第76話 本の感想を伝えたいだけなのに、どうして幼馴染と過ごす帰り道がこんなに特別なんだ?
金曜日の朝、目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました俺は、枕元に置いていたスマートフォンで時刻を確認した。普段ならもう少し布団の温かさを楽しんでいるところだが、今日は不思議と眠気が残っておらず、カーテンの隙間から差し込む朝の光を眺めながら、昨夜読み終えた一冊のことを考えていた。
机の上には、西条雫から借りた四季の短編集が置いてある。春から冬へと季節を巡る四つの物語は、どれも穏やかな日常を描いているのに、読み終わってからも登場人物たちの言葉や表情が心に残り、何気ない生活の中で大切にしたいものを改めて考えさせてくれる作品だった。
(……雫が薦めてくれた理由、昨日より少し分かった気がするな。特別な事件が起こらなくても、誰かと一緒に過ごした時間そのものが、あとから大切な思い出になるんだ)
昨夜、雫には読み終えたことをメッセージで伝えている。彼女はとても喜んでくれて、今日の帰り道に直接感想を話す約束もしたのだが、改めて考えると、俺はまだ雫自身がこの本のどこを一番好きなのか、詳しく聞いていなかった。
秋の物語については、昔の思い出だけでなく、これからの時間を大切にしようとするところが好きだと話してくれた。けれど、春の出会いも、夏の再会も、冬の友人同士のつながりも、雫にとってはそれぞれ違う意味を持っているのかもしれない。
俺は机へ向かい、昨日書いた読書ノートを開いた。冬の物語についての感想を読み返し、四つの話を通して感じたことを数行だけ書き足してから、借りた本の表紙に傷がついていないか確かめる。
いつも使っているブックカバーを外すと、落ち着いた色合いの表紙が現れた。四季の風景を小さく描いたその装丁を眺めていると、月曜日に雫から本を受け取ったときのことまで自然と思い出される。
あのときの雫は、俺が本を受け取る様子をどこか緊張したように見つめていた。
(……自分の好きな本を貸すって、やっぱり少し勇気がいることなんだろうな。俺も雫に何か薦めるときは、もっと相手のことを考えて選んでみよう)
そう思いながら本を鞄へしまい、俺は制服に着替えるため立ち上がった。
◇◇◇
いつもの待ち合わせ場所へ向かうと、雫は住宅街の角にある街路樹のそばで待っていた。昨日より少し厚い雲が空を覆っているものの、雨が降る気配はなく、朝の風が彼女の髪を柔らかく揺らしている。
「おはよう、雫。今日は俺の方が早いと思ったんだけど、もう来てたんだね」
「おはよう、春樹。私も今来たところだよ。今日はいつもより早く準備が終わったから、少しだけ先に出てきたの」
雫はそう答えて微笑んだが、俺の顔を見たあと、何かを確かめるように鞄へ視線を落とした。その仕草を見て、俺は昨夜の約束を思い出し、肩に掛けていた鞄の位置を直す。
「借りた本、ちゃんと持ってきたよ。帰りに感想を話してから返そうと思ってるんだけど、それで大丈夫?」
「うん、もちろん。急いで返さなくてもよかったんだけど、春樹が最後まで読んでくれたなら、私もいろいろ聞いてみたいな」
「俺も雫に聞きたいことがあるんだ。四つの話の中で、どれが一番印象に残ってるのかなって」
雫は少し驚いたように瞬きをして、それから嬉しそうに目を細めた。
「……それは、帰り道までのお楽しみにしてもいい?」
「もちろん。じゃあ、今日はそれを楽しみに授業を頑張ろうかな」
「ふふ、本の話をするために授業を頑張るなんて、春樹らしいね」
雫の笑い声が朝の静かな通りに広がり、俺たちは並んで学校へ向かった。歩道には昨夜の風で落ちた葉が散らばっており、踏まないように歩いているつもりでも、時折靴の下で乾いた音がする。
しばらく歩いたところで、雫が道路の向こうにある小さな公園へ目を向けた。
「ねえ、春樹。あの公園、覚えてる?」
「もちろん。小さいころ、よく遊んだところだよね。あそこのベンチで本を読んでたこともあったな」
「そうそう。春樹が持ってきた本を読んでいる間、私は落ち葉を集めたり、木の実を探したりしてたんだよ」
俺は公園を眺めながら、昔の記憶を探した。遊具の配置は当時と少し変わっているが、入口の大きな木だけは覚えている姿に近く、雫と一緒に歩いた砂利道の感触まで何となく思い出せる。
「……そういえば、雫が集めた木の実を俺に見せてくれたことがあったよね。確か、形が変わってるやつを見つけたって」
「覚えてるの?」
「うん。細かいことは忘れちゃったけど、雫がすごく嬉しそうだったのは覚えてる」
雫は歩きながら俺を見上げ、少しだけ頬を緩めた。
「……そっか。春樹、そういうことは覚えててくれるんだね」
「全部覚えていられたらいいんだけどね。昨日も話したけど、雫が覚えてる昔のこと、またいろいろ聞かせてほしいな」
「うん。私も、春樹と昔の話をするのは好きだよ」
雫はそう言って前を向いたが、その横顔には、嬉しさと少しだけ別の感情が混じっているように見えた。俺にはそれが何なのか分からなかったものの、無理に尋ねる必要はない気がして、彼女と歩幅を合わせながら学校へ向かう。
校門が見えてくるころには、通学する生徒たちの声が周囲に増えていた。雫は知り合いの女子生徒に挨拶を返し、俺も同じクラスの男子に軽く手を上げる。
何でもない金曜日の朝だった。
それなのに、今日の帰り道に雫と本の話をすることを考えると、いつもより少しだけ一日が楽しみに感じられた。
◇◇◇
教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席でスマートフォンを見つめていた。昨日も似たような姿を見た気がするが、今日は画面を確認するたびに表情が変わっていて、何かを待っているようにも見える。
「おはよう、悠斗。昨日の映画の話、どうなった?」
俺が声をかけると、悠斗は慌ててスマートフォンを伏せた。隠す必要があるものでも見ていたのかと思ったが、彼はすぐに苦笑しながら顔を上げる。
「おはよう。いや、それがさ、紗弥から昨日の夜に連絡が来て、週末の予定を確認してくれたんだよ」
「へえ。それなら、映画に行けそうなの?」
「今のところはな。ただ、どの回にするかまだ決めてなくて、上映時間を見ながら相談してるところなんだ」
悠斗は少し照れくさそうに笑い、机の上に置いていた映画の紹介記事を俺へ見せてくれた。そこには、以前二人が話していた監督の新作について書かれており、物語の舞台や登場人物の簡単な紹介が載っている。
「昨日、紗弥がこの作品のことを調べてくれたみたいでさ。俺が好きそうなところまで見つけてくれたんだよ。そういうのって、やっぱり嬉しいよな」
「うん。自分の好きなものに興味を持ってもらえるのは嬉しいよね。俺も雫に本を薦めてもらったばかりだから、何となく分かる気がする」
俺がそう答えると、悠斗は記事から顔を上げ、何とも言えない表情でこちらを見た。
「……お前さ、そういうところはちゃんと分かってるんだよな」
「そういうところ?」
「いや、何でもない。とにかく、今回は俺もちゃんと楽しんでこようと思ってる。紗弥が好きなところも聞きたいし、俺ばっかり映画の話をするのも違うだろ?」
悠斗の言葉に、俺は素直に感心した。好きな作品について話すとき、つい自分の感想ばかり伝えたくなることはあるが、相手がどう感じたのかを聞くのも同じくらい楽しい。
「それ、いいと思うよ。映画を見たあとに感想を話すのって、きっと楽しいだろうし」
「だよな。……まあ、まずはちゃんと予定を決めないと始まらないんだけどさ」
悠斗が笑ったところで、教室の入口から赤木紗弥さんが入ってきた。彼女は俺たちに気づくと軽く手を振り、鞄を自分の席へ置いてからこちらへ歩いてくる。
「おはよう、高坂君、七瀬君。高坂君、昨日送ってくれた上映時間、見たよ。私、土曜日の午後なら大丈夫そうなんだけど、どうかな?」
赤木さんの言葉を聞いた悠斗は、一瞬だけ背筋を伸ばした。けれど、すぐに普段の表情へ戻り、スマートフォンを手に取る。
「俺も午後なら空いてるよ。まだ席の状況までは見てないから、休み時間に一緒に確認してもいい?」
「うん。私も、どの席が見やすいのかよく分からないから、相談できたら嬉しいな」
二人は自然に顔を見合わせ、楽しそうに笑った。俺はその様子を見ながら、昨日まで誘うことを迷っていた悠斗が、今日はちゃんと赤木さんと予定を相談できていることに安心する。
赤木さんが自分の席へ戻ったあと、悠斗は机に片肘をつき、小さく息を吐いた。
「……春樹、俺、今ちょっと緊張してる」
「そうなの? 普通に話せてたと思うけど」
「普通に見えてたならよかったよ。頭の中では、変なこと言ってないかずっと気になってたんだからな」
悠斗は苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。俺は彼の表情を見て、好きな人と一緒に出かける約束というのは、こんなにも緊張するものなのかと考える。
(……俺だったら、好きな本を一緒に探しに行く約束をするのと似た感じなのかな。でも、悠斗の場合は赤木さんのことが好きだから、もっと特別なんだろうな)
そこまで考えたところで、ふと雫の顔が浮かんだ。
雫とはこれまで何度も本屋へ行ったし、喫茶店で話したこともある。最近では一緒に出かける予定を考えることも増えているが、俺は悠斗ほど緊張したことがあっただろうか。
少なくとも、雫と過ごす時間は自然で、落ち着く。
ただ、最近は彼女が嬉しそうに笑うと、こちらまで妙に嬉しくなることがある。
俺はその違いについて考えかけたが、始業前の予鈴が鳴ったため、いったん思考を切り上げて自分の席へ戻った。
◇◇◇
午前中の授業が終わり、昼休みになると、俺は図書室へ向かった。今日は新しい本を借りるつもりではなく、昨日話題に出た読書週間の企画について、白石先輩に何か進展があったか聞いてみようと思ったのだ。
廊下には弁当を持って移動する生徒や、友人同士で話しながら歩く生徒が行き交っている。図書室の前まで来ると、扉の向こうから紙をめくる音が聞こえ、いつもの落ち着いた空気が感じられた。
中へ入ると、白石先輩は貸出カウンターの奥で書類を整理していた。俺に気づいた彼女は顔を上げ、柔らかく微笑む。
「こんにちは、七瀬君。今日は何か探しに来たの?」
「こんにちは、白石先輩。今日は本を借りるというより、読書週間の企画がどうなってるのかなと思って」
「ちょうどよかったわ。まだ正式な決定ではないんだけど、昨日までに集まった意見を整理していたところなの」
先輩は机の上に置かれた数枚の用紙を示した。そこには紹介カードの形式や、利用者からおすすめ本を募る場合の記入項目について、いくつかの案が書かれている。
「七瀬君が前に話してくれた『本のタイトル、読んだときの気分、薦めたい理由』という形も候補に入れてあるの。理由を書く欄は、長い文章が苦手な人でも参加しやすいように、短くても大丈夫だと分かる案内を付けた方がいいかもしれないわね」
「それなら、参加しやすそうですね。昨日、小日向さんと新海さんも、もし正式に募集が始まったらおすすめを考えたいって言ってました」
先輩は驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「一年生の二人も興味を持ってくれているのね。まだ決まっていない企画なのに、そうやって考えてくれる人がいるのはありがたいわ」
「二人とも、自分の好きな本を紹介したいみたいです。正式なお知らせが出るまでは候補を考えるだけにしておくって話してました」
「ええ、それでお願いしたいわ。実施する場合も、用紙を置く場所や回収方法、紹介文を掲示するときの確認など、決めなければならないことがあるから」
先輩はそう説明しながら、用紙の端に小さく印を付けた。俺は書類を覗き込み、思っていた以上に細かな準備が必要なのだと気づく。
単純におすすめ本を集めるだけなら、紙と箱を用意すればいいようにも思える。けれど、実際に図書室で企画として行うなら、誰が内容を確認するのか、紹介された本が図書室にあるのか、掲示する場所をどうするのかといった問題もあるのだろう。
「……こうして見ると、一つの企画を実施するのって大変なんですね」
「そうね。でも、だからこそ、みんなで考えるのが楽しいのよ。七瀬君みたいに本が好きな人の意見も、普段はあまり図書室へ来ない人の意見も、できるだけ大切にしたいと思っているわ」
先輩は書類を揃えながら、少しだけ視線を落とした。
「ただ、全部を一度に実現しようとすると、かえって中途半端になってしまうこともあるから。まずはできることを確かめて、無理のない形を考えたいの」
俺は頷いた。
最近は読書週間の話をする機会が増え、いろいろな案が出ている。けれど、まだ正式に決まっていないことまで、すでに実施されるものとして考えてしまうのはよくない。
「俺も、できることがあれば手伝います。でも、まずは先輩たちが決めることですよね」
「ありがとう。そう言ってもらえるだけでも心強いわ」
先輩は穏やかに笑ったあと、ふと俺の鞄へ目を向けた。
「そういえば、昨日話してくれた西条さんの短編集は、最後まで読めたの?」
「はい。昨日の夜に冬の話も読み終えました。今日の帰り道に、雫と直接感想を話す約束をしてるんです」
そう答えると、先輩は一瞬だけ目を伏せた。
けれど、すぐに顔を上げ、いつもの優しい表情に戻る。
「……そうなのね。きっと西条さんも楽しみにしているでしょうね」
「はい。俺も、雫がどの話を一番好きなのか聞いてみようと思ってます」
「ふふ。いいわね。好きな本について、相手とゆっくり話せる時間って、とても大切だと思うわ」
先輩の声は穏やかだったが、最後の言葉には少しだけ名残惜しそうな響きがあった。俺はその理由を深く考えず、以前先輩と本屋へ行ったときのことを思い出す。
「先輩とも、また本の話をしたいです。前に一緒に本屋へ行ったとき、俺が知らない作品をいろいろ教えてもらえて楽しかったので」
先輩は少し驚いたように俺を見た。
「……七瀬君、あの日のこと、そんなふうに思ってくれていたの?」
「もちろんです。先輩と話してると、同じ本でも違う見方ができるので、すごく面白いんです」
先輩は何かを言いかけたが、すぐには言葉にしなかった。代わりに、手元の書類を丁寧に揃え、少し照れくさそうに微笑む。
「……ありがとう。私も、七瀬君と本の話をする時間が好きよ」
その言葉が嬉しくて、俺も自然に笑顔になった。
昼休みの終わりが近づいていたため、俺は先輩に挨拶をして図書室をあとにした。廊下へ出ると、窓から差し込む光が少し明るくなっており、朝の雲が薄くなっていることに気づく。
(……今日は、いろんな人と本の話ができてるな。雫との帰り道も楽しみだし、いい金曜日になりそうだ)
俺はそう思いながら、教室へ戻った。
◇◇◇
放課後、最後の授業が終わると、教室には週末を前にした少し浮き立った空気が広がっていた。部活動へ向かう生徒たちが慌ただしく荷物をまとめる一方で、帰宅する生徒たちは友人同士で週末の予定を話し合っている。
俺が教科書を鞄へしまっていると、悠斗が隣へやってきた。
「春樹、ちょっと聞いてくれ。映画の予定、だいたい決まった」
「本当? よかったね」
「ああ。土曜日の午後の回にしようって話になってさ。まだ細かい待ち合わせ場所は相談中だけど、紗弥も楽しみにしてくれてるみたいなんだ」
悠斗はそう言って笑ったが、いつもより少しだけ落ち着かない様子だった。俺はその表情を見て、彼がどれほど今回の外出を楽しみにしているのか、何となく伝わってくる気がした。
「悠斗、きっと楽しいと思うよ。赤木さんもその監督の作品に興味があるんだし、見終わったあともいろいろ話せそうだね」
「そうだな。……でも、俺ばっかり緊張してるのも変だよな。せっかく一緒に行けるんだから、ちゃんと楽しんでこないと」
「うん。映画そのものを楽しむのも大事だと思う」
俺がそう答えると、悠斗は少し肩の力を抜いた。
「ありがとな、春樹。お前に話してると、何か落ち着くんだよ」
「そう? 俺は普通に話してるだけだけど」
「だからいいんだって。変にからかったりしないしさ」
悠斗はそう言って俺の肩を軽く叩き、自分の鞄を持ち上げた。
「じゃあ、俺は先に帰るわ。お前も雫と帰るんだろ?」
「うん。今日は本の感想を話す約束をしてるから」
「……そっか。まあ、お前も楽しんでこいよ」
悠斗は何か言いたそうに笑ったが、それ以上は口にせず、教室を出ていった。
俺が首を傾げていると、少し離れたところから雫が歩いてきた。
「春樹、準備できた?」
「うん。ちょうど終わったところ。雫も大丈夫?」
「もちろん。今日は寄り道しないで帰る?」
「そうだね。……でも、もし雫がよければ、途中の公園で少し座って話さない? せっかくだから、落ち着いて感想を伝えたいんだ」
雫は目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「……うん。私も、そうしたいな」
俺たちは並んで教室を出た。
廊下の窓からは午後の光が差し込み、床に細長い影を落としている。階段を下りる途中、雫はいつもより少し静かだったが、表情は明るく、時折俺の方を見ては小さく微笑んでいた。
◇◇◇
学校を出てしばらく歩いたところにある公園は、住宅街の中にひっそりと佇んでいた。大きな遊具があるわけではないが、木々に囲まれた小さな広場と、通路沿いに並ぶベンチがあり、近所の人たちが散歩の途中に立ち寄る場所になっている。
今日は平日の夕方ということもあって、公園には小さな子どもを連れた親子が数組いるだけだった。遠くではブランコの鎖が揺れる音が聞こえ、木の枝の間から差し込む光が地面にまだらな模様を作っている。
「ここ、久しぶりに来たね」
雫がそう言いながら、通路の脇にあるベンチへ目を向けた。
「そうだね。朝も昔の公園の話をしたけど、こうして見ると、この辺りにも思い出の場所が結構あるんだな」
「うん。春樹と一緒に歩いた場所って、意外と多いんだよ」
雫は少し照れくさそうに笑い、ベンチの端へ腰を下ろした。俺も隣に座ったが、鞄を間に置くほど離れる必要もないと思い、少しだけ間隔を空けて腰掛ける。
木々の間を抜ける風は、朝よりも柔らかかった。遠くで子どもたちが笑う声を聞きながら、俺は鞄を開き、雫から借りた短編集を取り出す。
「まずは、これ。最後まで読ませてもらってありがとう。すごく面白かったよ」
俺が本を差し出すと、雫は両手で受け取った。表紙を見つめる彼女の指先は、まるで大切なものを確かめるようにゆっくり動いている。
「……こちらこそ、読んでくれてありがとう。春樹が楽しんでくれたなら、貸してよかった」
「本当にそう思うよ。最初は四季を題材にした短編集って聞いて、どんな話なのか想像できなかったんだけど、読み終わったら全部つながってるように感じたんだ」
雫は顔を上げ、興味深そうに俺を見た。
「つながってるって、どういうところ?」
「登場人物も場所も違うんだけど、どの話も誰かとの関係を大切にしようとしてるところかな。春は新しい出会いで、夏は久しぶりの再会。秋は昔から続いてる関係を見つめ直して、冬は離れていてもつながっていられるっていう話だったでしょ?」
俺は読み終えたばかりの物語を思い返しながら、ゆっくり言葉を選んだ。雫は途中で口を挟まず、時折頷きながら聞いてくれている。
「それぞれ違う季節の話なのに、読み終わると、人と一緒に過ごす時間っていろんな形があるんだなって思えたんだ。毎日会ってる相手も、久しぶりに会う相手も、離れて暮らしてる相手も、それぞれ大切にできるんだなって」
雫はしばらく黙っていた。
風が吹くと、彼女の髪が頬にかかり、雫はそれを指先で耳へ掛ける。夕方の柔らかな光を受けた横顔は、いつもより少し大人びて見えた。
「……春樹、そんなふうに読んでくれたんだね」
「うん。雫はどうだった? 前に秋の話が好きだって言ってたけど、やっぱり一番好きなのは秋?」
俺が尋ねると、雫は本の表紙を見つめながら、少し考え込んだ。
「……一番を決めるのは難しいかな。秋のお話は、確かにすごく好きなんだけど、冬のお話も大切なんだ」
「冬の話も?」
「うん。離れて暮らすようになった友達と、昔の喫茶店をきっかけにまたつながるところが好きなの。会えなくなっても、同じ思い出を覚えてるって、すごく素敵だと思うから」
雫の声は穏やかだったが、その言葉には何か大切なものを抱えているような響きがあった。
俺は彼女の話を聞きながら、冬の物語の最後の場面を思い出した。
主人公が久しぶりに友人へ連絡を送り、相手も同じ喫茶店を覚えていたことを知る場面。あのとき、主人公は一人で過ごしていた冬の時間が、少しだけ温かくなったように感じていた。
「……あそこ、俺も好きだったよ。連絡するまでずっと迷ってたのに、返事が来たら相手も同じことを考えてたって分かるんだよね」
「そうなの。お互いに大切に思ってるのに、言葉にしないと分からないことってあるんだなって」
雫はそこまで話したあと、少しだけ視線を落とした。
俺は彼女の言葉を考えながら、ベンチの前に広がる公園を眺める。
(……言葉にしないと分からないこと、か。確かに、思ってるだけじゃ伝わらないこともあるんだろうな)
俺は本の感想を伝えるとき、できるだけ自分の言葉で話そうとしている。けれど、それ以外の気持ちについては、わざわざ言葉にすることが少ないかもしれない。
雫と一緒にいると落ち着くこと。
昔の話を聞くのが楽しいこと。
彼女が嬉しそうに笑ってくれると、自分まで嬉しくなること。
どれも当たり前のように感じていたが、言葉にしなければ雫には伝わらないのだろうか。
「……雫」
「なあに?」
「俺、雫と本の話をする時間、すごく好きだよ」
雫の肩が、わずかに揺れた。
俺はその反応に気づきながらも、言葉を続ける。
「もちろん、一人で本を読むのも好きなんだけど、雫と話してると、自分では気づかなかったところに気づけるんだ。今回の短編集も、雫が薦めてくれなかったら出会えなかったと思うし」
雫は俺を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
その頬が少しずつ赤くなっていくのを見て、俺は首を傾げる。
「……雫?」
「……ううん。何でもない」
雫は小さく首を振り、胸元に抱えた本へ視線を落とした。
「……私も、春樹と本の話をする時間が好きだよ。春樹がどんなところを好きになるのか、いつも楽しみなの」
その声は少しだけ震えていたが、彼女の表情はとても嬉しそうだった。
俺はその笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「そっか。じゃあ、これからもいろんな本の話をしようね」
「……うん。約束だよ」
雫はそう言って、柔らかく微笑んだ。
俺も頷き、彼女と並んで公園の景色を眺めた。
◇◇◇
西条雫は、隣に座る春樹の横顔を見つめながら、胸の奥に広がる温かさをどう扱えばいいのか分からずにいた。
春樹はいつも優しい。
誰に対しても誠実で、相手の好きなものを大切にしようとする。
だから、今の言葉も、きっと春樹にとっては自然な気持ちなのだろう。
それでも、雫には特別だった。
(……春樹が、私と過ごす時間を好きだって言ってくれた)
その言葉を思い返すだけで、胸が少し苦しくなる。
昔から一緒にいた幼馴染。
何度も同じ道を歩き、同じ景色を見てきた相手。
けれど、雫にとって春樹は、ただ昔から知っているだけの男の子ではなかった。
いつの間にか、彼の笑顔を見ることが嬉しくなっていた。
他の女の子と楽しそうに話している姿を見ると、少しだけ胸が痛むこともあった。
そして、春樹が自分へ向けてくれる何気ない優しさに、何度も救われてきた。
雫は膝の上に置いた短編集へ目を落とした。
この本を春樹へ貸すと決めたとき、少しだけ期待していた。
自分が大切にしている物語を、春樹も好きになってくれたらいい。
できれば、そこに描かれた人とのつながりについて、一緒に考えてみたい。
そんな小さな願いだった。
けれど、春樹は雫が想像していた以上に丁寧に読んでくれた。
四つの物語を通して感じたことを、自分の言葉で伝えてくれた。
そして、雫と本の話をする時間が好きだと言ってくれた。
(……嬉しいな。こんなに嬉しいなんて、思わなかった)
雫はそっと息を吐いた。
今すぐ自分の気持ちを伝えたら、春樹はどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。
困らせてしまうだろうか。
それとも、いつものように優しく笑ってくれるのだろうか。
考え始めると、胸の奥が落ち着かなくなる。
雫はまだ、その答えを確かめる勇気を持てずにいた。
けれど、以前より少しだけ、自分の気持ちを言葉にしたいと思うようになっている。
春樹が昔の思い出を聞きたいと言ってくれたことも、その気持ちを後押ししていた。
幼いころ、丘の上で交わした約束。
春樹はまだ、そのことを思い出していない。
雫はその約束を大切にしているが、今の春樹へ無理に思い出してほしいとは思っていなかった。
昔の約束だけで、自分を好きになってほしいわけではない。
今の自分を見て、今の気持ちを知って、それでも一緒にいたいと思ってもらえたら嬉しい。
雫はそう願っていた。
「……雫、寒くない?」
春樹の声に、雫は顔を上げた。
彼は少し心配そうにこちらを見ている。
「え? ううん、大丈夫だよ。どうして?」
「さっきから少し静かだったから。風も出てきたし、そろそろ帰った方がいいかなって」
雫は春樹の気遣いに、思わず微笑んだ。
「……ありがとう。もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「もちろん。俺も、まだ話したいことがあるし」
春樹はそう答えて、ベンチへ座り直した。
雫はその横顔を見ながら、胸の奥に広がる温かさを大切に抱えた。
◇◇◇
俺は雫の隣で、もう一度四季の短編集について考えていた。
春の物語では、初めて出会った二人が少しずつ距離を縮めていく。
夏の物語では、久しぶりに再会した相手の変化に気づく。
秋の物語では、昔から一緒にいた二人が、これからの時間を大切にしようとする。
そして冬の物語では、離れていても続いていく関係が描かれている。
どの話にも共通しているのは、相手を知ろうとする気持ちなのかもしれない。
「雫、もう一つ聞いてもいい?」
「うん。何でも聞いて」
「この本を俺に薦めようと思ったのって、どうしてだったの?」
雫は少し驚いたように目を見開いた。
俺は慌てて言葉を付け足す。
「あ、もちろん、好きな本だからっていうだけでも十分なんだけど。前に二冊の間で迷ってたって言ってたでしょ? だから、最後にこの本を選んだ理由が気になって」
雫は膝の上の本を見つめ、少し考えてから口を開いた。
「……最初はね、春樹がどんな本を好きかなって考えてたの。春樹は恋愛小説も好きだし、日常のお話も好きだから、どっちを薦めようか迷ってたんだ」
「うん。そうだったね」
「でも、いろいろ考えてるうちに、私が本当に好きなところを、春樹にも知ってほしいなって思ったの」
雫は本の表紙を指先でなぞった。
「この本って、すごく大きな事件が起こるわけじゃないでしょ? でも、誰かと一緒に過ごす時間とか、何気ない言葉とか、そういうものがすごく大切に描かれてるの。私は、そこが好きなんだ」
俺は静かに頷いた。
雫の言葉は、俺が読み終えたあとに感じたこととよく似ていた。
「だから、春樹にも読んでほしかった。春樹がどんなふうに感じるのか、聞いてみたかったんだ」
雫はそこまで話すと、少し照れくさそうに笑った。
「……理由としては、それだけなんだけどね」
「それだけじゃないと思うよ」
俺が答えると、雫は顔を上げた。
「好きな本のどこが好きなのか、ちゃんと考えて薦めてくれたんでしょ? それって、すごく嬉しいことだと思う」
俺は雫の手元にある短編集へ目を向けた。
「雫がこの本を好きな理由を聞いて、俺ももう一度読みたくなったよ。今度読んだら、最初とは違うところが気になるかもしれないし」
雫はしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくり微笑む。
「……春樹って、やっぱり本が好きなんだね」
「うん。それは昔から変わらないかな」
「ふふ。知ってるよ」
雫は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺も自然に笑顔になる。
しばらくして、雫が少し遠慮がちに口を開いた。
「……ねえ、春樹。もしよかったら、今度は春樹のおすすめも聞いてみたいな」
「俺のおすすめ?」
「うん。春樹が今、私に読んでほしいと思う本。前に貸してくれた短編集も好きだったけど、また違う本も読んでみたいなって」
俺は少し考えた。
雫に薦めたい本は、いくつもある。
ただ、今すぐ一冊を選ぶとなると、意外と難しい。
雫が好きそうな作品を考えるだけでなく、自分が何を伝えたいのかも考えたくなる。
「……少し時間をもらってもいい?」
「もちろん。急いでないよ」
「ありがとう。せっかくだから、ちゃんと選びたいんだ。雫が好きそうな本もいいけど、俺が好きなところを話せる作品にしたいな」
雫は嬉しそうに頷いた。
「……楽しみにしてるね」
その言葉を聞いて、俺の胸の奥に小さな期待が生まれた。
雫がどんな本を好きなのか。
どんな場面で笑って、どんな言葉に心を動かされるのか。
まだ知らないことはたくさんある。
けれど、本を通して少しずつ知っていけるなら、それはきっと楽しいことだ。
◇◇◇
公園を出るころには、空の色が少しずつ夕方へ近づいていた。
住宅街の窓には明かりが灯り始め、どこかの家から夕食の準備をしているような匂いが漂ってくる。遠くで自転車のベルが鳴り、俺たちは道の端へ寄って通り過ぎるのを待った。
「今日は、たくさん話せたね」
雫がそう言いながら、隣を歩く俺を見上げた。
「うん。思ってた以上に話すことがあったよ。やっぱり、一冊の本についてじっくり話すのって楽しいね」
「私も。春樹がどんなところを好きになったのか聞けて、すごく嬉しかった」
雫はそう答え、少しだけ歩幅を緩めた。
俺も自然に速度を合わせる。
いつもの帰り道なのに、今日は公園で話したことが頭に残っていて、周囲の景色が少し違って見えた。
道端に咲いている小さな花。
風に揺れる街路樹。
遠くから聞こえる子どもたちの声。
どれも特別なものではない。
けれど、四季の短編集を読んだあとだからだろうか。
こうした何気ない景色も、誰かと一緒に見ていることで、あとから大切な思い出になるのかもしれないと思った。
「……雫」
「なあに?」
「今日の帰り道も、いつか思い出になるのかな」
雫は少し驚いたように俺を見た。
俺は自分でも少し照れくさくなり、笑いながら続ける。
「いや、さっきの本の話をしてたら、そんなことを考えちゃって。特別なことをしてなくても、あとから思い出すと大切な時間だったってこと、あるのかなって」
雫はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「……うん。きっと、そうだと思う」
彼女の声は、とても柔らかかった。
「私は、今日のことも覚えていたいな。春樹が私の好きな本を読んでくれて、一緒に感想を話してくれたこと」
俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
「……そっか。じゃあ、俺も覚えておきたいな」
雫は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見たとき、俺はふと不思議な気持ちになった。
雫が笑うところなんて、これまで何度も見てきた。
小さいころから一緒にいるのだから、今さら珍しいものではないはずだ。
それなのに、最近は彼女が嬉しそうに笑うと、少しだけ目を離しにくくなることがある。
(……何だろう。雫が喜んでくれるのが嬉しいのは分かるけど、今日はいつも以上に気になるな)
俺はその理由を考えかけたが、雫がこちらを見上げたため、自然に視線を戻した。
「春樹、どうかした?」
「ううん。何でもないよ。……ただ、今日は雫と話せてよかったなって思って」
雫は一瞬だけ目を見開き、それから少し頬を赤くした。
「……私もだよ」
その返事を聞いて、俺はまた胸の奥が温かくなるのを感じた。
◇◇◇
分かれ道へ着くころには、空の端が淡い橙色に染まり始めていた。
雫は立ち止まり、鞄の中にしまった短編集を確かめるように持ち手へ触れた。
「春樹、今日は本当にありがとう。こんなにたくさん感想を聞けると思ってなかったから、すごく嬉しかった」
「こちらこそ、いい本を貸してくれてありがとう。雫が薦めてくれたから読めたんだし、また一つ好きな本が増えたよ」
雫は嬉しそうに微笑んだ。
「……また、何かおすすめしたくなっちゃうね」
「ぜひお願いしたいな。雫のおすすめなら、きっと面白いと思うし」
俺がそう答えると、雫は少しだけ照れくさそうに視線を落とした。
「……うん。じゃあ、また考えておくね」
俺たちはいつものように挨拶を交わし、それぞれの家へ向かうことにした。
雫が数歩進んだところで、ふと振り返る。
「春樹!」
俺も足を止めて振り返った。
「どうしたの?」
雫は少しだけ迷ったように唇を結んだが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……今日、すごく楽しかった。また来週も、一緒に帰ろうね」
「もちろん。俺も楽しかったよ」
俺が答えると、雫は安心したように笑い、今度こそ家へ向かって歩き始めた。
俺はその後ろ姿を少しだけ見送ってから、自分の家へ向かった。
夕方の風は少し冷たかったが、不思議と寒さは気にならなかった。
◇◇◇
夜、自室へ戻った俺は、机の上に積んである本を眺めていた。
雫から借りた四季の短編集は、今日返した。
代わりに、俺の中には新しい楽しみができている。
今度は、俺が雫へ本を薦める番だ。
机の上には、大学で再会した幼馴染の恋愛小説や、日常の小さな謎を描いた短編集が置かれている。どちらも気になる作品だが、まだ最後まで読んでいない本を、今すぐ雫へ薦めるのは少し違う気がした。
(……雫が好きそうな本を選ぶのもいいけど、俺が本当に好きな作品を薦めたいな。雫が今回そうしてくれたみたいに)
俺は本棚へ目を向けた。
これまで読んできた本の中には、雫と一緒に話したいと思う作品がいくつもある。
ただ、どれを選ぶか考えていると、自然に雫の表情が浮かんでくる。
この場面を読んだら、雫はどんな感想を持つだろう。
この登場人物の言葉を、雫はどう受け止めるだろう。
そんなことを考えながら本を選ぶ時間が、思っていた以上に楽しかった。
俺は一冊の文庫本を手に取り、表紙を眺めた。
以前読んだ、静かな町を舞台にした物語だ。
登場人物たちが少しずつ互いを理解していく話で、派手な事件は起こらないものの、読み終えたあとに温かい気持ちになったことを覚えている。
雫が好きそうな作品ではある。
けれど、まだ決めるには早い。
俺はその本をいったん机へ置き、ほかの候補も見比べることにした。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
明日は土曜日。
学校は休みだが、読みたい本はいくつもある。
そして、雫へ薦める一冊を考える楽しみも増えた。
(……本を読むのって、やっぱり楽しいな。でも、最近は誰かと本の話をする時間も、同じくらい好きになってる気がする)
俺は今日の帰り道を思い出した。
公園のベンチで、雫と並んで話した時間。
彼女が好きな物語について語るときの表情。
俺の感想を聞いて、嬉しそうに微笑んでくれたこと。
どれも、何でもない日常の一場面だった。
けれど、今夜の俺には、その一つ一つが不思議と鮮やかに思い出された。
俺は本棚へ戻すつもりだった文庫本を、もう一度手に取った。
雫に薦めるかどうかは、まだ分からない。
それでも、彼女のことを考えながら本を選ぶ時間は、きっとこれからも続いていくのだろう。
そう思いながら、俺は静かにページを開いた。




