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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第78話 幼馴染に薦めたい本が決まっただけなのに、どうして渡す日のことまで楽しみになるんだ?


 日曜日の朝、目を覚ました俺は、枕元に置いていた文庫本を手に取り、昨夜どこまで読んだのか確かめた。


 窓の向こうには薄い雲が広がっているものの、雨が降りそうな気配はない。カーテンの隙間から差し込む朝の光は穏やかで、休日らしい静けさが部屋を満たしていた。


 昨日は、雫に薦める本を選ぼうと思って、ずいぶん長い時間を本棚の前で過ごした。


 結局、候補を一冊に絞り切ることはできなかったが、夜になってから読み返した喫茶店の小説が、今も強く印象に残っている。


 知らない町へ引っ越してきた青年が、一軒の喫茶店をきっかけに少しずつ人とのつながりを築いていく物語だ。


 初めて読んだときにも好きになった作品だったが、昨日読み返してみると、以前とは違う場面で何度もページをめくる手が止まった。


 主人公が常連客の名前を覚えるところ。


 店主が何も言わず、相手の好みに合わせた飲み物を用意するところ。


 誰かが落ち込んでいるとき、無理に事情を聞き出すのではなく、いつもどおりの会話を続けるところ。


 そうした小さなやり取りが積み重なって、主人公にとって喫茶店が特別な場所になっていく。


(……やっぱり、この本がいいかもしれないな)


 俺は表紙を眺めながら、昨日読書ノートに書いた感想を思い出した。


 好きな場所は、そこで過ごした人との時間も含めて大切になる。


 そんなことを考えたのは、雫から借りた四季の短編集を読み終えたばかりだったからかもしれない。


 あの本にも、何気ない日常の中で人とのつながりを見つめ直す物語が収められていた。


 ただ、今回の喫茶店の小説は、四季の短編集とは少し違う。


 一つの場所を中心に、そこへ集まる人たちの関係が少しずつ変わっていく。


 誰かと出会うことで、見慣れない景色が自分にとって大切なものになっていく。


 俺はその過程が好きだった。


 雫にも、ぜひ読んでみてほしい。


 そう思ったところで、ふと気づいた。


(……あれ? 俺、もうほとんど決めてるんじゃないか?)


 昨日はあんなに悩んでいたのに、今朝になってみると、自然に答えが見えていた。


 もちろん、ほかの候補も面白い。


 幼馴染同士の恋愛小説も、祖父の手帳をきっかけに家族の思い出を辿る物語も、俺にとって大切な作品だ。


 けれど、今の雫に薦めたい一冊を選ぶなら、この喫茶店の小説が一番しっくりくる。


 俺は本を胸の前に持ち上げ、少しだけ笑った。


「……よし。決めた」


 声に出してみると、不思議と気持ちがすっきりした。


 あとは、雫にどう伝えるかだ。


 昨日のメッセージでは、候補がいくつかあると話しただけだった。


 今度学校で会ったときに伝えるのもいいし、今日のうちに連絡してもいい。


 ただ、せっかくなら直接渡したい。


 雫が四季の短編集を貸してくれたときのように、自分が好きなところを話しながら渡せたら、きっと楽しいだろう。


 俺は枕元の時計を確認し、ゆっくりと布団から出た。


 まだ朝食までには少し時間がある。


 それなら、もう一度だけ気に入った場面を読み返しておこう。


 そう思ってページを開いた俺は、休日の朝らしい静けさの中で、しばらく物語の世界へ入り込んでいった。


     ◇◇◇


 朝食を済ませて自室へ戻ると、机の上には昨日並べた三冊の文庫本が残っていた。


 俺はそれぞれの表紙を確かめながら、本棚へ戻していく。


 幼馴染同士の恋愛小説は、いつか雫に薦めてもいいかもしれない。


 祖父の手帳を巡る物語も、別の機会に話してみたい。


 けれど、今回選んだのは喫茶店の小説だ。


 俺はその一冊だけを机の中央へ置き、読書ノートを開いた。


 昨日書いた感想を読み返すと、少しだけ物足りないところがある。


 作品の魅力はまとめられているが、雫に薦めたい理由としては、まだ自分の気持ちが十分に表現できていない気がした。


(……別に紹介カードを作るわけじゃないんだから、こんなに悩まなくてもいいんだけどな)


 そう思いながらも、俺はペンを手に取った。


 白石先輩と図書室で考えている紹介カードでは、限られた文字数の中で本の魅力を伝える必要がある。


 けれど、雫に直接話すなら、もっと自由に感想を伝えられる。


 好きな場面についても、どうして心に残ったのかについても、時間をかけて話せるはずだ。


 俺はノートに新しい一文を書き足した。


『誰かと過ごした何気ない時間が、あとから振り返ると大切な思い出になっている。そんなところを、雫にも読んでみてほしい』


 書き終えてから、しばらく文字を眺めた。


 悪くない。


 ただ、最後の部分は少し照れくさい気もする。


 自分が好きな本を誰かに薦めることは、これまでも何度もあった。


 悠斗に面白かった作品を話したこともあるし、図書室では白石先輩やほかの人たちと感想を交わしてきた。


 それなのに、雫へ薦める本を考えていると、どうしてこんなに言葉を選んでしまうのだろう。


(……やっぱり、雫が大切にしてる本を貸してくれたからかな。俺も、それにちゃんと応えたいんだろうな)


 そう考えると、少し納得できた。


 四季の短編集は、雫にとって思い入れのある一冊だった。


 春の物語では、新しい環境で友人を作る勇気が描かれていた。


 夏の物語では、久しぶりに再会した幼馴染同士が、昔の関係を大切にしながら今の相手を知ろうとしていた。


 秋の物語では、毎日のように一緒に帰る二人が、何気ない優しさの積み重ねに気づいていく。


 そして冬の物語では、離れて暮らす友人たちが、昔の喫茶店をきっかけに再びつながっていった。


 どれも、大きな事件が起こるわけではない。


 けれど、読み終えたあとには、普段の生活を少し違う目で見られるような気がした。


 雫があの本を好きな理由も、昨日の会話で以前より分かった気がする。


 だからこそ、俺も自分の好きな作品をきちんと選びたかったのだろう。


 俺はペンを置き、机の上の文庫本へ目を向けた。


 表紙には、夕暮れの町角に建つ小さな喫茶店が描かれている。


 窓から漏れる温かな光と、店の前を歩く人影。


 その景色を見ていると、雫と一緒に歩いた商店街のことを思い出した。


 以前、二人で本屋へ寄った帰り道。


 何気ない話をしながら歩いた夕方の道。


 そんな時間も、あとから振り返れば大切な思い出になるのかもしれない。


 俺は本を手に取り、丁寧に表紙を撫でた。


「……雫、気に入ってくれるといいな」


 そう呟いたとき、スマートフォンが小さく震えた。


 画面を確認すると、ちょうど雫からメッセージが届いていた。


『おはよう、春樹。今日はいい天気だね。昨日は本、たくさん読めた?』


 俺は思わず笑ってしまった。


 まるで、今考えていたことが伝わったみたいだ。


『おはよう。うん、昨日はいろいろ読み返したよ。それで、雫に薦めたい本も決まったんだ』


 送信すると、すぐに既読がついた。


『えっ、本当? もう決まったんだね!』


『うん。今度会ったときに渡せたらいいなと思ってる』


 少し間が空いてから、雫の返事が届いた。


『嬉しい。春樹が選んでくれた本、すごく楽しみ』


 その言葉を読んだ瞬間、胸の奥が温かくなった。


 まだ本を渡したわけでも、感想を聞いたわけでもない。


 それなのに、雫が楽しみにしてくれていると分かっただけで、俺まで嬉しくなってしまう。


『じゃあ、明日学校で渡してもいい?』


『もちろん。でも、春樹が今読んでる途中なら、急がなくて大丈夫だよ』


『大丈夫。前に読んだ本で、昨日も読み返したから』


『そっか。じゃあ、明日楽しみにしてるね』


 俺はその返事を眺めながら、自然に笑顔になった。


 月曜日に雫へ本を渡す。


 それだけの約束だ。


 けれど、なぜか明日が少し待ち遠しくなった。


     ◇◇◇


 同じころ、西条雫は自室の机で、スマートフォンを両手に持ったまま微笑んでいた。


 春樹からの最後のメッセージを、もう一度読み返す。


『じゃあ、明日学校で渡してもいい?』


 短い文章だった。


 けれど、雫にとっては、何度読んでも嬉しくなる言葉だった。


 春樹が、自分のために本を選んでくれた。


 しかも、昨日一日かけていろいろな作品を読み返し、その中から一冊を決めてくれたらしい。


 それだけで、胸がいっぱいになってしまう。


(……春樹、本当に考えてくれたんだ。私が好きそうな本を探してくれたのかな。それとも、春樹が大好きな本なのかな)


 どちらでも嬉しい。


 むしろ、春樹自身が大切にしている本なら、なおさら読んでみたいと思った。


 雫は机の上へ視線を向けた。


 そこには、春樹から以前借りた日常の短編集が置かれている。


 読み進めてはいるものの、まだ最後まで読み終えていない。


 明日、新しい本を借りるなら、今の本をどうするか考えておいた方がいいだろう。


 雫は短編集を手に取り、栞を挟んだページを開いた。


 物語の中では、商店街の小さな店を舞台に、常連客たちの何気ない会話が続いている。


 雫はその穏やかな雰囲気が好きだった。


 春樹がこの本を貸してくれたとき、何でもない一日の中にある小さな変化が面白いと話していたことを思い出す。


 実際に読んでみると、その言葉の意味がよく分かった。


 大きな事件が起こらなくても、人の気持ちは少しずつ変わっていく。


 誰かが何気なくかけた言葉で、一日が明るくなることもある。


 自分では気づかないうちに、誰かの優しさに支えられていることもある。


 雫はページをめくりながら、昨日の春樹とのやり取りを思い出した。


 自分のために本を選んでくれた。


 そのことが、今の雫にとって何より嬉しかった。


(……春樹は、きっと本当に本が好きだから、こういうことを自然にできるんだよね)


 そう思う一方で、少しだけ別の気持ちも生まれる。


 春樹にとって、自分はどんな存在なのだろう。


 昔から一緒にいる幼馴染。


 本の話をする相手。


 帰り道を並んで歩く友達。


 そのどれも間違ってはいない。


 けれど、雫はいつか、それだけではない存在になれたらいいと思っている。


 雫は本を閉じ、机の引き出しへ視線を向けた。


 そこには、まだ春樹へ渡していない幼馴染の恋愛小説がある。


 以前、四季の短編集を貸すときに迷ったもう一冊。


 春樹がその本を読んだら、どんな感想を持つのだろう。


 物語の主人公が、ずっと隣にいた相手への気持ちに気づく場面を、どう受け止めるのだろう。


 雫は少しだけ頬を赤くした。


(……いつか、読んでほしいな。でも、今は春樹が選んでくれた本を楽しみにしていよう)


 そう心の中で呟き、雫はもう一度短編集を開いた。


 明日、春樹から新しい本を借りる。


 その約束を思い出すたびに、自然とページをめくる手が軽くなった。


     ◇◇◇


 昼前、俺は机の上に置いた喫茶店の小説を確認しながら、貸す準備を始めた。


 まず、本の状態を確かめる。


 何度か読み返した作品だが、表紙に目立つ傷はない。


 ページの端も折れていないし、書き込みもしていない。


 雫へ貸すなら、できるだけきれいな状態で渡したい。


 俺は本棚の引き出しから、以前買っておいた透明なブックカバーを取り出した。


 普段はそのまま読むことも多いが、人に貸す本にはカバーをつけておくと安心だ。


 机の上へ本を置き、カバーの端を合わせながら、丁寧に折り込んでいく。


 作業そのものは難しくない。


 けれど、少しでもずれると気になってしまい、何度か位置を調整した。


(……別に、雫はこんな細かいところまで気にしないと思うけど)


 そう考えながらも、結局きれいに収まるまで直してしまった。


 カバーをつけ終えると、俺は本を持ち上げて確認した。


 うん、悪くない。


 これなら安心して貸せそうだ。


 次に、栞をどうするか考えた。


 雫は以前、一緒に買った葉っぱの形の栞を持っている。


 俺も、同じときに買った紺色の三日月の栞を使っている。


 あの栞は気に入っているし、今も読書のときによく使っている。


 けれど、人に貸す本へ自分の栞を挟むのは、少し違う気がした。


 雫には雫のお気に入りがある。


 だから、今回は本だけを渡せばいいだろう。


 俺は本を机の端へ置き、明日の鞄へ入れるものを確認した。


 教科書やノートは、まだ日曜日なので急いで準備する必要はない。


 けれど、貸す本だけは忘れないようにしておきたい。


 俺は鞄の横へ文庫本を置き、スマートフォンのメモにも『雫に本を渡す』と書き込んだ。


 そこまでしてから、思わず苦笑する。


「……さすがに、忘れないと思うけどな」


 むしろ、今の俺なら忘れようがない気がする。


 朝からずっと、そのことを考えているのだから。


 俺は椅子へ座り直し、読書ノートを開いた。


 明日、雫へ本を渡すときに、どんなふうに紹介しよう。


 あらすじを長々と説明するのは、あまりよくない。


 読んでからのお楽しみも残しておきたい。


 それなら、好きなところだけを簡単に伝えるのがいいだろう。


『知らない町へ引っ越してきた主人公が、小さな喫茶店でいろんな人と出会っていく話。何気ない会話が少しずつ大切な思い出になっていくところが好き』


 俺はノートにそう書き、読み返した。


 うん、これなら伝わりそうだ。


 雫が四季の短編集を貸してくれたときも、内容を全部説明するのではなく、自分が好きなところを話してくれた。


 そのおかげで、俺は先の展開を知らないまま楽しめた。


 今度は俺が、同じようにできたらいい。


 俺はノートを閉じ、少しだけ背伸びをした。


 窓の外では、雲の隙間から日差しが差し込んでいる。


 風に揺れる木々の葉が、秋らしい色合いを見せていた。


 こんな日は、外で本を読むのも気持ちよさそうだ。


 そう思ったところで、ふと昨日の書店で会った九条さんのことを思い出した。


 彼女は、誰かに本を薦めるなら、自分がどうしてその本を好きなのか説明できる作品がいいと言っていた。


 その言葉が、今回の一冊を決める助けになった。


 今度学校で会ったら、お礼を言っておこう。


 俺はそう考えながら、昼食の時間まで読みかけの本を進めることにした。


     ◇◇◇


 午後になり、俺は大学で再会した幼馴染同士の恋愛小説を手に取った。


 以前から読み進めていた作品だが、最近は雫から借りた短編集や、ほかの本を優先していたため、まだ最後まで読めていない。


 今日は少し時間がある。


 雫へ薦める本も決まったことだし、久しぶりに続きを読んでみよう。


 俺は窓際の椅子へ座り、栞を挟んでいたページを開いた。


 物語は、大学で再会した幼馴染の二人が、昔の思い出を辿りながら、今の相手を少しずつ知っていくところまで進んでいる。


 主人公は、幼いころからヒロインのことを知っている。


 けれど、再会してからの彼女には、知らない一面がたくさんある。


 好きなものも、苦手なことも、将来について考えていることも、昔とは少しずつ変わっている。


 主人公はその変化に戸惑いながらも、彼女と過ごす時間を楽しむようになっていく。


 俺はページをめくりながら、自然と雫のことを思い出した。


 雫も、昔から一緒にいる。


 けれど、今の雫について、俺はどれくらい知っているのだろう。


 好きな本の傾向。


 よく飲む飲み物。


 学校での過ごし方。


 そうしたことは、ある程度分かっている。


 けれど、雫がどんなことに悩んでいるのか、何を大切にしているのか、全部知っているわけではない。


 以前、雫はいつか大切な話をしたいと言っていた。


 まだその準備ができていないとも話していた。


 俺は、雫が話せるようになるまで待つと約束した。


 その気持ちは、今も変わっていない。


(……雫が話したくなったときに、ちゃんと聞ける相手でいたいな)


 そう考えながらページをめくると、物語の主人公も、似たようなことを考えている場面に出会った。


 ヒロインが何かを隠していると気づきながらも、無理に聞き出そうとはしない。


 ただ、話したくなったら聞くと伝える。


 その場面を読んで、俺は少しだけ頷いた。


「……うん。こういう距離感、いいな」


 相手のことを知りたいと思う気持ちと、相手の気持ちを尊重すること。


 その二つは、きっと両立できる。


 俺はそう思いながら、続きを読み進めた。


 物語の中では、二人が昔よく遊んだ場所を訪れる。


 そこで主人公は、幼いころに交わした何気ない約束を思い出そうとする。


 けれど、記憶は曖昧で、細かな言葉までは思い出せない。


 一方、ヒロインはその約束を大切に覚えているらしい。


 主人公は彼女の表情を見て、何か重要なことを忘れているのではないかと感じ始める。


 俺はページをめくる手を止めた。


(……昔の約束か。幼馴染同士なら、そういうこともあるよな)


 俺と雫も、小さいころにはいろいろな約束をした気がする。


 明日も一緒に遊ぼうとか、今度あの場所へ行こうとか。


 細かな内容までは覚えていないものも多い。


 けれど、雫と一緒に過ごした時間そのものは、今でも大切な思い出だ。


 俺は本を持ち直し、続きを読んだ。


 物語の主人公が忘れている約束は、どうやら二人の関係に深く関わっているらしい。


 ヒロインはすぐに答えを教えるのではなく、主人公が自分で思い出すことを待っている。


 その様子が少し切なくて、俺は思わず眉を寄せた。


「……これは、続きが気になるな」


 俺は椅子へ深く座り直し、ページをめくる手を早めた。


 けれど、しばらく読んだところで、ふと気づいた。


 この作品も、雫に薦めたら面白いかもしれない。


 ただ、今はまだ最後まで読んでいない。


 それに、今回選んだ喫茶店の小説とは違って、恋愛感情が物語の中心にある。


 雫がこういう話をどう受け止めるのか、少し気になる。


(……まあ、まずは俺が最後まで読んでからだな)


 俺はそう考え、再び物語の世界へ戻っていった。


     ◇◇◇


 夕方、雫は春樹から借りた短編集を読み進めながら、時折窓の外へ目を向けていた。


 日曜日の午後は、思っていたより早く過ぎていく。


 机の上には、明日の学校で使う教科書やノートが整えられていた。


 その隣に置かれているのが、春樹から借りた本だ。


 雫は今日のうちに読み終えられるところまで進めようと思っていたが、急いで読むのは少し違う気がした。


 春樹が大切にしている作品だからこそ、一つ一つの物語を丁寧に味わいたい。


 それに、明日新しい本を借りるからといって、今の本を急いで返さなければならないわけではない。


 春樹はきっと、無理しなくていいと言ってくれるだろう。


(……でも、借りた本が増えていくのも、ちょっと嬉しいかもしれない)


 雫はそんなことを考えて、小さく笑った。


 春樹の本棚には、まだ自分が読んだことのない作品がたくさんある。


 その中から、春樹が自分のために選んでくれた一冊。


 明日、その本を受け取れる。


 そう思うだけで、胸の奥が温かくなった。


 雫は短編集のページをめくり、物語の続きを読み始めた。


 登場人物たちは、商店街の小さな店で、いつもと変わらない会話を交わしている。


 けれど、その何気ない時間が、誰かにとって大切なものになっている。


 雫はその場面を読みながら、春樹との日常を思い出した。


 毎朝の通学路。


 放課後の帰り道。


 図書室で偶然会ったときの会話。


 本を貸し借りするときの、少しだけ特別な時間。


 どれも、春樹にとっては当たり前のことなのかもしれない。


 けれど、雫にとっては、ひとつひとつが大切な思い出だった。


(……明日も、一緒に歩けるといいな)


 雫はそう思いながら、静かにページをめくった。


     ◇◇◇


 夜になり、俺は大学再会ものの恋愛小説をいったん閉じた。


 続きが気になるところまで進んだが、今日はここで区切ることにした。


 無理に読み終える必要はない。


 それに、明日は学校がある。


 あまり夜更かしすると、朝起きるのが大変になってしまう。


 俺は本へ栞を挟み、机の上へ置いた。


 その隣には、明日雫へ貸す予定の喫茶店の小説がある。


 透明なブックカバーをつけた表紙は、部屋の明かりを受けて少しだけ光っていた。


 俺はそれを手に取り、もう一度状態を確認した。


 ページに問題はない。


 カバーもきれいに収まっている。


 あとは、明日忘れずに持っていくだけだ。


 俺は鞄の中へ文庫本を入れ、教科書やノートと重ならない位置へ丁寧に収めた。


 そこまでしてから、少しだけ笑ってしまう。


「……なんか、遠足の前みたいだな」


 明日は普通の月曜日だ。


 授業もあるし、いつもどおり学校へ行く。


 特別な行事があるわけではない。


 ただ、雫へ本を一冊渡すだけだ。


 それなのに、なぜか楽しみで仕方がない。


(……まあ、好きな本を誰かに読んでもらえるのは嬉しいからな)


 俺はそう考え、机の上を片づけた。


 スマートフォンを確認すると、雫からメッセージが届いていた。


『春樹、明日の本、楽しみにしてるね。私も今借りてる本、少しずつ読んでるよ』


 俺は自然に笑顔になった。


『ありがとう。急がなくていいから、ゆっくり読んでね。明日は忘れずに持っていくよ』


 すぐに返事が届く。


『うん。春樹がどんな本を選んでくれたのか、今からわくわくしてる』


 俺はその文章を読みながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 雫が楽しみにしてくれている。


 それだけで、明日が待ち遠しくなる。


『じゃあ、また明日。おやすみ、雫』


『おやすみ、春樹。また明日ね』


 俺はスマートフォンを置き、部屋の明かりを少し落とした。


 窓の外には、静かな夜が広がっている。


 明日は月曜日。


 いつもどおり学校へ行き、授業を受けて、友達と話して、帰り道には雫と一緒に歩くのだろう。


 その中に、ひとつだけ楽しみな予定が増えた。


 自分が選んだ本を、雫へ渡すこと。


 俺は鞄の中に入れた文庫本を思い浮かべながら、ベッドへ腰を下ろした。


(……雫、どんな顔するかな)


 きっと、嬉しそうに笑ってくれるだろう。


 そして、読み終えたら感想を話してくれるはずだ。


 そのとき、雫がどんなところを好きになったのか聞くのが楽しみだった。


 俺は布団へ入り、目を閉じた。


 好きな本を誰かに薦める。


 それは、これまでも何度もしてきたことだ。


 けれど、今回は少しだけ違う。


 雫が大切にしている本を貸してくれたからこそ、俺も自分の好きな一冊を選びたかった。


 その気持ちを、明日ちゃんと伝えよう。


 そう考えているうちに、眠気がゆっくりと訪れてきた。


 明日の朝、雫に会うのが楽しみだ。


 そして、雫が俺の選んだ本を読んでくれる日も、今から楽しみだった。


 そんな穏やかな期待を胸に、俺は静かに眠りへ落ちていった。

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