第77話 幼馴染に薦める一冊を探しているだけなのに、どうして本棚の前でこんなに悩むんだ?
土曜日の朝、目を覚ました俺は、枕元の時計を確認してから、ゆっくりと身体を起こした。平日ならそろそろ制服に着替えている時間だが、今日は学校が休みなので、窓から差し込む柔らかな光を眺めながら、少しだけ布団の中で過ごすことにした。
昨夜は、いつもより遅くまで本を読んでいた。
もっとも、読みかけの小説を最後まで読み進めたわけではない。机の上に何冊もの本を並べ、最初の数ページや以前気に入った場面を読み返しながら、どの作品を雫に薦めようか考えていたのだ。
(……本を選ぶだけで、こんなに時間がかかるとは思わなかったな)
自分が次に読む本なら、表紙やあらすじを見て、気になったものから手に取ればいい。ところが、誰かに薦めるとなると、その人がどんな物語を好きなのか、どんな気持ちで読んでほしいのかまで考えてしまう。
しかも、今回の相手は西条雫だ。
小さいころから一緒に過ごしてきた幼馴染で、今でも毎日のように本の話をしている。雫が好きな物語の傾向はそれなりに知っているつもりだったが、昨日、四季の短編集について話したことで、俺は彼女の好きな本について、まだ知らないことがたくさんあると気づいた。
雫は、何気ない日常の中で人と人とのつながりが描かれる物語を大切にしている。
それは分かった。
けれど、だからといって似たような短編集を選ぶだけでは、少し物足りない気がする。
(……せっかくなら、俺が本当に好きなところを話せる作品がいいよな。雫も、そういう理由であの本を選んでくれたんだし)
俺は布団から出ると、机の上へ視線を向けた。
昨夜並べた文庫本は、まだそのままになっている。読みかけの大学再会ものの恋愛小説や、最近買った日常の小さな謎を描いた短編集とは別に、以前読み終えた作品を三冊ほど本棚から取り出していた。
どれも好きな作品だ。
ただ、今のところ決め手がない。
俺は一冊の表紙を指先で軽く押さえ、ため息をついた。
「……本を読みたいだけなのに、どうして本を選ぶところでこんなに悩んでるんだろう」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉が、静かな部屋に消えていく。
そのとき、机の端に置いていたスマートフォンが震えた。
画面を確認すると、高坂悠斗からメッセージが届いている。
『おはよう。今日、紗弥と映画行ってくる。何か朝から落ち着かない』
俺は思わず笑ってしまった。
昨日の放課後、悠斗は土曜日の午後の上映を見に行くと話していた。細かな待ち合わせ場所はまだ相談中だったはずだが、どうやら今日の予定そのものは順調らしい。
『おはよう。楽しんできてね。映画の感想、また聞かせて』
そう返信すると、すぐに既読がついた。
『映画の感想ならいくらでも話せる。でも、それ以外で変なこと言わないか心配なんだよ』
俺は少し考えてから、もう一度文字を打つ。
『赤木さんも映画を楽しみにしてるんだから、いつもどおり話せば大丈夫だと思うよ』
今度は少し間が空いた。
『お前のそういうところ、羨ましいわ。とりあえず行ってくる』
画面を見つめながら、俺は悠斗が昨日見せてくれた嬉しそうな顔を思い出した。
好きな相手と出かけるのは、きっと特別なことなのだろう。
俺も雫と一緒に本屋へ行くのは楽しいし、昨日のように公園で話す時間も好きだ。けれど、悠斗が感じている緊張と同じものなのかと聞かれたら、少し違うような気がする。
(……まあ、悠斗の場合は赤木さんのことが好きだからな。俺とは事情が違うんだろう)
そう考えてスマートフォンを置き、俺は朝食を取るため部屋を出た。
◇◇◇
朝食を済ませて自室へ戻ったころには、窓の外がすっかり明るくなっていた。
今日は特に外出の予定を入れていない。
読みかけの本を進めることもできるし、気になっていた新刊を探しに本屋へ行くのもいい。けれど、昨日から頭の片隅に残っているのは、やはり雫へ薦める一冊のことだった。
俺は本棚の前へ座り、並んだ背表紙をゆっくり眺めた。
恋愛小説、日常もの、少し不思議な出来事を扱った物語、短編集。好きな本を買っているうちに増えた文庫本は、棚の中でそれぞれ違う世界を抱えている。
最初に手に取ったのは、古い喫茶店を舞台にした小説だった。
主人公は、進学をきっかけに知らない町へ引っ越してきた青年で、偶然立ち寄った喫茶店の常連たちと少しずつ親しくなっていく。大きな事件は起こらないものの、何度も同じ場所へ通ううちに、知らなかった町が自分の居場所になっていく過程が丁寧に描かれている。
俺はこの作品が好きだ。
初めて読んだとき、主人公が自分の居場所を見つけていく様子に温かい気持ちになったし、登場人物たちの何気ない会話にも何度も笑わされた。
雫もきっと楽しんでくれるだろう。
ただ、四季の短編集を読み終えたばかりの今、似た雰囲気の作品を続けて薦めることが本当にいいのか、少し迷いがあった。
「……別に、似てるから駄目ってわけじゃないんだけどな」
俺は小さく呟き、次の本を手に取った。
こちらは、幼いころから同じ町で暮らしてきた男女が、高校生になって少しずつ互いの変化に気づいていく恋愛小説だ。
恋愛小説としては比較的穏やかな作品で、主人公が相手への気持ちを自覚するまでに時間がかかるところも面白い。読者には二人の距離が少しずつ変わっていることが伝わるのに、当人たちはなかなか気づかない。
俺は以前、この作品を読んだときに、主人公の鈍さに何度ももどかしい気持ちになった。
(……相手があんなに分かりやすく好意を示してるのに、どうして気づかないんだろうな)
読み返した場面では、ヒロインが主人公のために選んだ小さな贈り物を渡そうとして、何度もタイミングを逃していた。
主人公は彼女の様子がおかしいことには気づいているのに、贈り物を渡したいという気持ちまでは想像できず、体調が悪いのではないかと心配してしまう。
俺は思わず苦笑した。
「……いや、さすがにこれは気づいてあげようよ」
けれど、ページを進めると、主人公にも彼なりの事情があることが分かる。
長い間一緒に過ごしてきた相手だからこそ、関係が変わる可能性を簡単には考えられない。相手の優しさを特別なものだと受け止めることにも、どこかためらいがある。
その気持ちは、少しだけ理解できる気がした。
昔から知っている相手との関係が変わるというのは、きっと簡単なことではない。
俺は本を閉じ、表紙に描かれた二人の姿を眺めた。
(……雫も幼馴染だから、こういう話は好きかもしれないな。でも、薦める理由を聞かれたら、主人公が鈍感で面白いからって答えることになるのかな)
それはそれで悪くない気もするが、もう少し別の作品も見てみたい。
俺は本を机へ置き、三冊目を手に取った。
こちらは、一人の高校生が祖父の残した古い手帳をきっかけに、家族の知らなかった一面を知っていく物語だ。手帳に書かれた何気ない記録を辿るうちに、主人公は祖父が若いころ大切にしていた友人や、家族へ伝えられなかった思いを少しずつ知っていく。
読み終えたとき、俺はしばらく本を閉じられなかった。
大切なことを言葉にする難しさと、言葉に残しておく意味。
それが静かに伝わってくる作品だった。
雫が好きそうなところもある。
けれど、この本には少し切ない場面が多く、今の雫に薦めたい一冊なのかと考えると、すぐには答えが出なかった。
俺は三冊を並べ直し、椅子の背もたれに身体を預けた。
好きな本を選ぶだけなら、どれでもいい。
しかし、雫に薦めたい理由を考えるほど、彼女のことをもっと知りたくなってくる。
雫はどんな結末が好きなのだろう。
登場人物が気持ちを言葉にする場面と、言葉にせず行動で示す場面では、どちらが心に残るのだろう。
四季の短編集を読んで、何気ない時間を大切にする物語が好きだということは分かった。
それでも、好きな本のすべてを知っているわけではない。
(……そういえば、雫に好きな結末について詳しく聞いたことって、あんまりなかったかもしれない)
俺は机の端に置いた読書ノートを開いた。
自分が読んだ本の感想は書いているが、誰かに薦めることを前提にした記録は、それほど多くない。
白石先輩と図書室で考えている紹介カードも、作品の魅力を短い言葉で伝えるためのものだ。
あの作業をしているとき、俺は読み手がどんな気分で本を手に取るのか考えていた。
今度は、もっと具体的に相手の顔が浮かんでいる。
雫が表紙を眺める姿。
ページをめくるときの真剣な表情。
面白かった場面について、少し弾んだ声で話してくれるところ。
そこまで想像して、俺は手を止めた。
「……俺、ずいぶん雫のこと考えてるな」
声に出してから、少しだけ恥ずかしくなる。
とはいえ、相手に本を薦めるのだから、その相手について考えるのは当然だ。
俺はそう結論づけ、もう一度本棚へ向き直った。
◇◇◇
同じころ、西条雫は自室の机で、一冊の短編集を開いていた。
春樹から以前借りた、日常の小さな出来事を描いた作品だ。
古い商店街の喫茶店を舞台にした話では、常連客同士が何気ない会話を重ねるうちに、互いの生活へ少しずつ関わっていく。雫はその穏やかな雰囲気が気に入っており、今日は読み進めるだけでなく、以前読んだ場面もゆっくり振り返っていた。
机の端には、昨日春樹から返してもらった四季の短編集が置かれている。
見慣れた表紙を見るたびに、公園のベンチで交わした会話が思い出された。
『俺、雫と本の話をする時間、すごく好きだよ』
春樹の声は、今でも耳に残っている。
あのとき、雫は嬉しさのあまり、すぐに返事ができなかった。
春樹にとっては、きっと素直な感想だったのだろう。
けれど、雫にとっては、長い間大切にしてきた気持ちへ、少しだけ光が差し込んだような言葉だった。
(……春樹は、私と過ごす時間を大切にしてくれてる。それだけでも十分嬉しいのに、もっと特別な意味があったらいいなって思っちゃうんだよね)
雫は頬へ手を当て、小さく息を吐いた。
昔から春樹は、本のことになると夢中になる。
好きな作品を見つければ、時間を忘れて読みふけるし、面白い場面があれば誰かに話したくなる。
そんな春樹が、自分との会話を楽しみにしてくれている。
それは雫にとって、何より嬉しいことだった。
けれど、同時に少しだけ不安もある。
春樹は誰に対しても優しい。
白石先輩とも楽しそうに本の話をするし、九条さんの真面目なところを尊敬している。生徒会長の一ノ瀬先輩とも自然に話せるようになっているし、一年生の小日向さんや新海さんにも丁寧に接している。
雫は、そんな春樹の優しさが好きだった。
それでも、ときどき自分だけを見てほしいと思ってしまう。
(……こんなこと考えるなんて、ちょっと欲張りかな)
雫は机の上に置いた短編集へ目を向けた。
昨日、春樹は今度自分のおすすめを考えてくれると言っていた。
あのときの春樹は、いつも以上に真剣だった。
雫がどんな本を好きなのか考えながら選びたいと話してくれたことが、何より嬉しかった。
自分のために一冊を選んでくれる。
それだけで、胸が温かくなる。
雫は本を閉じ、窓の外へ目を向けた。
今日はよく晴れている。
秋の空は高く、風に揺れる木々の葉が陽光を受けて輝いていた。
こんな日は、春樹と一緒に散歩をしたら楽しそうだ。
そう思ったところで、雫はふと机の引き出しへ視線を落とした。
そこには、まだ春樹へ薦めていない幼馴染の恋愛小説がしまってある。
夕暮れの住宅街を並んで歩く二人が表紙に描かれた作品だ。
四季の短編集を貸すとき、最後まで迷ったもう一冊。
雫は引き出しを開け、そっと本を取り出した。
表紙の二人は、どこか自分たちに似ている。
けれど、物語の中の二人は、互いの気持ちに少しずつ気づいていく。
春樹がこの本を読んだら、どんな感想を持つだろう。
主人公の鈍さに呆れるだろうか。
ヒロインの気持ちを応援してくれるだろうか。
それとも、幼馴染同士の恋愛なんて、自分たちには関係のない話だと思うのだろうか。
そこまで考えたところで、雫は本を胸元へ引き寄せた。
(……いつか、読んでほしいな。でも、今はまだ、もう少しだけ勇気が必要かもしれない)
雫は本を引き出しへ戻し、春樹から借りた短編集をもう一度開いた。
ページの向こうには、何気ない日常を大切にする登場人物たちがいる。
雫はその言葉を追いながら、昨日の帰り道で春樹と交わした約束を思い出していた。
◇◇◇
昼前になり、俺はようやく本棚の前から離れることにした。
ずっと同じ場所で悩んでいても、答えが出るとは限らない。
それなら、少し外を歩きながら考えてみよう。
そう思って身支度を整え、財布とスマートフォンを持って家を出た。
向かったのは、駅へ続く商店街だった。
今日は新しい本を買うつもりではないが、書店の棚を眺めているうちに、何か思いつくかもしれない。
休日の商店街には、買い物を楽しむ家族連れや、友人同士で歩く学生の姿があった。店先からは焼きたてのパンの香りが漂い、少し離れたところでは、店員が季節の商品を並べながら通りかかる客へ声をかけている。
俺は人の流れに合わせて歩きながら、途中の書店へ入った。
入口近くには新刊の文庫本が並び、奥の棚には恋愛小説や日常ものが分けて置かれている。
普段なら、まず新刊の棚から確認するところだ。
けれど今日は、気づけば恋愛小説の棚へ足を向けていた。
(……雫に薦めるなら、恋愛小説もいいよな。あの四季の短編集にも、恋愛に近い気持ちが描かれてるところがあったし)
俺は背表紙を眺めながら、いくつかの作品を手に取った。
高校生同士の恋愛を描いたもの。
社会人になって再会した二人の物語。
昔から隣にいた相手の気持ちを、少しずつ知っていく話。
どれも面白そうだったが、今の俺が雫に薦めたいのは、まだ読んでいない新刊ではない。
自分が好きなところをきちんと伝えられる作品だ。
そう考えると、やはり家にある本の中から選ぶ方がよさそうだった。
俺は棚から離れ、店内の奥へ進んだ。
そこで、少し意外な人物と顔を合わせた。
「……七瀬君?」
声のした方を見ると、九条凛が文具コーナーの近くに立っていた。
今日は制服ではなく、落ち着いた色の上着に長めのスカートを合わせている。普段のきりっとした印象はそのままだが、私服姿を見るのは少し新鮮だった。
「九条さん。こんにちは。こんなところで会うなんて偶然だね」
「こんにちは。私も驚いたわ。七瀬君は、また本を探しているの?」
「うん。でも今日は買うというより、誰かに薦める本を考えていて。いろんな棚を見てたら、何か思いつくかなと思ったんだ」
九条さんは少しだけ首を傾げた。
「誰かに薦める本?」
「雫にね。昨日、雫から借りた本の感想を話して、それで今度は俺のおすすめも聞いてみたいって言ってくれたんだ」
そう説明すると、九条さんは一瞬だけ目を伏せた。
けれど、すぐに顔を上げ、落ち着いた声で答える。
「……そうなのね。西条さんなら、七瀬君が選んだ本をきっと喜んでくれると思うわ」
「そうだといいんだけど。せっかくだから、ちゃんと考えて選びたくてさ」
九条さんは俺の言葉を聞き、少し考え込んだ。
「それなら、相手に合う本を探すだけじゃなくて、自分がどうしてその本を好きなのか、説明できる作品を選ぶのがいいんじゃないかしら」
「……あ、それは俺も考えてたところなんだ」
俺が答えると、九条さんは小さく微笑んだ。
「七瀬君なら、きっとそう考えると思ったわ。本のことになると、いつも真剣だもの」
「はは。そこは自覚があるかな」
俺は少し照れくさくなりながら笑った。
九条さんは文具コーナーの棚へ目を向け、手に持っていた小さなメモ帳を見せてくれた。
「私は、委員会で使うメモ帳を探していたの。まだ決まっていないことが多いから、確認した内容を整理しやすいものが欲しくて」
「歩き読書の注意表示の件?」
「それもあるわ。設置する場所や文面について、先生方と確認しなければならないことが残っているから。図書室の近くでは、注意するだけでなく、読書を楽しむ気持ちも大切にしたいと思っているの」
九条さんの言葉に、俺は頷いた。
以前、歩きながら本を読んでいた俺を注意してくれたとき、彼女はとても真剣だった。
あのときは少し驚いたが、今では九条さんの言っていたことがよく分かる。
「俺も、あれから気をつけてるよ。最近は歩きながら本を読むこともなくなったし」
「ええ、知っているわ。七瀬君がちゃんと気をつけてくれているのは、私も嬉しいもの」
九条さんはそう言って微笑んだ。
その表情がいつもより柔らかく見えて、俺は少し意外に思う。
「……九条さんって、笑うと雰囲気が変わるよね」
「え?」
「いや、普段は真面目な印象が強いけど、こうして話してると優しいところがよく分かるなって」
九条さんは一瞬、言葉を失ったように俺を見つめた。
それから、わずかに頬を赤くして視線を逸らす。
「……七瀬君は、そういうことを何気なく言うのね」
「そういうこと?」
「……何でもないわ。褒めてくれたことは、ありがとう」
九条さんは小さく咳払いをして、メモ帳を持ち直した。
俺は首を傾げたものの、彼女が困っている様子ではなかったため、それ以上は尋ねなかった。
「じゃあ、俺はもう少し棚を見てから帰るよ。九条さんも買い物、楽しんでね」
「ええ。七瀬君も、いい本が見つかるといいわね」
九条さんはそう言って微笑み、文具コーナーへ戻っていった。
俺は彼女の後ろ姿を見送りながら、改めて考えた。
誰かに本を薦めるとき、自分がどうしてその本を好きなのかを伝える。
それは、昨日雫が教えてくれたことでもある。
(……やっぱり、家にある本をもう一度読み返してみようかな。好きだったところをちゃんと確かめてから選びたい)
俺は書店を出て、商店街をゆっくり歩き始めた。
◇◇◇
そのころ、高坂悠斗は映画館の入口近くで、何度目か分からない時刻の確認をしていた。
約束の時間には、まだ余裕がある。
それなのに、待ち合わせ場所へ着いてからというもの、周囲を見回してはスマートフォンを確認し、また顔を上げることを繰り返していた。
(……落ち着け、俺。別に初めて話す相手じゃないだろ。学校でも普通に話してるんだから、今日だって普通にすればいいんだ)
そう考えてみても、胸の落ち着かなさはなかなか消えない。
赤木紗弥とは、以前にも展示会と喫茶店へ一緒に出かけたことがある。
あの日は楽しかった。
紗弥も楽しそうにしてくれていたし、帰り道にはまた何か一緒に見に行けたらいいと話した。
それでも、今回の映画は少し違う。
自分から誘った。
そして、紗弥は嬉しそうに応じてくれた。
そのことを思い出すだけで、悠斗は顔が熱くなるのを感じていた。
「……高坂君!」
聞き慣れた声に顔を上げると、少し離れたところから紗弥が歩いてきた。
休日らしい柔らかな色合いの服を着ており、学校で見るときとは少し雰囲気が違う。
悠斗は思わず見とれてしまったが、紗弥が目の前まで来たところで慌てて背筋を伸ばした。
「お、おはよう……じゃないな。こんにちは、赤木さん」
紗弥は楽しそうに笑った。
「こんにちは。高坂君、早かったんだね。待たせちゃった?」
「いや、全然。俺がちょっと早く来ただけだから」
「そっか。よかった。私も楽しみで、少し早く家を出ちゃったんだ」
紗弥はそう言って、映画館の入口へ目を向けた。
「今日の映画、昨日の夜に予告編をもう一度見たんだけど、やっぱり面白そうだね」
「俺も見たよ。あの監督、何気ない会話の中に後から意味が分かる台詞を入れるのが上手いんだ。今回もそういうところがありそうでさ」
悠斗が話し始めると、紗弥は興味深そうに頷いた。
「そうなんだ。じゃあ、台詞にも注目して見てみようかな。私、映像の雰囲気ばっかり気にしてたから」
「いや、映像もすごくいいと思う。前に一緒に見た展示でも、紗弥は色の使い方とか構図に気づいてたし、そういう見方も面白いと思うんだ」
紗弥は少し驚いたように悠斗を見た。
「……高坂君、私がそんな話したの、覚えててくれたんだね」
「もちろん。あの日、紗弥が楽しそうに話してたからさ」
悠斗はそこまで言ってから、自分の言葉に気づいた。
紗弥は少し頬を赤くして、嬉しそうに微笑んでいる。
「……ありがとう。私も、高坂君が好きなところを聞くの、楽しかったよ」
その言葉に、悠斗の胸の奥が温かくなった。
映画が始まるまでには、まだ少し時間がある。
二人は入口近くの案内表示を確認し、上映前に飲み物を買っておくことにした。
歩き始めたとき、紗弥がふと悠斗の隣へ並ぶ。
「ねえ、高坂君。今日、誘ってくれてありがとう」
悠斗は思わず彼女を見た。
「……いや、こちらこそ。来てくれて嬉しいよ」
紗弥は照れくさそうに笑い、映画館の奥へ目を向けた。
「私も、今日はすごく楽しみにしてたんだ」
悠斗はその横顔を見ながら、今朝までの緊張が少しずつ別の気持ちへ変わっていくのを感じていた。
まだ、何か特別なことが起こったわけではない。
けれど、好きな相手と同じ映画を楽しみにして、隣を歩いている。
それだけで、今日という日が大切な思い出になりそうな気がした。
◇◇◇
商店街から帰宅した俺は、昼食を済ませてから再び自室へ戻った。
書店で九条さんと話したことで、少しだけ考えが整理できた気がする。
雫に薦める本は、必ずしも新しい作品である必要はない。
むしろ、俺自身が何度も読み返したくなるような本の方が、好きなところをきちんと伝えられるかもしれない。
俺は机の上に並べた三冊を眺め、最初に手に取った喫茶店の小説を開いた。
物語の冒頭では、主人公が知らない町へ引っ越してきたばかりで、まだ周囲の人々との距離を測りかねている。
慣れない道を歩き、偶然見つけた喫茶店へ入る。
最初はただ休憩するために立ち寄った場所だった。
けれど、店主や常連客と何度も顔を合わせるうちに、主人公は少しずつ自分の居場所を見つけていく。
俺はページをめくりながら、以前読んだときとは違うところに目が留まっていることに気づいた。
初めて読んだときは、主人公が新しい町へ馴染んでいく過程が面白かった。
けれど今は、登場人物たちが何気ない言葉を交わす場面に、以前より強く惹かれる。
誰かがいつもの席へ座る。
店主が何も言わずに好みの飲み物を用意する。
常連客が、相手の様子がいつもと違うことに気づく。
それだけの出来事なのに、そこには長い時間をかけて築かれた関係がある。
(……雫が薦めてくれた短編集を読んだからかな。こういう場面のよさが、前より分かる気がする)
俺はページを閉じ、少し考えた。
昨日、雫は言っていた。
大切なことは、言葉にしないと伝わらないこともある。
この物語では、登場人物たちが言葉にしなくても相手を気遣う場面が多い。
けれど、最後にはきちんと言葉を交わす。
自分にとって、その場所がどれほど大切だったのか。
そこで出会った人たちが、どれほど支えになっていたのか。
その場面が、俺は好きだった。
俺は読書ノートを開き、作品の題名を書いてから、気に入ったところを短くまとめた。
『何気ない会話を重ねるうちに、知らない場所が大切な居場所へ変わっていくところが好き。相手を気遣う行動だけでなく、最後に気持ちを言葉にする場面が印象に残る』
書き終えてから読み返すと、少しだけしっくりきた。
これなら、雫にも自分の好きなところを説明できそうだ。
ただ、まだ決めるには早い。
俺は別の本も読み返してみることにした。
幼馴染同士の恋愛小説を開くと、今度は主人公がヒロインの変化に気づき始める場面が目に入った。
昔は何でも知っていると思っていた相手。
けれど、高校生になった今、知らない表情や考え方が増えている。
主人公はその変化に戸惑いながらも、少しずつ相手を知ろうとする。
俺はその場面を読みながら、昨日の雫との会話を思い出した。
雫も、昔から一緒にいる。
けれど、今の雫が何を考え、どんなものを大切にしているのか、俺はまだ全部知っているわけではない。
それは当然のことだ。
人は成長するし、好きなものも変わる。
昔から知っているからといって、今の相手のことまで全部分かっているとは限らない。
(……そう考えると、この主人公の気持ちも少し分かるな。相手のことを知ってるつもりで、実は知らないことがたくさんあるんだ)
俺はページをめくりながら、物語の続きを追った。
主人公は、ヒロインの何気ない言葉に心を動かされるようになっていく。
最初はその理由が分からない。
けれど、彼女が別の男子と楽しそうに話している姿を見たとき、胸の奥が落ち着かなくなる。
そこでようやく、自分の気持ちに気づき始める。
俺は思わず本を閉じた。
「……いや、そこまで来たら、もう好きってことじゃない?」
誰もいない部屋で呟いてから、少し笑ってしまった。
恋愛小説を読んでいると、主人公の気持ちが読者にはよく分かることがある。
けれど、当人にとっては簡単ではないのだろう。
自分の感情に名前をつけることは、案外難しいのかもしれない。
俺は本を机へ置き、窓の外を眺めた。
午後の光が少し傾き始めている。
気づけば、かなり長い時間を本と向き合っていた。
それでも、退屈するどころか、まだ読みたい気持ちが残っている。
俺は小さく笑い、椅子から立ち上がって背伸びをした。
「……やっぱり、本って面白いな」
好きな作品を読み返すと、以前とは違う発見がある。
誰かに薦めようと考えることで、自分がその本を好きな理由まで見えてくる。
それは、今まであまり意識していなかった楽しみ方だった。
◇◇◇
夕方になり、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、悠斗からメッセージが届いている。
『映画終わった。めちゃくちゃよかった』
俺は思わず笑顔になった。
『お疲れさま。楽しめたみたいでよかったね』
すぐに返信が来る。
『映画もよかったけど、紗弥と感想話せたのがすごく楽しかった。今、帰り道』
俺は画面を見ながら、悠斗の嬉しそうな顔を想像した。
昨日まであんなに緊張していたのだから、今日の時間が楽しかったなら何よりだ。
『それはよかったね。どんな話したの?』
『映像の色の使い方とか、登場人物の台詞とか。俺が気づかなかったところを紗弥が見つけててさ。逆に俺が気づいたところも面白いって言ってくれた』
その内容を読んで、俺は少し驚いた。
まるで、昨日の俺と雫のようだ。
同じ作品を見ても、感じることは人によって違う。
だからこそ、感想を話し合う時間が楽しい。
『いいね。俺も昨日、雫と本の感想を話してて同じこと思ったよ』
そう返信すると、少し間が空いた。
『……お前、ほんとにそういうところだよな』
俺は首を傾げた。
『どういうところ?』
『いや、何でもない。とりあえず今日はありがとな。朝、話聞いてくれて助かった』
『どういたしまして。また学校で話聞かせてね』
それからしばらくして、悠斗から短い返事が届いた。
『おう。月曜に話す』
俺はスマートフォンを置き、机の上に並べた本へ目を向けた。
悠斗も、赤木さんと同じ作品について話す時間を楽しめたらしい。
それが何だか嬉しかった。
好きな作品を誰かと共有すること。
相手が自分とは違うところに気づいてくれること。
その楽しさは、恋愛小説でも映画でも、きっと同じなのだろう。
俺は読書ノートを開き、今日読み返した作品について書き足した。
喫茶店の物語。
幼馴染同士の恋愛小説。
家族の思い出を辿る物語。
どれも好きな作品だが、雫へ薦める一冊としては、まだ迷いが残っている。
ただ、朝とは少し違う。
何を基準に選びたいのか、自分の中で少しずつはっきりしてきた。
俺は本棚を眺めながら、もう一度考えた。
(……雫が読んでくれたあと、どんな感想を話してくれるのか。それを楽しみにできる本がいいな)
そう思ったところで、ふとスマートフォンが再び震えた。
今度は雫からだった。
『春樹、今日は何してた? 私は家で本を読んでたよ』
俺は自然に笑顔になり、返信を打ち始めた。
『俺も本を読んでたよ。雫に薦める本を考えて、いろいろ読み返してたんだ』
送信すると、少しして返事が届いた。
『えっ、もう考えてくれてるの? 嬉しいな。でも、急がなくていいからね』
『うん。せっかくだから、ちゃんと選びたいんだ。今のところ候補がいくつかあるよ』
『そうなんだ。どんな本なのか気になるけど、春樹が選んでくれるまで楽しみにしておこうかな』
俺はその言葉を読んで、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
雫は、俺が選ぶ本を楽しみにしてくれている。
それだけで、今日一日悩んでいた時間が無駄ではなかったように思えた。
『ありがとう。決まったらちゃんと伝えるね』
そう送ると、雫から可愛らしい笑顔のスタンプが届いた。
俺はしばらく画面を眺めてから、スマートフォンを机へ置いた。
◇◇◇
夜、夕食と入浴を済ませた俺は、もう一度机へ向かった。
今日は結局、雫へ薦める一冊を決められなかった。
けれど、不思議と焦りはない。
むしろ、選ぶ時間そのものが楽しくなっている。
俺は喫茶店の小説を手に取り、表紙を眺めた。
この本を読んだら、雫はどんなところを好きになるだろう。
登場人物たちの何気ない会話を楽しんでくれるだろうか。
最後に主人公が自分の気持ちを言葉にする場面で、何かを感じてくれるだろうか。
そんなことを考えていると、自然に昨日の帰り道が思い出された。
公園のベンチで、雫が四季の短編集を大切そうに抱えていた姿。
俺の感想を聞いて、嬉しそうに微笑んでくれたこと。
そして、これからも一緒に本の話をしようと約束したこと。
(……雫って、本当に本が好きなんだな。いや、もちろん前から知ってたけど、昨日はそれがいつも以上に伝わってきた気がする)
俺は椅子へ深く座り直した。
昔から一緒にいる相手だからこそ、知っているつもりになっていたことがあるのかもしれない。
けれど、今の雫をもっと知りたいと思う気持ちは、以前より強くなっている。
それは、きっといいことだ。
俺は本を開き、もう一度お気に入りの場面を読み返した。
物語の中では、主人公が長く通い続けた喫茶店で、いつもの席に座っている。
窓の外には、見慣れた町の景色が広がっている。
主人公は、その景色を眺めながら、自分にとって大切な場所ができたことを静かに実感する。
俺はその場面を読みながら、少しだけ考えた。
自分にとって大切な場所は、どこだろう。
図書室。
本屋。
自分の部屋。
もちろん、どれも好きな場所だ。
けれど、最近は場所そのものだけでなく、そこで誰と過ごしたのかも大切になっている気がする。
雫と一緒に歩いた帰り道。
白石先輩と本の話をした図書室。
悠斗とくだらない話をしながら過ごした教室。
九条さんに注意されてから、歩き読書をやめるようになった廊下。
どれも、そこに誰かがいたからこそ思い出に残っている。
俺は本を閉じ、机の上へ置いた。
「……そっか」
小さく呟いてから、読書ノートを開く。
そこへ、今日考えたことを一行だけ書き足した。
『好きな場所は、そこで過ごした人との時間も含めて大切になる』
書き終えた文字を眺めながら、俺は少し笑った。
雫へ薦める一冊は、まだ決まっていない。
けれど、候補は少しずつ絞れてきた。
今度は、自分が好きな本を通して、雫とどんな話ができるのか考えてみよう。
そう思いながら、俺は本棚へ視線を向けた。
窓の外には静かな夜が広がり、部屋の明かりが机の上の本を柔らかく照らしている。
明日は日曜日。
まだ読みたい本も、読み返したい本もある。
そして、雫に薦める一冊を選ぶ楽しみも残っている。
俺は机の上に並べた本を丁寧に重ね直し、最後に喫茶店の小説だけを手元へ残した。
今夜はもう少し、この物語を読んでみよう。
雫に薦めるかどうかは、読み終えてから考えればいい。
そう思ってページを開いたとき、昨日の公園で見た雫の笑顔が、また自然に浮かんできた。
(……あれ? 俺、今日何回雫のこと考えたんだろう)
少し不思議に思いながらも、俺はその理由を深く追いかけなかった。
今はただ、好きな本を読みたい。
そして、いつかこの本について雫と話せたら、きっと楽しいだろう。
そんなことを考えながら、俺は静かな夜の中でページをめくり続けた。




