第81話 幼馴染のことをもっと知りたいだけなのに、どうして何気ない言葉がこんなに気になるんだ?
水曜日の朝、目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました俺は、薄いカーテン越しに差し込む光を眺めながら、昨夜読んでいた小説の続きを思い出していた。秋が深まり始めたせいか、布団の外へ出した腕にはひんやりとした空気が触れ、窓の向こうでは通学路に並ぶ街路樹が風に揺れている。
机の上には、大学で再会した幼馴染同士の恋愛小説が置いてあった。昨夜は雫とメッセージを交わしたあと、もう少しだけ読み進めるつもりだったのだが、主人公が自分の気持ちを認めようとする場面に差しかかったところで、思いのほか長く考え込んでしまった。
物語の主人公は、幼いころから知っている相手だからこそ、彼女のことを十分に理解していると思っていた。しかし、大学で再会してから過ごす時間の中で、昔とは違う表情や考え方に触れ、自分が知らなかった彼女の一面を次々と見つけていく。
(昔から知っている相手でも、知らないことはあるんだよな。むしろ、長く一緒にいたからこそ、知っているつもりになってしまうこともあるのかもしれない)
俺は布団から起き上がり、机の上の文庫本へ視線を向けた。紺色の三日月をかたどった栞がページの間から少しだけ顔を出しており、それを見た途端、以前雫と一緒に出かけた日のことが思い出された。
あの日、雫は葉っぱの形をした栞を選び、俺はこの三日月の栞を選んだ。どちらが似合うか相談したわけでもないのに、二つを並べたときの雫は妙に嬉しそうで、その笑顔が今でも印象に残っている。
昨日の帰り道でも、雫は一緒に出かける場所について楽しそうに話していた。
本屋や図書館だけでなく、景色のいい場所を散歩するのもいいかもしれない。そう言った雫の横顔を思い出すと、俺は自然と口元が緩むのを感じた。
(雫と出かけるなら、どこがいいんだろう。前みたいに本を探すのも楽しいけど、たまには違う場所へ行くのも面白そうだな)
そんなことを考えながら制服へ着替え、鞄の中身を確認した。
今日は読みかけの恋愛小説を持っていくことにした。休み時間に少しでも続きを読めればと思ったのだが、鞄へ入れる直前、昨夜の主人公の言葉がまた頭に浮かんだ。
昔から隣にいた相手を、もっと知りたいと思うようになった。
それは物語の中では、恋愛感情に気づくための大切な変化として描かれている。
俺も最近、雫について知らないことがあるのではないかと考えるようになった。昔の思い出だけではなく、今の雫が何を好きで、何を大切にしているのか、もっと聞いてみたいと思っている。
ただ、それが小説の主人公と同じ理由なのかと聞かれれば、まだよく分からない。
「……まあ、物語と現実を何でも重ねるのはよくないよな」
俺は小さく呟き、文庫本を鞄へ収めた。
答えの出ないことを考え続けるより、まずは今日の学校生活を楽しもう。そう思って部屋を出たものの、階段を下りる途中でも、雫とどんな話をしようかという考えが頭の片隅に残っていた。
◇◇◇
家を出ると、朝の住宅街には昨日よりも冷たい風が流れていた。庭先の植木を手入れしている人や、犬を連れて散歩している人とすれ違いながら歩いていくと、いつもの曲がり角に雫の姿が見えた。
雫は薄手のカーディガンを羽織り、両手で鞄の持ち手を握りながら、道の向こうを眺めていた。俺に気づくと表情を明るくし、少しだけ手を上げてくれる。
「おはよう、春樹。今日は昨日より少し寒いね。私、家を出る前に上着をもう一枚着ようか迷っちゃった」
「おはよう、雫。確かに寒いね。俺も窓を開けたとき、思ったより冷たくて驚いたよ」
俺がそう答えると、雫は小さく笑いながら隣へ並んだ。二人で歩き始めると、街路樹から落ちた黄色い葉が風に押されて足元を転がり、道路の向こうから自転車のベルが聞こえてきた。
「そういえば、昨日はメッセージありがとう。借りた本のこと、春樹と話せて嬉しかったよ」
雫は少しだけこちらを見上げ、照れくさそうに微笑んだ。
「まだ最初の方しか読めていないんだけど、あの喫茶店の雰囲気、すごく好きになりそう。主人公が初めて扉を開けるところなんて、読んでいる私まで少し緊張しちゃった」
「分かるなあ。知らない場所に入るときって、ちょっと勇気がいるよね。でも、あの店は最初から不思議と落ち着く雰囲気があって、俺も読んでいて好きになったんだ」
俺は本の内容を思い出しながら答えた。
あの物語では、主人公が知らない町へ引っ越してきたばかりで、まだ周囲の人々との距離を測りかねている。そんな主人公が小さな喫茶店を訪れ、店主や常連客との何気ない会話を通じて、少しずつ新しい生活に馴染んでいくのだ。
雫は俺の説明を聞きながら、楽しそうに頷いていた。
「春樹が好きって言ってた理由、少し分かってきた気がするよ。大きな事件が起きるわけじゃないのに、何でもない会話が丁寧に描かれていて、読んでいると安心するんだよね」
「そうなんだ。俺、ああいう物語が好きなんだよ。登場人物が少しずつ相手のことを知っていくところとか、何気ない出来事があとから大切な思い出になるところとか」
話しているうちに、雫の歩く速度がわずかに緩んだ。
彼女は前方へ視線を向けたまま、しばらく何かを考えているようだった。俺が隣で歩幅を合わせると、雫は少しだけ頬を赤くして口を開いた。
「……春樹って、そういう時間を大切にしてるんだね。昔から本が好きだったけど、最近は本の中にある人と人とのつながりも、前より楽しそうに話すようになった気がする」
その言葉に、俺は少し驚いた。
自分では意識していなかったが、言われてみれば確かにそうかもしれない。以前は物語の構成や登場人物の行動について考えることが多かったのに、最近は誰かが誰かを大切に思う気持ちや、言葉にできない感情についても気になるようになっている。
「……そうなのかな。自分じゃあんまり分からないけど、最近は同じ本でも違うところが面白く感じることがあるんだ」
「うん。私、それって素敵なことだと思うよ。春樹がいろんなことを感じながら本を読んでるって、なんだか嬉しい」
雫はそう言って、柔らかく微笑んだ。
その表情を見ていると、俺も自然に笑顔になった。雫は昔から、俺が本について熱心に話しても嫌な顔をせず、最後まで聞いてくれる。
けれど、最近はそれだけではない気がする。
俺が何を面白いと思ったのか、どうしてその場面が好きなのか、雫自身も一緒に考えてくれる。だからこそ、彼女と本について話す時間が以前より楽しく感じられるのだろう。
「ありがとう、雫。そう言ってもらえると、なんか嬉しいな」
俺が素直に伝えると、雫は少しだけ目を見開いたあと、恥ずかしそうに笑った。
「……うん。私も、春樹と話してると楽しいよ」
その声は朝の風に紛れそうなほど柔らかかったが、隣を歩いていた俺にははっきりと聞こえた。
俺たちはしばらく、学校へ続く道を並んで歩いた。
途中、歩道の脇に小さな花壇があり、秋の花が風に揺れていた。雫が足元へ目を向けたので、俺もつられてそちらを見る。
「この花壇、毎年きれいだよね。春樹、覚えてる? 小さいころ、ここに咲いてた花の名前を調べようとして、図鑑を持ってきたことがあったんだよ」
「……ああ、そういえばそんなこともあったな。結局、似た花が多くて分からなくなったんだっけ?」
俺が思い出しながら答えると、雫は嬉しそうに頷いた。
「そうそう。春樹、すごく真剣に図鑑を見てたのに、最後は『花屋さんに聞いた方が早いかもしれない』って言ってたんだよ」
「それは俺らしいなあ。調べるのは好きだけど、詳しい人に聞いた方が確実なこともあるし」
二人で笑い合いながら、俺は花壇をもう一度眺めた。
昔の出来事を思い出すと、今の景色が少し違って見える。毎日のように通っている道にも、雫と過ごした時間がいくつも残っているのだと気づかされた。
「……雫って、本当によく覚えてるよね。俺が忘れてたことまで覚えてて、すごいと思う」
何気なくそう言うと、雫は少しだけ表情を変えた。
嬉しそうでもあり、どこか懐かしそうでもあるその顔を見て、俺は続きを待った。雫は花壇から視線を外し、前方へ目を向けながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……春樹と一緒に過ごした時間だから、かな。もちろん全部覚えてるわけじゃないけど、楽しかったことは、できるだけ忘れたくないんだ」
その言葉が、妙に胸に残った。
俺にとっては何気ない思い出でも、雫にとっては大切なものなのかもしれない。そう考えると、今まで忘れていた出来事まで、少しずつ思い出してみたくなった。
「……そっか。じゃあ、また昔の話も聞かせてよ。雫が覚えてること、俺ももっと知りたいから」
俺がそう伝えると、雫は驚いたようにこちらを見た。
その瞳がわずかに揺れ、何かを言いかけたように唇が動いた。しかし、雫はすぐに柔らかな笑顔を浮かべ、小さく頷いた。
「……うん。いつか、ゆっくり話そうね」
俺はその言葉を聞きながら、以前雫が大切な話をしたいと言っていたことを思い出した。
あのとき、俺は彼女が話したくなるまで待つと約束した。だから、今ここで無理に聞く必要はない。
「うん。楽しみにしてるよ」
俺がそう答えると、雫は安心したように微笑んだ。
朝の通学路には、同じ学校の生徒たちが少しずつ増えてきていた。俺たちは歩く速度を合わせながら、校門へ向かって進んでいった。
◇◇◇
教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席で何かを書いていた。
珍しく真剣な表情をしていたので、俺は鞄を机へ置きながら声をかけた。
「おはよう、悠斗。何か難しいことでも考えてるの?」
悠斗は顔を上げると、少しだけ苦笑した。
「おはよう、春樹。いや、難しいってほどじゃないんだけどさ。土曜日に見た映画の感想、もうちょっと整理しておこうと思って」
机の上には、小さなノートと映画のパンフレットが置かれていた。
俺は隣の席へ腰を下ろし、悠斗の手元へ目を向けた。映画を見たあとに感想を書き残すというのは、俺が読書ノートをつけるのと似ている気がする。
「いいね。見終わった直後と、少し時間が経ってからじゃ、感じることも違いそうだし」
「そうなんだよ。紗弥と話してたら、俺が気づかなかったところがいくつもあってさ。あとから考えると、あの場面にも意味があったんだなって思うんだ」
悠斗はノートを閉じ、少し照れくさそうに笑った。
「……それに、また紗弥と映画の話をするとき、ちゃんと自分の感想を伝えたいんだよな」
その言葉を聞いて、俺は自然に頷いた。
好きな作品について誰かと話すなら、自分がどこを面白いと思ったのか、できるだけ言葉にしたい。悠斗も同じように考えているのだろう。
「赤木さんも喜ぶと思うよ。悠斗がちゃんと映画を楽しんでたって伝わるし」
俺がそう答えると、悠斗は少しだけ頬を赤くした。
「……まあ、そうだといいんだけどな。お前はそういうこと、さらっと言うよな」
「え? 普通に思ったことを言っただけだけど」
悠斗は俺の顔をしばらく眺めたあと、何かを諦めたように笑った。
「……うん。そうだろうな」
その反応が少し不思議だったが、悠斗が楽しそうなので深く考えないことにした。
俺が鞄から教科書を取り出していると、悠斗がふと思い出したように口を開いた。
「そういや春樹、お前、最近雫とよく一緒に帰ってるよな」
「うん。家も近いし、帰る方向が同じだからね」
俺が答えると、悠斗は少しだけ目を細めた。
「それは昔からだろ。そうじゃなくて、最近は前より楽しそうに話してるなって思ってさ」
俺は手を止めた。
言われてみれば、確かに最近は雫と話す時間が増えている。以前も一緒に登下校することはあったが、最近は本の感想だけでなく、昔の思い出や休日の過ごし方についても話すようになった。
「……そうかもしれないね。雫に本を借りたり、俺が本を貸したりしてるから、話題が増えたんだと思う」
「なるほどな。本がきっかけっていうのは、お前らしい」
悠斗はそう言って笑ったあと、少しだけ真面目な表情になった。
「でもさ、春樹。雫って、お前が思ってる以上に、お前との時間を大事にしてるんじゃないか?」
俺は思わず悠斗の顔を見た。
「……どういうこと?」
「いや、別に深い意味で言ったわけじゃないんだけど。お前と話してるときの雫、すげえ嬉しそうだからさ」
悠斗は少しだけ肩をすくめた。
「幼馴染って、近すぎて気づかないこともあるんじゃねえかなって思っただけだよ」
俺はその言葉を聞きながら、今朝の雫との会話を思い出した。
雫は、俺と過ごした時間だから覚えていると言っていた。昔の小さな出来事まで大切にしてくれているのだと知って、俺も嬉しくなったばかりだった。
(……悠斗にも、そう見えるんだな)
俺は少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
「……うん。最近、俺もそういうこと考えるようになったよ。雫が昔のことをよく覚えてくれてるの、嬉しいなって」
悠斗は一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、どこか満足そうに笑った。
「そっか。それなら、まあ、いいんじゃねえかな」
「何が?」
「いや、何でもない。お前がちゃんと雫のこと見てるなら、それでいいと思うぞ」
俺は首を傾げたが、悠斗はそれ以上説明しようとしなかった。
ちょうどそのとき、教室の入口から赤木紗弥が入ってきた。悠斗は彼女に気づくと、さっきまでの余裕のある表情を少しだけ崩し、姿勢を正した。
「お、おはよう、赤木さん」
「おはよう、高坂君。七瀬君も、おはよう」
紗弥は笑顔で挨拶すると、悠斗の机の上にあるパンフレットへ目を向けた。
「あ、今日も持ってきたんだ。私も昨日、監督のインタビューをもう一回読んだんだけど、やっぱりあの場面の解釈が気になって」
その言葉に、悠斗の表情が明るくなった。
「俺もそこ考えてたんだよ。ちょうど感想をまとめてたところだから、あとで話さない?」
紗弥は嬉しそうに頷き、二人は自然に映画の話を始めた。
俺はその様子を眺めながら、少しだけ笑った。
悠斗が紗弥と話しているときの表情は、確かに普段とは違う。
好きな作品について話している楽しさだけではなく、相手と同じ時間を過ごせること自体を喜んでいるようにも見える。
(……悠斗も、赤木さんとの時間を大事にしてるんだろうな)
そう考えながら、俺は教科書を開いた。
ただ、さっき悠斗に言われた言葉は、授業が始まってからもしばらく頭の片隅に残っていた。
◇◇◇
午前の授業が進むにつれて、教室の窓から差し込む光は少しずつ強くなっていった。
休み時間になると、廊下にはほかのクラスの生徒たちの声が響き、教室の中でも友達同士の会話があちこちで始まる。
俺は次の授業の準備をしながら、ふと雫の席へ目を向けた。
雫は友達と話していた。
相手の話を聞きながら、時折小さく頷き、楽しそうに笑っている。
その様子を見ていると、今朝の会話が思い出された。
雫は俺と過ごした昔の時間を、大切に覚えてくれている。
それなら、今の雫について、俺はどれくらい知っているのだろう。
好きな本の傾向や、落ち着く場所については少しずつ分かってきた。
けれど、最近どんなことを考えているのか、何を楽しみにしているのか、まだ知らないことも多い気がする。
(……幼馴染だからって、何でも知ってるわけじゃないんだよな)
俺はそんなことを考えながら、雫の方を眺めていた。
すると、雫がこちらへ顔を向けた。
目が合うと、彼女は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたあと、柔らかく微笑んだ。
俺もつられて笑い返す。
雫は少しだけ頬を赤くし、隣の友達に何かを話しかけられると、慌てたようにそちらへ向き直った。
その反応が少し不思議だったが、俺は深く考えずに教科書へ視線を戻した。
ただ、雫の笑顔が、しばらく頭の中に残っていた。
◇◇◇
昼休み、俺は昼食を済ませてから図書室へ向かった。
今日は特別な約束があるわけではなかったが、午前中に読んでいた恋愛小説の続きを少し読みたくなったのだ。
図書室へ入ると、窓際の席では数人の生徒が本を読んでおり、カウンターの近くでは図書委員が返却された本を整理していた。
俺は白石栞先輩の姿を見つけ、軽く頭を下げた。
「こんにちは、白石先輩」
「こんにちは、七瀬君。今日は読書?」
先輩は手元の資料を整えながら、柔らかく微笑んだ。
「はい。ちょっと続きを読みたい本があって」
「ふふ。七瀬君らしいね。今日は窓際の席が空いてるから、ゆっくり読めると思うよ」
俺はお礼を言い、窓際の席へ向かった。
鞄から文庫本を取り出し、三日月の栞を挟んでいたページを開く。
物語は、主人公が幼馴染のヒロインと昔の思い出を話したあと、自分の気持ちについて考え込む場面から続いていた。
主人公は、昔から知っている相手を特別に感じ始めたことに戸惑っている。
俺はその文章を読みながら、今朝の雫との会話を思い出した。
昔の思い出を覚えていてくれること。
何気ない時間を大切にしてくれること。
それが嬉しいと感じること。
物語の主人公が抱いている感情と、自分が最近感じていることには、少し似た部分があるように思えた。
けれど、同じだと決めつけることはできない。
俺はページをめくりながら、主人公の言葉を丁寧に追っていった。
しばらく読んでいると、隣の席へ誰かが近づいてきた。
顔を上げると、白石先輩が小さなメモを持って立っていた。
「七瀬君、少しだけいいかな。読書の邪魔になっちゃうかもしれないけど」
「大丈夫ですよ。どうしました?」
俺が本を閉じると、先輩は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「昨日話していた紹介カードのことで、ひとつ確認したいことがあって。恋愛小説の見出しについて、七瀬君が言っていた『昔から知っている相手でも、知らないことがある』っていう考え方、もう少し聞かせてもらってもいい?」
俺は少し考えてから頷いた。
「もちろんです。ちょうど今、その小説を読んでたところなので」
先輩は俺の手元の文庫本へ目を向け、嬉しそうに笑った。
「そうだったんだ。じゃあ、少しだけ感想を聞かせてもらおうかな」
俺は本の内容を思い出しながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「主人公って、幼馴染のことを昔から知ってるから、何となく分かったつもりになってるんですよ。でも、再会してから一緒に過ごすうちに、今の相手について知らないことがたくさんあるって気づくんです」
先輩は静かに頷いた。
「……なるほど。過去を知っていることと、今の相手を理解していることは、同じじゃないんだね」
「はい。だからこそ、もっと知りたいって思うようになるところが面白いなって」
俺がそう答えると、先輩は少しだけ目を細めた。
「……七瀬君は、その主人公の気持ち、分かる?」
その質問に、俺は少しだけ考え込んだ。
以前なら、恋愛小説の主人公の気持ちについて聞かれても、物語の中の出来事として説明していたと思う。
けれど、今は少し違う。
昔から知っている相手について、もっと知りたいと思う気持ち。
それなら、最近の俺にも少しだけ分かる気がする。
「……全部は分からないですけど、少しだけ分かる気がします。昔から知ってる相手でも、今の相手について知らないことがあるっていうのは、確かにそうだなって思うので」
俺がそう答えると、白石先輩は少し驚いたような表情を浮かべた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……そっか。七瀬君も、そういうことを考えるようになったんだね」
「そうみたいです。自分でもちょっと不思議なんですけど」
俺は苦笑した。
先輩はしばらく俺の顔を見つめたあと、小さく頷いた。
「……でも、いいことだと思うよ。誰かをもっと知りたいって思うのは、その人との時間を大切にしているからだと思うから」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ胸が温かくなった。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえると、なんか安心します」
先輩は嬉しそうに笑った。
「ふふ。七瀬君が本を読んで感じたこと、また聞かせてね」
「はい。読み終わったら、ぜひ」
俺がそう答えると、先輩は軽く頭を下げ、カウンターへ戻っていった。
俺はその背中を見送りながら、もう一度文庫本へ目を向けた。
誰かをもっと知りたいと思うのは、その人との時間を大切にしているから。
白石先輩の言葉は、物語の主人公だけでなく、今の俺にも少し当てはまるような気がした。
◇◇◇
七瀬春樹が読書へ戻ったあと、白石栞はカウンターの内側で小さく息を吐いた。
手元には、昨日から調整している紹介カードの試作がある。
恋愛小説の見出しは、以前七瀬君が考えてくれたものだった。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
栞はその文章を眺めながら、先ほどの会話を思い出した。
七瀬君は、昔から知っている相手について、もっと知りたいと思う気持ちが少し分かるようになったと言っていた。
その言葉を聞いたとき、栞の胸には嬉しさと切なさが同時に広がった。
(……七瀬君、少しずつ変わっているんだね)
彼が誰のことを思い浮かべていたのか、はっきりと聞いたわけではない。
けれど、最近の七瀬君が西条さんと楽しそうに話している姿を、栞は何度か見かけている。
昔から一緒にいる幼馴染。
その関係が、少しずつ変わり始めているのかもしれない。
栞は試作カードを丁寧に重ね、ファイルへ戻した。
七瀬君と本の話をしている時間は、今も変わらず楽しい。
彼が自分の感想を真剣に話してくれることも、こちらの言葉を大切に受け止めてくれることも、栞にとって嬉しいことだった。
(……私も、七瀬君のことをもっと知りたいんだよね)
そう思いながら、栞はカウンターの奥に置いた本へ目を向けた。
七瀬君から借りている古書店を舞台にしたミステリー小説は、まだ読み終えていない。
読み終わったときには、きちんと感想を伝えたい。
そして、できることなら、また二人で本について話す時間を持ちたい。
栞は静かに微笑み、返却された本の整理を再開した。
今は、自分にできることを大切にしよう。
そう考えながら、彼女は一冊ずつ本を手に取り、丁寧に書架へ戻していった。
◇◇◇
午後の授業が終わるころには、窓の外の光が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
俺は教科書を鞄へしまい、今日の予定を頭の中で確認した。
特別な用事はない。
図書室へ寄る予定も、今日は入れていなかった。
それなら、雫と一緒に帰れるだろう。
そう思っていると、悠斗がこちらへ近づいてきた。
「春樹、今日も雫と帰るのか?」
「うん。そのつもりだけど」
俺が答えると、悠斗は少しだけ笑った。
「そっか。じゃあ、俺は紗弥と映画の話してから帰るわ」
「うん。楽しんできてね」
俺がそう答えると、悠斗は少しだけ苦笑した。
「……お前、ほんと変わんねえな」
「何が?」
「いや、何でもない。まあ、お互い楽しい放課後にしようぜ」
悠斗はそう言って、教室の向こうへ歩いていった。
俺はその背中を見送りながら、少しだけ笑った。
悠斗も紗弥との時間を楽しみにしているらしい。
それなら、俺も雫とゆっくり帰ろう。
鞄を持って教室を出ると、廊下には部活動へ向かう生徒たちの姿があった。
階段を下りながら、窓の外へ目を向ける。
校庭では運動部の生徒たちが準備を始めており、遠くから掛け声が聞こえてくる。
昇降口へ着くと、雫が少し離れたところで待っていた。
俺に気づくと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「春樹、お疲れさま」
「お疲れさま、雫。待たせちゃった?」
「ううん。私も今来たところだよ」
雫はそう言って、俺の隣へ並んだ。
二人で校門へ向かって歩き始めると、夕方の風が制服の袖を揺らした。
朝より少し暖かくなっているが、日が傾くにつれて空気が冷え始めている。
「春樹、今日は図書室に行ってたんだよね?」
「うん。白石先輩と紹介カードの試作について少し話してたよ」
「そっか。前に話してた、おすすめ本のカード?」
「そうそう。まだ正式に掲示するかは決まってないんだけど、文章や見せ方を少しずつ考えてるところなんだ」
雫は興味深そうに頷いた。
「春樹、そういうの考えるの好きだよね」
「うん。自分が好きな本を、まだ読んだことがない人にどう伝えるか考えるのって面白いんだ」
俺は少しだけ笑った。
「でも、最近はそれだけじゃなくて、相手がどんな本を好きなのか考えるのも楽しくなってきたかな」
雫は俺の言葉を聞いて、少しだけ目を瞬かせた。
「……相手が好きな本?」
「うん。雫に本を薦めるときもそうだったんだけど、相手がどんな物語を好きなのか考えてると、自分が普段あまり意識してなかったところに気づくんだよね」
雫は静かに頷いた。
「……そっか。春樹、そんなふうに考えてくれてたんだね」
「うん。雫が四季の短編集を貸してくれたとき、俺もすごく嬉しかったからさ。今度は俺も、ちゃんと選びたいと思ったんだ」
そう答えると、雫は少しだけ頬を赤くした。
けれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、春樹」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
俺は彼女の表情を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
昨日も何度かお礼を言ってもらった。
それなのに、雫が嬉しそうにしてくれるたびに、俺まで嬉しくなる。
自分が選んだ本を喜んでもらえたことが、それだけ大きかったのだろう。
俺たちはしばらく、並んで歩き続けた。
住宅街へ続く道には、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
歩道の脇に並んだ街路樹の影が長く伸び、風が吹くたびに葉が小さな音を立てた。
そのとき、雫がふと足を緩めた。
「……ねえ、春樹」
「うん?」
「この前、いつか一緒に出かけようって話したよね」
俺はすぐに頷いた。
「うん。まだどこへ行くかは決めてないけどね」
「……そうだよね」
雫は少しだけ視線を落とした。
それから、何かを考えるように前方へ目を向ける。
「私ね、春樹と一緒なら、本屋さんでも図書館でも楽しいと思うんだ」
「俺もそう思うよ。雫と本を探すの、楽しいし」
俺が答えると、雫は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、たまには本屋さん以外の場所へ行くのもいいかなって思って」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
「本屋以外?」
「うん。たとえば、どこかをゆっくり散歩したり、景色のいいところへ行ったり。特別なことをしなくても、春樹と一緒に過ごせたら楽しそうだなって」
雫はそう言って、少しだけ頬を赤くした。
俺はその言葉を聞きながら、しばらく考えた。
本屋や図書館以外の場所。
確かに、雫とは昔からいろいろな場所へ行った。
小さいころは公園で遊んだり、近所を散歩したりしたこともある。
最近も、一緒に歩きながら昔の思い出を話した。
そういう時間も、楽しかった。
「……いいね。俺も、そういうの好きだよ」
そう答えると、雫はぱっと表情を明るくした。
「本当?」
「うん。雫と歩いてると、普段気づかない景色に気づくこともあるし。前に一緒に出かけたときも、楽しかったから」
雫は嬉しそうに笑った。
「……そっか。よかった」
その笑顔を見ていると、俺も自然に笑顔になった。
まだ、具体的な予定は決まっていない。
どこへ行くのかも、いつ行くのかも、これから相談することになるだろう。
けれど、雫と一緒に出かけることを考えると、少しだけ楽しみになってきた。
「じゃあ、今度どこへ行くか、また相談しようか」
「うん。春樹の行きたいところも聞きたいな」
「分かった。俺も少し考えてみるよ」
雫は小さく頷いた。
その横顔は、夕方の光を受けて柔らかく見えた。
俺は少しだけ目を細めた。
雫と一緒に歩く時間は、昔から当たり前のようにあった。
けれど、最近はその時間が、以前よりも楽しみになっている気がする。
(……やっぱり、雫と話してると落ち着くんだよな)
そう考えながら、俺たちはいつもの帰り道を歩き続けた。
◇◇◇
帰宅してから、俺は制服を脱ぎ、部屋着へ着替えた。
机の上には、昨夜読みかけのまま置いた恋愛小説がある。
大学で再会した幼馴染同士の物語。
主人公は、昔から知っている相手のことを、少しずつ違う目で見るようになっている。
俺は椅子へ座り、本を手に取った。
栞を挟んでいたページを開くと、物語の中では、主人公とヒロインが昔よく遊んだ場所を訪れていた。
そこで二人は、子どものころの思い出について話している。
主人公は、昔の出来事を懐かしく思い出しながらも、ヒロインが自分よりずっと細かなことまで覚えていることに驚いていた。
俺はその場面を読みながら、今朝の雫との会話を思い出した。
雫は、俺が考え事をしているときの癖を覚えていると言っていた。
自分でも気づいていなかったことを、雫は昔から知っていたらしい。
物語の主人公も、似たような驚きを感じているのだろう。
(……こういうところ、少し分かる気がするな)
俺はページをめくった。
ヒロインは、主人公が忘れてしまった小さな出来事を覚えている。
その一つ一つを聞くうちに、主人公は、彼女が自分との時間をどれほど大切にしていたのか気づき始める。
俺はそこで、少しだけ手を止めた。
雫も、昔のことをよく覚えている。
以前、一緒に丘へ行ったときも、懐かしそうに景色を眺めていた。
俺が忘れてしまったことを、雫は覚えているのかもしれない。
けれど、だからといって無理に聞き出すつもりはない。
雫には、いつか話したい大切なことがある。
それを話す準備ができるまで待つと、俺は約束した。
今も、その気持ちは変わっていない。
俺は本を持ち直し、続きを読み始めた。
物語の中では、主人公がヒロインの言葉を聞きながら、少しずつ自分の感情を整理していく。
昔から一緒にいた相手。
何でも話せると思っていた相手。
けれど、知らないことがたくさんあって、もっと知りたいと思うようになった相手。
主人公は、その気持ちが友情だけでは説明できないものだと、少しずつ理解し始めていた。
俺はページをめくりながら、思わず小さく笑った。
「……ようやく気づき始めたか」
ここまで長かった。
読者としては、ずいぶん前から分かっていたことだ。
けれど、主人公にとっては、簡単に認められる感情ではなかったのだろう。
俺はその気持ちを想像しながら、続きを読み進めた。
すると、主人公がヒロインの笑顔を思い出す場面があった。
特別な出来事があったわけではない。
ただ、一緒に過ごした時間の中で見た笑顔が、何度も頭に浮かんでくる。
その理由が分からず、主人公は戸惑っていた。
俺はページをめくる手を止めた。
(……あれ?)
昨日、俺も似たようなことを考えていた。
雫が本を受け取ったときの笑顔。
帰り道で話していたときの表情。
今日も、何度かその顔を思い出していた。
もちろん、物語の主人公とは事情が違う。
俺の場合は、自分が選んだ本を喜んでもらえたことが嬉しかっただけだ。
そう考えれば、何も不思議ではない。
けれど、なぜか少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。
俺は本を閉じ、表紙を眺めた。
「……いや、さすがに考えすぎだよな」
誰もいない部屋で呟いてから、俺は小さく笑った。
恋愛小説を読んでいると、登場人物の気持ちを自分の経験に重ねてしまうことがある。
それ自体は、珍しいことではない。
むしろ、物語に入り込めている証拠なのかもしれない。
俺はそう考え、もう一度本を開いた。
けれど、さっきまでとは少し違う気持ちで、主人公の言葉を追っている自分に気づいていた。
◇◇◇
同じころ、西条雫は自室の机で、春樹から昨日借りた喫茶店の小説を手に取っていた。
以前から借りている日常の短編集は、まだ読み終えていない。
けれど、今日は新しく借りた本の冒頭だけでも読んでみたくなった。
春樹が、自分のために選んでくれた一冊。
透明なブックカバーが丁寧につけられていることに気づくと、雫は自然に微笑んだ。
(……春樹、きっと貸す前にきれいにしてくれたんだろうな)
昔から春樹は、本を大切に扱う。
読み終えた本を本棚へ戻すときも、ページが折れていないか確認するし、気に入った作品は何度も読み返している。
そんな春樹が、自分へ貸すために選んでくれた本。
雫は表紙を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
昨日、教室で受け取ったときのことを思い出す。
春樹は、作品の内容を説明しながら、とても楽しそうにしていた。
何気ない会話が少しずつ思い出になっていくところが好きだと言っていた。
その言葉を聞いたとき、雫は少しだけ嬉しくなった。
自分が大切にしているものと、春樹が大切にしているものが、どこか似ているように感じたからだ。
雫は本を開き、最初のページを読み始めた。
物語は、主人公が知らない町へ引っ越してくる場面から始まっている。
慣れない道。
見知らぬ店。
まだ名前も知らない人たち。
主人公は少し不安を抱えながら、新しい生活を始めようとしていた。
雫はその文章を丁寧に追っていった。
しばらく読み進めると、主人公が小さな喫茶店を見つける場面にたどり着いた。
古い木の扉。
窓際に並んだ席。
店内に漂うコーヒーの香り。
その描写を読んでいると、まるで自分もその店へ入っていくような気持ちになる。
雫は小さく微笑んだ。
(……春樹が好きって言ってた雰囲気、少し分かるかもしれない)
まだ物語は始まったばかりだ。
主人公がどんな人と出会い、どんな関係を築いていくのかは分からない。
けれど、春樹がこの本を大切にしている理由を、少しずつ知っていける気がした。
雫はページをめくりながら、今日の帰り道を思い出した。
春樹は、いつか一緒に出かける場所について、また相談しようと言ってくれた。
本屋や図書館だけでなく、散歩や景色のいい場所へ行くのもいいと話したとき、春樹は嬉しそうに頷いていた。
それが、雫には何より嬉しかった。
(……春樹と一緒なら、どこへ行っても楽しいと思うんだけどな)
そう考えてから、雫は少しだけ頬を赤くした。
自分の気持ちは、まだ春樹へ伝えていない。
幼いころの丘で交わした大切な約束についても、まだ話せていない。
けれど、最近は少しずつ、春樹との距離が変わってきている気がする。
昔から一緒にいる幼馴染。
それは今も変わらない。
ただ、その関係の中に、以前とは違う温かさが生まれているように感じることがある。
雫は本を閉じ、表紙へそっと手を添えた。
「……春樹、ありがとう」
小さな声で呟いてから、雫はもう一度本を開いた。
今は、この物語をゆっくり楽しもう。
春樹が好きな一冊を、自分も大切に読みたい。
そして、いつか読み終えたときには、どんなところが好きだったのか、きちんと伝えたい。
そんなことを考えながら、雫は静かな部屋でページをめくり続けた。
◇◇◇
夜、夕食と入浴を済ませた俺は、机へ戻って読書ノートを開いた。
今日読んだ恋愛小説の感想を、少しだけ書き残しておこうと思ったのだ。
物語はまだ終わっていない。
けれど、主人公の感情が少しずつ変わっていく過程が面白くて、今のうちに考えたことを整理しておきたかった。
俺はペンを持ち、ノートへ書き始めた。
『昔から知っている相手でも、今の相手について知らないことはある。主人公がそれに気づき、もっと知りたいと思い始めるところが印象に残った』
そこまで書いてから、少し考えた。
もう一つ、気になった場面がある。
主人公が、ヒロインの笑顔を何度も思い出してしまうところだ。
俺はペンを止め、机の上の文庫本へ目を向けた。
物語の中では、その気持ちが恋愛感情へつながっていく。
けれど、現実ではどうなのだろう。
誰かの笑顔が心に残ることは、別に珍しくない。
友達が嬉しそうにしていれば、こちらも嬉しくなる。
悠斗が土曜日の映画について楽しそうに話していたときも、俺は嬉しかった。
白石先輩が紹介カードを見せてくれたときも、九条さんが柔らかく笑ってくれたときも、いい時間だったと思う。
それなのに、雫の笑顔だけは、少し違う形で頭に残っている気がする。
(……何が違うんだろうな)
俺はしばらく考えた。
雫とは昔から一緒にいる。
だから、ほかの人よりも思い出が多い。
それだけのことなのかもしれない。
けれど、最近は、雫が何を考えているのか知りたいと思うことが増えた。
どんな本を好きなのか。
どんな景色を見たいのか。
どんな時間を楽しいと思うのか。
そうしたことを考えていると、自然に雫の顔が浮かんでくる。
俺はペンを持ち直し、ノートへ一文を書き足した。
『相手のことをもっと知りたいと思う気持ちが、少しずつ大きくなっていくところも面白い』
書き終えてから、俺は小さく息を吐いた。
これなら、今感じていることをうまくまとめられた気がする。
けれど、何となく胸の奥に残っているものがある。
俺は椅子の背もたれへ身体を預け、窓の外へ目を向けた。
夜の住宅街は静かで、遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。
机の上には、まだ読み終えていない小説がある。
その続きを読みたい。
そう思っているはずなのに、今は雫と今日話したことの方が、少しだけ気になっている。
帰り道で、いつか一緒に出かける場所について話した。
まだ具体的な予定は決まっていない。
それでも、雫が嬉しそうに笑っていたことを思い出すと、自然にこちらまで笑顔になってしまう。
「……なんだかな」
俺は小さく呟き、苦笑した。
自分でも、少し不思議だった。
これまでは、本を読む時間が何より楽しみだった。
もちろん、今もそうだ。
けれど最近は、本の続きを読むことと同じくらい、誰かと過ごす時間を楽しみにしている自分がいる。
特に、雫と一緒にいる時間を。
俺は机の上の文庫本を手に取り、表紙を眺めた。
大学で再会した幼馴染同士の物語。
主人公は、ようやく自分の気持ちに気づき始めている。
その続きを読めば、きっと二人の関係がどう変わっていくのか分かるだろう。
俺は栞を挟んだページを開いた。
けれど、読み始める前に、ふとスマートフォンが震えた。
画面を見ると、雫からメッセージが届いていた。
『春樹、今日も一緒に帰ってくれてありがとう。さっき、昨日借りた本を少し読み始めたよ』
俺は思わず笑顔になった。
『こちらこそ。もう読み始めたんだね。どうだった?』
送信してから、少し待つ。
やがて、雫から返事が届いた。
『まだ最初の方だけど、すごく好きな雰囲気だった。喫茶店の描写が丁寧で、本当にそこへ行ってみたくなる感じがしたよ』
俺はその文章を読みながら、嬉しくなった。
雫が、俺の好きなところを少しずつ感じ取ってくれている。
それが、何より嬉しかった。
『分かる。俺も最初に読んだとき、あの喫茶店に行ってみたいって思ったんだ』
そう返信すると、雫からすぐに返事が届いた。
『ふふ。春樹と同じこと考えてたんだね』
俺は画面を見つめた。
同じ本を読んで、同じようなことを考える。
それは、何だか嬉しい。
『うん。これからどんな人が出てくるかも楽しみにしてて』
『うん。ゆっくり読むね。それと、今日話したお出かけのことも、また相談しようね』
その言葉を読んだ瞬間、俺は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
『もちろん。雫が行ってみたいところも、また教えてね』
『うん。春樹と一緒に考えるの、楽しみ』
俺はその返事を読みながら、しばらくスマートフォンを持ったまま動かなかった。
雫は、俺と一緒に出かけることを楽しみにしてくれている。
それだけで、何だか明日が少し楽しみになってくる。
『じゃあ、また明日。おやすみ、雫』
『おやすみ、春樹。また明日ね』
俺はスマートフォンを机へ置き、もう一度文庫本へ目を向けた。
続きを読みたい気持ちは、もちろんある。
けれど、今は少しだけ、雫との会話の余韻に浸っていたかった。
俺は椅子へ深く座り直し、静かな部屋の中で小さく笑った。
(……本の続きを読みたいだけなのに、最近は雫と話す時間の方が気になることがあるんだよな)
それがどういう意味なのか、まだよく分からない。
ただ、雫と一緒に過ごす時間が、以前よりも大切に感じられるようになっている。
そのことだけは、少しずつ自覚し始めていた。
俺は文庫本を開き、物語の続きを読み始めた。
ページの向こうでは、主人公が自分の気持ちに向き合おうとしている。
その姿を追いながら、俺は今日の雫の笑顔を思い出した。
そして、なぜか少しだけ胸が温かくなるのを感じながら、静かな夜の中でページをめくり続けた。




