第82話 幼馴染と出かける場所を考えているだけなのに、どうして本屋より先に君の笑顔が浮かぶんだ?
木曜日の朝、目覚まし時計の音に手を伸ばした俺は、枕元のスマートフォンを止めてから、しばらく天井を眺めていた。窓の外ではまだ薄い雲が広がっているらしく、カーテンの隙間から差し込む光は昨日よりも柔らかい。布団の中に残っていた温かさが心地よく、もう少しだけ横になっていたい気持ちになったものの、いつもの時間に家を出なければ雫を待たせてしまう。
そう考えたところで、俺は少しだけ不思議な気分になった。以前なら、朝起きて最初に考えることといえば、昨日読み残した本の続きや、学校へ持っていく一冊のことだった。それなのに最近は、今日も雫と一緒に登校できるだろうかとか、昨日話したことの続きを聞けるだろうかとか、そんなことが自然と頭に浮かんでくる。
(……まあ、昨日も一緒に帰ったし、出かける場所の相談もしてたからな。気になるのは当然か)
俺は自分なりに納得すると、布団から抜け出して机へ向かった。昨夜読み進めた恋愛小説は、三日月の栞を挟んだまま机の端に置いてある。大学で再会した幼馴染同士の物語は、いよいよ主人公が自分の気持ちを認めようとするところまで進んでいたが、結末を読むにはまだ少し時間が必要だった。
表紙へ目を向けると、昨日の夜に感じた妙な落ち着かなさが蘇ってきた。主人公がヒロインの笑顔を何度も思い出す場面で、俺も雫の笑顔を思い浮かべてしまったのだ。もちろん、物語を読んで自分の経験と似たところを探すのは珍しくないし、それだけで主人公と同じ気持ちだと決まるわけではない。
ただ、雫が楽しそうに笑っているところを思い出すと、俺まで嬉しくなるのは確かだった。
「……今日も、いい一日になるといいな」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、俺は制服へ着替え始めた。机の上の文庫本は今日も持っていくことにして、昨日書いた読書ノートも鞄へ収める。まだ読み終えていない作品について誰かに感想を話すつもりはなかったが、休み時間に少し読み進められたら嬉しい。
準備を終えたところで、ふと昨日の雫とのメッセージを思い出した。
『春樹と一緒に考えるの、楽しみ』
あの言葉は、短い文章なのに妙に印象に残っていた。出かける場所を相談するだけのことなのに、雫は本当に楽しみにしてくれているらしい。そう思うと、俺も何か候補を考えておきたくなる。
(本屋も図書館も楽しいけど、今回はそれ以外も考えてみようかな。雫が景色のいい場所って言ってたし、歩いていて気持ちのいいところがいいのかもしれない)
もっとも、俺は普段から休日の外出先を本屋中心に決めている。景色を楽しむためだけに出かけるとなると、どんな場所がいいのか、すぐには思いつかなかった。
それでも、雫と一緒に考えれば何か見つかるだろう。
俺は鞄を肩へ掛け、いつもより少しだけ軽い足取りで部屋を出た。
◇◇◇
家を出ると、朝の住宅街にはひんやりとした風が流れていた。昨夜のうちに少し雨が降ったのか、道路の端には小さな水たまりが残っており、街路樹の葉にも細かな雫がついている。空は曇っていたが、雲の切れ間から薄い青色が見え始めていた。
いつもの曲がり角へ近づくと、雫が道の向こうから歩いてくるのが見えた。今日は淡い色のカーディガンを羽織っていて、風が吹くたびに長い髪が肩のあたりで揺れている。俺に気づいた雫は、少しだけ歩く速度を速めると、嬉しそうに手を上げてくれた。
「おはよう、春樹。今日はちょっと空が暗いね。朝、窓を開けたら地面が濡れてて驚いちゃった」
「おはよう、雫。俺もさっき気づいたよ。雨が降ってるところは見てないけど、夜のうちに降ったのかもしれないね」
俺がそう答えると、雫は空を見上げながら小さく頷いた。二人で並んで歩き始めると、濡れたアスファルトから土と草の混じったような匂いが漂ってくる。少し離れた家の庭では、葉についた水滴が朝の光を受けてきらきらと光っていた。
「こういう朝も、なんだかいいね。晴れてる日とは違う匂いがするし、いつもの道が少し違って見える気がする」
雫は足元の水たまりを避けながら、楽しそうにそう言った。
「確かに。俺だったら、雨上がりの朝って聞くと、まず小説の場面を思い浮かべちゃうけど」
「ふふ、春樹らしいね。でも、そういうところも好きだよ。何かを見たとき、すぐ本の話につながるところ」
雫は自然な調子で言ってから、少し遅れて自分の言葉に気づいたように頬を赤くした。俺はその変化を不思議に思いながらも、褒めてもらえたことが嬉しくて笑い返す。
「ありがとう。雫も、こういう景色によく気づくよね。俺は本の中の風景ならじっくり想像するけど、実際に歩いてるときは見落としてることが多いかもしれない」
「そんなことないと思うよ。春樹だって、私が気づかないところを見つけることがあるし。それに、一緒に歩いてると、同じ景色でも違う見方ができるのが楽しいんだ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ考えた。
一人で本を読むときには、登場人物の行動や物語の流れを自分なりに解釈する。けれど、読み終えたあとで誰かと話すと、自分が気づかなかったところを教えてもらえることがある。
雫と歩く時間も、それに似ているのかもしれない。
「……それ、何となく分かるな。本の感想を話してるときと似てるかもしれないね。同じものを見てても、気づくところが違うから面白いんだ」
俺がそう言うと、雫は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。だから、今度一緒に出かけるときも、そういう時間があるといいなって思うの」
昨日の帰り道に話した約束が、自然と会話の中へ戻ってきた。俺は今朝から考えていたことを思い出し、雫へ顔を向ける。
「そうだ、雫。昨日のお出かけの話なんだけど、少し考えてみたんだ」
「えっ、本当?」
雫は驚いたように目を見開き、それからぱっと表情を明るくした。その反応が予想以上に嬉しそうだったので、俺は少し照れくさくなりながら頷いた。
「まだ具体的な場所までは決めてないんだけどね。雫が言ってたみたいに、景色のいいところをゆっくり歩くのも楽しそうだなって。あとは、途中で休める場所があれば、そこで本の話をするのもいいかなと思ったんだ」
「……うん。すごくいいと思う」
雫は両手で鞄の持ち手を握り直し、少しだけ視線を落とした。口元には柔らかな笑みが浮かんでいて、何かを大切に受け取ったような表情をしている。
「春樹、ちゃんと考えてくれたんだね。昨日話したばかりなのに」
「うん。せっかく一緒に出かけるなら、雫にも楽しんでもらいたいし」
俺がそう答えると、雫は一瞬だけ言葉を失ったように見えた。頬が少しずつ赤くなり、こちらを見上げた瞳が揺れる。
「……私も、春樹に楽しんでほしいよ。だから、春樹の好きなことも入れたいなって思ってる」
「ありがとう。でも、俺の好きなことばっかりだと、結局いつもと同じ本屋巡りになっちゃうかもしれないよ?」
「それでも楽しいと思うけど……今回は、二人とも普段あまり行かないところを探してみるのもいいかもしれないね」
雫はそう言って笑った。
その言葉を聞いたとき、俺は胸の奥に小さな期待が広がるのを感じた。
普段あまり行かない場所へ、雫と一緒に出かける。
それだけのことなのに、なぜかいつもの休日とは違う楽しみがあるように思える。
(……知らない場所へ行くのも、雫と一緒なら面白そうだな)
俺たちは校門が見えるまで、行ってみたい場所について少しずつ話し続けた。公園のように気軽に歩ける場所がいいのか、それとも少し遠くまで出かけて景色を楽しむのがいいのか、まだ答えは出ない。それでも、どちらかが何かを提案するたびに、もう一人が楽しそうに考える時間そのものが心地よかった。
◇◇◇
教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席で友人と話していた。俺に気づいた悠斗は軽く手を上げ、近くの席へ戻ってきたところで声をかけてくる。
「おはよう、春樹。なんか今日は朝から機嫌よさそうだな」
「おはよう、悠斗。そう見える?」
「ああ。いつも本の話してるときは楽しそうだけど、今日はそれとはちょっと違う感じがする」
悠斗は俺の顔を眺めながら、面白そうに笑った。俺は鞄を机へ置き、少し考えてから答える。
「雫と、今度出かける場所について話してたんだ。まだ決まってないんだけど、普段あんまり行かないところもいいかなって」
その瞬間、悠斗の表情が少し変わった。
「……へえ。雫と二人で出かけるのか」
「うん。前から話してたんだけど、まだ場所も日にちも決めてなくてさ」
「なるほどな。で、お前はどこへ行きたいんだ?」
悠斗は椅子を引いて腰を下ろし、興味深そうに身を乗り出した。俺は今朝の会話を思い出しながら、景色のいいところを散歩する案が出ていることや、途中で休める場所があると嬉しいことを説明した。
話を聞き終えた悠斗は、しばらく俺の顔を見つめていた。
「……お前が、本屋以外の場所を自分から考えてるのって、結構珍しくねえか?」
「そうかな。別に本屋以外へ行かないわけじゃないよ」
「そりゃそうだけどさ。休日に出かけるってなったら、お前はまず本屋か図書館だろ。今回は雫が楽しめる場所を考えてるっていうのが、ちょっと意外だったんだよ」
俺はその言葉を聞き、少しだけ考え込んだ。
確かに、休日の予定を立てるときは、最初に読みたい本や探したい本のことを考えることが多い。誰かと出かける場合でも、自然と本に関係する場所を候補にしてしまう。
けれど、今回は違った。
雫がどんな場所なら喜んでくれるだろうか。
どんな景色を一緒に見たら楽しいだろうか。
そんなことを考えているうちに、気づけば本屋以外の場所を探そうとしていた。
「……そう言われると、確かに珍しいかもしれないね。でも、雫が楽しみにしてくれてるから、俺もちゃんと考えたいんだ」
俺がそう答えると、悠斗は少しだけ目を見開いた。
それから、口元を緩めながら椅子の背もたれへ身体を預ける。
「そっか。まあ、それならいいんじゃねえかな。場所を決めるのも楽しいだろうし、あんまり急いで決めなくてもいいと思うぞ」
「うん。雫とも、ゆっくり相談しようって話してるよ」
「……そうかそうか」
悠斗は妙に納得したような顔で頷いた。
俺はその反応が少し気になったが、ちょうど教室の入口から赤木紗弥が入ってきたため、続きを聞く機会を逃してしまった。
「おはよう、高坂君。七瀬君も、おはよう」
「おはよう、赤木さん」
俺が挨拶すると、悠斗も少しだけ姿勢を正して声を返した。紗弥は二人の顔を交互に見て、何か楽しそうな話をしていたのかと尋ねてくる。
「春樹が雫と出かける場所を考えてるって話をしてたんだよ。まだ予定は決まってないらしいけど」
悠斗がそう説明すると、紗弥は嬉しそうに微笑んだ。
「へえ、素敵だね。二人とも昔から仲がいいもんね。どこか行ってみたい場所はあるの?」
「景色のいいところを散歩するのもいいかなって話してるんだけど、まだ具体的には決めてないんだ」
俺が答えると、紗弥は少し考えるように視線を上げた。
「それなら、無理に遠くへ行かなくてもいいかもしれないね。二人で話しながら歩ける場所なら、近くでも楽しいと思うし。私もこの前、高坂君と映画を見に行ったとき、映画そのものも楽しかったけど、終わったあとに感想を話してた時間がすごく印象に残ってるんだ」
その言葉を聞いた悠斗が、少しだけ頬を赤くした。
「……俺も、あの時間は楽しかったよ。映画の見方が結構違ってて、話してるうちにまた見たくなったし」
紗弥は嬉しそうに笑い、二人の間に柔らかな空気が流れた。
俺はその様子を眺めながら、なるほどと思った。
どこへ行くかも大切だけれど、そこで誰と何を話すかも同じくらい大切なのかもしれない。
昨日まで読んでいた喫茶店の小説でも、主人公にとって大切になったのは、店の内装や料理だけではなかった。そこで出会った人々と過ごした時間が積み重なったからこそ、その場所が特別になったのだ。
「……ありがとう、赤木さん。ちょっと参考になったよ」
俺がそう言うと、紗弥は少し驚いたあと、穏やかに微笑んだ。
「ううん。二人で楽しい時間を過ごせるといいね」
その言葉に頷きながら、俺は自分の席へ戻った。
雫と出かける場所は、まだ決まっていない。
けれど、どんなところへ行くとしても、一緒に過ごす時間を楽しめたらいい。
そう思うと、候補を考えること自体が少し楽しみになってきた。
◇◇◇
昼休み、俺は昼食を終えてから図書室へ向かった。
今日は読みかけの恋愛小説を少し進めるつもりだったが、入口の近くまで来たところで、九条凛の姿が目に入った。彼女は図書室前の廊下に立ち、壁の掲示スペースを確認しながら、手元の資料へ何かを書き込んでいる。
「こんにちは、九条さん。何か確認してるの?」
俺が声をかけると、九条さんは顔を上げた。
「ああ、七瀬か。こんにちは。以前から検討している安全掲示の件で、掲示場所の候補をもう一度確認していたところだ」
九条さんは手元の資料を軽く持ち上げた。
「まだ承認が下りたわけではないから、掲示することはできない。ただ、実際に許可が出た場合に、通行の邪魔にならず、なおかつ利用者の目に入りやすい場所を考えておきたくてな」
俺は廊下の様子へ目を向けた。
図書室の入口付近は昼休みになると人の出入りが増える。壁際には学校からのお知らせや委員会の連絡が掲示されており、その前で立ち止まる生徒も少なくない。
「なるほど。目立つ場所に貼ればいいってわけじゃないんだね」
「当然だ。注意を促す掲示が原因で人の流れを妨げては本末転倒だからな。それに、図書室を利用する生徒が不快に感じるような言い方も避けたい」
九条さんは真面目な表情で答えた。
以前、彼女が考えていた掲示の文面を思い出す。
『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』
『本の続きは、安全な場所で』
どちらも、歩きながら本を読まないよう呼びかける内容だった。俺自身、以前は本の続きが気になって歩きながらページを開きそうになることがあったので、その必要性はよく分かる。
「九条さんって、ちゃんと読む人の気持ちも考えてくれてるよね」
俺がそう言うと、九条さんは少しだけ目を瞬かせた。
「……どういう意味だ?」
「注意するだけなら、歩き読み禁止って書けば済むかもしれないけど、九条さんは本の続きが気になる気持ちも分かったうえで、どう伝えればいいか考えてるんだなって」
九条さんはしばらく俺を見つめていた。
やがて、少しだけ視線を逸らし、手元の資料を持ち直す。
「……お前が以前、読むこと自体は悪くないと言っていたからな。危険なのは周囲を見ずに歩くことであって、本を好きな気持ちまで否定する必要はないだろう」
その言葉を聞いて、俺は嬉しくなった。
「ありがとう。そう考えてもらえるの、すごく嬉しいよ」
九条さんは小さく咳払いをした。
「別に、お前のためだけに考えているわけではない。学校全体の安全に関わることだから、当然の判断だ」
「うん。それでも、ありがとう」
俺が笑うと、九条さんは少し困ったような顔をしたあと、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……まったく。お前はそういうところがあるな」
「そういうところ?」
「いや、何でもない。とにかく、正式な許可が出るまでは何も掲示しないから、その点は覚えておいてくれ」
俺は頷き、図書室の入口へ目を向けた。
「分かった。もし掲示することになったら、俺も気をつけるよ。もちろん、今も歩きながら本は読まないようにしてるけど」
「それならいい。以前よりは、随分安心して見ていられるようになったからな」
九条さんはそう言って、少しだけ柔らかな表情を浮かべた。
俺はその変化に気づき、自然と笑顔になる。
「九条さんにそう言ってもらえるなら、ちゃんと気をつけてきた甲斐があったよ」
すると、九条さんはまた少しだけ頬を赤くした。
「……だから、そういうことを何でも素直に言うな」
「えっ、何か変なこと言った?」
「変ではない。変ではないが……いや、もういい。私は確認を続けるから、お前は読書を楽しんでこい」
九条さんは少し早口になりながら、資料へ視線を戻した。
俺は不思議に思いつつも、邪魔をしてはいけないと考えて軽く頭を下げた。
「うん。ありがとう、九条さん。またね」
「ああ。またな、七瀬」
図書室へ入る直前、振り返ると、九条さんは掲示スペースを見つめながら何かを考えていた。
真面目で、少し厳しいところもある。
けれど、誰かの気持ちを無視して注意するような人ではない。
以前から知っていたことではあるが、最近は彼女のそういう一面を、前より自然に感じ取れるようになった気がした。
◇◇◇
図書室の中は、昼休みらしい穏やかな賑わいに包まれていた。
窓際では数人の生徒が静かに本を読み、書架の間では友達同士で小声の相談をしている生徒たちがいる。カウンターの奥では白石栞先輩が返却された本を整理しており、俺に気づくと柔らかく微笑んでくれた。
「こんにちは、七瀬君。今日も読書に来たの?」
「こんにちは、白石先輩。はい。昨日の続きを少し読もうと思って」
俺が鞄から文庫本を取り出すと、先輩は表紙へ目を向けた。
「あ、昨日話していた恋愛小説だね。まだ読み終わっていないんだ?」
「はい。結構じっくり読んでるので、思ったより時間がかかってます。でも、主人公の気持ちが少しずつ変わっていくところが面白くて」
先輩は楽しそうに頷いた。
「ふふ。七瀬君がそんなふうに読むの、なんだか新鮮だね。前は恋愛小説の主人公に対して、もっと早く気づけばいいのにって言うことが多かった気がするから」
俺は思わず苦笑した。
「今でも思いますよ。読者からすると、どう見ても相手のことが好きなんじゃないかって場面がたくさんあるので」
「でも、今は少し違うの?」
先輩の問いかけに、俺は少しだけ考えた。
昨日、主人公がヒロインの笑顔を思い出す場面を読んだとき、自分でも似たような経験があるような気がした。だからといって主人公の恋愛感情まで理解できたわけではないが、以前よりもその戸惑いを身近に感じている。
「……そうですね。気持ちを言葉にするのって、思ってるより難しいのかもしれないなって、最近は少し思います」
俺がそう答えると、先輩は驚いたように目を見開いた。
それから、穏やかな笑みを浮かべる。
「……そっか。七瀬君、いろんなことを考えながら読んでるんだね」
「はい。まだ自分でもうまく説明できないんですけど、読み終わったら感想をまとめてみたいです」
「うん。楽しみにしてるね」
先輩はそう言って、カウンターの端に置いていたファイルへ手を伸ばした。
「そういえば、紹介カードの試作も少し調整したんだ。今日は見出しと本文の間隔を確認してるところなんだけど、もし時間があったら、また感想を聞かせてもらえるかな」
「もちろんです。今見ても大丈夫ですか?」
「うん。ただ、まだ試作だから、正式な掲示物として使えるかは分からないんだけどね」
先輩はファイルから二枚のカードを取り出し、カウンターの上へ並べた。
一枚は恋愛小説の紹介カードで、もう一枚は日常を描いた短編集の紹介カードだった。どちらも以前から相談しているものだが、見出しと紹介文の間に少し余白が加えられ、前よりも読みやすくなっている。
俺は少し離れた位置から全体を眺め、それから近づいて文章を確認した。
「……いいですね。前より見出しが目に入りやすいですし、そのあとに紹介文を読む流れも自然な気がします」
「本当? よかった。あんまり文字を詰め込みすぎると読みにくくなるし、かといって内容が分からないと手に取ってもらえないから、少し迷ってたんだ」
先輩は安心したように笑った。
「特に恋愛小説の方は、見出しを読んだ人がどんな物語なのか想像できるようにしたくて」
俺は恋愛小説のカードへ目を向けた。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
その見出しを読むと、今朝の雫との会話が思い出された。
昔から知っている相手でも、知らないことはたくさんある。
それを知ろうとする時間が、物語の中では大切な変化につながっていく。
「……この見出し、やっぱりいいと思います。昔から一緒にいる相手でも、全部知ってるわけじゃないっていうのが伝わるので」
俺がそう言うと、先輩は少しだけ目を細めた。
「七瀬君は、そういうところが気になってるんだね」
「はい。最近、幼馴染と昔の話をすることが増えたので、余計にそう感じるのかもしれません」
その瞬間、先輩の指先がほんの少しだけ止まった。
けれど、すぐにいつもの柔らかな笑顔へ戻る。
「……西条さんと?」
「はい。雫って、俺が忘れてた昔のことも結構覚えてるんです。昨日も、昔一緒に花を調べた話をしてくれて」
俺がそう答えると、先輩は静かに頷いた。
「……素敵だね。二人で過ごした時間を、今も大切にしてるんだ」
「そうみたいです。俺も、もっといろいろ思い出してみたくなりました」
先輩は少しだけ視線を落とし、カードの端を指で整えた。
「……うん。そういう気持ちも、この作品の魅力につながるのかもしれないね」
その声はいつもと変わらず穏やかだったが、どこか考え込むような響きがあった。
俺は先輩の言葉に頷き、もう一度カードへ目を向けた。
まだ正式に掲示されるかは分からない。
けれど、こうして少しずつ形になっていくのを見るのは楽しい。
「白石先輩、完成したらきっといい紹介カードになりますね」
俺がそう伝えると、先輩は顔を上げた。
「……ありがとう、七瀬君。そう言ってもらえると、頑張ろうって思えるよ」
その笑顔を見て、俺も嬉しくなった。
先輩が大切にしているものを、一緒に考えられる。
それもまた、図書室で過ごす時間の楽しさの一つなのだと思う。
◇◇◇
七瀬春樹が窓際の席へ向かったあと、白石栞はカウンターの上に並べた紹介カードを、しばらく見つめていた。
七瀬君は、幼馴染との昔の思い出を話す機会が増えたと言っていた。
そのときの表情は、普段本について話しているときと同じくらい楽しそうだった。いや、もしかすると、それ以上に柔らかかったかもしれない。
(……西条さんとの時間が、七瀬君にとって前より大切になってきているのかな)
栞は胸の奥に生まれた小さな痛みを、静かに受け止めた。
七瀬君が誰かとの時間を楽しんでいることは、嬉しい。
彼が本以外のことにも目を向け、いろいろな人との関係を大切にしているのも、素敵な変化だと思う。
けれど、その変化の中心にいるのが自分ではないのかもしれないと考えると、どうしても少し寂しくなる。
栞は紹介カードを丁寧に重ね、ファイルへ戻した。
(……でも、私も七瀬君と話してる時間が好きなんだよね)
以前、一緒に本屋や喫茶店へ出かけた日のことを思い出す。
七瀬君は本を選ぶとき、驚くほど真剣な顔をする。
それなのに、こちらが興味を持った本について尋ねると、嬉しそうに説明してくれる。
その姿を見ているだけで、栞も自然に笑顔になった。
今も、彼との関係がなくなったわけではない。
図書室で会えば話ができるし、紹介カードについて一緒に考えることもできる。
七瀬君から借りている古書店のミステリーも、まだ読み終えていない。
読み終わったら、きちんと感想を伝えたい。
そして、できればまた、二人で本について話す時間を持ちたい。
(……焦っても仕方ないよね。私は私の気持ちを、大切にしていこう)
栞は小さく息を整えると、カウンターへ戻ってきた生徒から返却本を受け取った。
図書室には、今日もたくさんの本と、それを楽しみに訪れる人たちがいる。
その場所を大切にすることも、自分にとって変わらない喜びだった。
◇◇◇
午後の授業が終わるころには、朝の雲がすっかり薄くなっていた。
教室の窓から差し込む夕方の光は柔らかく、机の上に長い影を落としている。俺は教科書を鞄へしまいながら、今日の帰り道で雫と何を話そうか考えていた。
朝は出かける場所について少し話した。
けれど、まだ具体的な候補は決まっていない。
せっかくなら、雫がどんな場所を好きなのか、もう少し聞いてみたい。
そう考えていると、悠斗がこちらへ近づいてきた。
「春樹、今日も雫と帰るのか?」
「うん。そのつもりだけど」
俺が答えると、悠斗は少しだけ笑った。
「そっか。じゃあ、今日も楽しく帰れよ」
「ありがとう。悠斗は?」
「俺はちょっと紗弥と話してから帰る。映画の感想で、まだ聞きたいことがあるんだよな」
悠斗は少し照れくさそうに笑った。
俺はその様子を見て、自然に頷いた。
「いいね。二人で同じ作品について話せるのって楽しいよね」
「……ああ。そうなんだよ」
悠斗は嬉しそうに笑ったあと、少しだけ真面目な表情になった。
「春樹、お前も雫と出かけるなら、ちゃんと楽しんでこいよ。どこへ行くかも大事だけど、一緒にいる時間そのものを楽しめばいいと思うぞ」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
「……悠斗も赤木さんも、同じようなこと言うんだね」
「え?」
「朝、赤木さんも似たこと言ってたからさ。映画を見たあとに話してた時間が印象に残ってるって」
俺がそう説明すると、悠斗は一瞬だけ固まった。
それから、少しずつ頬を赤くする。
「……そ、そうか。紗弥、そんなこと言ってたんだな」
「うん。すごく楽しそうだったよ」
俺がそう答えると、悠斗は口元を緩めながら視線を逸らした。
「……そっか。それなら、よかった」
その反応を見て、俺は少しだけ笑った。
悠斗にとって、紗弥との時間は本当に大切なのだろう。
そう考えると、俺も雫との時間をもっと楽しみたくなった。
「じゃあ、また明日ね、悠斗」
「ああ。またな、春樹」
俺は鞄を肩へ掛け、教室を出た。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、窓の外からは校庭で練習を始めた運動部の掛け声が聞こえてくる。
階段を下りながら、俺はふと考えた。
以前なら、放課後の楽しみといえば、図書室で本を読むことだった。
もちろん今も、図書室へ行く時間は好きだ。
けれど、今日は雫と一緒に帰ることを、少し楽しみにしている。
その変化が何を意味するのか、まだよく分からない。
ただ、悪い気分ではなかった。
◇◇◇
昇降口へ着くと、雫が靴を履き替えているところだった。
俺に気づいた彼女は、顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。
「春樹、お疲れさま。今日は図書室に寄ってたんだよね?」
「お疲れさま、雫。うん。白石先輩と紹介カードの話をしてたよ」
「そっか。少しずつ進んでるんだね」
「まだ試作だけどね。見出しと紹介文の間隔を調整してて、前より読みやすくなってたよ」
雫は興味深そうに頷き、俺と並んで昇降口を出た。
外へ出ると、朝とは違って空が明るくなっていた。雲の隙間から夕方の光が差し込み、校門へ続く道の端では、雨に濡れていた葉が少しずつ乾き始めている。
「春樹、紹介カードのこと、すごく楽しそうに話すね」
「うん。まだ正式に掲示できるかは分からないけど、少しずつ形になっていくのを見るのって面白いんだ」
俺がそう答えると、雫は柔らかく笑った。
「……春樹って、好きなことを誰かと一緒に考えるのも好きなんだね」
その言葉に、俺は少しだけ考えた。
確かに、最近は誰かと相談する時間が増えている。
白石先輩とは紹介カードについて話しているし、九条さんとは安全掲示について話すこともある。
悠斗とは本や映画の感想を交換する。
そして雫とは、借りた本の感想や、昔の思い出について話している。
「……そうかもしれないね。一人で考えるのも好きだけど、誰かと話すと自分じゃ思いつかなかったことに気づけるから」
俺がそう言うと、雫は嬉しそうに頷いた。
「私も、春樹と話してるとそう思うよ。自分では何となく好きだなって感じてたところも、春樹と話すと理由が分かることがあるんだ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ胸が温かくなった。
「……それなら、よかった。俺も雫と話すの、楽しいから」
雫は一瞬だけ目を見開いた。
それから、少しだけ頬を赤くして微笑んだ。
「……うん。私も」
俺たちは校門を出て、いつもの通学路を歩き始めた。
夕方の住宅街には、買い物帰りの人や犬の散歩をしている人の姿があり、どこかの家から夕食の準備をしているような匂いが漂ってくる。
しばらく歩いたところで、雫がふと前方へ目を向けた。
「……ねえ、春樹。今度のお出かけなんだけど、ひとつ聞いてもいい?」
「うん。何?」
雫は少しだけ考えるように視線を落とした。
「春樹って、景色を見るために出かけるの、どう思う? 本屋さんとか図書館みたいに、何か目的がある場所じゃなくても楽しめるかなって」
俺はその質問を聞いて、少しだけ考えた。
普段の俺なら、目的もなく歩くより、本屋へ行って新しい本を探す方が楽しいと思うかもしれない。
けれど、最近は雫と歩きながら話す時間が楽しい。
それなら、景色を眺めるために出かけるのも、悪くない気がする。
「……楽しめると思うよ。俺、一人だったら本を持って行きたくなるかもしれないけど、雫と一緒なら、歩きながら話すだけでも楽しいし」
俺がそう答えると、雫は足を止めそうになるほど驚いた顔をした。
「……春樹、それ、本当?」
「え? うん。本当だけど」
雫はしばらく俺を見つめたあと、少しだけ俯いた。
耳まで赤くなっているように見えたので、俺は何か変なことを言ってしまったのかと心配になる。
「……雫、大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと驚いただけ」
雫は慌てたように首を振り、それから小さく笑った。
「……春樹が、そんなふうに言ってくれると思わなかったから」
俺はその言葉を聞きながら、少しだけ考えた。
確かに、以前の俺なら、本を読めない時間が長くなることを気にしていたかもしれない。
けれど、今は違う。
雫と一緒にいる時間も、十分楽しいと思える。
「……そうかな。でも、最近は本を読んでない時間も楽しいって思うことが増えたんだ」
俺がそう答えると、雫はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、驚きと嬉しさが混じっているように見えた。
「……そっか」
雫は小さく頷き、柔らかく微笑んだ。
「……私、嬉しいな」
その声を聞いたとき、俺の胸の奥にも温かいものが広がった。
雫が嬉しそうにしてくれる。
それが、俺にとっても嬉しい。
最近は、そんなことを感じる場面が増えている気がする。
俺たちは再び歩き始めた。
道の向こうでは、夕日が街路樹の間から差し込んでいる。
雫は少しだけ歩く速度を緩め、俺の隣で空を見上げた。
「……春樹、あの空、きれいだね」
俺もつられて空を見上げた。
薄い雲が夕日に照らされ、淡い橙色に染まっている。
普段なら、帰り道で空をじっくり眺めることはあまりない。
けれど、雫が教えてくれたおかげで、今日はその景色を楽しむことができた。
「……本当だね。こういう景色を見ながら歩くのも、いいな」
俺がそう言うと、雫は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私も、そう思う」
その笑顔を見た瞬間、俺はふと考えた。
もし一人で歩いていたら、この空に気づかなかったかもしれない。
雫が隣にいたからこそ、足を止めて眺めようと思えた。
そう考えると、景色そのものだけでなく、誰と一緒に見たかということも、大切なのかもしれない。
(……あの喫茶店の小説と、少し似てるな)
主人公にとって特別になった場所も、最初から特別だったわけではない。
そこで過ごした時間や、出会った人たちとの関係が、少しずつ意味を与えていった。
俺にとっても、雫と歩くこの道は、ただの通学路ではなくなってきているのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺たちはゆっくりと家へ向かって歩き続けた。
◇◇◇
その夜、西条雫は自室の机に向かい、春樹から借りた喫茶店の小説を開いていた。
昨日は主人公が初めて喫茶店へ入るところまで読んだ。
今日は、その続きを少し進めるつもりだった。
物語の中では、主人公が店主との会話を通じて、少しずつ店の雰囲気に馴染み始めている。
最初は緊張していた主人公も、何気ない言葉を交わすうちに、少しだけ肩の力を抜けるようになっていた。
雫はその場面を読みながら、今日の帰り道を思い出した。
春樹は、雫と一緒なら、歩きながら話すだけでも楽しいと言ってくれた。
その言葉を聞いたとき、胸がいっぱいになってしまった。
(……春樹、少しずつ変わってきてるのかな)
昔から春樹は本が好きだった。
それは今も変わらないし、雫もそんな春樹が好きだった。
けれど、最近は本の話だけでなく、二人で過ごす時間そのものについて話してくれることが増えている。
その変化が、雫には嬉しかった。
もちろん、春樹が自分と同じ気持ちを抱いているとは限らない。
彼は誰に対しても優しく、相手の好きなものを大切にしようとする人だ。
だから、雫だけが特別だと思い込むわけにはいかない。
それでも、今日の言葉は、何度思い出しても胸が温かくなる。
『雫と一緒なら、歩きながら話すだけでも楽しいし』
雫は本を閉じ、表紙へそっと手を添えた。
(……私もだよ、春樹。春樹と一緒なら、何でもない道を歩くだけでも楽しいんだよ)
心の中でそう呟きながら、雫は少しだけ目を細めた。
幼いころ、春樹と一緒に過ごした時間。
あの丘で交わした大切な約束。
今も胸の奥に残っているその思い出は、雫にとってかけがえのないものだった。
けれど、春樹はまだ、その約束を思い出していない。
雫はそれを責めたいわけではなかった。
ただ、いつか自分の言葉で伝えたいと思っている。
あのとき何を約束したのか。
そして、今もその約束を大切にしていることを。
雫は机の端に置いていた葉の形の栞へ目を向けた。
以前、春樹と一緒に選んだものだ。
春樹は三日月の栞を選んでいた。
それぞれ違う形なのに、並べたときに不思議と似合っていたことを、雫は今でも覚えている。
(……また、一緒に何かを選べたらいいな)
今度のお出かけでは、どこへ行くだろう。
景色のいい場所を歩くのもいいし、途中で小さな店へ立ち寄るのも楽しそうだ。
春樹が好きな本の話を聞きながら、ゆっくり過ごせたら嬉しい。
そんなことを考えていると、雫は自然に微笑んでいた。
まだ予定は決まっていない。
けれど、これから一緒に考えていく時間も、大切な思い出になるような気がしていた。
◇◇◇
俺は夕食と入浴を済ませたあと、自室の机へ戻っていた。
読みかけの恋愛小説を開くつもりだったのだが、その前に、今日の帰り道で雫と話したことを少し整理したくなった。
机の上には読書ノートと文庫本が並んでいる。
俺はノートを開き、昨日書いた感想を読み返した。
『相手のことをもっと知りたいと思う気持ちが、少しずつ大きくなっていくところも面白い』
その文章を眺めていると、今日の雫の言葉が思い出された。
景色を見るために出かけるのはどう思うか。
本屋や図書館のように、はっきりした目的がなくても楽しめるだろうか。
雫は少し不安そうに尋ねていた。
俺は、雫と一緒なら楽しいと思うと答えた。
それは、無理に相手へ合わせた言葉ではない。
本当に、そう思ったからだ。
(……でも、考えてみると不思議だよな。前だったら、休日に本を読まない時間が増えるのは、ちょっともったいないって思ってたかもしれないのに)
俺はペンを持ち、ノートの余白へ小さく書き込んだ。
『誰かと過ごす時間が楽しいと思えるようになることも、ひとつの変化なのかもしれない』
書き終えてから、少しだけ考えた。
物語の主人公は、幼馴染のヒロインと過ごす時間を特別に感じるようになり、その理由を少しずつ理解し始めている。
俺も最近、雫と過ごす時間を以前より楽しみにしている。
けれど、それが同じ理由なのかどうかは、まだ分からない。
俺はペンを置き、文庫本を手に取った。
三日月の栞を挟んでいたページを開くと、物語は主人公がヒロインとの関係について考える場面から続いていた。
主人公は、昔から隣にいた相手だからこそ、気持ちの変化を認めるのが難しいと感じている。
もし自分の思いが友情ではなく恋愛感情だったら。
もし相手が同じ気持ちではなかったら。
そんな不安が、主人公の胸に広がっている。
俺はその文章を読みながら、少しだけ考え込んだ。
(……確かに、昔から仲がいい相手との関係が変わるって、簡単なことじゃないよな)
幼馴染という関係は、特別だと思う。
小さいころから知っている相手だからこそ、気を遣わずに話せることもある。
昔の思い出を共有しているからこそ、何気ない言葉で笑い合えることもある。
それが変わってしまうかもしれないと思えば、主人公が戸惑うのも理解できる。
俺はページをめくった。
物語の中では、主人公がヒロインへ何かを伝えようとして、結局言葉にできない場面が続いていた。
読者としては、早く伝えればいいのにと思ってしまう。
けれど、今は以前ほど簡単にそう言えなくなっている自分がいた。
「……難しいんだな、こういうのって」
俺は小さく呟いた。
物語の主人公は、自分の気持ちを認めようとしている。
それなのに、俺は自分の気持ちについて考えようとすると、なぜかうまく言葉にできない。
雫と一緒にいる時間が楽しい。
雫が笑っていると嬉しい。
雫のことをもっと知りたい。
それだけなら、はっきり分かる。
けれど、その先に何があるのかと考えると、まだ答えが見つからなかった。
俺はしばらく本を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……まあ、今すぐ答えを出さなくてもいいか」
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
物語の主人公だって、時間をかけて自分の気持ちに向き合っている。
それなら、俺も焦る必要はない。
今は、雫と一緒に過ごす時間を大切にしよう。
そう思いながら、俺はもう一度ページへ目を落とした。
しばらく読み進めたところで、机の上のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、雫からメッセージが届いていた。
『春樹、今日も一緒に帰ってくれてありがとう。さっき、借りた本の続きを少し読んだよ』
俺は思わず笑顔になった。
『こちらこそ。もう続き読んだんだね。どうだった?』
送信してから少し待つと、雫から返事が届いた。
『主人公が喫茶店の人たちと少しずつ話せるようになっていくところ、すごく好き。春樹が言ってた、何気ない会話が大切になるっていう意味が少し分かってきた気がする』
俺はその文章を読みながら、嬉しくなった。
雫が、自分の好きな物語を楽しんでくれている。
しかも、俺が面白いと思ったところを、雫も大切に感じてくれている。
それだけで、何だか胸が温かくなる。
『分かる。あの店の人たちって、最初から特別なことをしてるわけじゃないんだけど、少しずつ主人公の居場所になっていくんだよね』
『うん。私も、そういう場所って素敵だなって思った』
俺はその返事を読みながら、今日の帰り道を思い出した。
雫と一緒に見た夕方の空。
普段なら見過ごしていたかもしれない景色。
けれど、今日は雫が教えてくれたおかげで、少しだけ特別に感じられた。
『今日の帰り道も、ちょっとそんな感じだったかもしれないね。雫が空を見てくれたから、俺もきれいだなって思えたし』
送信してから、俺は少しだけ画面を見つめた。
何となく、普段よりも素直なことを書いた気がする。
けれど、嘘ではない。
しばらくすると、雫から返事が届いた。
『……私も、春樹と一緒に見たから、いつもよりきれいに感じたよ』
その文章を読んだ瞬間、俺は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
同じ景色を見て、同じように感じていた。
それが、妙に嬉しい。
『そっか。じゃあ、今度出かけるときも、いい景色が見られるといいね』
『うん。春樹と一緒に見たいな』
俺はその返事を読みながら、しばらくスマートフォンを持ったまま動かなかった。
雫は、俺と一緒に景色を見たいと思ってくれている。
それが、何だか嬉しかった。
『俺も楽しみにしてるよ。場所はまた一緒に考えようね』
『うん。おやすみ、春樹。また明日ね』
『おやすみ、雫。また明日』
メッセージを送り終えると、俺はスマートフォンを机へ置いた。
部屋の中は静かで、窓の外からは遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。
机の上には、まだ読み終えていない恋愛小説がある。
その続きを読みたい。
そう思っているのに、今は雫との会話の余韻が、胸の奥に残っていた。
俺は椅子へ深く座り直し、文庫本の表紙を眺めた。
(……本屋より先に、雫とどこへ行こうか考えてるなんて、前の俺だったらちょっと驚くだろうな)
思わず小さく笑ってしまう。
けれど、それは嫌な変化ではなかった。
むしろ、少し楽しい。
これまで知らなかった本に出会うときのように、これから雫と過ごす時間にも、まだ知らない楽しさがあるのかもしれない。
俺は三日月の栞を指先で整え、もう一度小説を開いた。
物語の主人公は、幼馴染への気持ちを少しずつ理解し始めている。
俺はまだ、自分の中にあるものをうまく説明できない。
それでも、雫と一緒に過ごす時間が大切になってきていることだけは、以前よりもはっきり感じていた。
明日も、雫と話せたらいい。
今度出かける場所について、また一緒に考えられたらいい。
そんなことを思いながら、俺は静かな夜の中でページをめくり続けた。




