第84話 休日は本を読みたいだけなのに、どうして幼馴染からの連絡を待ってしまうんだ?
土曜日の朝、目を覚ました俺は、枕元に置いていた時計を確認してから、もう一度布団へ身体を沈めた。平日ならそろそろ制服に着替えている時間だが、今日は学校へ行く必要がない。カーテンの隙間から差し込む朝日も、窓の向こうで聞こえる鳥の声も、休日だと思うだけで普段より穏やかに感じられた。
昨夜は、大学で再会した幼馴染同士を描いた恋愛小説を読み進めていた。主人公がようやく自分の気持ちを認め始め、ヒロインとの関係が少しずつ変わろうとしているところで、続きが気になって仕方がない。いつもなら休日の朝を利用して一気に読み進めるところだが、今日は目を覚ました瞬間から、別のことも頭に浮かんでいた。
(……雫とのお出かけ、そろそろ具体的に考えたいんだよな)
昨日の帰り道、雫とは景色のいい場所を歩くことについて話した。途中で休めるところがあって、できれば本屋にも寄れたら嬉しいという希望も聞いている。俺としても、そんな休日なら楽しそうだと思ったし、何より雫が嬉しそうに話してくれたことが印象に残っていた。
ただ、実際に出かけるとなれば、行き先だけではなく日にちや待ち合わせの時間も決めなければならない。天気によっては予定を変えた方がいいだろうし、歩く距離が長すぎれば疲れてしまうかもしれない。普段、一人で本屋へ出かけるときにはあまり気にしないことまで、自然と考えるようになっていた。
俺は布団から起き上がり、机の上へ目を向けた。読みかけの恋愛小説には、雫と一緒に選んだ紺色の三日月の栞が挟まっている。その隣には、まだ手をつけていない日常の小さな謎を扱った短編集と、感想を書き留めている読書ノートが置いてあった。
(今日はまず、あの恋愛小説を進めよう。それから短編集も読みたいし、できれば感想も整理しておきたいな)
頭の中で予定を組み立ててみると、いつもと変わらない休日になりそうだった。好きな本を好きなだけ読めるというのは、俺にとって何より贅沢な時間だ。
それなのに、机の端に置いたスマートフォンが少し気になった。
昨夜、雫とはおやすみのメッセージを交わしている。今日も連絡すると約束したわけではないし、朝から急いで話さなければならないこともない。それでも、画面に雫の名前が表示されたら嬉しいだろうな、と考えている自分がいた。
(……別に、連絡を待ってるわけじゃないんだけど)
そう考えたところで、何となく自分に言い訳しているような気がした。
俺は小さく笑い、カーテンを開けた。澄んだ青空の下では、向かいの家の庭木がゆっくり揺れている。昨日、雫と一緒に見上げた夕方の空とは違うけれど、今日も外を歩けば気持ちがよさそうだった。
朝食を済ませたら、本を読もう。
そのあと、少しだけ散歩をするのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は部屋を出た。
◇◇◇
朝食を済ませて自室へ戻ると、俺は机の上を少し片づけてから文庫本を開いた。窓をわずかに開けているため、外から入ってくる空気はまだひんやりとしている。机の端には温かい飲み物を置き、読み終えたページを確認してから、三日月の栞を抜いた。
物語の主人公は、大学で再会した幼馴染のヒロインと、授業の帰りに並んで歩いていた。
昔から知っている相手のはずなのに、久しぶりに一緒に過ごすようになってからは、知らなかった一面を見つけることが増えている。以前は自分の後ろをついてくることが多かった少女が、今では自分の進みたい道を考え、将来のことを真剣に話すようになっていた。
主人公は、その変化を嬉しく思っている。
けれど同時に、自分の知らない時間を彼女が過ごしてきたことへ、少しだけ寂しさを感じてもいた。
(……昔から知ってるからって、今の相手のことまで全部分かるわけじゃないんだよな)
俺はページをめくりながら、雫のことを思い浮かべた。
小さいころから一緒に過ごしてきたから、雫がどんなときに笑うのか、何を苦手としているのか、ある程度は知っているつもりだった。けれど、最近になって初めて気づいたこともある。
雫は、何気ない景色を大切にする。
夕方の空を見上げたり、道端の木々の変化に気づいたり、いつも通っている道でも、その日の違いを楽しそうに教えてくれる。
それから、俺が本について話すとき、雫はただ聞いているだけではない。自分でも読んでみて、どこが好きだったのかを考え、俺とは違う感想を伝えてくれることがある。
そういうところを知るたびに、俺は雫ともっと話したくなる。
昔の雫を知っていることと、今の雫を知っていることは、きっと同じではないのだろう。
俺は物語へ意識を戻した。
主人公は、ヒロインが大学で学んでいることについて質問していた。彼女は最初こそ驚いていたものの、話し始めると少しずつ表情を明るくし、自分が興味を持っていることや、将来やってみたいことを語っていく。
その様子を見た主人公は、相手の知らなかった一面を知れたことを喜んでいた。
俺も、その気持ちはよく分かる。
雫が好きなものについて話してくれると嬉しいし、これまで気づかなかった考え方を知ると、次はどんな話ができるだろうと楽しみになる。
(……雫が何を好きなのか、もっと知りたいな)
そう考えたところで、俺は少しだけ手を止めた。
最近、この気持ちが頭に浮かぶことが増えている。
以前から雫と話すのは好きだった。だから、今さら特別な変化だと考える必要はないのかもしれない。
それでも、何かが以前とは違っているような気もした。
俺は飲み物を一口飲み、続きを読み進めた。
しばらくすると、物語の主人公がヒロインへ休日の予定を尋ねる場面になった。
二人で大学の近くにある喫茶店へ行こうという、ごく普通の約束だった。特別な催しがあるわけでもなく、何かを買いに行くわけでもない。ただ、ゆっくり話をするために会うことになったのだ。
ところが、主人公は待ち合わせの時間を決めるだけで妙に緊張していた。
早すぎれば相手に負担をかけるかもしれないし、遅すぎれば一緒に過ごす時間が短くなる。そんなことを考え続け、結局なかなか時間を提案できない。
俺は思わず口元を緩めた。
「……そこまで悩まなくても、相談すればいいのにな」
けれど、声に出してから、少しだけ考え直した。
俺も雫とのお出かけについて、似たようなことを気にしている。
雫が疲れない時間にしたい。
雫の行きたい場所を優先したい。
でも、雫は俺が楽しめるように本屋へ寄ることも考えてくれている。
そういう気遣いが嬉しいからこそ、自分も同じように相手のことを考えたくなるのだ。
(……主人公も、そういうことなのかな)
単に待ち合わせの時間を決めるのが苦手なのではない。
相手との時間を大切にしたいから、いつもなら気にならないことまで考えてしまう。
そう思うと、主人公の戸惑いが少しだけ身近に感じられた。
俺は再びページへ視線を落としたが、数分ほど読み進めたところで、机の上のスマートフォンが小さく震えた。
画面には、雫の名前が表示されている。
俺は読んでいたページに栞を挟み、スマートフォンを手に取った。
ついさっきまで、物語の主人公が待ち合わせのことで悩んでいるのを読んでいたはずなのに、今は雫から何が届いたのかが気になっていた。
◇◇◇
『おはよう、春樹。今日はいい天気だね。もう起きてる?』
画面に表示された文章を読んだ俺は、自然と笑顔になった。
『おはよう、雫。起きてるよ。朝ご飯も食べて、今は本を読んでたところ』
送信してから、俺は窓の外へ目を向けた。
青空は朝より明るくなっており、向かいの家の庭では洗濯物が風に揺れている。雫も同じ空を見ているのだろうかと考えると、何となくもう一度画面を確かめたくなった。
しばらくすると、返事が届いた。
『やっぱり春樹は本を読んでたんだね。私は今、部屋の片づけをしてるところだよ』
『そうなんだ。雫の部屋って、いつもきれいな印象があるけど』
『そんなことないよ。本を読んだあと、そのまま机に置いちゃうこともあるし。今日は少し整理しようと思って』
俺は机の上を見回した。
読みかけの恋愛小説に、未読の短編集。それから読書ノートと、以前使っていたメモ用紙が数枚。
整理しているつもりでも、気づけば本が増えてしまうのは俺も同じだった。
『それなら俺も同じだよ。今も机に本が何冊か並んでるし』
『ふふ。春樹らしいね。でも、ちゃんと読みたい本が分かるように置いてあるんでしょ?』
その返事を見て、俺は少し驚いた。
確かに、机の上の本には自分なりの順番がある。今読んでいるものと、次に読みたいものを分けているのだが、雫には以前からそういう癖を知られていたらしい。
『よく分かったね。今読んでる本と、次に読む本は分けてるよ』
『昔からそうだったもん。春樹って、本の置き場所には自分なりの決まりがあるよね』
俺は小さく笑った。
昔から一緒にいる相手だからこそ知っていること。
つい先ほど読んでいた小説の場面が、頭の片隅に浮かんだ。
『そう言われると、雫の方が俺のことをよく覚えてる気がする』
『春樹だって、私のことを覚えててくれること、たくさんあるよ』
その文章を読んで、俺は少し考えた。
雫の好きなものや、昔一緒に遊んだことなら、俺もいろいろ覚えている。
ただ、雫が大切にしている思い出のすべてを、同じように覚えているとは限らない。
以前、雫が昔のことで何か話したいことがあると言っていたのを思い出す。まだ詳しいことは聞いていないけれど、雫が自分の言葉で話せるときまで待つと約束している。
だから、今ここで無理に尋ねるつもりはなかった。
代わりに、俺は別のことを聞いてみた。
『雫は今日、片づけが終わったら何する予定?』
『春樹から借りた喫茶店の小説を読むつもりだよ。昨日も少し進めたんだけど、続きが気になってるの』
その返事を読んだ瞬間、嬉しさが込み上げてきた。
俺が選んだ本を、雫が楽しんでくれている。
それは本好きとして、とても嬉しいことだった。
『楽しんでもらえてよかった。あの小説、最初は静かな話だけど、少しずつ登場人物の関係が変わっていくところが好きなんだ』
『うん。私も、主人公が少しずつお店に馴染んでいくところが好き。まだ途中だけど、読んでると落ち着くんだよね』
俺はその文章を何度か読み返した。
雫が物語をどう受け取っているのかを知ると、自分が読んだときのことまで思い出せる。
同じ本を読んでも、注目する場面は少しずつ違う。
その違いを話し合えることが、最近は特に楽しかった。
続けて返事を考えていると、雫から新しいメッセージが届いた。
『そういえば、昨日話してたお出かけのことなんだけど、少しだけ候補を考えてみたの』
俺は思わず姿勢を正した。
『本当? ぜひ聞きたい』
『駅の向こうにある大きな公園、覚えてる? 前に家族と行ったことがあるんだけど、歩く道が広くて、途中に休めるところもあったんだ』
俺は記憶をたどった。
駅の向こうにある公園なら、以前近くを通ったことがある。敷地の中には木々が多く、散歩をしている人の姿も見かけた。
ただ、最後に行ったのはずいぶん前だったはずだ。
『覚えてるよ。あそこなら景色もよさそうだね。今の季節なら歩きやすそうだし』
『うん。それに、公園の近くに小さな喫茶店もあったと思うの。今も営業してるかは、まだ分からないんだけど』
『それなら、行く前に調べてみようか。休憩できる場所があると安心だし』
『そうだね。あと、駅の近くに本屋さんもあるから、帰りに寄れるかもしれないよ』
その一文を見て、俺は思わず笑顔になった。
雫は、自分が行きたい公園だけではなく、俺が楽しめそうな場所も考えてくれていた。
『本屋まで考えてくれたんだ。ありがとう、雫』
『春樹、本屋さん好きでしょ? せっかく一緒に出かけるんだから、春樹も楽しめるところがいいなって思って』
俺はスマートフォンを持ったまま、少しだけ考えた。
雫は昨日も、同じようなことを言ってくれた。
二人で出かけるのだから、片方だけが相手に合わせるのではなく、二人とも楽しめる時間にしたい。
その考え方が、俺には嬉しかった。
『すごく楽しそうだと思う。公園も行ってみたいし、雫とゆっくり話せる時間があるのもいいね』
送信してから、俺は少しだけ指を止めた。
本屋へ行くのが楽しみだと書くつもりだったのに、自然と別の言葉が出てきた。
けれど、間違ったことを書いたわけではない。
雫とゆっくり話したい。
それは、今の俺が本当に思っていることだった。
少ししてから、雫の返事が届いた。
『……ありがとう、春樹。私も、春樹とたくさん話せたら嬉しいな』
画面の向こうにいる雫が、どんな顔をしているのかは分からない。
それでも、いつもの柔らかい笑顔が自然と浮かんできた。
俺は少し考えてから、次のメッセージを送った。
『日にちは学校で相談しようか。天気も確認したいし、無理のない日に行けたらいいね』
『うん。そうしよう。まだ候補だから、ほかに行きたいところが見つかったら一緒に考えようね』
雫の言葉に、俺は頷いた。
公園はあくまで候補だ。
今すぐ決める必要はないし、ほかに気になる場所が見つかるかもしれない。
そうやって二人で相談すること自体が、もう楽しくなっている。
『分かった。俺も少し考えてみるよ』
『ありがとう。あ、春樹、本を読んでたところだったよね。長く話しちゃってごめんね』
俺はその文章を読んで、少し驚いた。
雫は、俺の読書時間を邪魔したと思っているらしい。
けれど、俺は少しもそんなふうに感じていなかった。
『全然邪魔じゃないよ。雫と話せて楽しかったし、予定のことも考えられて嬉しかった』
送信したあと、俺はしばらく画面を眺めた。
普段の俺なら、本を読んでいる途中で別のことを始めると、続きを気にしてしまうことが多い。
もちろん今も、小説の続きは読みたい。
それでも、雫との会話が終わってしまうのを少し惜しく感じている自分がいた。
やがて、雫から返事が届いた。
『……そっか。私もすごく楽しかったよ。またあとでね、春樹』
『うん。またね、雫』
俺はスマートフォンを机へ置いた。
画面が暗くなっても、しばらくはそこへ目が向いてしまう。
別に、もう一度すぐ連絡が来るとは思っていない。
それでも、雫とのやり取りを思い返していると、自然と頬が緩んだ。
(……本を読んでる途中だったのに、全然気にならなかったな)
むしろ、もっと話していたかったような気さえする。
俺は机の上の文庫本を見つめた。
物語の主人公は、幼馴染との休日の約束を楽しみにしている。
そして俺も、雫とのお出かけを楽しみにしている。
そこまで考えたところで、少しだけおかしくなった。
「……似たようなことしてるな、俺」
誰もいない部屋で小さく呟き、俺は再び本を開いた。
◇◇◇
昼食を済ませたあと、俺は少し外を歩くことにした。
午前中は本を読み、雫ともメッセージを交わした。十分楽しい時間だったが、ずっと部屋にいるより、少し身体を動かした方が午後も落ち着いて読書ができそうだと思ったのだ。
玄関を出ると、朝より暖かくなった空気が頬に触れた。
住宅街には休日らしい穏やかな雰囲気が広がっている。家の前で自転車を整備している人や、買い物袋を持って歩く人の姿があり、遠くからは子供たちの笑い声が聞こえてきた。
俺は歩道を進みながら、雫が提案してくれた公園について考えた。
駅の向こうにある大きな公園。
近くに喫茶店があって、帰りには本屋にも寄れるかもしれない。
具体的な場所が一つ浮かんだだけで、お出かけの様子を想像しやすくなった。
公園を歩きながら、雫と本の話をする。
途中で景色を眺め、気になったものがあれば立ち止まる。
疲れたら休憩して、温かい飲み物でも飲む。
そんな休日なら、きっと楽しいだろう。
(……でも、あんまり予定を詰め込みすぎない方がいいんだったな)
昨日、赤木さんが教えてくれたことを思い出す。
行きたい場所をいくつも決めてしまうと、移動するだけで時間が過ぎてしまうかもしれない。雫と一緒に景色を眺めたり、ゆっくり話したりする時間も大切にしたい。
そう考えると、何をするかだけではなく、何をしないかも決めておいた方がいいのかもしれなかった。
しばらく歩いていると、住宅街の中にある小さな公園が見えてきた。
入口の近くにはベンチがあり、奥では子供たちが遊んでいる。保護者らしい人たちは少し離れた場所から様子を見守っており、木々の間を抜ける風が、乾いた葉を地面の上で転がしていた。
俺は入口の手前で足を緩めた。
普段なら、そのまま通り過ぎてしまう場所だ。
けれど今日は、何となく中の様子が気になった。
公園の端には、日当たりのいいベンチがある。
もし雫と一緒だったら、ああいうところへ座って話すのも楽しそうだ。
そう思ってから、俺は少しだけ驚いた。
(……また雫のこと考えてる)
朝起きたときも、読書をしているときも、そして今も。
気づけば雫のことが頭に浮かんでいる。
別に、何か困ったことがあるわけではない。
雫と喧嘩したわけでもないし、急いで解決しなければならない問題があるわけでもない。
ただ、雫と一緒だったらどうだろう、と考えてしまう。
俺は公園の中を少し眺めてから、歩道へ視線を戻した。
そのとき、ベンチに座っていた親子の会話が、風に乗って聞こえてきた。
小さな子供が、今度は別の遊具で遊びたいと言っている。隣に座る母親らしい人は、もう少し休んでからにしようと笑っていた。
その何気ないやり取りを聞きながら、俺は雫から借りた四季の短編集のことを思い出した。
あの本にも、特別な事件が起きるわけではないのに、心に残る場面があった。
誰かと過ごした時間や、何気なく交わした言葉が、あとになって大切な思い出になる。
最近読んでいる物語には、そういう場面が多い気がする。
いや、もしかすると、俺が以前よりそういう部分へ目を向けるようになっただけなのかもしれない。
(……同じ本でも、読むときの自分によって、感じ方が変わることってあるんだな)
俺はゆっくり歩きながら、そんなことを考えた。
雫が夕方の空をきれいだと言ってくれたこと。
昨日、二人で歩くだけでも楽しいと話したこと。
今日、公園の候補を教えてくれたこと。
どれも大きな出来事ではない。
けれど、一つずつ思い返してみると、どれも嬉しかった。
俺は歩道の端で一度立ち止まり、青空を見上げた。
薄い雲がゆっくり流れている。
雫が隣にいたら、きっと何か言ってくれるだろう。
その言葉を聞いて、俺も今とは違う景色を見つけられるのかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と笑みが浮かんだ。
俺は再び歩き始めた。
今日は一人で歩いている。
けれど、今度は雫と一緒に歩く場所を考えている。
それだけで、いつもの散歩が少し違って感じられた。
◇◇◇
同じころ、西条雫は自室の机に向かい、春樹とのメッセージを読み返していた。
午前中に片づけを済ませた机には、読みかけの文庫本と、小さな葉の形をした栞が置かれている。窓から差し込む光は柔らかく、カーテンが風に揺れるたびに、机の上へ落ちる影が少しずつ形を変えていた。
『雫とゆっくり話せる時間があるのもいいね』
春樹から届いたその一文を見つめると、雫の頬は自然と熱くなった。
公園へ行くことを提案したとき、春樹が喜んでくれるかどうか少し不安だった。
春樹は昔から本が好きで、休日に出かけるなら本屋や図書館を選ぶことが多い。もちろん、雫と一緒に歩くことを嫌がるような人ではないけれど、せっかくなら春樹にも心から楽しんでほしかった。
だから、公園の近くに本屋があることも伝えた。
それなのに、春樹が特に嬉しそうにしてくれたのは、二人でゆっくり話せることだった。
(……春樹、最近、本当に少しずつ変わってきてるのかな)
雫はスマートフォンを机へ置き、胸元へそっと手を添えた。
昔から春樹は優しかった。
雫が何かを話せば耳を傾けてくれたし、困っているときには自然に手を差し伸べてくれた。
けれど、最近は春樹の方から、一緒に過ごす時間について話してくれることが増えている。
それが、雫にはたまらなく嬉しかった。
もちろん、春樹が自分と同じ気持ちを抱いているとは限らない。
彼は本当に優しい人で、相手が楽しめるように考えることを自然にできる。だから、何気ない言葉をすべて特別な意味に受け取ってしまうのは、少し怖かった。
期待して、もし違っていたら。
そう考えると、胸の奥が小さく痛む。
それでも、嬉しかったことまでなかったことにはできない。
(……今は、春樹が楽しみにしてくれてることを、そのまま喜んでもいいよね)
雫はゆっくり息を吐き、机の上の文庫本を手に取った。
春樹から借りた、小さな町の喫茶店を舞台にした小説だ。
まだ読み終えていないけれど、主人公が知らない町で少しずつ居場所を見つけていく姿に、雫は惹かれていた。
最初は緊張していた主人公が、店主や常連客との会話を通じて少しずつ笑顔を見せるようになる。その変化はとても穏やかで、読み進めていると自分まで温かい気持ちになった。
春樹がこの本を選んでくれた理由も、少しずつ分かってきた気がする。
派手な事件がなくても、人と人との関係が変わっていく物語は面白い。
そして、そういう変化を丁寧に描く本を、春樹は大切にしているのだろう。
雫はページをめくりながら、ふと春樹の横顔を思い出した。
本について話すときの春樹は、とても楽しそうだ。
好きな場面を説明するときには、少し早口になることもある。相手が興味を持ってくれると嬉しそうに笑い、こちらの感想を聞くときには、驚くほど真剣な表情になる。
雫は、そんな春樹を昔から好きだった。
けれど最近は、本について話していないときの春樹にも、以前より強く目が向くようになっている。
夕方の空を見上げている横顔。
自分の言葉を聞いて、少し考えてから笑ってくれる表情。
何気なく名前を呼んでくれる声。
思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。
(……早く、一緒に出かけたいな)
雫は本を閉じずに、しばらく窓の外を眺めた。
今度のお出かけでは、どんな話ができるだろう。
春樹が最近読んでいる恋愛小説の感想も聞いてみたい。
自分が読んでいる喫茶店の小説についても、もっと話したい。
それから、できれば本の話以外にも、春樹が最近考えていることや、これからやってみたいことを聞いてみたかった。
昔から知っている相手だからこそ、今の春樹のことも知りたい。
その思いは、日を追うごとに少しずつ大きくなっていた。
雫は机の端に置いた葉の形の栞へ目を向けた。
春樹と一緒に選んだ、大切な栞だ。
春樹は三日月の形を選んでいた。
あの日、二人で選んだものが今もそれぞれの手元にあると思うと、不思議と安心できた。
そして、もう一つ。
雫には、春樹へまだ話していない大切な思い出がある。
幼いころ、あの丘で交わした約束。
春樹はまだ思い出していないけれど、雫にとっては今も大切な記憶だった。
いつか、自分の言葉で伝えたい。
ただ、その日がいつになるのかは、まだ分からない。
雫は小さく息を整え、再び文庫本へ視線を戻した。
今は、目の前にある時間を大切にしよう。
春樹と話せること。
一緒に出かける予定を考えられること。
そして、同じ本を通じて感想を分け合えること。
それだけでも、十分に幸せだと思えた。
◇◇◇
夕方、散歩から戻った俺は、手を洗ってから自室へ向かった。
外を歩いたおかげで少し気分が変わり、机へ座ると、また本を読みたい気持ちが強くなっていた。窓の外では太陽が少しずつ傾き始めており、朝とは違う柔らかな光が部屋の中へ差し込んでいる。
俺は恋愛小説を開き、午前中の続きを読み始めた。
物語の主人公は、幼馴染との休日の約束を前にして、自分の気持ちを整理しようとしていた。
彼女と一緒にいると楽しい。
彼女が笑ってくれると嬉しい。
そして、何か面白いことを見つけるたびに、彼女にも教えたくなる。
主人公は、それらの気持ちが以前とは違う意味を持ち始めていることに気づいていた。
けれど、気づいたからといって、すぐに何かができるわけではない。
幼馴染として過ごしてきた時間が長いからこそ、今の関係を変えることが怖い。
そんな心情が丁寧に描かれていた。
俺はしばらくページを読み進めてから、静かに本を閉じた。
(……やっぱり、主人公の気持ちって難しいな)
以前なら、ここまで悩む必要があるのだろうかと思っていた。
好きなら好きだと伝えればいい。
物語の外から見ていると、そう考えてしまう。
けれど、相手との関係を大切にしているからこそ、簡単に言えないこともあるのだろう。
主人公は、ヒロインと一緒に過ごしてきた時間を失いたくないと思っている。
その気持ちがあるから、言葉を選んでしまう。
俺は机の上の読書ノートを開いた。
以前書いた感想には、昔から知っている相手でも、今の相手について知らないことがあると記している。
それから、相手のことをもっと知りたいと思う気持ちが、少しずつ大きくなっていくところが面白いとも書いていた。
今日読んだ部分は、その続きを考えるきっかけになりそうだった。
俺はペンを持ち、少し考えてから文章を書き始めた。
『主人公は、幼馴染との関係が変わることを怖がっている。相手を大切に思うからこそ、今までと同じように接することが難しくなるところが印象的だった』
書き終えてから、もう一度読み返す。
物語の中では、主人公が自分の気持ちを少しずつ認めている。
俺自身は、雫との関係について、そこまで難しいことを考えたことがなかった。
昔から一緒にいる幼馴染。
気を遣わずに話せる、大切な友達。
そういう関係が、ずっと続いてきた。
けれど、最近は雫と過ごす時間が以前より楽しみになっている。
何かを見つけると、雫にも教えたくなる。
雫が嬉しそうに笑うと、自分まで嬉しくなる。
それは、物語の主人公が感じていることと、少し似ているようにも思えた。
(……でも、似てるからって、全部同じとは限らないよな)
俺はペンを置き、窓の外へ目を向けた。
物語の主人公は、ヒロインへの恋愛感情を自覚し始めている。
俺はまだ、自分の気持ちをそこまで明確に説明できない。
雫と一緒にいる時間が楽しいことは分かる。
雫のことをもっと知りたいと思っていることも、はっきりしている。
ただ、それがどういう種類の気持ちなのかと考えると、簡単には答えが出なかった。
俺はしばらく考えたあと、ノートへもう一文を書き加えた。
『大切な相手との関係を考えるとき、答えを急がず、今の気持ちを丁寧に見つめることも必要なのかもしれない』
書き終えてから、少しだけ笑った。
何だか、いつもの読書感想とは違う文章になった気がする。
けれど、それも悪くない。
本を読むことで、今まで考えたことのなかった気持ちに触れられる。
それは読書の面白さの一つだ。
俺はノートを閉じ、再び文庫本を手に取った。
まだ物語は終わっていない。
主人公とヒロインがどんな結末を迎えるのか、最後まで見届けたい。
そう思ってページを開いたところで、ふと午前中の雫とのやり取りが頭に浮かんだ。
公園。
喫茶店。
本屋。
まだ何も決まっていないのに、行き先の候補を考えるだけで楽しかった。
俺は文庫本を手にしたまま、机の上のスマートフォンへ目を向けた。
新しい通知はない。
それを確認してから、少しだけ自分がおかしくなった。
(……別に、連絡が来るって分かってるわけじゃないのに)
それでも、何となく画面を見てしまう。
俺は小さく息を吐き、今度こそ本へ意識を戻した。
◇◇◇
夕食と入浴を済ませるころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
自室へ戻った俺は、机の上の本を整理しながら、今日一日を振り返った。
朝は恋愛小説を読み、雫とメッセージを交わした。
昼過ぎには少し散歩をして、夕方にはまた続きを読んだ。
特別な出来事があったわけではない。
けれど、何となく充実した休日だったように感じる。
その理由を考えていると、やはり雫のことが頭に浮かんだ。
雫が提案してくれた公園。
二人でゆっくり話したいと伝えたこと。
雫も楽しみにしてくれていること。
そうした一つ一つが、今日を少し楽しい日にしてくれたのかもしれない。
俺はスマートフォンを手に取った。
何か用事があるわけではない。
それでも、午前中に場所を考えてくれたことについて、もう一度お礼を伝えたくなった。
少し迷ってから、メッセージを打ち込む。
『雫、今日はお出かけの場所を考えてくれてありがとう。あの公園、やっぱりよさそうだね』
送信したあと、俺は机へスマートフォンを置いた。
返事を急がせるつもりはない。
雫も自分の時間を過ごしているはずだし、読書の途中かもしれない。
そう思って文庫本を開いたが、数ページ読み進めたところで、スマートフォンが震えた。
画面には、雫からの返事が表示されていた。
『こちらこそ、春樹。一緒に考えられて嬉しかったよ。私もあの公園、いいなって思ってる』
俺はその文章を読みながら、自然と頬を緩めた。
『今度、学校で日にちも相談しようね。天気のいい日に行けたら楽しそう』
『うん。春樹と一緒に歩けるの、楽しみにしてる』
その返事を読んだ瞬間、俺は少しだけ手を止めた。
雫は、公園へ行くことだけではなく、俺と一緒に歩くことを楽しみにしてくれている。
そう考えると、胸の奥が温かくなった。
『俺も楽しみだよ。雫が好きな景色、また教えてほしいな』
送信してから、俺は窓の外へ目を向けた。
暗くなった空には、いくつかの星が見えている。
昨日、雫と見た夕方の空。
今日、一人で眺めた青空。
同じ空でも、誰と見たかによって、心に残り方が違うのかもしれない。
しばらくすると、雫から返事が届いた。
『もちろん。春樹にも、きれいだなって思ってもらえる景色があるといいな』
『きっとあると思うよ。今日も散歩してたら、普段気にしてなかった景色が少し気になったし』
『春樹、今日も散歩してたんだね』
『うん。家の近くを少しだけ。小さな公園を通ったんだけど、雫と歩いたら楽しそうだなって思ったよ』
送信したあと、俺は少しだけ考えた。
何となく、思ったことをそのまま書いてしまった。
けれど、嘘ではない。
今日、公園の近くを歩いたとき、本当に雫と一緒だったら楽しそうだと思ったのだ。
しばらく返事が来なかったので、俺は少しだけ画面を見つめた。
やがて、雫からメッセージが届いた。
『……春樹、そんなこと考えてくれてたんだ』
『うん。雫が公園の話をしてくれたから、何となくね』
『嬉しいな。私も、春樹と一緒にいろんな景色を見たいよ』
その文章を読んだ瞬間、胸の奥に柔らかな温かさが広がった。
雫も、同じようなことを考えてくれていたらしい。
それが嬉しかった。
俺は少し考えてから、返事を送った。
『じゃあ、今度のお出かけ、ゆっくり楽しもうね』
『うん。約束だよ』
その言葉を見て、俺は自然に微笑んだ。
『約束』
短い返事を送ると、雫から嬉しそうな表情の絵文字が届いた。
俺はその画面をしばらく眺めてから、スマートフォンを机へ置いた。
まだ具体的な日にちは決まっていない。
行き先も、公園が有力な候補になっただけだ。
それでも、二人で楽しみにしている時間がある。
そのことが、何だか嬉しかった。
俺は机の上の文庫本を手に取った。
物語の主人公は、幼馴染との約束を前にして、自分の気持ちをどう伝えるか悩んでいる。
俺も、雫との約束を楽しみにしている。
けれど、その気持ちが主人公と同じものなのかどうかは、まだ分からない。
(……まあ、今すぐ答えを出さなくてもいいか)
俺は椅子へ深く座り直した。
雫と一緒に過ごす時間が楽しい。
雫が笑ってくれると嬉しい。
そして、また一緒に出かけたいと思っている。
今は、その気持ちを大切にしたい。
そう考えると、不思議と落ち着いた。
俺は三日月の栞を抜き、続きを読み始めた。
静かな部屋には、ページをめくる音だけが響いている。
いつもなら、それだけで十分に満たされる時間だった。
今夜も本を読むのは楽しい。
けれど、机の上のスマートフォンへ時折目が向いてしまうことも、もう否定できなかった。
雫から連絡が来たら、きっと嬉しい。
そして、明日も雫と話せたらいい。
そんなことを思いながら、俺は物語の続きを読み進めた。
まだ読み終えていない恋愛小説の結末も気になる。
けれど、それと同じくらい、雫と出かける日のことが楽しみだった。
俺は小さく笑い、再びページへ視線を落とした。
本を読むことが大好きな気持ちは、今も変わらない。
ただ最近は、本を閉じたあとにも楽しみにできる時間が、少しずつ増えている。
その変化が何を意味するのか、まだうまく説明できない。
それでも、今はそれを悪いことだとは思わなかった。
窓の外では夜風が静かに木々を揺らしている。
俺はその音を聞きながら、雫と交わした約束を胸の片隅に置き、もう一度ゆっくりとページをめくった。




