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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第85話 日曜日は静かに本を読みたいだけなのに、どうして幼馴染の好きなものを探してしまうんだ?


 日曜日の朝、俺はいつもより少し遅い時間に目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む光はすでに明るく、窓の向こうでは近所の家から洗濯物を干す音が聞こえている。昨日は一日を通して天気がよかったが、今日も空には大きな雲が見当たらず、外を歩くには気持ちのよさそうな朝だった。


 枕元の時計を確認してから身体を起こし、俺は机の上へ目を向けた。


 そこには、昨日も読み進めていた恋愛小説が置いてある。


 大学で再会した幼馴染同士を描いた物語は、主人公が自分の気持ちを認め始めたところから、少しずつ終盤へ向かっている。二人がどんな結末を迎えるのか気になるものの、昨夜は途中で眠くなってしまい、結局最後まで読むことはできなかった。


(……今日は、あの続きを読もう。そろそろ最後まで読みたいし、読み終わったら感想も整理しておきたいな)


 そんなことを考えながら、俺は布団から出た。


 机の上には、まだ手をつけていない日常の小さな謎を扱った短編集もある。こちらは以前、本屋で見つけて購入したものだが、最近は恋愛小説の方が気になっていて、なかなか読み始める機会を作れずにいた。


 もちろん、読んでいない本があること自体は悪いことではない。


 次に読む楽しみが残っていると思えば、むしろ嬉しいくらいだ。


 けれど、読みたい本が増え続けると、どれから手をつけるべきか迷ってしまう。


 そういうとき、以前の俺なら迷わず読書の予定を組み立てていた。


 ところが最近は、そこへ別の楽しみが加わっている。


(……雫とのお出かけ、いつにしようかな)


 昨日、雫は駅の向こうにある大きな公園を候補として教えてくれた。


 広い道があって、景色を眺めながら歩ける場所。近くには喫茶店があるかもしれず、駅の周辺には本屋もあるらしい。


 まだ行き先として決まったわけではないし、日にちも相談していない。


 それでも、具体的な場所を一つ知ったことで、以前よりずっと想像しやすくなっていた。


 公園の中を雫と歩く。


 途中で気になった景色があれば立ち止まり、疲れたら休憩する。


 それから、時間に余裕があれば本屋にも寄る。


 そんな休日を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。


(……まだ何も決まってないのに、ずいぶん楽しみにしてるな、俺)


 自分でも少し不思議だった。


 雫とは昔から一緒に出かけることがあったし、最近も本屋や図書館で話す機会は多い。


 だから、二人で出かけること自体が初めてというわけではない。


 それなのに、今回はいつもより少し特別な予定のように感じられた。


 俺は机の端に置いたスマートフォンを確認した。


 新しい通知はない。


 昨夜、雫とは公園へ出かけることについてメッセージを交わしている。


 最後には、今度のお出かけをゆっくり楽しもうと約束した。


 そのやり取りを思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。


(……まあ、今日は日曜日だし、雫にも予定があるだろうからな)


 俺はスマートフォンを置き、カーテンを開けた。


 朝日を受けた住宅街には、穏やかな時間が流れている。


 今日はまず本を読もう。


 それから、もし時間があれば、雫が楽しめそうな場所について少し考えてみよう。


 そう決めて、俺は部屋を出た。


     ◇◇◇


 朝食を済ませて自室へ戻った俺は、机の上を整理してから文庫本を開いた。


 窓を少し開けると、ひんやりとした風が部屋へ流れ込んでくる。外から聞こえる車の音も、平日の朝ほど慌ただしくはなく、読書をするにはちょうどいい静けさだった。


 俺は紺色の三日月の栞を抜き、昨日の続きから読み始めた。


 物語の主人公は、幼馴染のヒロインと休日に会う約束をしていた。


 二人で大学の近くにある喫茶店へ行き、これまで話せなかったことをゆっくり話す。


 そんな、ごく普通の予定だった。


 けれど、主人公にとっては、それが今までとは少し違う意味を持ち始めていた。


 昔なら、何も考えずに誘うことができた相手。


 気軽に冗談を言い合い、相手の家へ遊びに行くことも当たり前だった幼馴染。


 その相手と二人で会うだけなのに、今は服装や待ち合わせの時間まで気になってしまう。


 主人公は、そんな自分に戸惑っていた。


(……昨日も思ったけど、やっぱり難しいんだな。相手のことを意識し始めると、今まで普通だったことまで気になるのか)


 俺はページをめくりながら、少し考えた。


 雫と出かけるとき、俺は服装についてそこまで悩んだことがない。


 いつも通り、動きやすくて清潔な服なら十分だと思っている。


 けれど、待ち合わせの時間については少し気になっていた。


 雫が朝から出かけたいのか、それとも昼前くらいからのんびり過ごしたいのか。


 歩く距離はどのくらいがいいのか。


 休憩する場所は、事前に調べておいた方がいいのか。


 考えてみれば、主人公と似たようなことを気にしている部分もある。


 ただ、俺の場合は雫が疲れずに楽しめる予定にしたいという気持ちが大きい。


 それは、昔から仲のいい相手に対する気遣いとして、自然なことだろう。


 そう考えて、俺は続きを読み進めた。


 物語の中では、主人公が喫茶店へ向かう途中、幼いころの思い出を振り返っていた。


 昔、二人で歩いた道。


 一緒に遊んだ公園。


 何気なく交わした言葉。


 当時は特別だと思っていなかった出来事が、大人になった今では大切な記憶として残っている。


 その描写を読んでいると、俺も雫と過ごした昔の時間を思い出した。


 小さいころ、二人で近所を歩いたこと。


 気になるものを見つけると、雫が嬉しそうに俺を呼んでくれたこと。


 俺が本に夢中になっていると、雫が隣で静かに待っていてくれたこと。


 そうした記憶は、今も自然に思い出せる。


 ただ、雫が以前話しかけてくれた大切な昔の話については、まだ詳しいことを聞いていない。


 雫は、自分の言葉で話せるときまで待ってほしいと言っていた。


 俺は、その約束を守りたいと思っている。


(……雫が話したくなったときに、ちゃんと聞けるようにしておこう)


 そう考えてから、俺は物語へ意識を戻した。


 主人公は喫茶店でヒロインと向かい合い、昔の思い出について話し始めていた。


 ところが、同じ出来事を覚えていても、二人の感じ方は少し違っている。


 主人公にとっては何気ない思い出だったことが、ヒロインにとっては長く心に残る大切な出来事だった。


 その違いに気づいた主人公は、驚きながらも嬉しそうに笑っていた。


 俺はその場面を読んで、しばらく手を止めた。


 同じ時間を過ごしていても、相手が何を感じていたのかまでは分からない。


 それは、当たり前のことなのかもしれない。


 けれど、最近の俺は、その当たり前のことを以前より強く意識するようになっていた。


 雫が昔の思い出を大切にしていること。


 今も、俺と一緒に過ごす時間を楽しみにしてくれていること。


 その気持ちを知るたびに、俺も雫との時間をもっと大切にしたいと思う。


(……本当に、最近はこういう場面が気になるようになったな)


 以前なら、物語の展開や登場人物の行動を中心に読んでいた。


 もちろん今も、構成や伏線を考えるのは好きだ。


 けれど最近は、登場人物が何を感じているのか、その気持ちがどのように変わっていくのかを考える時間が増えている。


 それは、読書の楽しみ方が一つ増えたということなのかもしれない。


 俺は小さく笑い、再びページをめくった。


     ◇◇◇


 午前中の読書を一区切りにしたころ、俺は机の上の読書ノートを開いた。


 恋愛小説はかなり終盤まで進んだが、まだ最後までは読んでいない。ここで無理に読み終えるより、今感じたことを少し整理しておきたいと思ったのだ。


 ノートには、これまで読んできた場面についての感想が並んでいる。


 昔から知っている相手でも、今の相手について知らないことがある。


 相手のことをもっと知りたいと思う気持ちが、少しずつ大きくなっていく。


 そして、大切な相手との関係を考えるときには、答えを急がず、今の気持ちを丁寧に見つめることも必要なのかもしれない。


 俺は昨日書いた文章を読み返しながら、少し考えた。


 物語の主人公は、自分の気持ちを認め始めている。


 けれど、それを相手へ伝えることには、まだ戸惑いがある。


 その理由は、今まで築いてきた関係を大切にしているからだ。


 俺はペンを持ち、ノートへ新しい感想を書き加えた。


『同じ思い出でも、二人が覚えていることや大切にしている部分は違う。主人公がその違いを知り、相手の気持ちをもっと理解しようとするところが印象に残った』


 書き終えてから、俺は少しだけ考えた。


 雫との昔の思い出も、きっと同じなのだろう。


 俺が何気なく覚えていることを、雫は別の意味で大切にしているかもしれない。


 反対に、雫が忘れていることを、俺が覚えている場合だってあるはずだ。


 だからこそ、今の雫がどんなことを考えているのか、もっと聞いてみたい。


 そう思っていると、机の上のスマートフォンが小さく震えた。


 俺はペンを置き、画面へ目を向けた。


 表示されていたのは、雫からのメッセージだった。


『おはよう、春樹。今日は何してる?』


 その文章を見た瞬間、俺は自然と笑顔になった。


『おはよう、雫。今は本を読んで、感想をノートに書いてたところだよ』


 送信すると、少ししてから返事が届いた。


『やっぱり春樹は本を読んでたんだね。私はさっきまで、昨日の喫茶店の小説の続きを読んでたよ』


 俺はその文章を読んで、嬉しくなった。


 雫は、俺が貸した本を今日も読んでくれているらしい。


『どうだった? 面白いところまで進んだ?』


『うん。主人公が少しずつお店の人たちと話せるようになってきて、前よりその場所が好きになってる感じがするの』


 俺は思わず頷いた。


 あの小説の魅力は、まさにそこにあると思っている。


 最初は知らない町で戸惑っていた主人公が、何気ない会話を重ねるうちに、自分の居場所を見つけていく。


 大きな事件が起きるわけではないが、少しずつ変わっていく関係が丁寧に描かれている。


『分かるよ。あの小説って、何か特別なことが起きるわけじゃないけど、少しずつ居心地のいい場所になっていくところが好きなんだ』


『うん。春樹がこの本を選んでくれた理由、少し分かってきた気がする』


 その返事を読んで、俺は少しだけ胸が温かくなった。


 雫が、俺の好きな物語を楽しんでくれている。


 しかも、ただ読んでいるだけではなく、俺がどうしてその本を好きなのかまで考えてくれている。


 それが、とても嬉しかった。


『そう言ってもらえると嬉しいな。読み終わったら、また感想を聞かせてね』


『もちろん。まだ途中だけど、読み終わったら春樹とたくさん話したいな』


 俺はその文章を読みながら、自然と笑顔になった。


 同じ本について話せる相手がいる。


 それは、本好きにとって本当に嬉しいことだ。


 けれど最近は、雫と話すことそのものが楽しみになっている気もする。


 そんなことを考えていると、雫から続けてメッセージが届いた。


『そういえば、昨日の公園のことなんだけど、春樹はほかに行ってみたい場所ある?』


 俺は少し考えた。


 雫が提案してくれた公園は、かなりいい候補だと思っている。


 ただ、まだ具体的な場所を調べたわけではないし、ほかにも楽しそうな場所があるかもしれない。


『今のところ、雫が教えてくれた公園がいいなって思ってるよ。でも、ほかにも候補があったら一緒に考えたい』


『そっか。私もあの公園、いいなって思ってるんだ。歩く道が広いし、景色もきれいだったから』


『雫は、ああいう場所が好きなんだね』


『うん。ゆっくり歩きながら、いろんなものを見られる場所が好きかな。季節によって景色が変わるのも楽しいし』


 俺はその返事を読んで、少しだけ考えた。


 雫は、季節の変化を楽しむのが好きなのだろう。


 夕方の空や、道端の木々の様子をよく見ているのも、そういう理由なのかもしれない。


『なるほど。雫って、季節の変化を見つけるのが上手だよね』


『そうかな?』


『うん。俺だったら気づかずに通り過ぎちゃうような景色も、雫はちゃんと見つけてる気がする』


 送信してから、俺は少しだけ画面を見つめた。


 何となく、普段より素直なことを書いた気がする。


 けれど、嘘ではない。


 雫が教えてくれる景色には、俺一人では気づかなかったものが多い。


 しばらくすると、返事が届いた。


『……ありがとう、春樹。そんなふうに思ってくれてたんだ』


『うん。最近、雫のおかげで空を見ることも増えたし』


『ふふ。じゃあ、今度のお出かけでも、春樹が気づかなかった景色を見つけられるかもしれないね』


『それは楽しみだな』


 俺はそう返してから、少しだけ考えた。


 雫と出かけるなら、何か特別なことをしなければならないと思っていたわけではない。


 けれど、どこかへ行く以上、目的地や予定を決めた方がいいと考えていた。


 今は、それだけではないと思っている。


 雫と歩きながら、気になったものを見つける。


 何かを見て、感じたことを話す。


 そういう時間も、十分楽しいのだろう。


『雫、今度のお出かけ、あんまり予定を詰め込みすぎない方がいいかもしれないね』


『うん。私もそう思う。公園を歩いて、途中で休んで、時間があったら本屋さんに寄るくらいがいいかな』


『いいね。俺もそのくらいが楽しそうだと思う』


 その返事を送ると、雫から嬉しそうな絵文字が届いた。


 俺は思わず笑った。


 まだ日にちは決まっていない。


 けれど、二人がどんな時間を過ごしたいのかは、少しずつ分かってきた。


 それだけでも、昨日より前へ進んだ気がした。


     ◇◇◇


 昼食を済ませたあと、俺は少しだけ外へ出ることにした。


 今日は遠くまで行くつもりはない。


 ただ、家の近くを歩きながら、雫とのお出かけについて考えてみたくなったのだ。


 玄関を出ると、午後の空気は朝より暖かくなっていた。


 住宅街の道には、休日らしくゆっくり歩く人の姿がある。


 俺は歩道を進みながら、雫が好きだと言っていた景色について考えた。


 季節の変化を感じられる場所。


 ゆっくり歩ける道。


 途中で休めるところ。


 そういう条件を考えると、雫が提案してくれた公園はかなりよさそうだ。


 ただ、実際に行くなら、休憩できる場所や歩く距離も確認した方がいいだろう。


(……雫が楽しめる場所を考えるのって、意外と面白いな)


 俺は少しだけ笑った。


 普段、本屋へ行くときは、どんな本を探すかを考える。


 けれど今回は、雫が何を見たいのか、どんな時間を過ごしたいのかを考えている。


 それは、いつもの休日とは少し違う楽しさだった。


 しばらく歩いていると、住宅街の中にある小さな公園が見えてきた。


 昨日も近くを通った場所だ。


 今日はベンチに座っている人が何人かいて、奥では子供たちが遊んでいる。


 俺は公園の入口で足を止め、少しだけ中を眺めた。


 木々の間から差し込む光が地面へ落ち、風が吹くたびに葉が揺れている。


 昨日は何となく眺めていただけだったが、今日は木々の色や枝の形が少し気になった。


 雫なら、こういうところにも何かを見つけるのだろうか。


 そんなことを考えながら、俺はゆっくりと歩き始めた。


 公園の端には、日当たりのいいベンチがある。


 もし雫と一緒だったら、ああいうところへ座って話すのも楽しそうだ。


 そう思った瞬間、俺は少しだけ驚いた。


(……また雫のこと考えてる)


 昨日も同じようなことを考えていた。


 今日も、朝から何度も雫のことが頭に浮かんでいる。


 本を読んでいるときも、外を歩いているときも。


 何かを見つけるたびに、雫だったらどう感じるだろうと考えてしまう。


 俺は小さく息を吐いた。


「……最近、本当にどうしたんだろうな」


 口に出しても、答えは見つからなかった。


 けれど、不思議と嫌な気分ではない。


 むしろ、少し楽しい。


 俺は公園の横を通り過ぎ、ゆっくりと家へ向かって歩き始めた。


 途中、道端に小さな花が咲いているのを見つけた。


 普段なら、そのまま通り過ぎてしまうような花だった。


 けれど今日は、少しだけ足を止めて眺めた。


 花の名前は分からない。


 それでも、淡い色の花びらが風に揺れている様子は、何となくきれいだった。


(……雫なら、この花の名前も知ってるのかな)


 そう考えたところで、俺は思わず笑ってしまった。


 何でも雫へ結びつけて考えている。


 けれど、それは悪いことではないのかもしれない。


 雫が好きなものを知ろうとすることで、今まで気づかなかったものが見えるようになる。


 そう考えると、少しだけ得をした気分になった。


 俺は花をもう一度眺めてから、歩き始めた。


 家へ戻るころには、空の色が少しずつ柔らかくなっていた。


     ◇◇◇


 同じころ、西条雫は自室の机に向かい、春樹とのメッセージを読み返していた。


 午前中に交わしたやり取りは、特別な内容ではない。


 本の感想を話し、今度のお出かけについて少し相談しただけだ。


 けれど、雫にとっては、それだけで十分嬉しい時間だった。


『最近、雫のおかげで空を見ることも増えたし』


 その一文を読むたびに、胸の奥が温かくなる。


 春樹は昔から本が好きだった。


 それは今も変わらないし、雫もそんな春樹が好きだった。


 けれど最近は、本以外のことにも少しずつ目を向けてくれるようになっている。


 しかも、そのきっかけの一つが自分だと知ると、嬉しくて仕方がなかった。


(……春樹、そんなふうに思ってくれてたんだ)


 雫はスマートフォンを両手で持ちながら、小さく微笑んだ。


 昔から春樹は優しかった。


 雫が何かを話せば、きちんと耳を傾けてくれる。


 困っているときには、自然に手を差し伸べてくれる。


 けれど、最近はそれだけではない気がしていた。


 春樹自身が、雫と一緒に過ごす時間を楽しみにしてくれている。


 そう感じられる場面が、少しずつ増えている。


 もちろん、それが恋愛感情なのかどうかは分からない。


 春樹は自分の気持ちに鈍感なところがあるし、誰に対しても優しい。


 だから、期待しすぎてはいけない。


 そう思っているのに、嬉しい気持ちは簡単には消えてくれなかった。


(……でも、今はこれでいいのかもしれないね)


 雫は机の上に置いていた文庫本へ目を向けた。


 春樹から借りた喫茶店の小説。


 まだ読み終えていないが、少しずつ物語の世界へ引き込まれている。


 主人公が知らない町で居場所を見つけていく姿は、どこか温かい。


 そして、その物語を春樹が自分のために選んでくれたことが、何より嬉しかった。


 雫は本を開き、午前中に読んだところから続きを読み始めた。


 ページをめくるたびに、春樹がこの場面をどう感じたのか、少しずつ分かるような気がする。


 それは、ただ本を読むだけでは味わえない楽しさだった。


 しばらく読み進めたところで、雫はふと窓の外へ目を向けた。


 青空の下で、近所の木々がゆっくり揺れている。


 春樹と一緒に、あの公園を歩けたら。


 途中で喫茶店へ寄って、今読んでいる本の話をしたり、昔の思い出を話したりできたら。


 そんな光景を想像すると、自然に頬が緩んだ。


(……楽しみだな。春樹と、二人で出かけるの)


 雫は小さく息を整え、再び本へ視線を戻した。


 まだ日にちは決まっていない。


 けれど、これから一緒に考えていく時間も、きっと大切な思い出になる。


 そう思いながら、雫はゆっくりとページをめくった。


     ◇◇◇


 夕方、家へ戻った俺は、再び自室の机へ向かっていた。


 外を歩いて少し気分転換できたおかげか、今は落ち着いて本を読めそうな気がする。


 俺は文庫本を開き、続きを読み始めた。


 物語の主人公は、幼馴染との休日の約束を前にして、少しずつ自分の気持ちを整理しようとしている。


 相手と一緒に過ごす時間が楽しみで、何を話そうか考えるだけで嬉しくなる。


 けれど、その気持ちをどう伝えればいいのか分からない。


 主人公は、そんな自分に戸惑っていた。


 俺はその場面を読みながら、少しだけ考え込んだ。


(……やっぱり、似てるところがあるんだよな)


 俺も今、雫と出かける予定を楽しみにしている。


 どこへ行こうか考えるだけで、少し嬉しくなる。


 雫が楽しそうにしてくれると、自分まで楽しくなる。


 それは、物語の主人公が感じていることと、どこか似ている。


 けれど、主人公はその気持ちを恋愛感情だと認め始めている。


 俺はまだ、そこまで考えられなかった。


 幼馴染だから。


 昔から仲がいいから。


 そういう理由で、雫と一緒にいる時間が楽しいのだと思っていた。


 でも、それだけなのだろうか。


 俺は本を閉じ、しばらく表紙を眺めた。


 答えは、すぐには見つからなかった。


 けれど、今はそれでもいい気がした。


 雫と一緒に過ごす時間を大切にしたい。


 その気持ちだけは、はっきりしている。


 俺は三日月の栞を挟み、文庫本を机へ置いた。


 そして、スマートフォンを手に取った。


 雫から新しいメッセージが来ているわけではない。


 それでも、何となく連絡したくなった。


 俺は少し考えてから、短い文章を打ち込んだ。


『雫、今日はお出かけの話ができて楽しかったよ。公園のこと、また学校で相談しようね』


 送信してから、俺は少しだけ緊張した。


 別に変なことを書いたわけではない。


 ただ、改めて気持ちを伝えたくなっただけだ。


 しばらくすると、雫から返事が届いた。


『こちらこそ、春樹。私も一緒に考えられて嬉しかったよ』


 その文章を読んだ瞬間、俺は自然に笑顔になった。


『また学校で相談しようね。無理のない日に、ゆっくり出かけられたらいいな』


『うん。楽しみにしてるね』


 俺はその返事を読みながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


 まだ具体的な日にちは決まっていない。


 けれど、雫も楽しみにしてくれている。


 それが、何より嬉しかった。


 俺はスマートフォンを机へ置き、窓の外へ目を向けた。


 夕方の空は、少しずつ橙色へ変わり始めている。


 今日も一日、穏やかに過ぎていった。


 本も読めた。


 散歩もできた。


 そして、雫と少しだけお出かけの話を進めることができた。


 それだけで、何だか充実した休日だったように感じる。


(……本を読むだけでも楽しいけど、こういう休日も悪くないな)


 俺は小さく笑い、机の上の文庫本へ手を伸ばした。


 まだ読み終わっていない物語の続きが、そこにある。


 けれど、今はその結末と同じくらい、雫と出かける日のことが楽しみだった。


 俺はページを開き、静かな夕方の部屋で、ゆっくりと物語の続きを読み始めた。

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