第83話 幼馴染と休日の予定を決めたいだけなのに、どうして待ち合わせの時間まで特別に思えるんだ?
金曜日の朝、目を覚ました俺は、枕元に置いていたスマートフォンへ手を伸ばした。目覚ましを止めると、カーテンの隙間から差し込んでいる光が昨日よりも明るいことに気づき、まだ少し眠気の残る身体を起こしながら窓の外へ目を向ける。昨夜まで空を覆っていた雲はほとんどなくなっており、住宅街の屋根の向こうには、澄んだ青空が広がっていた。
窓を少し開けると、ひんやりとした空気が部屋へ流れ込んできた。遠くでは車が走る音が聞こえ、近所の庭木からは小鳥の鳴き声が響いている。週末を前にした朝らしい穏やかな空気を感じながら、俺は机の上へ視線を移した。
そこには、昨夜読み進めた恋愛小説が置いてある。
大学で再会した幼馴染同士を描いた物語は、いよいよ主人公が自分の気持ちを認め始めるところまで進んでいた。読み終えるまでにはもう少し時間が必要だが、物語の中で積み重ねられてきた何気ない会話や思い出が、少しずつ違う意味を持ち始めているのが面白い。
(……主人公も、最初はただ懐かしい相手と再会しただけだと思ってたんだよな。それが、今では一緒に過ごす時間を特別に感じるようになってる)
俺は昨日読んだ場面を思い返しながら、椅子へ腰を下ろした。
主人公は幼馴染の笑顔を思い出すたびに、自分の気持ちが以前とは違っていることを意識するようになっていた。けれど、その変化をどう受け止めればいいのか分からず、何度も言葉を飲み込んでしまう。
読者としては、もっと素直に伝えればいいのにと思う。
しかし、最近はその戸惑いも少し理解できる気がしていた。
昔から知っている相手だからこそ、今さら改まって何かを伝えるのは難しいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、昨日の帰り道で雫と交わした会話が思い浮かんだ。
『春樹と一緒なら、歩きながら話すだけでも楽しいし』
自分で言った言葉なのに、なぜか今になって少し照れくさくなる。
雫はあのとき、とても嬉しそうに笑ってくれた。
その表情を思い出すと、胸の奥がほんのり温かくなる。
(……今日も、雫と一緒に帰れるといいな)
そう思ってから、俺は少しだけ首を傾げた。
以前なら、金曜日の朝に考えることといえば、週末にどんな本を読むかということだった。今もそれは楽しみだし、読みかけの恋愛小説も早く続きを読みたい。
けれど、今日はそれと同じくらい、雫と休日の予定について話すことが気になっていた。
まだ日にちも場所も決まっていない。
それでも、二人で相談している時間が楽しい。
俺は小さく笑い、制服へ着替え始めた。
◇◇◇
いつもの曲がり角へ向かうと、雫が少し先の歩道で待っていた。
今日は朝日がよく差し込んでいるせいか、彼女の髪がいつもより柔らかく光って見える。雫は俺に気づくと、嬉しそうに手を上げ、鞄を持ち直しながら近づいてきた。
「おはよう、春樹。今日はいい天気だね」
「おはよう、雫。うん。昨日の朝とは全然違うね。空もきれいだし、歩いてて気持ちよさそう」
俺がそう答えると、雫は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……春樹が朝から空の話をするなんて、ちょっと珍しいね」
「そうかな。昨日、雫が夕方の空を見てたから、俺も少し気になるようになったのかもしれない」
その言葉を聞いた雫は、ゆっくりと頬を赤くした。
「……そっか。なんだか、嬉しいな」
彼女はそう呟いてから、少し照れくさそうに笑った。
俺たちは並んで歩き始めた。
通学路には、朝の光を受けた街路樹の影が伸びている。近くの家の庭では花が咲き始めており、風が吹くたびに葉が小さく揺れていた。
雫はしばらく景色を眺めていたが、やがて俺の方へ顔を向けた。
「ねえ、春樹。今度のお出かけのことなんだけど、昨日の夜、少し考えてみたんだ」
「本当? 俺もちょっと考えてたよ」
俺がそう答えると、雫は嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、今日は少し相談できるかな?」
「もちろん。まだ具体的な場所は決めてないけど、雫が考えたことも聞いてみたい」
雫は小さく頷き、少しだけ歩く速度を緩めた。
「私ね、景色のいいところを歩くのも好きだけど、途中でゆっくり休める場所があるといいなって思ったの。春樹と本の話もしたいし、何か飲みながらのんびりできたら楽しそうだなって」
その言葉を聞いて、俺は自然と頷いた。
「いいね。散歩だけだと、ずっと歩きっぱなしになっちゃうし。途中で休める場所があれば、落ち着いて話せるもんね」
「うん。それに、春樹が好きな本屋さんにも、少し寄れたら嬉しいな」
雫はそう言って微笑んだ。
俺は思わず彼女の顔を見た。
「……雫、俺のことも考えてくれてたんだね」
「もちろんだよ。だって、二人で出かけるんだもん。春樹だけが私に合わせるんじゃなくて、春樹も楽しめるところがいいなって思ってる」
その言葉は、当たり前のことのように聞こえた。
けれど、俺には少し特別に感じられた。
雫は、自分が楽しむことだけではなく、俺が何を好きなのかも考えてくれている。
昔からそういうところはあった。
俺が本に夢中になっているときも、雫は無理に話しかけたりせず、読み終わるのを待ってくれることが多かった。
もちろん、俺が周囲を見ずに歩きそうになれば注意してくれるし、必要なときにはちゃんと声をかけてくれる。
そういう優しさに、俺はずっと助けられてきたのかもしれない。
「……ありがとう、雫。俺も、雫が楽しめるところを考えたいな」
俺がそう言うと、雫は柔らかく笑った。
「うん。じゃあ、一緒に考えようね」
その笑顔を見た瞬間、俺は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
まだ場所も決まっていないのに、こんなに楽しみになるなんて不思議だ。
けれど、雫と一緒に考えているからこそ、そう感じるのかもしれない。
◇◇◇
教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席でスマートフォンを眺めていた。
俺に気づいた悠斗は、いつものように軽く手を上げる。
「おはよう、春樹。今日はまた一段と機嫌よさそうだな」
「おはよう、悠斗。そう見える?」
「ああ。なんか最近、お前の朝の表情が前より明るい気がするんだよな」
俺は少し考えてから、鞄を机へ置いた。
「雫と今度のお出かけについて話してたからかな。今日は少し具体的なことも考えられたし」
その瞬間、悠斗は面白そうに笑った。
「……へえ。ついに予定が決まりそうなのか?」
「まだ場所も日にちも決まってないけどね。景色のいいところを歩いて、途中で休める場所があって、本屋にも少し寄れたらいいなって」
俺が説明すると、悠斗はしばらく考えるように顎へ手を当てた。
「なるほどな。結構いい感じじゃん。散歩して、どっかで休んで、本屋にも寄るってことか」
「うん。雫がそういう感じなら楽しそうって言ってくれたんだ」
悠斗は少しだけ目を細めた。
「……雫が楽しそうにしてたなら、いいんじゃねえか?」
「うん。俺も楽しみなんだ」
俺がそう答えると、悠斗は一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、口元を緩める。
「……お前、最近そういうことを普通に言うようになったよな」
「そういうこと?」
「いや、何でもない。まあ、楽しみならいいことだろ」
悠斗はそう言って笑った。
俺は少し不思議に思いながらも、彼の言葉に頷いた。
「そうだね。まだ予定は決まってないけど、考えるのも楽しいよ」
「……そっか」
悠斗は何かを言いかけたようだったが、結局それ以上は何も言わなかった。
ちょうどそのとき、教室の入口から赤木紗弥が入ってきた。
「おはよう、高坂君。七瀬君も、おはよう」
「おはよう、赤木さん」
俺が挨拶すると、悠斗も少しだけ姿勢を正して声を返した。
紗弥は二人の顔を見比べ、何か楽しそうな話をしていたのかと尋ねてくる。
「春樹が雫と出かける予定を考えてるって話をしてたんだよ」
悠斗がそう説明すると、紗弥は嬉しそうに微笑んだ。
「へえ、いいね。二人でお出かけするんだ」
「うん。まだ具体的には決まってないけどね」
俺がそう答えると、紗弥は少し考えるように視線を上げた。
「それなら、行きたい場所をいくつか出してから決めるのもいいかもしれないね。最初から一つに絞ろうとすると迷っちゃうし」
その言葉を聞いて、俺はなるほどと思った。
「確かに。候補をいくつか考えておけば、雫とも相談しやすいね」
「うん。あと、無理に予定を詰め込みすぎない方がいいと思うよ。歩いたり、話したりする時間も大切だし」
紗弥はそう言って笑った。
悠斗はその言葉を聞き、少しだけ頬を赤くした。
「……紗弥、そういうの詳しいよな」
「えっ、そんなことないよ。ただ、この前の映画のときも、予定を詰め込みすぎなくてよかったなって思っただけ」
紗弥は少し照れくさそうに笑った。
その様子を見て、俺は自然と微笑んだ。
悠斗と紗弥は、映画を見に行ったあとも楽しそうに話している。
きっと、二人にとって大切な時間だったのだろう。
「ありがとう、赤木さん。参考にするよ」
俺がそう言うと、紗弥は嬉しそうに頷いた。
「うん。二人で楽しい時間を過ごせるといいね」
その言葉を聞きながら、俺は自分の席へ戻った。
まだ予定は決まっていない。
けれど、少しずつ形になっていくのが楽しい。
それは、読みたい本を探しているときの感覚にも似ていた。
ただ一つ違うのは、今回は本そのものよりも、雫と一緒に過ごす時間の方を楽しみにしていることだった。
◇◇◇
昼休み、俺は図書室へ向かった。
今日は読みかけの恋愛小説を少し進めるつもりだったが、入口の近くまで来たところで、白石栞先輩がカウンターの奥から手を振ってくれた。
「こんにちは、七瀬君。今日も読書?」
「こんにちは、白石先輩。はい。昨日の続きを少し読もうと思って」
俺が文庫本を取り出すと、先輩は柔らかく微笑んだ。
「ふふ。最近、その本をよく読んでるね。そんなに面白いんだ?」
「はい。幼馴染同士の関係が少しずつ変わっていくところが面白くて。主人公が自分の気持ちに気づき始めるんですけど、なかなか素直になれないんですよね」
先輩は興味深そうに頷いた。
「……そういう物語って、読んでる側もいろいろ考えちゃうよね」
「そうなんです。最初はもっと早く気づけばいいのにって思ってたんですけど、最近は少しだけ主人公の気持ちも分かる気がして」
俺がそう言うと、先輩は少し驚いたように目を見開いた。
「……七瀬君、前より恋愛小説の読み方が変わってきたのかもしれないね」
「そうですかね?」
「うん。以前は登場人物の行動を分析することが多かったけど、最近は気持ちの変化そのものに興味を持ってるように見えるから」
俺はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
確かに、最近は主人公の行動だけではなく、そのとき何を感じていたのかを考えることが増えている。
物語の中で描かれる小さな仕草や、何気ない会話の意味を、以前より気にするようになった。
「……そうかもしれません。昔から知ってる相手でも、気持ちって変わっていくんだなって思うようになったので」
俺がそう答えると、先輩は一瞬だけ視線を落とした。
それから、穏やかに微笑む。
「……そっか。七瀬君にとっても、いろいろ考えるきっかけになってるんだね」
「はい。まだ読み終わってないので、最後まで読んでから感想をまとめたいです」
「うん。楽しみにしてるね」
先輩はそう言って、カウンターの上に置いていた資料へ目を向けた。
「そういえば、紹介カードの試作も少し進めたんだ。昨日見てもらったところを参考にして、文字の配置をもう少し調整してみたの」
俺は興味を引かれ、カウンターへ近づいた。
「本当ですか? 見てもいいですか?」
「もちろん。ただ、まだ正式に掲示するものじゃないから、そこは忘れないでね」
先輩はファイルから試作のカードを取り出し、俺の前へ並べてくれた。
恋愛小説の紹介カードと、日常を描いた短編集の紹介カード。
どちらも以前より余白が整えられ、見出しと本文の区切りが分かりやすくなっていた。
俺は少し離れた位置から全体を眺め、それから文章を読み直した。
「……いいですね。見出しが目に入りやすいですし、そのあとに紹介文を読む流れも自然な気がします」
俺がそう言うと、先輩は安心したように笑った。
「よかった。あんまり文字を詰め込みすぎると読みにくくなるし、かといって内容が伝わらないのも困るから、少し迷ってたんだ」
「でも、今の感じなら、どんな物語なのか想像しやすいと思います」
「ありがとう。七瀬君にそう言ってもらえると、自信が持てるよ」
先輩は柔らかく微笑んだ。
俺はその表情を見ながら、少しだけ嬉しくなった。
こうして一緒に考えてきたものが、少しずつ形になっていく。
まだ正式に掲示されるかは分からないけれど、それでも十分楽しい。
「……白石先輩、完成するのが楽しみですね」
俺がそう言うと、先輩は少しだけ目を細めた。
「……うん。私も楽しみ」
その声には、穏やかな温かさがあった。
◇◇◇
七瀬春樹が窓際の席へ向かったあと、白石栞はカウンターの上に並べた紹介カードを、しばらく見つめていた。
七瀬君は、最近恋愛小説の読み方が変わってきたと言っていた。
以前なら、主人公の行動や物語の構成について話すことが多かったのに、最近は登場人物の気持ちそのものを考えるようになっている。
(……七瀬君自身にも、何か変化があるのかな)
栞は胸の奥に小さな痛みを感じながら、静かに息を整えた。
彼が誰かとの関係を大切にするようになっていることは、嬉しい。
けれど、その変化の中心にいるのが自分ではないのかもしれないと思うと、少しだけ寂しくなる。
昨日、七瀬君は幼馴染の西条さんと昔の話をすることが増えたと言っていた。
そのときの表情は、とても柔らかかった。
栞はそれを思い出しながら、紹介カードを丁寧にファイルへ戻した。
(……でも、私も七瀬君と話してる時間が好きなんだよね)
以前、一緒に本屋や喫茶店へ出かけた日のことを思い出す。
七瀬君は本を選ぶとき、驚くほど真剣な顔をする。
それなのに、こちらが興味を持った本について尋ねると、嬉しそうに説明してくれる。
その姿を見ているだけで、栞も自然に笑顔になった。
今も、彼との関係がなくなったわけではない。
図書室で会えば話ができるし、紹介カードについて一緒に考えることもできる。
七瀬君から借りている古書店のミステリーも、まだ読み終えていない。
読み終わったら、きちんと感想を伝えたい。
そして、できればまた、二人で本について話す時間を持ちたい。
(……焦らなくてもいいよね。私は私の気持ちを、大切にしていこう)
栞は小さく息を整えると、カウンターへ戻ってきた生徒から返却本を受け取った。
図書室には、今日もたくさんの本と、それを楽しみに訪れる人たちがいる。
その場所を大切にすることも、自分にとって変わらない喜びだった。
◇◇◇
午後の授業が終わるころには、教室の窓から柔らかな夕日が差し込んでいた。
俺は教科書を鞄へしまいながら、今日の帰り道で雫と何を話そうか考えていた。
朝は出かける場所について少し話した。
けれど、まだ具体的な候補は決まっていない。
せっかくなら、雫がどんな場所を好きなのか、もう少し聞いてみたい。
そう考えていると、悠斗がこちらへ近づいてきた。
「春樹、今日も雫と帰るのか?」
「うん。そのつもりだけど」
俺が答えると、悠斗は少しだけ笑った。
「そっか。じゃあ、今日も楽しく帰れよ」
「ありがとう。悠斗は?」
「俺はちょっと紗弥と話してから帰る。映画の感想で、まだ聞きたいことがあるんだよな」
悠斗は少し照れくさそうに笑った。
俺はその様子を見て、自然に頷いた。
「いいね。二人で同じ作品について話せるのって楽しいよね」
「……ああ。そうなんだよ」
悠斗は嬉しそうに笑ったあと、少しだけ真面目な表情になった。
「春樹、お前も雫と出かけるなら、ちゃんと楽しんでこいよ。どこへ行くかも大事だけど、一緒にいる時間そのものを楽しめばいいと思うぞ」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
「……悠斗も赤木さんも、同じようなこと言うんだね」
「え?」
「朝、赤木さんも似たこと言ってたからさ。予定を詰め込みすぎない方がいいって」
俺がそう説明すると、悠斗は一瞬だけ固まった。
それから、少しずつ頬を赤くする。
「……そ、そうか。紗弥、そんなこと言ってたんだな」
「うん。すごく楽しそうだったよ」
俺がそう答えると、悠斗は口元を緩めながら視線を逸らした。
「……そっか。それなら、よかった」
その反応を見て、俺は少しだけ笑った。
悠斗にとって、紗弥との時間は本当に大切なのだろう。
そう考えると、俺も雫との時間をもっと楽しみたくなった。
「じゃあ、また明日ね、悠斗」
「ああ。またな、春樹」
俺は鞄を肩へ掛け、教室を出た。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、窓の外からは校庭で練習を始めた運動部の掛け声が聞こえてくる。
階段を下りながら、俺はふと考えた。
以前なら、放課後の楽しみといえば、図書室で本を読むことだった。
もちろん今も、図書室へ行く時間は好きだ。
けれど、今日は雫と一緒に帰ることを、少し楽しみにしている。
その変化が何を意味するのか、まだよく分からない。
ただ、悪い気分ではなかった。
◇◇◇
昇降口へ着くと、雫が靴を履き替えているところだった。
俺に気づいた彼女は、顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。
「春樹、お疲れさま。今日は図書室に寄ってたんだよね?」
「お疲れさま、雫。うん。白石先輩と紹介カードの話をしてたよ」
「そっか。少しずつ進んでるんだね」
「まだ試作だけどね。見出しと紹介文の間隔を調整してて、前より読みやすくなってたよ」
雫は興味深そうに頷き、俺と並んで昇降口を出た。
外へ出ると、朝とは違って空が明るくなっていた。雲の隙間から夕方の光が差し込み、校門へ続く道の端では、雨に濡れていた葉が少しずつ乾き始めている。
「春樹、紹介カードのこと、すごく楽しそうに話すね」
「うん。まだ正式に掲示できるかは分からないけど、少しずつ形になっていくのを見るのって面白いんだ」
俺がそう答えると、雫は柔らかく笑った。
「……春樹って、好きなことを誰かと一緒に考えるのも好きなんだね」
その言葉に、俺は少しだけ考えた。
確かに、最近は誰かと相談する時間が増えている。
白石先輩とは紹介カードについて話しているし、九条さんとは安全掲示について話すこともある。
悠斗とは本や映画の感想を交換する。
そして雫とは、借りた本の感想や、昔の思い出について話している。
「……そうかもしれないね。一人で考えるのも好きだけど、誰かと話すと自分じゃ思いつかなかったことに気づけるから」
俺がそう言うと、雫は嬉しそうに頷いた。
「私も、春樹と話してるとそう思うよ。自分では何となく好きだなって感じてたところも、春樹と話すと理由が分かることがあるんだ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ胸が温かくなった。
「……それなら、よかった。俺も雫と話すの、楽しいから」
雫は一瞬だけ目を見開いた。
それから、少しだけ頬を赤くして微笑んだ。
「……うん。私も」
俺たちは校門を出て、いつもの通学路を歩き始めた。
夕方の住宅街には、買い物帰りの人や犬の散歩をしている人の姿があり、どこかの家から夕食の準備をしているような匂いが漂ってくる。
しばらく歩いたところで、雫がふと前方へ目を向けた。
「……ねえ、春樹。今度のお出かけなんだけど、ひとつ聞いてもいい?」
「うん。何?」
雫は少しだけ考えるように視線を落とした。
「春樹って、景色を見るために出かけるの、どう思う? 本屋さんとか図書館みたいに、何か目的がある場所じゃなくても楽しめるかなって」
俺はその質問を聞いて、少しだけ考えた。
普段の俺なら、目的もなく歩くより、本屋へ行って新しい本を探す方が楽しいと思うかもしれない。
けれど、最近は雫と歩きながら話す時間が楽しい。
それなら、景色を眺めるために出かけるのも、悪くない気がする。
「……楽しめると思うよ。俺、一人だったら本を持って行きたくなるかもしれないけど、雫と一緒なら、歩きながら話すだけでも楽しいし」
俺がそう答えると、雫は足を止めそうになるほど驚いた顔をした。
「……春樹、それ、本当?」
「え? うん。本当だけど」
雫はしばらく俺を見つめたあと、少しだけ俯いた。
耳まで赤くなっているように見えたので、俺は何か変なことを言ってしまったのかと心配になる。
「……雫、大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと驚いただけ」
雫は慌てたように首を振り、それから小さく笑った。
「……春樹が、そんなふうに言ってくれると思わなかったから」
俺はその言葉を聞きながら、少しだけ考えた。
確かに、以前の俺なら、本を読めない時間が長くなることを気にしていたかもしれない。
けれど、今は違う。
雫と一緒にいる時間も、十分楽しいと思える。
「……そうかな。でも、最近は本を読んでない時間も楽しいって思うことが増えたんだ」
俺がそう答えると、雫はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、驚きと嬉しさが混じっているように見えた。
「……そっか」
雫は小さく頷き、柔らかく微笑んだ。
「……私、嬉しいな」
その声を聞いたとき、俺の胸の奥にも温かいものが広がった。
雫が嬉しそうにしてくれる。
それが、俺にとっても嬉しい。
最近は、そんなことを感じる場面が増えている気がする。
俺たちは再び歩き始めた。
道の向こうでは、夕日が街路樹の間から差し込んでいる。
雫は少しだけ歩く速度を緩め、俺の隣で空を見上げた。
「……春樹、あの空、きれいだね」
俺もつられて空を見上げた。
薄い雲が夕日に照らされ、淡い橙色に染まっている。
普段なら、帰り道で空をじっくり眺めることはあまりない。
けれど、雫が教えてくれたおかげで、今日はその景色を楽しむことができた。
「……本当だね。こういう景色を見ながら歩くのも、いいな」
俺がそう言うと、雫は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私も、そう思う」
その笑顔を見た瞬間、俺はふと考えた。
もし一人で歩いていたら、この空に気づかなかったかもしれない。
雫が隣にいたからこそ、足を止めて眺めようと思えた。
そう考えると、景色そのものだけでなく、誰と一緒に見たかということも、大切なのかもしれない。
(……あの喫茶店の小説と、少し似てるな)
主人公にとって特別になった場所も、最初から特別だったわけではない。
そこで過ごした時間や、出会った人たちとの関係が、少しずつ意味を与えていった。
俺にとっても、雫と歩くこの道は、ただの通学路ではなくなってきているのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺たちはゆっくりと家へ向かって歩き続けた。
◇◇◇
その夜、西条雫は自室の机に向かい、春樹から借りた喫茶店の小説を開いていた。
昨日は主人公が初めて喫茶店へ入るところまで読んだ。
今日は、その続きを少し進めるつもりだった。
物語の中では、主人公が店主との会話を通じて、少しずつ店の雰囲気に馴染み始めている。
最初は緊張していた主人公も、何気ない言葉を交わすうちに、少しだけ肩の力を抜けるようになっていた。
雫はその場面を読みながら、今日の帰り道を思い出した。
春樹は、雫と一緒なら、歩きながら話すだけでも楽しいと言ってくれた。
その言葉を聞いたとき、胸がいっぱいになってしまった。
(……春樹、少しずつ変わってきてるのかな)
昔から春樹は本が好きだった。
それは今も変わらないし、雫もそんな春樹が好きだった。
けれど、最近は本の話だけでなく、二人で過ごす時間そのものについて話してくれることが増えている。
その変化が、雫には嬉しかった。
もちろん、春樹が自分と同じ気持ちを抱いているとは限らない。
彼は誰に対しても優しく、相手の好きなものを大切にしようとする人だ。
だから、雫だけが特別だと思い込むわけにはいかない。
それでも、今日の言葉は、何度思い出しても胸が温かくなる。
『雫と一緒なら、歩きながら話すだけでも楽しいし』
雫は本を閉じ、表紙へそっと手を添えた。
(……私もだよ、春樹。春樹と一緒なら、何でもない道を歩くだけでも楽しいんだよ)
心の中でそう呟きながら、雫は少しだけ目を細めた。
幼いころ、春樹と一緒に過ごした時間。
あの丘で交わした大切な約束。
今も胸の奥に残っているその思い出は、雫にとってかけがえのないものだった。
けれど、春樹はまだ、その約束を思い出していない。
雫はそれを責めたいわけではなかった。
ただ、いつか自分の言葉で伝えたいと思っている。
あのとき何を約束したのか。
そして、今もその約束を大切にしていることを。
雫は机の端に置いていた葉の形の栞へ目を向けた。
以前、春樹と一緒に選んだものだ。
春樹は三日月の栞を選んでいた。
それぞれ違う形なのに、並べたときに不思議と似合っていたことを、雫は今でも覚えている。
(……また、一緒に何かを選べたらいいな)
今度のお出かけでは、どこへ行くだろう。
景色のいい場所を歩くのもいいし、途中で小さな店へ立ち寄るのも楽しそうだ。
春樹が好きな本の話を聞きながら、ゆっくり過ごせたら嬉しい。
そんなことを考えていると、雫は自然に微笑んでいた。
まだ予定は決まっていない。
けれど、これから一緒に考えていく時間も、大切な思い出になるような気がしていた。
◇◇◇
俺は夕食と入浴を済ませたあと、自室の机へ戻っていた。
読みかけの恋愛小説を開くつもりだったのだが、その前に、今日の帰り道で雫と話したことを少し整理したくなった。
机の上には読書ノートと文庫本が並んでいる。
俺はノートを開き、昨日書いた感想を読み返した。
『相手のことをもっと知りたいと思う気持ちが、少しずつ大きくなっていくところも面白い』
その文章を眺めていると、今日の雫の言葉が思い出された。
景色を見るために出かけるのはどう思うか。
本屋や図書館のように、はっきりした目的がなくても楽しめるだろうか。
雫は少し不安そうに尋ねていた。
俺は、雫と一緒なら楽しいと思うと答えた。
それは、無理に相手へ合わせた言葉ではない。
本当に、そう思ったからだ。
(……でも、考えてみると不思議だよな。前だったら、休日に本を読まない時間が増えるのは、ちょっともったいないって思ってたかもしれないのに)
俺はペンを持ち、ノートの余白へ小さく書き込んだ。
『誰かと過ごす時間が楽しいと思えるようになることも、ひとつの変化なのかもしれない』
書き終えてから、少しだけ考えた。
物語の主人公は、幼馴染のヒロインと過ごす時間を特別に感じるようになり、その理由を少しずつ理解し始めている。
俺も最近、雫と過ごす時間を以前より楽しみにしている。
けれど、それが同じ理由なのかどうかは、まだ分からない。
俺はペンを置き、文庫本を手に取った。
三日月の栞を挟んでいたページを開くと、物語は主人公がヒロインとの関係について考える場面から続いていた。
主人公は、昔から隣にいた相手だからこそ、気持ちの変化を認めるのが難しいと感じている。
もし自分の思いが友情ではなく恋愛感情だったら。
もし相手が同じ気持ちではなかったら。
そんな不安が、主人公の胸に広がっている。
俺はその文章を読みながら、少しだけ考え込んだ。
(……確かに、昔から仲がいい相手との関係が変わるって、簡単なことじゃないよな)
幼馴染という関係は、特別だと思う。
小さいころから知っている相手だからこそ、気を遣わずに話せることもある。
昔の思い出を共有しているからこそ、何気ない言葉で笑い合えることもある。
それが変わってしまうかもしれないと思えば、主人公が戸惑うのも理解できる。
俺はページをめくった。
物語の中では、主人公がヒロインへ何かを伝えようとして、結局言葉にできない場面が続いていた。
読者としては、早く伝えればいいのにと思ってしまう。
けれど、今は以前ほど簡単にそう言えなくなっている自分がいた。
「……難しいんだな、こういうのって」
俺は小さく呟いた。
物語の主人公は、自分の気持ちを認めようとしている。
それなのに、俺は自分の気持ちについて考えようとすると、なぜかうまく言葉にできない。
雫と一緒にいる時間が楽しい。
雫が笑っていると嬉しい。
雫のことをもっと知りたい。
それだけなら、はっきり分かる。
けれど、その先に何があるのかと考えると、まだ答えが見つからなかった。
俺はしばらく本を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……まあ、今すぐ答えを出さなくてもいいか」
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
物語の主人公だって、時間をかけて自分の気持ちに向き合っている。
それなら、俺も焦る必要はない。
今は、雫と一緒に過ごす時間を大切にしよう。
そう思いながら、俺はもう一度ページへ目を落とした。
しばらく読み進めたところで、机の上のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、雫からメッセージが届いていた。
『春樹、今日も一緒に帰ってくれてありがとう。さっき、借りた本の続きを少し読んだよ』
俺は思わず笑顔になった。
『こちらこそ。もう続き読んだんだね。どうだった?』
送信してから少し待つと、雫から返事が届いた。
『主人公が喫茶店の人たちと少しずつ話せるようになっていくところ、すごく好き。春樹が言ってた、何気ない会話が大切になるっていう意味が少し分かってきた気がする』
俺はその文章を読みながら、嬉しくなった。
雫が、自分の好きな物語を楽しんでくれている。
しかも、俺が面白いと思ったところを、雫も大切に感じてくれている。
それだけで、何だか胸が温かくなる。
『分かる。あの店の人たちって、最初から特別なことをしてるわけじゃないんだけど、少しずつ主人公の居場所になっていくんだよね』
『うん。私も、そういう場所って素敵だなって思った』
俺はその返事を読みながら、今日の帰り道を思い出した。
雫と一緒に見た夕方の空。
普段なら見過ごしていたかもしれない景色。
けれど、今日は雫が教えてくれたおかげで、少しだけ特別に感じられた。
『今日の帰り道も、ちょっとそんな感じだったかもしれないね。雫が空を見てくれたから、俺もきれいだなって思えたし』
送信してから、俺は少しだけ画面を見つめた。
何となく、普段よりも素直なことを書いた気がする。
けれど、嘘ではない。
しばらくすると、雫から返事が届いた。
『……私も、春樹と一緒に見たから、いつもよりきれいに感じたよ』
その文章を読んだ瞬間、俺は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
同じ景色を見て、同じように感じていた。
それが、妙に嬉しい。
『そっか。じゃあ、今度出かけるときも、いい景色が見られるといいね』
『うん。春樹と一緒に見たいな』
俺はその返事を読みながら、しばらくスマートフォンを持ったまま動かなかった。
雫は、俺と一緒に景色を見たいと思ってくれている。
それが、何だか嬉しかった。
『俺も楽しみにしてるよ。場所はまた一緒に考えようね』
『うん。おやすみ、春樹。また明日ね』
『おやすみ、雫。また明日』
メッセージを送り終えると、俺はスマートフォンを机へ置いた。
部屋の中は静かで、窓の外からは遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。
机の上には、まだ読み終えていない恋愛小説がある。
その続きを読みたい。
そう思っているのに、今は雫との会話の余韻が、胸の奥に残っていた。
俺は椅子へ深く座り直し、文庫本の表紙を眺めた。
(……本屋より先に、雫とどこへ行こうか考えてるなんて、前の俺だったらちょっと驚くだろうな)
思わず小さく笑ってしまう。
けれど、それは嫌な変化ではなかった。
むしろ、少し楽しい。
これまで知らなかった本に出会うときのように、これから雫と過ごす時間にも、まだ知らない楽しさがあるのかもしれない。
俺は三日月の栞を指先で整え、もう一度小説を開いた。
物語の主人公は、幼馴染への気持ちを少しずつ理解し始めている。
俺はまだ、自分の中にあるものをうまく説明できない。
それでも、雫と一緒に過ごす時間が大切になってきていることだけは、以前よりもはっきり感じていた。
明日も、雫と話せたらいい。
今度出かける場所について、また一緒に考えられたらいい。
そんなことを思いながら、俺は静かな夜の中でページをめくり続けた。




