言葉を聞いて、嬉しそうに笑った。


 俺たちはそのあとも、紹介文の読みやすさや、どんな本を探している人に届いてほしいかについて話した。ただし、まだ所蔵の確認が済んでいない本を、すでに推薦対象として決まったように扱わないことだけは、お互いに確認しておいた。


 やがて昼休みの終わりが近づき、俺は時計を確認してから立ち上がった。


「今日はありがとうございました、白石先輩。また何か確認できたら、俺にも教えてください」


「こちらこそ、ありがとう。七瀬君の感想を聞けてよかったわ。……それから、今読んでいる恋愛小説も、読み終わったらまた感想を聞かせてね」


「はい。もう少しで読み終わりそうなので、そのときはぜひ」


 俺がそう答えると、先輩は穏やかに微笑んだ。


 図書室を出る直前、受付の方へもう一度目を向けると、先輩は机の上のカードを丁寧に重ねていた。その横には、まだ確認事項が書かれたメモが置かれている。


 推薦カードが正式に掲示されるのは、もう少し先のことになるのだろう。


 それでも、少しずつ形になっていく様子を見るのは楽しかった。


     ◇◇◇


 春樹が図書室を出ていったあと、白石栞は机の上の紙を揃えながら、しばらく扉の方へ目を向けていた。


 昼休みの図書室には、まだ数人の生徒が残っている。窓際の席では参考書を閉じる音が聞こえ、奥の棚からは本を戻す小さな音が響いていた。


 栞はその静けさの中で、先ほど春樹が話していたことを思い返していた。


(……西条さんと、昔の思い出について話しているのね)


 春樹は、いつも通り楽しそうだった。


 本について話すときの表情は以前から変わらないけれど、最近は登場人物の気持ちを説明するとき、以前より少し慎重に言葉を選ぶようになった気がする。


 そして、その変化の中には、幼馴染の西条雫との時間が関わっているらしい。


 栞は、春樹が雫の名前を口にしたときの表情を思い出した。


 特別に照れていたわけではない。


 誰かに自分の気持ちを打ち明けるような様子でもなかった。


 ただ、雫のことを話す春樹は、とても自然に笑っていた。


 その笑顔が少しだけ胸に残っている。


(……七瀬君にとって、西条さんは本当に大切な人なのね)


 そう思うと、胸の奥に小さな寂しさが生まれた。


 けれど、春樹が本を通じて新しいものの見方を見つけていることは、栞にとっても嬉しいことだった。


 最初に図書室で話すようになったころ、春樹は本そのものについて語ることが多かった。物語の構成や登場人物の行動を楽しそうに説明し、気になった本があればすぐに手に取る。


 今もその姿は変わらない。


 ただ、最近は物語を読んで自分が何を感じたのか、その気持ちが日常のどんな出来事と重なるのかまで話してくれるようになった。


 栞は、その変化を近くで見られることを大切に思っていた。


 だからこそ、少しだけ複雑だった。


 春樹が自分の知らないところで誰かと過ごし、その時間を通じて新しい感想を持つようになる。それは当然のことなのに、その相手が雫だと分かるたびに、自分の気持ちを意識せずにはいられなかった。


 栞は小さく息を整え、机の上の推薦カードへ視線を戻した。


(……今は、私にできることを大切にしましょう。七瀬君と本の話をする時間も、私にとっては大切なんだから)


 そう考えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。


 机の端には、春樹から借りている古書店を舞台にしたミステリーが入った鞄が置いてある。以前、読み終えるまで時間が欲しいと伝えて貸出期間を延ばしてもらった本で、まだ返していない。


 栞は鞄へ目を向け、今日も帰宅後に少し続きを読もうと思った。


 春樹へ感想を伝えられる日が来たら、きっとまた楽しい時間になる。


 その楽しみを大切にしながら、栞は確認事項を書いたメモへ新しい印を付けた。


 推薦カードも、まだ完成ではない。


 けれど、急がずに進めていけばいい。


 栞はそう自分へ言い聞かせ、午後の準備を始めた。


     ◇◇◇


 午後の授業が終わるころには、窓の外の光が少し柔らかくなっていた。


 俺はノートを閉じ、教科書を鞄へしまいながら、今日一日のことを思い返していた。朝は雫と通学路を歩き、教室では悠斗たちと週末の話をして、昼休みには図書室で推薦カードについて考えた。


 普段と大きく変わらない月曜日だったはずなのに、何となく話題の多い一日だったように感じる。


 教室の後ろでは、悠斗が赤木さんと話していた。


 映画の感想について、また何か新しいことを思いついたらしい。赤木さんが笑いながら説明すると、悠斗は少し驚いた顔をしてから、自分の考えを話し始めていた。


 俺は二人の様子を見ながら、鞄を肩に掛けた。


 そのとき、悠斗がこちらへ顔を向けた。


「春樹、もう帰るのか? 今日は図書室へ寄っていかないのか?」


「昼休みに行ってきたから、今日はそのまま帰ろうと思ってる。読みかけの本もあるし、家で続きを読みたいんだ」


「なるほどな。じゃあ、また明日。……ああ、そうだ。公園の話、ちゃんと雫と相談しろよ。お前、気になることを調べ始めると本の方に夢中になるからな」


 悠斗は笑いながらそう言った。


 俺は少しだけ苦笑したものの、否定はできなかった。


「分かってるよ。今回は俺だけの予定じゃないし、雫と一緒に決めたいと思ってる」


「それならいいんじゃないか。楽しんでこいよ、って言うにはまだ早いかもしれないけどさ」


 悠斗はそう言って、赤木さんの方へ戻っていった。


 俺は二人に挨拶してから教室を出た。


 廊下には下校する生徒たちが行き交っており、部活動へ向かう人たちの声も聞こえてくる。階段を下りながら、俺は雫と帰る時間が合うだろうかと考えた。


 今朝は一緒に登校できた。


 帰りも会えたら、今日のことを少し話したい。


 そう思って昇降口へ向かうと、靴箱の近くに雫の姿が見えた。


 雫は鞄を肩に掛け、誰かを待っているように入口の方を見ていた。俺に気づくと、少し嬉しそうに表情を明るくする。


「春樹、お疲れさま。今日はもう帰るところ?」


「うん。雫も今帰るところ? よかったら一緒に帰らない?」


「もちろん。私も、春樹と帰れたらいいなって思ってたところだよ」


 その言葉を聞いて、俺は自然と笑顔になった。


 雫も同じことを考えてくれていたらしい。


 俺たちは靴を履き替え、校舎を出た。


 外へ出ると、午後の空気は朝より暖かくなっていた。校庭の向こうでは運動部の生徒たちが準備をしており、遠くから掛け声が聞こえてくる。


 俺たちは人の流れを避けながら、ゆっくり校門へ向かった。


「今日はどうだった、春樹? 何か面白いことあった?」


「昼休みに白石先輩と推薦カードの話をしたよ。まだ掲示できるかは決まってないけど、本がちゃんと図書室にあるかとか、内容が合ってるかとか、確認することを整理してたんだ」


「そうなんだ。文章を考えるだけじゃなくて、実際に紹介するための準備も必要なんだね」


「うん。俺も話を聞いて、ちゃんと確認しないといけないことが多いんだなって思った。九条さんも安全啓発の掲示場所を考えてたけど、あっちもまだ検討中なんだって」


 雫は俺の話を聞きながら、何度か頷いた。


 図書室の推薦カードと風紀委員の掲示は別の企画だけれど、どちらも読む人や通る人のことを考える必要がある。そう説明すると、雫は少し考えてから口を開いた。


「春樹って、そういう話を聞くのも好きだよね。本の内容だけじゃなくて、どうやったら誰かに届けられるかっていうところまで考えてる感じがする」


「そうかな。でも、確かに面白いとは思うよ。いい本でも、存在を知らなかったら読めないし。推薦カードを見て、普段読まないジャンルに興味を持つ人がいたら嬉しいだろうな」


「うん。私も、春樹に本を紹介してもらうようになってから、前よりいろんな物語を読むようになった気がする」


 雫はそう言って、少しだけ嬉しそうに笑った。


 俺はその表情を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 雫が本を楽しんでくれていることは、何度聞いても嬉しい。


 それに、最近は雫がどんなところを面白いと思ったのかを聞くこと自体が楽しみになっている。


「そう言ってもらえると嬉しいな。雫が読んでる喫茶店の小説も、読み終わったらまた感想を聞きたいし」


「うん。まだ途中だけど、少しずつ読み進めてるよ。主人公があのお店を好きになっていく理由が、だんだん分かってきた気がするの」


 俺たちはそんな話をしながら、住宅街へ続く道を歩いた。


 途中、道路沿いの植え込みに小さな花が咲いているのが見えた。


 昨日、家の近くで見つけた花と似た色だった。


 俺は思わず足を緩めた。


「……あ、雫。ちょっと見てもいい?」


 俺が植え込みの方へ視線を向けると、雫も隣で立ち止まった。歩道の端へ寄って通行の邪魔にならない位置を確かめてから、二人で花を眺める。


「この花、昨日散歩してたときにも似たのを見たんだ。名前が分からなくて、ちょっと気になってたんだけど」


「本当だ。小さくてかわいいね。私も見たことはある気がするけど、名前までは分からないかな」


 雫はしゃがみ込まず、少し身体を傾けて花を眺めた。風が吹くと細い茎が揺れ、淡い色の花びらが光を受けている。


 俺はその様子を見ながら、昔のことを思い出した。


「そういえば、今朝も図鑑の話をしたよね。昔はこういうのを見つけると、すぐ調べたくなってた気がする」


「うん。春樹、気になったことがあると、ちゃんと知りたくなるんだよね。昔もそうだったし、今も変わってないところだと思う」


「でも最近は、名前を知るだけじゃなくて、雫がこういう景色をどう見てるのかも気になるんだよな」


 俺がそう言うと、雫はゆっくり顔を上げた。


 目が合った瞬間、雫の頬が少しだけ赤くなったように見えた。


「……私が、どう見てるか?」


「うん。雫って、何気ない景色でもきれいなところを見つけるのが上手だから。俺もそういうのを知れたら、今までと違う見方ができるかなって」


 雫はすぐには返事をしなかった。


 少しだけ視線を花へ戻し、それから小さく微笑んだ。


「……春樹は、やっぱり優しいね。私が好きなものを、そんなふうに知ろうとしてくれるんだ」


「優しいっていうより、俺も面白いと思ったからかな。雫と話してると、今まで気にしてなかったことに気づくし」


 そう答えると、雫は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見た瞬間、俺は何となく安心した。


 花の名前は分からなかった。


 けれど、雫と一緒に立ち止まって眺めたことで、さっきより少し印象に残る景色になった気がする。


 俺たちはしばらく花を眺めてから、再び歩き始めた。


     ◇◇◇


 帰り道の途中、雫が今度のお出かけについて話し始めた。


「春樹、あの公園のことなんだけど、昨日もう少し考えてみたの。前に行ったときは家族と一緒だったから、全部の道を歩いたわけじゃないんだよね」


「そうなんだ。それなら、行く前にどんな道があるか確認した方がよさそうだね。無理に全部歩く必要はないし」


「うん。広い場所だったのは覚えてるけど、今も同じように歩けるかは分からないから。あと、近くにあった喫茶店も、ちゃんと確認した方がいいと思う」


 雫は少し申し訳なさそうに笑ったが、俺は首を横に振った。


「候補を教えてくれただけでも十分だよ。俺も調べてみたいし、二人で確認すればいいと思う。せっかく出かけるなら、慌てずに楽しみたいからね」


「……ありがとう、春樹。そう言ってもらえると安心する」


 雫はそう言ってから、少しだけ歩く速度を緩めた。


 俺もそれに合わせて歩幅を小さくする。


 夕方の光が道路の端へ長い影を落とし、住宅街の窓には空の色が映っていた。


「それにしても、雫は本当に景色を見るのが好きなんだね。昨日も季節の変化が楽しいって言ってたし」


「うん。小さいころから、同じ場所でも季節によって違う景色になるのが好きだったの。春には花が咲くし、夏は緑が濃くなるし、秋には葉っぱの色が変わって……冬の静かな景色も、私は好きだな」


 雫は話しながら、少し先の街路樹へ目を向けた。


 俺もつられて同じ方向を見る。


 木の葉はまだ大きく色を変えていないけれど、日差しの当たり方によって明るさが違って見えた。


「そうやって考えると、同じ場所へ何度行っても楽しめそうだね。俺は本なら何度も読み返すことがあるけど、景色も似てるのかもしれない」


「……うん。私もそう思う。同じ本を読み返しても、前と違うところが気になったりするでしょ? 景色も、見るときの気持ちで少し違って見えることがあるんだよ」


 雫の言葉を聞いて、俺は思わず頷いた。


 確かに、同じ本でも読む時期によって印象が変わることがある。


 以前は気にならなかった登場人物の気持ちが、今読むと理解できる。


 それと同じように、いつもの道も、雫と歩くことで違うものが見えるようになっているのかもしれない。


「なるほどな。そう考えると、雫が景色を見るのが好きな理由、少し分かった気がする」


「本当? ……嬉しいな。春樹にそう言ってもらえると」


 雫は照れたように笑った。


 俺はその笑顔を見ながら、何となく胸の奥が温かくなるのを感じた。


 雫の好きなものを知ることが、こんなに楽しいとは思わなかった。


 もちろん、俺は今でも本が一番好きだ。


 休日には静かな部屋で読書をしたいし、面白い本を見つければ時間を忘れて読み進めてしまう。


 けれど最近は、それとは別に楽しみにできる時間が増えている。


 雫と話すこと。


 雫が好きな景色を一緒に見ること。


 そして、雫が何を感じているのかを知ること。


 そういう時間も、今の俺にとって大切になり始めていた。


 しばらく歩いていると、いつもの分かれ道が近づいてきた。


 雫は少しだけ名残惜しそうに歩幅を緩め、それから俺へ顔を向けた。


「春樹、今日は一緒に帰れて嬉しかったよ。朝も帰りも、いろんな話ができたね」


「俺も楽しかったよ。花の名前は分からなかったけど、今度図鑑で調べてみようかな。雫と話してたら、ちょっと気になってきたし」


「ふふ。分かったら、私にも教えてね。私も、どんな花なのか知りたいな」


「もちろん。あと、公園のことも、また学校で相談しよう。日にちはまだ決めてないけど、少しずつ考えていけたらいいね」


「うん。楽しみにしてるね、春樹」


 雫はそう言って、柔らかく微笑んだ。


 俺も頷き、別れの挨拶を交わす。


 雫が角を曲がっていくのを見送ってから、俺は自分の家へ向かって歩き始めた。


 途中、さっき見た花のことを思い出した。


 小さくて、淡い色の花。


 名前はまだ分からない。


 けれど、雫と一緒に見たことは、きっとしばらく覚えているだろう。


 そう考えると、何となく笑みが浮かんだ。


     ◇◇◇


 帰宅して夕食を済ませたあと、俺は自室の机へ向かっていた。


 窓の外はすっかり暗くなり、住宅街には夜の静けさが広がっている。机の上には、読みかけの恋愛小説と読書ノート、それからまだ読み始めていない短編集が置かれていた。


 俺はまず、今日の帰り道で見た花について調べようかと考えた。


 けれど、手元にある本だけではすぐに分かりそうになかったし、記憶だけで名前を決めつけるのも違う気がした。


 今度、図書室で植物の本を探してみよう。


 そう決めてから、俺は読書ノートを開いた。


 昨日書いた感想の下に、今日の出来事を思い出しながら、少しだけ文章を書き加える。


『同じものを見ても、人によって気づくところは違う。相手の見方を知ることで、自分が今まで気づかなかったものを見つけられることもある』


 書き終えてから、俺はしばらくその文章を眺めた。


 今日、雫と花を見たときに感じたことだ。


 俺は名前を知りたいと思った。


 雫は花の色や揺れる様子を見て、きれいだと笑っていた。


 どちらが正しいというわけではない。


 ただ、二人で見たからこそ、俺は名前以外のことにも目を向けられたのだろう。


(……本の感想を書いてるつもりなのに、最近は雫と話したことまで一緒に考えるようになってるな)


 俺は小さく笑い、ノートを閉じた。


 そのあと、読みかけの恋愛小説を手に取った。


 紺色の三日月の栞を抜き、昨日の続きから読み始める。


 物語の主人公は、幼馴染のヒロインと向き合いながら、自分が知らなかった彼女の気持ちを少しずつ理解しようとしていた。


 昔から一緒にいたからこそ、分かっているつもりになっていたこと。


 相手が何を大切にしているのか、きちんと聞かなければ分からないこと。


 そして、相手のことを知りたいと思う気持ちが、いつの間にか以前より大きくなっていたこと。


 その描写を読みながら、俺は今日の雫との会話を思い返した。


 雫が好きな景色。


 季節によって変わるものを見る楽しさ。


 昔、一緒に図鑑を眺めた思い出。


 どれも、俺が知っているようで、まだ十分には知らなかったことだった。


(……雫のこと、もっと知りたいな)


 その考えが浮かんだ瞬間、俺はページをめくる手を少しだけ止めた。


 最近、同じようなことを考える機会が増えている。


 雫が何を好きなのか知りたい。


 雫がどんなことを考えているのか聞いてみたい。


 そして、雫が嬉しそうに笑ってくれると、自分まで嬉しくなる。


 それがどういう気持ちなのか、今の俺にはまだうまく説明できない。


 けれど、少なくとも嫌な変化ではなかった。


 むしろ、今までより日常が少し楽しくなっている気がする。


 俺はもう一度文庫本へ視線を戻した。


 主人公は、自分の気持ちを認め始めたことで、幼馴染との関係を以前とは違う目で見つめるようになっている。


 俺はまだ、そこまで明確な答えを持っていない。


 ただ、雫と過ごす時間が大切だと思う気持ちは、少しずつ強くなっている。


 そのことだけは、はっきりしていた。


 しばらく読み進めたところで、机の上のスマートフォンが小さく震えた。


 画面には、雫からのメッセージが表示されている。


『春樹、こんばんは。今日は一緒に帰れて楽しかったよ。あの花、やっぱり気になるね』


 俺は思わず笑顔になった。


 雫も、帰り道で見た花のことを覚えていてくれたらしい。


『こんばんは、雫。俺も楽しかったよ。花の名前はまだ分からないけど、今度図書室で調べてみようと思ってる』


『そっか。春樹らしいね。分かったら、ぜひ教えてほしいな』


『もちろん。雫と一緒に見た花だし、俺もちゃんと知りたいから』


 送信してから、俺は少しだけ画面を見つめた。


 特別な意味を込めたつもりはなかった。


 けれど、雫と一緒に見たものだから知りたいという気持ちは、本当だった。


 しばらくすると、返事が届いた。


『……ありがとう、春樹。私も、あの花のこと覚えておきたいな』


 その文章を読んで、胸の奥が少し温かくなった。


 雫にとっても、今日の帰り道が楽しい時間だったのだろう。


 俺はスマートフォンを手にしたまま、少し考えた。


 そして、ふと思いついたことを打ち込んだ。


『今度公園に行ったときも、気になるものがあったら一緒に見てみようか。雫が好きな景色も、もっと知りたいし』


 送信すると、少しだけ間が空いた。


 俺はその間に、机の上の文庫本へ目を向けた。


 主人公も、相手のことをもっと知りたいと思っている。


 その気持ちが、物語の中では恋愛感情として描かれている。


 けれど、俺自身の気持ちについては、まだ簡単に結論を出せそうになかった。


 やがて、雫から返事が届いた。


『うん。私も、春樹と一緒にいろんなものを見たいな。きっと楽しいと思う』


 俺はその文章を読みながら、自然に頬を緩めた。


 雫も同じように楽しみにしてくれている。


 それが嬉しかった。


『じゃあ、また学校で相談しようね。おやすみ、雫』


『うん。おやすみ、春樹。また明日ね』


 俺はスマートフォンを机へ置き、静かに息を吐いた。


 今日も、雫とたくさん話せた。


 昔の思い出についても、好きな景色についても、まだ知らなかったことを少しだけ知ることができた。


 そして、雫が嬉しそうに笑ってくれたことが、何より心に残っている。


 俺は文庫本を手に取り、再びページを開いた。


 物語の結末までは、あと少し。


 けれど、今夜は無理に読み終えなくてもいい気がした。


 登場人物の気持ちを考えながら、ゆっくり読み進めたい。


 そして、読み終わったときには、自分が何を感じたのかをきちんとノートへ残しておきたい。


 窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。


 俺はその音を聞きながら、ページへ視線を落とした。


 本を読むことは、今も変わらず大好きだ。


 けれど最近は、本の中で見つけた気持ちを、誰かと話したくなることが増えている。


 そして、その相手として真っ先に思い浮かぶのは、いつも雫だった。


 俺は小さく笑い、ゆっくりと次のページをめくった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。