第80話 本の続きを読みたいだけなのに、どうして幼馴染と過ごす時間の方が気になってしまうんだ?
火曜日の朝、目覚まし時計の音で目を覚ました俺は、布団から片腕を伸ばして時計を止めた。窓の外には秋らしい薄い雲が浮かんでいて、カーテンの隙間から差し込む光が、机の上に積んだ文庫本の背表紙を柔らかく照らしている。
昨日の夜は、大学で再会した幼馴染同士の恋愛小説を読んでいた。
物語は終盤に差しかかっている。主人公は、昔から知っているはずのヒロインに対して、これまでとは違う感情を抱き始めていた。
ところが、その感情が何なのか、本人はなかなか認めようとしない。
読んでいる俺としては、何度も「もう気づいてもいいんじゃないか」と思ってしまうのだが、主人公には主人公なりの事情があるらしい。
(……まあ、ずっと幼馴染だった相手を、急に恋愛対象として意識するのは難しいのかもしれないな)
そう考えながら、俺はベッドから起き上がった。
机の上には、昨夜読みかけのまま置いた文庫本がある。紺色の三日月をかたどった栞が、ちょうど物語の続きになるページに挟まっていた。
あの栞は、以前、雫と一緒に出かけたときに買ったものだ。
雫は葉っぱの形をした栞を選び、俺はこの三日月の栞を選んだ。二つを並べて見せ合ったとき、雫が嬉しそうに笑っていたことを覚えている。
俺は本を手に取って栞の位置を確かめたが、続きを読み始めるのはやめておいた。
ここで読み始めたら、きっと朝食の時間まで止まらなくなる。
それに、今日は少し早めに学校へ行きたい気分だった。
昨日、雫へおすすめの本を渡した。
知らない町へ引っ越してきた青年が、小さな喫茶店を通じて新しい人間関係を築いていく物語だ。雫はまだ読んでいないはずだが、受け取ったときの嬉しそうな表情が、今でも妙にはっきりと思い出せる。
(……本を渡しただけなのに、あんなに喜んでくれるとは思わなかったな)
俺は文庫本を閉じ、机の上へ戻した。
雫が読み終えるまでには、まだ時間がかかるだろう。
以前貸した日常の短編集も、彼女は大切に読み進めてくれている。二冊とも急いで返してもらう必要はないし、感想を聞くのも、雫が読み終えてからで十分だ。
それなのに、昨日から何度も彼女のことを考えてしまう。
雫は、どんな場面を好きになるだろう。
主人公が初めて喫茶店の扉を開くところだろうか。それとも、常連客たちの何気ない会話の中に、少しずつ信頼が生まれていくところだろうか。
そんなことを考えているうちに、俺は制服へ着替え終えていた。
「……よし。今日はちゃんと時間どおりに出られそうだな」
鞄の中身を確認してから、俺は部屋を出た。
読みかけの小説の続きは、帰ってからでも読める。
今は、いつもの通学路で雫に会うことが、少し楽しみだった。
◇◇◇
家を出ると、思っていたよりも空気が冷たかった。
住宅街の道路脇では、街路樹の葉が少しずつ黄色くなり始めている。通りかかった自転車のタイヤが乾いた落ち葉を踏み、かさりと小さな音を立てて走り去っていった。
俺は鞄の肩紐を持ち直し、いつもの曲がり角へ向かった。
そこには、すでに雫が立っていた。
今日は制服の上に薄手のカーディガンを羽織っている。風が吹くたびに肩まで伸びた髪が揺れ、雫は片手でそれを押さえながら、通学路の向こうを眺めていた。
俺の姿に気づくと、彼女はぱっと表情を明るくした。
「おはよう、春樹。今日は少し寒いね」
「おはよう、雫。うん。昨日より冷える気がする。カーディガン着てきて正解だったね」
「そうなの。朝、窓を開けたら思ったより冷たくて。春樹は寒くない?」
「大丈夫だよ。歩いてれば少し温まると思うし」
俺がそう答えると、雫は安心したように微笑んだ。
二人で並んで歩き始めると、足元の落ち葉が風に押されて歩道の端へ集まっていった。朝の住宅街には、庭先を掃除する人の姿や、犬の散歩をしている人の姿があり、いつもどおりの一日が始まろうとしている。
しばらく学校の話をしていると、雫が少しだけこちらを見上げた。
「ねえ、春樹。昨日貸してくれた本なんだけど」
「うん。どうしたの?」
「まだ読み始めてはいないんだけど、表紙の裏に書いてある紹介文を読んだら、すごく楽しみになっちゃった」
雫は照れくさそうに笑った。
「知らない町で、自分の居場所を見つけていくお話なんだよね。春樹が昨日言ってたことと合わせて考えたら、どんな人たちが出てくるのかなって」
「そうそう。登場人物がみんな少しずつ違う考え方をしてるんだけど、不思議とあの喫茶店では自然に話せるんだ。俺、そういうところが好きなんだよね」
話し始めると、つい言葉が増えてしまう。
けれど、まだ読んでいない雫に内容を説明しすぎるのはよくない。
俺は途中で口を閉じ、少し笑った。
「……危ない。これ以上話すと、読む前にいろいろ教えちゃいそうだ」
雫は楽しそうに笑った。
「ふふ。春樹らしいね。でも、好きなところを話してくれるのは嬉しいよ。読んだあとに、また詳しく聞かせてほしいな」
「もちろん。そのときは雫が気に入ったところも聞きたい」
「うん。約束ね」
雫はそう言って、俺の隣で小さく頷いた。
その横顔を見ていると、昨日、本を受け取ったときの笑顔が思い出された。
雫は昔からよく笑う。
けれど、最近は、同じ笑顔でも少し違って見えることがある。
本の話をしているときの楽しそうな笑顔。
昔の思い出を話すときの懐かしそうな笑顔。
何かを言いかけて、少しだけ恥ずかしそうにする笑顔。
以前は、そんな違いを意識したことがなかった気がする。
(……やっぱり、最近は雫と話す時間が増えたからかな)
俺はそう考え、前方へ視線を戻した。
すると、雫が少しだけ歩く速度を緩めた。
「……春樹?」
「うん?」
「さっきから、何か考えてる?」
俺は少し驚いた。
「そんなに分かりやすかった?」
「うん。春樹、考え事してるとき、ちょっとだけ遠くを見るんだよ」
雫はそう言って、柔らかく笑った。
「小さいころもそうだったよ。本の続きを考えてるときとか、次に何を読もうか迷ってるときとか」
「……へえ。自分じゃ気づかなかったな」
「私、けっこう覚えてるんだよ」
雫はどこか嬉しそうだった。
俺は彼女の言葉を聞きながら、少しだけ感心してしまった。
雫は、俺自身も気づいていない癖を覚えている。
昔から一緒にいるのだから、不思議ではないのかもしれない。
けれど、そんな小さなことまで覚えてくれていると思うと、少し嬉しかった。
「じゃあ、今度は俺も雫の癖を探してみようかな」
冗談めかして言うと、雫は目を瞬かせた。
「えっ、私の?」
「うん。雫が考え事してるときとか、嬉しいときとか。昔から知ってるつもりだったけど、気づいてないこともありそうだし」
雫は少しだけ頬を赤くした。
「……そ、そうなんだ」
「嫌だった?」
「ううん。嫌じゃないよ。ただ、ちょっと恥ずかしいかも」
そう言って笑う雫の頬は、秋の朝の空気の中でも少し赤かった。
俺はその様子を見て、つられるように笑った。
「じゃあ、変なところを見つけても言わないようにするよ」
「もう、春樹。そういう意味じゃないよ」
雫は困ったように笑いながら、俺の隣へ少し近づいた。
肩が触れるほどではない。
けれど、歩く速度が自然に揃い、二人の間の距離が少しだけ縮まった気がした。
俺たちはそのまま、朝の通学路を歩いていった。
◇◇◇
教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席で何かを読んでいた。
普段なら俺が本を読んでいて、悠斗が話しかけてくることの方が多い。
だから、その光景は少し珍しかった。
「おはよう、悠斗。何読んでるの?」
俺が声をかけると、悠斗は顔を上げた。
「おはよう、春樹。ああ、これか。土曜日に紗弥と見た映画のパンフレット」
悠斗は机の上の冊子を少し持ち上げた。
表紙には、映画の印象的な場面を切り取った写真が使われている。
「昨日の夜、もう一回読んでたんだけどさ。監督のインタビューに、映画の中で気づかなかったことがいろいろ書いてあって面白いんだよ」
「へえ。映画を見たあとに読むと、また違う発見がありそうだね」
「そうなんだよ。しかも紗弥が気づいてた色の使い方についても触れててさ。あいつ、よくあんなところまで見てたなって思った」
悠斗は楽しそうにページを開いた。
そこには、撮影時の写真や制作スタッフのコメントが載っているらしい。
俺は机の横に鞄を置きながら、少し身を乗り出した。
「映画のパンフレットって、そういうところが面白いよね。本でいうと、あとがきとか作者のインタビューに近いのかな」
「そうそう。作品を見終わったあとに読むと、あの場面にはそんな意味があったのかって思うんだ」
悠斗はそこで少し笑った。
「……でさ。紗弥にも、今度このインタビューの話をしてみようかなって」
「いいと思うよ。赤木さんも映画を楽しんでたんでしょ?」
「ああ。昨日も少しメッセージしてたんだけど、あいつもパンフレット読み返してたみたいでさ」
悠斗の表情が柔らかくなる。
俺はその様子を見て、自然に笑顔になった。
「じゃあ、また話が盛り上がりそうだね」
「……だといいんだけどな」
悠斗は少し照れくさそうに頭をかいた。
そのとき、教室の入口から赤木紗弥が入ってきた。
悠斗は彼女に気づくと、一瞬だけ姿勢を正した。
「お、おはよう、赤木さん」
「おはよう、高坂君。七瀬君も、おはよう」
「おはよう、赤木さん」
紗弥は俺たちへ笑顔を向けてから、悠斗の机の上にあるパンフレットに気づいた。
「あ、それ。高坂君も持ってきたんだ」
「うん。昨日読み返してたら、また話したくなってさ」
悠斗がそう答えると、紗弥は嬉しそうに微笑んだ。
「私も。あの監督のインタビュー、すごく面白かったよね。特に最後の場面の色について話してたところ」
「そう! 俺もそこ読んで、土曜日に紗弥が言ってたこと思い出したんだ」
二人は自然に映画の話を始めた。
俺はその様子を見ながら、少しだけ離れた位置へ下がった。
同じ作品を見た二人だからこそ、共有できる感想がある。
俺が雫と本の話をするときも、きっとこんな感じなのだろう。
そう思っていると、悠斗がこちらへ視線を向けた。
「春樹、お前も今度この映画見てみろよ。たぶん好きだと思うぞ」
「うん。機会があったら見てみたいな」
俺が答えると、紗弥も嬉しそうに頷いた。
「七瀬君なら、登場人物の会話とか好きそう。小説みたいに、あとから意味が分かる台詞が多いんだよ」
「それは気になるね。二人の話を聞いてるだけでも面白そうだ」
そう言うと、悠斗と紗弥は顔を見合わせて笑った。
その表情を見て、俺は二人が土曜日に楽しい時間を過ごせたことを、改めて嬉しく思った。
◇◇◇
午前の授業が進むにつれて、教室の窓から差し込む光は少しずつ強くなっていった。
休み時間になると、廊下からはほかのクラスの生徒たちの声が聞こえ、教室の中でも友達同士の会話があちこちで始まる。
俺は次の授業の準備をしながら、ふと窓際の席へ目を向けた。
雫は友達と話していた。
相手の話を聞きながら、時折小さく頷き、楽しそうに笑っている。
いつも見慣れているはずの光景だ。
けれど、今朝の会話を思い出すと、少しだけ違って見えた。
雫は、俺の癖を覚えていると言っていた。
それなら、俺は雫のどんなところを覚えているだろう。
小さいころ、雫は本を読むときに、気に入った場面を何度も読み返していた。
面白い話を見つけると、すぐに俺へ教えてくれた。
難しい言葉が出てくると、意味を調べてからもう一度読むこともあった。
今も、その真面目なところは変わっていない。
けれど、昔よりも少しだけ、気持ちを言葉にするまで時間をかけることが増えた気がする。
何かを伝えようとして、途中で言葉を止めることもある。
以前、雫はいつか大切な話をしたいと言っていた。
そのとき、俺は待つと約束した。
(……雫が話したくなったときに、ちゃんと聞けるようにしておきたいな)
そう考えたところで、雫がこちらへ顔を向けた。
目が合う。
雫は一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、柔らかく微笑んだ。
俺もつられて笑い返す。
すると、雫の隣にいた友達が何かを話しかけ、雫は少し頬を赤くしながらそちらへ向き直った。
(……何の話してるんだろう)
少し気になったが、友達同士の会話を無理に聞くつもりはない。
俺は机の上の教科書へ視線を戻した。
けれど、雫の笑顔が、しばらく頭の片隅に残っていた。
◇◇◇
昼休み、俺は昼食を済ませてから図書室へ向かった。
今日は白石先輩と、以前から考えている紹介カードの試作について少し話す約束をしていた。
図書室へ入ると、窓際の席では数人の生徒が本を読んでおり、カウンターの近くでは図書委員が返却された本を整理している。
奥の書架からは、ページをめくる小さな音が聞こえていた。
俺はカウンターへ近づき、白石栞先輩へ声をかけた。
「こんにちは、白石先輩」
「こんにちは、七瀬君。来てくれてありがとう」
先輩は手元の資料を整えながら、柔らかく微笑んだ。
「今日は、前に見てもらった紹介カードについて、もう少し意見を聞いてみたかったの」
「もちろんです。俺でよければ、いくらでも」
先輩は机の上へ二枚の試作カードを並べた。
一枚は恋愛小説を紹介するもの。
もう一枚は、日常の小さな出来事を描いた短編集を紹介するものだ。
どちらもまだ試作段階で、正式に掲示することは決まっていない。
紹介カードを置く場所や、実際に使う本の所蔵状況についても、確認が必要なことが残っている。
俺は二枚を見比べながら、少し考えた。
「……前より、見出しが読みやすくなりましたね」
「ありがとう。文字の大きさと余白を少し変えてみたの」
白石先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「ただ、まだ迷っているところもあって。紹介文を短くすると読みやすくなるけど、作品の魅力が十分に伝わるかどうか、少し心配なの」
「確かに難しいですね。長く書けばいいってわけでもないですし」
俺は恋愛小説のカードへ目を向けた。
そこには、以前考えた見出しが書かれている。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
大学で再会した幼馴染同士の物語を紹介するために考えた言葉だ。
俺はその文章を読みながら、昨夜読んだ場面を思い出した。
「……この見出し、今読み返すと、前より少し意味が分かる気がします」
白石先輩が顔を上げた。
「そうなの?」
「はい。最近、その小説をまた読み進めてるんですけど、主人公が昔から知ってる相手のことを、実は全部分かってるわけじゃないって気づき始めるんですよ」
俺はカードへ視線を落としたまま続けた。
「幼馴染だからこそ知ってることもあるけど、今の相手について知らないこともある。そういうところが、前より面白く感じられるようになって」
白石先輩は静かに頷いた。
「……なるほど。七瀬君自身も、読んでいるうちに作品の受け止め方が変わってきたんだね」
「そうかもしれません。最初は主人公が鈍感で面白いなって思ってたんですけど、最近は少しだけ気持ちが分かるところもあって」
そう答えると、白石先輩は少しだけ目を細めた。
「……七瀬君は、そういう変化を大切にできる人なんだね」
「え?」
「同じ本を読んでも、そのときの自分によって感じ方が変わるでしょう? 七瀬君は、そういう違いをちゃんと楽しめるんだなって思ったの」
俺は少し照れくさくなった。
「……そう言われると、なんだか大げさな気もしますけど。でも、読み返して新しい発見があるのは好きです」
白石先輩は嬉しそうに笑った。
「うん。私もそういう読み方、好きだよ」
その言葉を聞いて、俺は自然に笑顔になった。
白石先輩とは、こうして本の話をしている時間が楽しい。
同じ作品を読んでいなくても、どういうところが面白いのか、どんな言葉が心に残ったのかを話すだけで、新しい発見がある。
俺はもう一枚のカードへ視線を移した。
「こっちの日常もののカードも、いい感じですね。『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』って見出し、やっぱり好きです」
「ありがとう。七瀬君が前に話してくれた、日常の中にある小さな変化を大切にしたいっていう考え方を参考にしたの」
先輩は少しだけ頬を緩めた。
「ただ、どちらもまだ正式に使うわけじゃないから、もう少し委員会で相談する必要があるね」
「そうですね。実際に掲示するなら、読んだ人が本を探しやすいかどうかも大事ですし」
「うん。先生にも確認してもらわないといけないことがあるから、急がず進めようと思ってる」
俺は頷いた。
紹介カードは、ただ作ればいいというものではない。
図書室を利用する人が、実際に本を手に取るきっかけになることが大切だ。
そのためには、置く場所や見せ方も考えなければならない。
「……そういえば、読書週間のおすすめ本紹介についても、まだ準備段階なんですよね?」
俺が尋ねると、白石先輩は頷いた。
「そうだね。読者からおすすめを集める案も出ているけど、まだ正式に決まったわけじゃないの。募集方法や掲示する内容について、確認が必要だから」
「なるほど。じゃあ、今のうちに試作をしっかり考えておくのがよさそうですね」
「うん。七瀬君にも、また意見を聞かせてもらえると嬉しいな」
「もちろんです」
俺がそう答えると、白石先輩は安心したように微笑んだ。
その表情を見ながら、俺は図書室の窓へ目を向けた。
外では秋の風が木々の葉を揺らしている。
静かな図書室の中で、誰かに本を薦めるための言葉を考える。
それは、俺にとってとても楽しい時間だった。
◇◇◇
昼休みの終わりが近づき、七瀬春樹が教室へ戻ったあとも、白石栞はしばらく試作カードを眺めていた。
窓際から差し込む光が、机の上の紙を柔らかく照らしている。
栞は恋愛小説の紹介カードを手に取り、そこに書かれた見出しを静かに読み返した。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
七瀬君らしい言葉だと思う。
作品の内容を直接説明するのではなく、読む人自身へ問いかけるような見出しになっている。
その言葉を考えた本人が、今日、少し違う表情で作品について話していた。
以前は、主人公の鈍感さを面白がっている印象が強かった。
けれど今日は、昔から知っている相手のことを、全部分かっているわけではないという部分に心を動かされているようだった。
(……七瀬君も、少しずつ変わっているのかな)
栞はカードを机へ戻した。
その変化が、何を意味しているのかは分からない。
ただ、最近の七瀬君は、西条さんの話をするとき、以前よりも表情が柔らかくなることがある。
昨日も、彼女へ本を渡したことを嬉しそうに話していた。
栞は、その様子を思い出して小さく息を吐いた。
胸の奥に、少しだけ切ない気持ちが広がる。
七瀬君が誰かを大切に思うことは、素敵なことだ。
彼の優しさも、本を好きな気持ちも、そういうところに表れている。
だからこそ、栞はその変化を素直に喜びたいと思っていた。
けれど、同時に、自分も彼と過ごす時間をもっと大切にしたいと思ってしまう。
(……私も、七瀬君と本の話をしている時間が好きなんだよね)
栞は机の端に置いた資料を整えた。
以前、七瀬君から借りた古書店を舞台にしたミステリー小説は、まだ手元にある。
読み終えるまでには、もう少し時間が必要だった。
けれど、その本を返すときには、きちんと感想を伝えたい。
そして、また別の本について話せたらいいと思う。
栞は試作カードを重ね、丁寧にファイルへ戻した。
図書室の中では、午後の授業へ向かう生徒たちが少しずつ席を立ち始めている。
栞はその様子を見守りながら、静かに微笑んだ。
まだ、何かを急いで決める必要はない。
今は、自分にできることを大切にしていこう。
そう思いながら、栞はカウンターの整理を再開した。
◇◇◇
午後の授業が終わるころには、窓の外の光が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
俺は教科書を鞄へしまい、今日の予定を頭の中で確認した。
特別な用事はない。
放課後に図書室へ寄る予定も、今日は入れていなかった。
それなら、雫と一緒に帰れるだろう。
そう思っていると、悠斗がこちらへ近づいてきた。
「春樹、今日も雫と帰るのか?」
「うん。そのつもりだけど」
俺が答えると、悠斗は少しだけ笑った。
「そっか。じゃあ、俺は紗弥にパンフレットの話してから帰るわ」
「うん。楽しんできてね」
「……お前、ほんとそういうところ変わんねえな」
悠斗は苦笑した。
俺は首を傾げる。
「何が?」
「いや、何でもない。まあ、お互い楽しい放課後にしようぜ」
悠斗はそう言って、教室の向こうへ歩いていった。
俺はその背中を見送りながら、少しだけ笑った。
悠斗も赤木さんとの時間を楽しみにしているらしい。
それなら、俺も雫とゆっくり帰ろう。
鞄を持って教室を出ると、廊下には部活動へ向かう生徒たちの姿があった。
階段を下りながら、窓の外へ目を向ける。
校庭では運動部の生徒たちが準備を始めており、遠くから掛け声が聞こえてくる。
昇降口へ着くと、雫が少し離れたところで待っていた。
俺に気づくと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「春樹、お疲れさま」
「お疲れさま、雫。待たせちゃった?」
「ううん。私も今来たところだよ」
雫はそう言って、俺の隣へ並んだ。
二人で校門へ向かって歩き始めると、夕方の風が制服の袖を揺らした。
朝より少し暖かくなっているが、日が傾くにつれて空気が冷え始めている。
「春樹、今日は図書室に行ってたんだよね?」
「うん。白石先輩と紹介カードの試作について少し話してたよ」
「そっか。前に話してた、おすすめ本のカード?」
「そうそう。まだ正式に掲示するかは決まってないんだけど、文章や見せ方を少しずつ考えてるところなんだ」
雫は興味深そうに頷いた。
「春樹、そういうの考えるの好きだよね」
「うん。自分が好きな本を、まだ読んだことがない人にどう伝えるか考えるのって面白いんだ」
俺は少しだけ笑った。
「でも、最近はそれだけじゃなくて、相手がどんな本を好きなのか考えるのも楽しくなってきたかな」
雫は俺の言葉を聞いて、少しだけ目を瞬かせた。
「……相手が好きな本?」
「うん。雫に本を薦めるときもそうだったんだけど、相手がどんな物語を好きなのか考えてると、自分が普段あまり意識してなかったところに気づくんだよね」
雫は静かに頷いた。
「……そっか。春樹、そんなふうに考えてくれてたんだね」
「うん。雫が四季の短編集を貸してくれたとき、俺もすごく嬉しかったからさ。今度は俺も、ちゃんと選びたいと思ったんだ」
そう答えると、雫は少しだけ頬を赤くした。
けれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、春樹」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
俺は彼女の表情を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
昨日も何度かお礼を言ってもらった。
それなのに、雫が嬉しそうにしてくれるたびに、俺まで嬉しくなる。
自分が選んだ本を喜んでもらえたことが、それだけ大きかったのだろう。
俺たちはしばらく、並んで歩き続けた。
住宅街へ続く道には、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
歩道の脇に並んだ街路樹の影が長く伸び、風が吹くたびに葉が小さな音を立てた。
そのとき、雫がふと足を緩めた。
「……ねえ、春樹」
「うん?」
「この前、いつか一緒に出かけようって話したよね」
俺はすぐに頷いた。
「うん。まだどこへ行くかは決めてないけどね」
「……そうだよね」
雫は少しだけ視線を落とした。
それから、何かを考えるように前方へ目を向ける。
「私ね、春樹と一緒なら、本屋さんでも図書館でも楽しいと思うんだ」
「俺もそう思うよ。雫と本を探すの、楽しいし」
俺が答えると、雫は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、たまには本屋さん以外の場所へ行くのもいいかなって思って」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
「本屋以外?」
「うん。たとえば、どこかをゆっくり散歩したり、景色のいいところへ行ったり。特別なことをしなくても、春樹と一緒に過ごせたら楽しそうだなって」
雫はそう言って、少しだけ頬を赤くした。
俺はその言葉を聞きながら、しばらく考えた。
本屋や図書館以外の場所。
確かに、雫とは昔からいろいろな場所へ行った。
小さいころは公園で遊んだり、近所を散歩したりしたこともある。
最近も、一緒に歩きながら昔の思い出を話した。
そういう時間も、楽しかった。
「……いいね。俺も、そういうの好きだよ」
そう答えると、雫はぱっと表情を明るくした。
「本当?」
「うん。雫と歩いてると、普段気づかない景色に気づくこともあるし。前に一緒に出かけたときも、楽しかったから」
雫は嬉しそうに笑った。
「……そっか。よかった」
その笑顔を見ていると、俺も自然に笑顔になった。
まだ、具体的な予定は決まっていない。
どこへ行くのかも、いつ行くのかも、これから相談することになるだろう。
けれど、雫と一緒に出かけることを考えると、少しだけ楽しみになってきた。
「じゃあ、今度どこへ行くか、また相談しようか」
「うん。春樹の行きたいところも聞きたいな」
「分かった。俺も少し考えてみるよ」
雫は小さく頷いた。
その横顔は、夕方の光を受けて柔らかく見えた。
俺は少しだけ目を細めた。
雫と一緒に歩く時間は、昔から当たり前のようにあった。
けれど、最近はその時間が、以前よりも楽しみになっている気がする。
(……やっぱり、雫と話してると落ち着くんだよな)
そう考えながら、俺たちはいつもの帰り道を歩き続けた。
◇◇◇
帰宅してから、俺は制服を脱ぎ、部屋着へ着替えた。
机の上には、昨夜読みかけのまま置いた恋愛小説がある。
大学で再会した幼馴染同士の物語。
主人公は、昔から知っている相手のことを、少しずつ違う目で見るようになっている。
俺は椅子へ座り、本を手に取った。
栞を挟んでいたページを開くと、物語の中では、主人公とヒロインが昔よく遊んだ場所を訪れていた。
そこで二人は、子どものころの思い出について話している。
主人公は、昔の出来事を懐かしく思い出しながらも、ヒロインが自分よりずっと細かなことまで覚えていることに驚いていた。
俺はその場面を読みながら、今朝の雫との会話を思い出した。
雫は、俺が考え事をしているときの癖を覚えていると言っていた。
自分でも気づいていなかったことを、雫は昔から知っていたらしい。
物語の主人公も、似たような驚きを感じているのだろう。
(……こういうところ、少し分かる気がするな)
俺はページをめくった。
ヒロインは、主人公が忘れてしまった小さな出来事を覚えている。
その一つ一つを聞くうちに、主人公は、彼女が自分との時間をどれほど大切にしていたのか気づき始める。
俺はそこで、少しだけ手を止めた。
雫も、昔のことをよく覚えている。
以前、一緒に丘へ行ったときも、懐かしそうに景色を眺めていた。
俺が忘れてしまったことを、雫は覚えているのかもしれない。
けれど、だからといって無理に聞き出すつもりはない。
雫には、いつか話したい大切なことがある。
それを話す準備ができるまで待つと、俺は約束した。
今も、その気持ちは変わっていない。
俺は本を持ち直し、続きを読み始めた。
物語の中では、主人公がヒロインの言葉を聞きながら、少しずつ自分の感情を整理していく。
昔から一緒にいた相手。
何でも話せると思っていた相手。
けれど、知らないことがたくさんあって、もっと知りたいと思うようになった相手。
主人公は、その気持ちが友情だけでは説明できないものだと、少しずつ理解し始めていた。
俺はページをめくりながら、思わず小さく笑った。
「……ようやく気づき始めたか」
ここまで長かった。
読者としては、ずいぶん前から分かっていたことだ。
けれど、主人公にとっては、簡単に認められる感情ではなかったのだろう。
俺はその気持ちを想像しながら、続きを読み進めた。
すると、主人公がヒロインの笑顔を思い出す場面があった。
特別な出来事があったわけではない。
ただ、一緒に過ごした時間の中で見た笑顔が、何度も頭に浮かんでくる。
その理由が分からず、主人公は戸惑っていた。
俺はページをめくる手を止めた。
(……あれ?)
昨日、俺も似たようなことを考えていた。
雫が本を受け取ったときの笑顔。
帰り道で話していたときの表情。
今日も、何度かその顔を思い出していた。
もちろん、物語の主人公とは事情が違う。
俺の場合は、自分が選んだ本を喜んでもらえたことが嬉しかっただけだ。
そう考えれば、何も不思議ではない。
けれど、なぜか少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。
俺は本を閉じ、表紙を眺めた。
「……いや、さすがに考えすぎだよな」
誰もいない部屋で呟いてから、俺は小さく笑った。
恋愛小説を読んでいると、登場人物の気持ちを自分の経験に重ねてしまうことがある。
それ自体は、珍しいことではない。
むしろ、物語に入り込めている証拠なのかもしれない。
俺はそう考え、もう一度本を開いた。
けれど、さっきまでとは少し違う気持ちで、主人公の言葉を追っている自分に気づいていた。
◇◇◇
同じころ、西条雫は自室の机で、春樹から昨日借りた喫茶店の小説を手に取っていた。
以前から借りている日常の短編集は、まだ読み終えていない。
けれど、今日は新しく借りた本の冒頭だけでも読んでみたくなった。
春樹が、自分のために選んでくれた一冊。
透明なブックカバーが丁寧につけられていることに気づくと、雫は自然に微笑んだ。
(……春樹、きっと貸す前にきれいにしてくれたんだろうな)
昔から春樹は、本を大切に扱う。
読み終えた本を本棚へ戻すときも、ページが折れていないか確認するし、気に入った作品は何度も読み返している。
そんな春樹が、自分へ貸すために選んでくれた本。
雫は表紙を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
昨日、教室で受け取ったときのことを思い出す。
春樹は、作品の内容を説明しながら、とても楽しそうにしていた。
何気ない会話が少しずつ思い出になっていくところが好きだと言っていた。
その言葉を聞いたとき、雫は少しだけ嬉しくなった。
自分が大切にしているものと、春樹が大切にしているものが、どこか似ているように感じたからだ。
雫は本を開き、最初のページを読み始めた。
物語は、主人公が知らない町へ引っ越してくる場面から始まっている。
慣れない道。
見知らぬ店。
まだ名前も知らない人たち。
主人公は少し不安を抱えながら、新しい生活を始めようとしていた。
雫はその文章を丁寧に追っていった。
しばらく読み進めると、主人公が小さな喫茶店を見つける場面にたどり着いた。
古い木の扉。
窓際に並んだ席。
店内に漂うコーヒーの香り。
その描写を読んでいると、まるで自分もその店へ入っていくような気持ちになる。
雫は小さく微笑んだ。
(……春樹が好きって言ってた雰囲気、少し分かるかもしれない)
まだ物語は始まったばかりだ。
主人公がどんな人と出会い、どんな関係を築いていくのかは分からない。
けれど、春樹がこの本を大切にしている理由を、少しずつ知っていける気がした。
雫はページをめくりながら、今日の帰り道を思い出した。
春樹は、いつか一緒に出かける場所について、また相談しようと言ってくれた。
本屋や図書館だけでなく、散歩や景色のいい場所へ行くのもいいと話したとき、春樹は嬉しそうに頷いていた。
それが、雫には何より嬉しかった。
(……春樹と一緒なら、どこへ行っても楽しいと思うんだけどな)
そう考えてから、雫は少しだけ頬を赤くした。
自分の気持ちは、まだ春樹へ伝えていない。
幼いころの丘で交わした大切な約束についても、まだ話せていない。
けれど、最近は少しずつ、春樹との距離が変わってきている気がする。
昔から一緒にいる幼馴染。
それは今も変わらない。
ただ、その関係の中に、以前とは違う温かさが生まれているように感じることがある。
雫は本を閉じ、表紙へそっと手を添えた。
「……春樹、ありがとう」
小さな声で呟いてから、雫はもう一度本を開いた。
今は、この物語をゆっくり楽しもう。
春樹が好きな一冊を、自分も大切に読みたい。
そして、いつか読み終えたときには、どんなところが好きだったのか、きちんと伝えたい。
そんなことを考えながら、雫は静かな部屋でページをめくり続けた。
◇◇◇
夜、夕食と入浴を済ませた俺は、机へ戻って読書ノートを開いた。
今日読んだ恋愛小説の感想を、少しだけ書き残しておこうと思ったのだ。
物語はまだ終わっていない。
けれど、主人公の感情が少しずつ変わっていく過程が面白くて、今のうちに考えたことを整理しておきたかった。
俺はペンを持ち、ノートへ書き始めた。
『昔から知っている相手でも、今の相手について知らないことはある。主人公がそれに気づき、もっと知りたいと思い始めるところが印象に残った』
そこまで書いてから、少し考えた。
もう一つ、気になった場面がある。
主人公が、ヒロインの笑顔を何度も思い出してしまうところだ。
俺はペンを止め、机の上の文庫本へ目を向けた。
物語の中では、その気持ちが恋愛感情へつながっていく。
けれど、現実ではどうなのだろう。
誰かの笑顔が心に残ることは、別に珍しくない。
友達が嬉しそうにしていれば、こちらも嬉しくなる。
悠斗が土曜日の映画について楽しそうに話していたときも、俺は嬉しかった。
白石先輩が紹介カードを見せてくれたときも、九条さんが柔らかく笑ってくれたときも、いい時間だったと思う。
それなのに、雫の笑顔だけは、少し違う形で頭に残っている気がする。
(……何が違うんだろうな)
俺はしばらく考えた。
雫とは昔から一緒にいる。
だから、ほかの人よりも思い出が多い。
それだけのことなのかもしれない。
けれど、最近は、雫が何を考えているのか知りたいと思うことが増えた。
どんな本を好きなのか。
どんな景色を見たいのか。
どんな時間を楽しいと思うのか。
そうしたことを考えていると、自然に雫の顔が浮かんでくる。
俺はペンを持ち直し、ノートへ一文を書き足した。
『相手のことをもっと知りたいと思う気持ちが、少しずつ大きくなっていくところも面白い』
書き終えてから、俺は小さく息を吐いた。
これなら、今感じていることをうまくまとめられた気がする。
けれど、何となく胸の奥に残っているものがある。
俺は椅子の背もたれへ身体を預け、窓の外へ目を向けた。
夜の住宅街は静かで、遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。
机の上には、まだ読み終えていない小説がある。
その続きを読みたい。
そう思っているはずなのに、今は雫と今日話したことの方が、少しだけ気になっている。
帰り道で、いつか一緒に出かける場所について話した。
まだ具体的な予定は決まっていない。
それでも、雫が嬉しそうに笑っていたことを思い出すと、自然にこちらまで笑顔になってしまう。
「……なんだかな」
俺は小さく呟き、苦笑した。
自分でも、少し不思議だった。
これまでは、本を読む時間が何より楽しみだった。
もちろん、今もそうだ。
けれど最近は、本の続きを読むことと同じくらい、誰かと過ごす時間を楽しみにしている自分がいる。
特に、雫と一緒にいる時間を。
俺は机の上の文庫本を手に取り、表紙を眺めた。
大学で再会した幼馴染同士の物語。
主人公は、ようやく自分の気持ちに気づき始めている。
その続きを読めば、きっと二人の関係がどう変わっていくのか分かるだろう。
俺は栞を挟んだページを開いた。
けれど、読み始める前に、ふとスマートフォンが震えた。
画面を見ると、雫からメッセージが届いていた。
『春樹、今日も一緒に帰ってくれてありがとう。さっき、昨日借りた本を少し読み始めたよ』
俺は思わず笑顔になった。
『こちらこそ。もう読み始めたんだね。どうだった?』
送信してから、少し待つ。
やがて、雫から返事が届いた。
『まだ最初の方だけど、すごく好きな雰囲気だった。喫茶店の描写が丁寧で、本当にそこへ行ってみたくなる感じがしたよ』
俺はその文章を読みながら、嬉しくなった。
雫が、俺の好きなところを少しずつ感じ取ってくれている。
それが、何より嬉しかった。
『分かる。俺も最初に読んだとき、あの喫茶店に行ってみたいって思ったんだ』
そう返信すると、雫からすぐに返事が届いた。
『ふふ。春樹と同じこと考えてたんだね』
俺は画面を見つめた。
同じ本を読んで、同じようなことを考える。
それは、何だか嬉しい。
『うん。これからどんな人が出てくるかも楽しみにしてて』
『うん。ゆっくり読むね。それと、今日話したお出かけのことも、また相談しようね』
その言葉を読んだ瞬間、俺は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
『もちろん。雫が行ってみたいところも、また教えてね』
『うん。春樹と一緒に考えるの、楽しみ』
俺はその返事を読みながら、しばらくスマートフォンを持ったまま動かなかった。
雫は、俺と一緒に出かけることを楽しみにしてくれている。
それだけで、何だか明日が少し楽しみになってくる。
『じゃあ、また明日。おやすみ、雫』
『おやすみ、春樹。また明日ね』
俺はスマートフォンを机へ置き、もう一度文庫本へ目を向けた。
続きを読みたい気持ちは、もちろんある。
けれど、今は少しだけ、雫との会話の余韻に浸っていたかった。
俺は椅子へ深く座り直し、静かな部屋の中で小さく笑った。
(……本の続きを読みたいだけなのに、最近は雫と話す時間の方が気になることがあるんだよな)
それがどういう意味なのか、まだよく分からない。
ただ、雫と一緒に過ごす時間が、以前よりも大切に感じられるようになっている。
そのことだけは、少しずつ自覚し始めていた。
俺は文庫本を開き、物語の続きを読み始めた。
ページの向こうでは、主人公が自分の気持ちに向き合おうとしている。
その姿を追いながら、俺は今日の雫の笑顔を思い出した。
そして、なぜか少しだけ胸が温かくなるのを感じながら、静かな夜の中でページをめくり続けた。




