第79話 幼馴染におすすめの本を渡したいだけなのに、どうしてその笑顔を何度も思い出すんだ?
月曜日の朝、目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました俺は、枕元の時計を確認してから、ゆっくりと身体を起こした。
窓の外には薄い雲が広がっていたが、東の空から差し込む朝日は明るく、今日も穏やかな一日になりそうだった。休日の静けさが残っているような部屋で、俺はしばらく布団に座ったまま、昨日の夜に考えていたことを思い出していた。
(……そうだ。今日は雫に本を渡すんだったな)
そのことを思い出した途端、自然と目が覚めた。
昨日、俺は雫に薦める一冊を決めた。
知らない町へ引っ越してきた青年が、小さな喫茶店でさまざまな人と出会い、少しずつ自分の居場所を見つけていく物語だ。
大きな事件が起こるわけではない。
けれど、何気ない会話や小さな気遣いが積み重なって、登場人物たちの関係がゆっくりと変わっていく。
俺はその作品が好きだった。
初めて読んだときにも心に残ったが、週末に読み返してみると、以前とは違う場面で何度も手が止まった。
雫から借りた四季の短編集を読んだ影響もあるのだろう。
誰かと過ごす時間が、いつの間にか大切な思い出になっている。
そんな物語のよさを、前より強く感じられるようになっていた。
俺はベッドから降り、机の横に置いてある通学鞄を確認した。
昨日の夜、忘れないように入れておいた文庫本は、教科書やノートの隣にきちんと収まっている。透明なブックカバーをつけた表紙が少しだけ見えていて、それを確かめると、胸の奥に小さな満足感が広がった。
「……よし。ちゃんと入ってるな」
誰もいない部屋で呟いてから、俺は制服へ着替え始めた。
普段なら、学校へ行く前に少しだけ本を読みたいと思うところだ。
もちろん、今日も読書をする時間は楽しみだった。
けれど、それと同じくらい、雫へ本を渡すことが楽しみになっている。
(……本を一冊貸すだけなのに、なんでこんなに楽しみなんだろう)
自分でも少し不思議だった。
これまでにも、友達や図書室で知り合った人へ本を薦めたことはある。
相手が興味を持ってくれれば嬉しいし、読んだあとに感想を聞けるのも楽しい。
今回も、きっとそれと同じなのだろう。
ただ、雫がどんな顔をするのか想像すると、自然に頬が緩んでしまう。
俺は制服の上着を整え、鞄を持って部屋を出た。
朝食を済ませたら、いつもどおり学校へ向かう。
その途中で雫に会えるだろう。
そう考えながら階段を下りる足取りは、いつもより少し軽かった。
◇◇◇
家を出ると、秋らしい涼しい風が頬を撫でた。
住宅街の道には、通勤途中の大人や、同じ学校へ向かう生徒たちの姿がある。遠くから自転車のベルが聞こえ、歩道の脇では街路樹の葉が風に揺れていた。
俺は鞄の肩紐を持ち直し、いつもの待ち合わせ場所へ向かった。
曲がり角の先には、すでに雫の姿があった。
西条雫は、制服の上から薄手のカーディガンを羽織り、鞄を両手で持ちながら立っている。こちらに気づくと、ぱっと表情を明るくして、小さく手を振ってくれた。
「おはよう、春樹。今日は少し早いね」
「おはよう、雫。うん、いつもより早く目が覚めたんだ。雫も早かったね」
「私も、今日はちょっと早く準備が終わったの。……それに、春樹に会うのが楽しみだったから」
雫は最後の部分を少し小さな声で言った。
俺はその言葉を聞いて、自然に笑顔になった。
「俺もだよ。昨日話してた本、ちゃんと持ってきたから」
「本当? 嬉しい!」
雫の表情がさらに明るくなる。
その反応を見ただけで、昨日一日かけて本を選んだことが報われたような気がした。
俺は鞄を軽く持ち上げた。
「今ここで渡してもいいけど、歩きながらだと落ち着かないかな。学校に着いてからの方がいい?」
「うん。せっかくだから、ちゃんと受け取りたいな。教室で少し時間があったら、そのときに見せてくれる?」
「もちろん。じゃあ、学校に着いてからにしよう」
雫は嬉しそうに頷き、俺の隣へ並んだ。
二人で歩き始めると、足元の落ち葉が小さな音を立てた。
秋の朝は、夏に比べて空気が澄んでいるように感じる。
日差しはまだ柔らかく、歩いていても暑くならない。
「春樹、昨日は結局どんな本を読んでたの?」
雫がこちらを見上げながら尋ねてきた。
「雫に薦める本をもう一度読み返してたよ。あとは、前から読んでる大学で再会した幼馴染同士の恋愛小説も少し進めたかな」
「そっか。あの恋愛小説、まだ読み終わってなかったんだね」
「うん。ほかの本を先に読んでたからね。でも、かなり面白いところまで進んでるよ」
俺がそう答えると、雫は少し興味深そうに首を傾げた。
「どんなところ?」
「主人公が、昔から知ってる相手のことを、実は全部分かってるわけじゃないって気づき始めるんだ。大学で再会してから、昔とは違う一面を知ることが増えて、それで少しずつ関係が変わっていく感じかな」
雫は静かに頷いた。
「……昔から知ってる相手でも、知らないことってあるよね」
「そうだね。俺も、雫のことは昔から知ってるけど、今の雫について全部知ってるわけじゃないし」
そう言うと、雫は一瞬だけ足を緩めた。
俺が横を見ると、彼女は少し驚いたような顔をしている。
「……春樹、そう思うんだ?」
「うん。だって、雫がどんな本を好きなのかも、最近になって新しく知ったことがあるし。昔から一緒にいるからって、全部分かってるつもりになるのは違うかなって」
雫はしばらく俺を見つめていた。
それから、少しだけ目元を和らげる。
「……そっか。なんだか、嬉しいな」
「嬉しい?」
「うん。春樹が、今の私のことも知ろうとしてくれてるんだなって思ったから」
俺はその言葉に、少しだけ照れくさくなった。
特別なことを言ったつもりはなかった。
けれど、雫が嬉しそうにしてくれるなら、俺も嬉しい。
「そりゃ、雫とはこれからも一緒に本の話をしたいしね。好きなものが増えたら、また教えてほしいよ」
雫は小さく笑った。
「……うん。私も、春樹の好きなものをもっと知りたいな」
その言葉を聞きながら、俺たちは学校へ向かって歩き続けた。
◇◇◇
教室へ入ると、すでに何人かのクラスメイトが登校していた。
窓際では友達同士で週末の話をしている生徒がいて、教室の後ろでは、机に教科書を広げながら小テストの範囲を確認している生徒もいる。
俺と雫が教室へ入ると、近くにいた赤木紗弥がこちらを見て微笑んだ。
「おはよう、七瀬君、西条さん」
「おはよう、赤木さん」
「おはよう、紗弥ちゃん」
雫が笑顔で返事をすると、紗弥は少しだけ表情を和らげた。
その様子を見て、俺は土曜日のことを思い出した。
「そういえば赤木さん、土曜日の映画、楽しかった?」
俺が尋ねると、紗弥は少し驚いたように目を瞬かせた。
「えっ……うん。すごく楽しかったよ。高坂君と、映画のあともいろいろ話せたし」
その言葉を聞いて、俺は笑顔になった。
「よかった。悠斗もすごく楽しかったって言ってたよ」
「……そ、そうなんだ」
紗弥は少し頬を赤くした。
雫がその様子を見て、柔らかく微笑む。
「紗弥ちゃん、よかったね。前から楽しみにしてたもんね」
「う、うん。……ありがとう、雫ちゃん」
紗弥は照れくさそうに笑った。
そのとき、教室の入口から悠斗が入ってきた。
「おはよー。……って、何の話してんだ?」
「おはよう、悠斗。土曜日の映画の話だよ。赤木さんも楽しかったって」
「お、おう。そりゃよかった」
悠斗は少しだけ目を逸らした。
紗弥も、なぜか同じように視線を逸らしている。
俺は二人の様子を見て、首を傾げた。
(……映画、楽しかったんだよな? なんで二人ともそんなに照れてるんだろう)
けれど、雫は何か分かっているように、小さく笑っていた。
俺が不思議そうにしていると、悠斗が近づいてきて、俺の肩を軽く叩いた。
「春樹。ちょっとあとで話ある」
「うん? 映画の感想?」
「……まあ、それもあるけど。とりあえずあとでな」
悠斗はそう言って自分の席へ向かった。
俺はますます不思議に思ったが、今は雫へ本を渡す約束がある。
鞄を机の横へ置き、文庫本を取り出した。
「雫、今ちょっといい?」
「うん!」
雫はすぐにこちらへ向き直った。
俺は透明なブックカバーをつけた文庫本を、両手で差し出した。
「これが、昨日選んだ本。前に読んだことがある作品なんだけど、雫にもぜひ読んでみてほしくて」
雫は本を受け取り、表紙をじっと見つめた。
夕暮れの町角に建つ、小さな喫茶店。
窓から漏れる温かな光。
その前を歩く人影。
雫は表紙を眺めながら、ゆっくりと微笑んだ。
「……素敵な表紙だね。なんだか、見てるだけで落ち着く感じがする」
「うん。俺もその雰囲気が好きなんだ。話の中でも、こういう温かい空気がずっと流れてるよ」
俺は少しだけ身を乗り出した。
「主人公が知らない町へ引っ越してきて、偶然入った喫茶店でいろんな人と出会うんだ。最初はただの休憩場所だったのに、何度も通ううちに、その店が大切な居場所になっていく。俺は、何気ない会話が少しずつ思い出になっていくところがすごく好きでさ」
雫は俺の話を、真剣な表情で聞いてくれていた。
そして、少しだけ本を胸元へ引き寄せる。
「……春樹が好きな理由、なんとなく分かる気がする」
「本当?」
「うん。春樹って、そういう何気ない優しさが描かれる話、好きだもんね」
俺は少し驚いた。
確かに、そういう作品は好きだ。
けれど、雫がそこまで分かってくれているとは思っていなかった。
「……雫、よく分かってるね」
そう言うと、雫は少し照れくさそうに笑った。
「だって、春樹が昔からどんな本を読んでるか、けっこう見てきたから」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
「そっか。そうだよね。雫とは小さいころから本の話してたもんな」
「うん。だから、春樹が選んでくれた本、すごく楽しみ」
雫はもう一度表紙へ目を向けた。
その表情があまりにも嬉しそうで、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
(……よかった。気に入ってくれそうだ)
まだ読んでもらったわけではない。
それでも、雫がこんなに喜んでくれるなら、昨日悩んだ時間にも意味があったのだと思えた。
「急がなくていいからね。今借りてる短編集も、ゆっくり読んでくれて大丈夫だよ」
「ありがとう。実は、まだ最後まで読み終わってなくて……でも、すごく楽しく読んでるよ」
「それならよかった。無理に急いで読むより、楽しんでくれた方が俺も嬉しいし」
雫は小さく頷いた。
「……うん。大切に読むね」
その言葉を聞いて、俺は自然に笑顔になった。
雫は本を鞄へしまう前に、もう一度表紙を眺めていた。
まるで、大切なものを受け取ったような表情だった。
俺はその姿を見ながら、なぜか少しだけ胸が落ち着かなくなるのを感じた。
(……なんだろう。雫が喜んでくれてるだけなのに、こっちまで妙に嬉しいな)
けれど、その理由を考える前に、朝のホームルームを知らせる予鈴が鳴った。
雫は名残惜しそうに本を鞄へしまい、俺へ笑顔を向けた。
「春樹、ありがとう。読み終わったら、また感想を話そうね」
「うん。楽しみにしてるよ」
そう答えると、雫は嬉しそうに頷いて自分の席へ戻っていった。
俺も席へ座り、教科書を机の上へ出した。
けれど、授業の準備をしながらも、さっきの雫の笑顔が何度も頭に浮かんできた。
◇◇◇
午前の授業が終わり、昼休みになった。
俺が教科書を片づけていると、悠斗が椅子を引いて近づいてきた。
「春樹、ちょっといいか?」
「うん。どうしたの?」
「……朝のことなんだけどさ」
悠斗は周囲をちらりと確認してから、少し声を落とした。
「お前、雫に本渡してたよな」
「うん。昨日選んだおすすめの本だよ」
「……そうか。で、雫、めちゃくちゃ嬉しそうだったな」
俺は思わず笑顔になった。
「そうなんだよ。表紙を見たときから喜んでくれてさ。まだ読んでないのに、あんなに嬉しそうにしてくれるとは思わなかった」
悠斗はしばらく俺を見つめた。
それから、何とも言えない表情でため息をつく。
「……お前って、ほんとにさ」
「うん?」
「いや、何でもない。まあ、雫が嬉しそうだったならよかったな」
悠斗はそう言いながら、椅子の背もたれへ身体を預けた。
俺は首を傾げたが、彼がそれ以上何も言わなかったので、話題を変えることにした。
「それより、土曜日の映画どうだった? 赤木さんも楽しかったって言ってたけど」
その瞬間、悠斗の表情が少し変わった。
「……ああ。めちゃくちゃよかった」
俺は笑顔になった。
「映画が?」
「映画も。……紗弥と一緒に見られたのも」
悠斗は少し照れくさそうに笑った。
「同じ映画を見ても、気づくところが違うんだよな。俺は台詞とか展開を中心に見てたんだけど、紗弥は背景の色とか、登場人物の立ち位置とか、そういうところに気づいててさ」
「へえ。それは面白そうだね」
「だろ? 映画のあとも、気づいたことを話してたら時間があっという間でさ。気づいたら結構長いこと一緒にいた」
悠斗はそう言いながら、少しだけ目を細めた。
その表情は、普段の彼よりずっと柔らかい。
俺はその様子を見て、素直に嬉しくなった。
「よかったね、悠斗。赤木さんも楽しそうだったし、また一緒に出かけられるといいね」
「……そうだな。俺も、また誘えたらいいなって思ってる」
悠斗は少しだけ頬を赤くした。
それから、ふと思い出したように俺を見た。
「そういや、お前は雫とまたどっか行く予定あるの?」
「うん? まだ具体的には決めてないけど、今度一緒に出かけようって話はしてるよ」
「……へえ」
悠斗は少しだけ口元を緩めた。
「で、どこ行くんだ?」
「まだ決めてないんだ。雫と相談してからかな。本屋とか、図書館とか、散歩もいいかもしれないね」
「……お前らしいな」
悠斗は苦笑した。
俺は首を傾げる。
「そう?」
「そうだよ。まあ、雫も本好きだし、そういうところなら楽しめるだろうな」
悠斗はそう言ってから、少し真面目な表情になった。
「……春樹。雫が喜んでくれるの、そんなに嬉しいか?」
突然の質問に、俺は少し驚いた。
「うん。そりゃ嬉しいよ。せっかく選んだ本だし、雫が楽しみにしてくれてるなら、俺も嬉しい」
「……そっか」
悠斗は少しだけ笑った。
「まあ、お前がそう思ってるなら、それでいいんじゃねえかな」
俺はその言葉の意味を考えたが、よく分からなかった。
けれど、悠斗が穏やかな表情をしていたので、それ以上は聞かなかった。
◇◇◇
放課後、俺は図書室へ向かった。
今日は特別な用事があるわけではない。
ただ、少しだけ本を眺めてから帰ろうと思ったのだ。
廊下を歩きながら、窓の外へ目を向ける。
秋の空は少しずつ夕方の色へ変わり始めており、校庭では部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえていた。
図書室へ入ると、いつもの落ち着いた空気が迎えてくれた。
窓際の席では数人の生徒が本を読んでおり、奥の書架では、背表紙を眺めながら本を探している生徒もいる。
カウンターの近くには、白石栞先輩の姿があった。
「こんにちは、七瀬君」
「こんにちは、白石先輩」
先輩は手元の資料を整えながら、柔らかく微笑んだ。
「今日は何か探している本があるの?」
「いえ、今日はちょっと棚を見に来ただけです。週末にいろいろ本を読み返してたので、今度は図書室でも何か探してみようかなと思って」
「そうなんだ。七瀬君らしいね」
白石先輩は小さく笑った。
「そういえば、前に考えていた紹介カードの文章、少し見直してみたの。まだ正式に使うかどうかは決まっていないけど、読みやすさを意識して調整してみたんだ」
「本当ですか? ぜひ見てみたいです」
先輩は机の上から、試作の紹介カードを取り出した。
以前より文字の配置が少し整理されており、見出しと紹介文の間に適度な余白ができている。
俺はカードを手に取り、じっくり眺めた。
「……いいですね。前よりずっと読みやすい気がします」
「ありがとう。文章を増やすより、どこを目立たせるか考えた方がいいかなと思って」
白石先輩は少し照れくさそうに笑った。
俺はカードを見ながら、昨日雫へ薦める本を選んでいたときのことを思い出した。
「実は俺も、週末に誰かへ薦める本を考えてたんです。自分が好きなところをどう伝えるかって、意外と難しいですね」
白石先輩は少しだけ目を瞬かせた。
「誰かに薦める本?」
「はい。雫にです。前に雫から借りた短編集を読み終えて、今度は俺のおすすめも読んでみたいって言ってくれたので」
そう答えると、白石先輩は一瞬だけ手を止めた。
けれど、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「……そうなんだ。西条さん、きっと喜んだでしょうね」
「はい。今朝渡したんですけど、すごく喜んでくれて。まだ読んでないのに、あんなに嬉しそうにしてくれるとは思わなくて」
俺は思わず笑顔になった。
白石先輩はその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「……七瀬君が大切に選んだ本なら、きっと嬉しいと思うよ」
「そうですかね」
「うん。誰かが自分のために時間をかけて選んでくれたものって、それだけで特別に感じることがあるから」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。
確かに、雫が四季の短編集を貸してくれたとき、俺も嬉しかった。
自分に読んでほしいと思ってくれたことが、何より嬉しかったのだ。
「……なるほど。そう考えると、俺も雫から本を借りたとき、同じ気持ちだったかもしれません」
白石先輩は小さく頷いた。
「そういう気持ちが伝わるのも、本の貸し借りのいいところだと思うな」
俺は先輩の言葉に頷き、もう一度紹介カードへ目を向けた。
本を薦めるということは、ただ作品の情報を伝えるだけではない。
自分がその本を好きな理由や、相手に読んでほしいと思う気持ちも、少しずつ伝わっていく。
そう考えると、紹介カードを作る作業も、今まで以上に面白く感じられた。
◇◇◇
図書室を出たころには、校舎の窓から差し込む光が少し赤みを帯びていた。
俺は鞄を持ち直し、昇降口へ向かった。
途中、廊下の向こうから九条凛が歩いてくるのが見えた。
九条さんはこちらに気づくと、少しだけ表情を和らげた。
「七瀬君。こんにちは」
「こんにちは、九条さん」
俺は足を止め、土曜日の書店で話したことを思い出した。
「そうだ。九条さん、土曜日はありがとう」
「……土曜日?」
「本屋で話したとき、誰かに薦める本なら、自分がどうしてその本を好きなのか説明できる作品がいいって言ってくれたでしょ。あれ、すごく参考になったんだ」
九条さんは少し驚いたように俺を見た。
それから、ゆっくりと微笑む。
「……そう。役に立てたならよかったわ」
「うん。おかげで、ちゃんと一冊選べたよ。今朝、雫にも渡せたんだ」
九条さんは一瞬だけ目を伏せた。
けれど、すぐに顔を上げ、穏やかな声で答える。
「西条さん、喜んでくれた?」
「すごく。まだ読んでないのに、あんなに嬉しそうにしてくれるとは思わなかったよ」
俺が笑うと、九条さんも小さく微笑んだ。
「……それなら、よかったわ」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
俺は少し不思議に思ったが、九条さんはすぐに話題を変えた。
「それより、七瀬君。最近は歩きながら本を読んでいないようね」
「うん。ちゃんと気をつけてるよ。九条さんに注意してもらったおかげかな」
「……そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
九条さんは少しだけ頬を緩めた。
「本を大切にする気持ちは素敵だけど、自分の安全も同じくらい大切にしてね」
「もちろん。これからも気をつけるよ」
俺が頷くと、九条さんは満足そうに微笑んだ。
「それじゃあ、また明日」
「うん。また明日」
俺は九条さんと別れ、昇降口へ向かった。
彼女は本当に真面目だ。
けれど、その真面目さの中には、相手を大切に思う優しさがある。
俺はそう感じながら、靴を履き替えた。
◇◇◇
昇降口を出ると、雫が少し離れたところで待っていた。
校門へ続く道の脇には、秋の風に揺れる木々が並んでいる。
雫は俺に気づくと、嬉しそうに手を振った。
「春樹、お疲れさま」
「お疲れさま、雫。待たせちゃった?」
「ううん。私も今来たところだよ」
雫はそう言って微笑んだ。
俺は隣へ並び、二人で校門へ向かって歩き始めた。
帰宅する生徒たちの声が周囲に響き、遠くからは部活動の掛け声も聞こえてくる。
そんな中、雫が少しだけ俺の方へ顔を向けた。
「……春樹、今日貸してくれた本、ありがとう」
「うん。朝も言ってくれたけど、そんなに喜んでもらえると俺も嬉しいよ」
雫は少し照れくさそうに笑った。
「だって、春樹が私のために選んでくれたんだもん。すごく嬉しかった」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ胸が温かくなった。
「……そっか。じゃあ、昨日悩んだ甲斐があったな」
「ふふ。そんなに悩んでくれたの?」
「うん。候補がいくつかあってさ。どれも好きな本だったから、なかなか決められなかったんだ」
雫は興味深そうに目を輝かせた。
「そうなんだ。ほかにはどんな本があったの?」
「幼馴染同士の恋愛小説とか、家族の思い出を辿る話とか。でも、今回は喫茶店の物語が一番いいかなって思って」
そう答えると、雫は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……幼馴染同士の恋愛小説?」
「うん。昔から一緒にいる二人が、高校生になって少しずつ相手のことを意識し始める話なんだけど、これも結構面白いんだ」
雫は少しだけ頬を赤くした。
「……そ、そうなんだ」
「うん。主人公がなかなか自分の気持ちに気づかなくてさ。読んでる方は、もう好きってことだろって思うんだけど、本人は全然分かってないんだよね」
俺がそう話すと、雫はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「……春樹は、そういう主人公を見てどう思うの?」
「うーん。もどかしいけど、気持ちが分からなくもないかな。昔から一緒にいる相手だと、関係が変わるって考えにくいのかもしれないし」
雫は俺の言葉を聞き、静かに頷いた。
「……そっか」
その声が少しだけ柔らかく聞こえた。
俺は彼女の表情を見ながら、ふと気になった。
「雫は、幼馴染同士の恋愛小説って好き?」
雫は一瞬、驚いたように俺を見た。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……うん。好きだよ」
「そっか。じゃあ、今度そういう本も薦めてみようかな」
俺がそう言うと、雫は小さく笑った。
「……うん。楽しみにしてる」
その笑顔を見て、俺も自然に笑った。
夕方の風が二人の間を通り抜け、街路樹の葉を揺らしていく。
俺たちはそのまま、いつもの帰り道を歩き続けた。
◇◇◇
帰宅してから、俺は鞄を机の横へ置き、制服から部屋着へ着替えた。
窓の外には、夕方の光がまだ少し残っている。
俺は机へ座り、今日の出来事を思い返した。
朝、雫へ本を渡したこと。
雫が表紙を見て、嬉しそうに笑ってくれたこと。
悠斗が土曜日の映画について楽しそうに話してくれたこと。
白石先輩と紹介カードについて話したこと。
九条さんへお礼を伝えられたこと。
どれも、特別な事件ではない。
けれど、こうして振り返ると、今日はずいぶん充実した一日だった気がする。
俺は読書ノートを開き、今日雫へ貸した本の題名の横に、小さく印をつけた。
『雫へ貸出中』
それだけ書いてから、少しだけ笑ってしまった。
「……なんか、図書室の貸出記録みたいだな」
けれど、こうして記録しておくのも悪くない。
いつか雫が読み終えたとき、どんな感想を聞けたのか書き足せるだろう。
俺はノートを閉じ、机の上へ置いた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、雫からメッセージが届いていた。
『春樹、今日は本を貸してくれてありがとう。帰ってから少しだけ表紙とあらすじを見たよ。読むのが楽しみになった』
俺は自然に笑顔になった。
『こちらこそ、喜んでくれて嬉しかったよ。急がなくていいから、ゆっくり読んでね』
少しして返事が届く。
『うん。今借りてる短編集も大切に読みたいから、少しずつ進めるね』
『もちろん。それでいいと思うよ』
俺はそう返信してから、少しだけ考えた。
雫は今、俺から借りた本を二冊持っている。
一冊は以前貸した日常の短編集。
もう一冊は、今日渡した喫茶店の小説。
どちらも、急いで返してもらう必要はない。
むしろ、雫が自分のペースで楽しんでくれる方が嬉しい。
そう思っていると、もう一通メッセージが届いた。
『春樹が選んでくれた本だから、きっと好きになると思う』
俺はその文章を見て、少しだけ手を止めた。
まだ読んでいないのに、そんなふうに言ってくれる。
雫は、俺のことを信頼してくれているのだろう。
その気持ちが嬉しかった。
『ありがとう。でも、もし合わなかったら遠慮なく言ってね。感想は正直に聞きたいから』
そう送ると、雫からすぐに返事が届いた。
『うん。でも、春樹が好きなところを知れるだけでも嬉しいよ』
俺はその言葉を読みながら、しばらく画面を見つめていた。
(……雫って、こういうことを自然に言ってくれるんだよな)
昔から、雫は優しい。
誰かが大切にしているものを、同じように大切にしようとしてくれる。
その優しさは、今も変わっていない。
俺は小さく息を吐き、返信を打った。
『じゃあ、読み終わったらまたゆっくり話そう。雫の感想、楽しみにしてる』
『うん。私も春樹と話すの、楽しみにしてる』
そのやり取りを終えてから、俺はスマートフォンを机へ置いた。
部屋の中には、夕方から夜へ変わっていく静かな時間が流れている。
俺は本棚へ目を向け、読みかけの大学再会ものの恋愛小説を手に取った。
続きを読みたい気持ちは、もちろんある。
けれど、ページを開く前に、ふと今朝の雫の笑顔が浮かんできた。
本を受け取ったときの、あの嬉しそうな表情。
表紙を大切そうに眺めていた姿。
そして、帰り道で話したときの、少し照れくさそうな笑顔。
(……なんで、今日の雫の顔ばっかり思い出すんだろう)
俺は少し不思議に思いながら、本を開いた。
きっと、自分が選んだ本を喜んでもらえたことが、それだけ嬉しかったのだろう。
そう考えると、少しだけ納得できた。
俺は栞を挟んでいたページから、物語の続きを読み始めた。
大学で再会した幼馴染の二人は、昔の思い出を辿りながら、少しずつ今の相手を知っていく。
主人公は、ヒロインの何気ない言葉に心を動かされるようになっていた。
けれど、その理由をまだはっきりとは理解できていない。
俺はページをめくりながら、思わず苦笑した。
「……いや、もう気づいてもいいと思うんだけどな」
物語の中の主人公へ、そんなことを呟いてしまう。
けれど、すぐに続きを読みたくなり、俺は再びページへ視線を落とした。
好きな本を読む時間は、やっぱり楽しい。
それに、今日はもうひとつ楽しみが増えた。
雫が、俺の選んだ本を読んでくれること。
そして、いつかその感想を聞けること。
俺はそんなことを考えながら、静かな夜の中で物語を読み進めていった。
明日も、きっといつもどおりの一日になるだろう。
けれど、その何気ない日常の中で、雫とまた新しい話ができるかもしれない。
そう思うと、少しだけ明日が楽しみになった。
俺は本のページをめくりながら、もう一度だけ今日の雫の笑顔を思い出した。
そして、その笑顔がなぜこんなにも心に残っているのか、まだ自分でもよく分からないまま、物語の続きを追いかけていた。




