第75話 本を読み終えた感想を伝えたいだけなのに、どうして幼馴染の笑顔がこんなに気になるんだ?
木曜日の朝、俺は目覚まし時計の音で目を覚ました。
窓の外は薄い雲に覆われていて、昨日までの柔らかな朝日とは少し違う、落ち着いた明るさが部屋に広がっている。布団から出ると足元に冷たい空気が流れ込み、秋が少しずつ深まっていることを実感した。
机の上には、雫から借りた四季の短編集が置いてある。
春、夏、秋と読み進め、残るのは冬の物語だけになった。昨夜は秋の物語を読み終えたあと、雫へ感想を送ったのだが、そのやり取りが思っていた以上に心に残っていた。
『雫とこれからもいろんな思い出を作れたらいいなって思った』
自分で送った言葉なのに、改めて思い返すと少し照れくさい。
別に、特別なことを言ったつもりはない。
雫とは小さいころから一緒にいるし、これからも仲よくしていたいと思っている。だから、その気持ちをそのまま伝えただけだった。
けれど、雫はとても喜んでくれた。
文章だけでも、彼女が嬉しそうにしている様子が何となく伝わってきた気がする。
(……雫にとっても、これからの時間って大切なんだな)
俺は短編集を手に取り、表紙を眺めた。
秋の物語に登場した二人は、昔の思い出を大切にしながら、今の関係を少しずつ見つめ直していた。
過去を覚えていることだけが大切なのではない。
これから何を一緒に経験していくのかも、同じくらい大切なのだ。
そんなことを考えさせられる物語だった。
俺は本を開きかけたが、時計を見て思いとどまった。
今から読み始めたら、朝食の時間を忘れてしまう可能性がある。九条さんに歩きながら本を読むなと何度も注意されている俺だが、最近は読む場所だけでなく、読む時間についても少しは考えるようになった。
(……冬の話は、帰ってから落ち着いて読もう)
俺は本を閉じ、鞄の中へ丁寧にしまった。
今日は放課後に特別な予定はない。
読書週間の準備についても、昨日の段階では図書委員会の正式な決定を待つことになっていた。
白石先輩から何か相談があれば協力するつもりだが、今のところ、俺が急いで進めなければならない作業はない。
だから今日は、学校から帰ったら冬の物語を読み、できれば一冊全体の感想をまとめたい。
そう考えながら制服へ着替え、俺は一階へ下りた。
◇◇◇
待ち合わせ場所へ向かう途中、街路樹の下に落ち葉が集まっているのが見えた。
昨日よりも少し増えている。
風が吹くたびに乾いた葉が歩道を滑り、靴の先に触れては離れていく。道路沿いの植え込みには朝露が残っていて、空気には土と草の匂いが混じっていた。
いつもなら気にせず通り過ぎる景色だったが、今朝は何となく足を緩めた。
雫から借りた短編集の影響だろうか。
最近は、季節の変化を以前よりも意識するようになっている。
「春樹、おはよう」
声のした方を見ると、雫が待ち合わせ場所に立っていた。
今日は薄手の上着を羽織り、鞄を両手で持っている。俺に気づいた彼女は、いつものように柔らかく微笑んだ。
「おはよう、雫。今日は少し曇ってるね」
「うん。でも、雨は降らないみたい。昨日より少し肌寒いけど、歩いてるとちょうどいいかもしれないね」
「そうだね。朝は布団から出るのがちょっと大変だったよ」
俺が苦笑すると、雫も小さく笑った。
「春樹、寒くなると本を読みながら布団に戻りたくなるもんね」
「……よく知ってるね」
「昔からだよ。冬休みに遊びに行ったときも、春樹が本を持ってこたつから出てこなかったこと、あったでしょ?」
俺は少し考えてから、思わず笑った。
「ああ、あったね。雫に外で遊ぼうって誘われたのに、あと一章だけって言い続けてたやつ」
「そうそう。結局、その一章がなかなか終わらなくて」
「……あれは反省してる」
俺がそう言うと、雫は楽しそうに笑った。
昔のことを話していると、忘れていた記憶が少しずつ浮かんでくる。
こたつの温かさ。
読みかけだった冒険小説。
窓の向こうに見えていた冬の空。
そして、本を閉じるまで隣で待っていてくれた雫の姿。
細かな会話までは覚えていないけれど、あのときの雰囲気は何となく思い出せた。
「……雫、あのとき結構待ってくれてたんだよね」
「うん。でも、春樹が本当に楽しそうだったから、怒る気にはならなかったよ」
「それでも、待たせちゃったのは悪かったな」
「ふふ。今はちゃんと本を閉じて、一緒に歩いてくれるから大丈夫」
雫はそう言って、俺の隣へ並んだ。
俺たちは学校へ向かって歩き始めた。
しばらくすると、雫が少し遠慮がちに口を開いた。
「……ねえ、春樹。昨日の秋のお話なんだけど」
「うん。すごくよかったよ。雫が好きだって言ってたの、何となく分かった気がする」
「本当?」
「うん。昔のことを覚えてるかどうかだけじゃなくて、これから一緒に過ごす時間を大切にしようとするところが好きだった」
雫は俺の言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「……私も、そこが好きなんだ」
その声は穏やかだった。
けれど、いつもより少しだけ感情がこもっているように聞こえた。
「主人公の女の子って、昔のことを忘れられて寂しかったんだよね。でも、相手を責めるんじゃなくて、今の二人で新しい思い出を作ろうとするでしょ?」
「うん。あそこがよかった。相手が覚えてないからって、昔の時間がなくなるわけじゃないし」
「……そうだね」
雫は小さく頷いた。
俺は昨日の帰り道を思い出した。
丘の上で一緒に見た景色。
雫が覚えている、俺の知らない細かな思い出。
彼女が何かを話そうとして、結局言葉にしなかったこと。
あのときは、無理に聞かない方がいいと思った。
今も、その考えは変わっていない。
「雫」
「なあに?」
「昔のこと、また今度いろいろ聞かせてほしいな。俺が忘れてることもあると思うけど、雫が覚えてる話なら聞いてみたい」
雫は足を止めかけた。
俺も歩幅を緩めると、彼女は驚いたように俺を見上げていた。
「……春樹から、聞きたいって言ってくれるの?」
「うん。昨日の本を読んで、そう思ったんだ。雫が覚えてることを聞いたら、俺も何か思い出せるかもしれないし」
雫はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、鞄の持ち手を握り直す。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「……うん。いつか、ちゃんと話すね」
「分かった。楽しみにしてる」
俺が頷くと、雫は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、俺も何となく安心した。
昔のことを思い出せないのは少し残念だ。
けれど、雫が話してくれるなら、きっと新しい発見があるだろう。
俺はそう考えながら、彼女と並んで学校へ向かった。
◇◇◇
教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席でスマートフォンを眺めていた。
何か面白いものでも見ているのかと思ったが、表情は妙に真剣だ。
「おはよう、悠斗。何見てるの?」
声をかけると、悠斗は少し驚いたように顔を上げた。
「お、おう。春樹か。おはよう」
「どうしたの? 何か調べ物?」
「いや、まあ……映画の上映時間を見てた」
俺は頷いた。
悠斗は映画が好きだ。
赤木さんとも映画の話をすることが多く、以前は二人で展示会へ出かけたこともある。
「何か気になる作品があるの?」
「あるにはあるんだけどさ。今週末から上映が始まるやつで、前に紗弥とも話してた監督の作品なんだよ」
「へえ。それなら赤木さんも興味ありそうだね」
俺がそう言うと、悠斗はスマートフォンを伏せた。
「……そこなんだよ」
「え?」
「いや、誘ってみようかなって思ってるんだけど、どういうタイミングで言えばいいか迷っててさ」
悠斗は少し照れくさそうに頭をかいた。
俺はその様子を見て、以前の会話を思い出した。
悠斗は赤木さんのことが好きだと、俺に打ち明けてくれている。
だから、映画へ誘うことにも、きっと普段とは違う緊張があるのだろう。
「普通に、映画の話をしてるときに誘ってみたら?」
「それができたら苦労しねえんだよ」
「そうなの?」
「そうなの。前に展示会へ行ったときも結構緊張したし、また誘うとなると、何か理由が必要かなって考えちゃうんだよな」
俺は少し考えた。
好きな映画を一緒に見たい。
その気持ちがあるなら、理由としては十分な気もする。
「……悠斗、その映画、赤木さんと一緒に見たいんだよね?」
「そりゃ、まあ……うん」
「だったら、そのまま伝えてもいいんじゃないかな。前に話してた監督の作品だから、一緒に見ないかって」
悠斗は俺を見つめた。
「お前、本当に簡単に言うよな」
「簡単じゃないの?」
「……お前の場合はな」
悠斗は深く息を吐いた。
俺は少し首を傾げたが、彼はそれ以上説明しなかった。
そのとき、教室の入口から赤木紗弥さんが入ってきた。
「おはよう、高坂君。七瀬君もおはよう」
「おはよう、赤木さん」
「お、おはよう、紗弥」
悠斗の返事が少しぎこちない。
赤木さんは不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑顔になった。
「高坂君、昨日の本、もう少し読み進めたよ。後半に入ってから雰囲気が変わってきて、すごく面白いね」
「本当? あそこから一気に話が動くんだよ」
悠斗の表情が明るくなった。
二人は自然に本の話を始めた。
俺はその様子を見ながら、やっぱり共通の好きなものがあると会話が弾むんだなと思った。
しばらくして、赤木さんが何かを思い出したように言った。
「そういえば、今週末からあの監督の新作が始まるんだよね」
悠斗の肩がわずかに動いた。
「あ、ああ。そうなんだよ。俺もさっき上映時間を見てた」
「私も気になってたんだ。前の作品と雰囲気が違うみたいだから、どんな感じなのかなって」
赤木さんは楽しそうに話している。
俺は悠斗へ視線を向けた。
彼は一瞬だけ俺を見たあと、何かを決めたように背筋を伸ばした。
「……なあ、紗弥」
「うん?」
「その映画、もし予定が合うなら、一緒に見に行かない?」
赤木さんは少し驚いたように目を見開いた。
けれど、すぐに嬉しそうに笑った。
「……いいの? 私も一緒に見たいなって思ってた」
悠斗の表情がぱっと明るくなった。
「本当? じゃあ、あとで上映時間とか調べてみようぜ」
「うん。まだ予定を確認してないから、今日帰ったら見てみるね」
「了解。俺も時間を調べておく」
二人は笑顔を交わした。
俺はその様子を見て、何だか嬉しくなった。
悠斗はずっと誘うタイミングを迷っていた。
でも、ちゃんと自分の言葉で誘えたのだ。
「よかったね、悠斗」
俺が小声で言うと、悠斗は少し赤くなった顔でこちらを見た。
「……お前、今それ言うなよ」
「え? 何で?」
「何でもねえよ。とにかく、ありがとな」
悠斗は照れくさそうに笑った。
俺は理由がよく分からないまま頷いた。
赤木さんも少し頬を赤くしていたが、表情はとても嬉しそうだった。
まだ予定が決まったわけではない。
けれど、二人にとって大切な一歩になったことは、何となく分かった。
◇◇◇
昼休み、俺は図書室へ向かった。
昨日、駅を舞台にした連作短編集を返却したので、今日は新しい本を探してみようと思っていた。
雫から借りている四季の短編集は、まだ最後まで読み終えていない。
家には読みかけの本もあるし、積んである本もある。
だから、今すぐ何かを借りる必要があるわけではない。
それでも、図書室の書架を眺める時間は好きだった。
図書室へ入ると、窓際の席では数人の生徒が静かに読書をしていた。
貸出カウンターには白石先輩がいて、書類を確認している。
俺に気づくと、先輩は柔らかく微笑んだ。
「こんにちは、七瀬君。今日は本を探しに来たの?」
「こんにちは、白石先輩。はい。少し書架を見ようと思って」
「そうなのね。昨日返してくれた短編集、感想を聞けて嬉しかったわ」
「俺も、先輩が好きなところを聞けてよかったです。読み終えたあとでも、別の見方ができるんだなって思いました」
先輩は嬉しそうに頷いた。
「本の感想って、そういうところが面白いわよね。同じ作品を読んでも、人によって心に残る場面が違うから」
「そうですね。最近、それをよく感じます」
俺が答えると、先輩は少し首を傾げた。
「何か、印象に残る本でも読んだの?」
「はい。今、雫から借りた短編集を読んでるんです。春夏秋冬の四つの物語が入っていて、昨日は秋の話を読み終えました」
「まあ、素敵ね。どんなお話なの?」
俺は簡単に内容を説明した。
昔から一緒にいる二人が、過去の思い出と今の関係を見つめ直す物語。
忘れてしまったことがあっても、これから新しい思い出を作れる。
そんなところが印象的だったと伝えると、先輩は静かに頷いた。
「……いいお話ね」
「はい。雫が特に好きだって言ってたんですけど、読んでみたら俺もすごく気に入りました」
先輩は少しだけ目を細めた。
「西条さんは、七瀬君にその本を読んでもらいたかったのね」
「そうみたいです。最初は二冊の間で迷ってたらしいんですけど、こっちを選んでくれました」
「……そう」
先輩は短く答えたあと、少しだけ視線を落とした。
何か考えているようだったので、俺は首を傾げた。
「先輩?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたの」
先輩はすぐに微笑んだ。
「自分の好きな本を誰かに薦めるのって、やっぱり少し勇気がいることなのねって」
「そうですね。赤木さんにも似たようなことを言われました」
「ふふ。七瀬君は、好きな本を薦めるとき、あまり迷わない方かしら?」
俺は少し考えた。
「……相手に合いそうかどうかは考えます。でも、好きな本について話すこと自体は楽しいので、あんまり緊張しないかもしれません」
先輩は穏やかに笑った。
「七瀬君らしいわね。でも、薦める相手が特別な人だったら、少し違うかもしれないわよ」
「特別な人、ですか?」
「ええ。相手にどう思われるか、いつも以上に気になってしまうこともあるでしょう?」
俺は少し考え込んだ。
確かに、相手によって本の選び方が変わることはある。
雫には雫が好きそうな本を薦めたいし、悠斗には映画が好きな彼に合いそうな作品を選びたい。
白石先輩には、先輩がまだ読んだことのない、少し意外な作品を紹介してみたい気もする。
「……なるほど。相手のことを考えるほど、迷うことは増えるかもしれませんね」
俺がそう答えると、先輩は少しだけ微笑みを深くした。
「ええ。そういうことだと思うわ」
その声は、どこか優しかった。
俺は先輩の言葉を考えながら、書架へ向かった。
◇◇◇
図書室の奥にある文学の棚を眺めていると、背後から控えめな声が聞こえた。
「……七瀬先輩」
振り返ると、小日向ひよりさんと新海真実さんが立っていた。
二人とも一年生で、最近は図書室で顔を合わせることが増えている。
「こんにちは、小日向さん、新海さん」
「こんにちは、先輩!」
「……こんにちは」
小日向さんは明るく挨拶し、新海さんは少し控えめに頭を下げた。
二人の手には、それぞれ文庫本があった。
「今日は二人で本を探しに来たの?」
俺が尋ねると、小日向さんは頷いた。
「はい! この前話してた、おすすめの本を考えてみようってことになって」
「おすすめの本?」
「読書週間の話です。まだ正式に募集するか決まってないって聞いてるんですけど、もしそういう機会があったら、私たちも紹介したいなって」
小日向さんは楽しそうに説明した。
新海さんも小さく頷く。
「……今読んでいる本以外にも、何かあるかなって思って」
「そっか。それはいいね」
俺は嬉しくなった。
白石先輩たちが考えている案は、まだ正式に決まっていない。
けれど、こうして興味を持ってくれる人がいるなら、実現したときにきっと楽しい企画になるだろう。
「二人は、どんな本を紹介したいと思ってるの?」
俺が尋ねると、小日向さんは手に持っていた文庫本を少し持ち上げた。
「私は、やっぱり今読んでる放送部のお話が気になってます。主人公が最初は全然うまくできないんですけど、周りの人に助けてもらいながら少しずつ頑張っていくところが好きで」
「うん。前にも話してくれたね」
「はい! でも、まだ最後まで読んでないので、ちゃんと読み終えてから決めようかなって」
俺は頷いた。
「それがいいと思う。最後まで読むと、最初とは違うところが好きになることもあるから」
小日向さんは嬉しそうに笑った。
「ですよね! だから、今は候補って感じです」
続いて、新海さんが口を開いた。
「……私は、文化祭のお話を紹介したい気持ちがあります」
「前に読んでるって言ってた本だね」
「はい。登場人物が、なかなか自分の気持ちを言葉にできなくて……でも、少しずつ周りの人に伝えようとするところが好きなんです」
新海さんは本の表紙を見つめながら、ゆっくり話した。
彼女は普段から控えめな印象がある。
だからこそ、自分の気持ちを伝えようとする登場人物に、何か重なるところがあるのかもしれない。
「……いいね。そういう話、俺も好きだよ」
俺がそう答えると、新海さんは少し驚いたように顔を上げた。
「本当ですか?」
「うん。言葉にするのって難しいこともあるけど、伝えようとする過程が丁寧に描かれてる作品は、読んでて応援したくなるから」
新海さんは小さく微笑んだ。
「……私も、そう思います」
その横で、小日向さんが楽しそうに頷いた。
「真実ちゃん、その本の話になると、いつもよりたくさん話してくれるんですよ!」
「……ひよりちゃん」
新海さんは少し頬を赤くした。
俺は二人のやり取りを見て、思わず笑った。
「それだけ好きな本なんだね」
新海さんは少し照れくさそうに頷いた。
俺は二人へ、読書週間のおすすめ募集はまだ正式に決まっていないことを改めて伝えた。
小日向さんも新海さんも、それは理解しているようだった。
「決まったら、ちゃんと教えてくださいね!」
「うん。俺も詳しいことが分かったら伝えるよ。ただ、正式なお知らせは図書委員会からになると思うけど」
「はい! それまでは、いろんな本を読んで考えてみます!」
小日向さんは元気よく答えた。
新海さんも静かに微笑んでいる。
二人と別れたあと、俺はしばらく書架の前に立っていた。
好きな本を誰かに薦めたい。
その気持ちは、学年が違っても同じなのだろう。
そして、何を薦めるか考える時間も、読書の楽しみの一つなのかもしれない。
俺はそんなことを思いながら、図書室をあとにした。
◇◇◇
午後の授業が終わり、放課後になった。
俺が教科書を鞄へしまっていると、雫が隣へやってきた。
「春樹、今日も一緒に帰れる?」
「うん。今日はまっすぐ帰るつもりだよ」
「そっか。じゃあ、一緒に帰ろう」
雫は嬉しそうに微笑んだ。
俺たちは教室を出て、昇降口へ向かった。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの姿があり、窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。
階段を下りている途中、雫が尋ねてきた。
「昼休み、図書室に行ってたんだよね?」
「うん。白石先輩と少し話して、そのあと小日向さんと新海さんにも会ったよ」
「そうなんだ。二人とも本を探してたの?」
「うん。読書週間でおすすめを集める案があるから、もし実施されたら紹介したい本を考えてるんだって」
雫は嬉しそうに頷いた。
「いいね。いろんな人のおすすめが集まったら、知らなかった本にも出会えそう」
「そうだね。まだ正式に決まってないけど、実現したら面白そうだよ」
俺たちは昇降口で靴を履き替え、校門へ向かった。
空には薄い雲が広がっていたが、雨が降る気配はない。
朝よりも少し暖かくなった風が、街路樹の葉を揺らしている。
しばらく歩いたところで、雫が少しだけ足を緩めた。
「……春樹」
「うん?」
「昨日の秋のお話、読んでくれてありがとう」
俺は少し驚いた。
「え? どうしてお礼?」
「だって、私が好きな本をちゃんと読んでくれて、感想も聞かせてくれたから」
雫は少し照れくさそうに笑った。
「それが、すごく嬉しかったの」
俺はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。
「……俺の方こそ、いい本を貸してくれてありがとう。雫が薦めてくれなかったら、たぶん自分では手に取らなかったと思うし」
「本当?」
「うん。四季を題材にした短編集って聞いたときは、どんな感じなのかなって思ったけど、読んでみたらすごく好きになった」
雫は嬉しそうに微笑んだ。
「……よかった」
その声は、とても柔らかかった。
俺たちはしばらく並んで歩いた。
いつもの通学路。
見慣れた住宅街。
何度も渡った交差点。
けれど、最近はこの時間が少しだけ特別に感じられることがある。
それは、雫と本の話をする時間が増えたからかもしれない。
「そういえば、春樹」
「うん?」
「冬のお話は、今日読む予定?」
「うん。帰ったら読もうと思ってる。最後の話だから、ちょっと楽しみなんだ」
「ふふ。冬のお話も、私は好きだよ」
「そうなんだ。どんなところが?」
俺が尋ねると、雫は少し考えてから微笑んだ。
「……読んでからのお楽しみ、かな」
「またそれ?」
「だって、先に言っちゃったらつまらないでしょ?」
雫は楽しそうに笑った。
俺もつられて笑う。
「確かに。じゃあ、ちゃんと読んでから感想を伝えるよ」
「うん。楽しみにしてる」
雫はそう答え、少しだけ視線を落とした。
その表情が、どこか嬉しそうだった。
俺は何となく、彼女がこの短編集を貸してくれたことを、改めてありがたいと思った。
◇◇◇
夕方、俺は自室の机へ向かい、雫から借りた短編集を開いた。
いよいよ最後の物語だ。
冬の話は、小さな喫茶店を舞台にしていた。
主人公は、毎年冬になるとその店を訪れる女性だった。
彼女は学生のころ、友人と一緒にその店へ通っていた。
温かい飲み物を飲みながら、学校のことや将来のことを話した。
けれど、卒業してからはそれぞれ違う道へ進み、以前のように会う機会が少なくなっていた。
それでも、冬になると自然にその店を思い出す。
そして、ある年の冬、主人公は久しぶりにその店を訪れる。
店内の雰囲気は少し変わっていた。
椅子の配置も、窓際の飾りも、以前とは違う。
けれど、温かい飲み物の香りや、窓から見える冬の景色は、昔のままだった。
主人公はその場所で、かつて一緒に過ごした時間を思い出す。
俺はページをめくりながら、静かに物語へ引き込まれていった。
春は出会い。
夏は再会。
秋は、昔から続いてきた関係を見つめ直す時間。
そして冬は、離れてしまった相手とのつながりを描いているらしい。
主人公は、友人と会えなくなったことを寂しく思っていた。
けれど、忙しさを理由に連絡を後回しにしているうちに、何を話せばいいのか分からなくなってしまった。
今さら連絡しても迷惑かもしれない。
相手はもう、自分とは違う生活を送っている。
そんな不安を抱えながら、主人公は喫茶店の窓際で一人、温かい飲み物を飲んでいた。
(……こういうの、分かる気がするな)
俺は少しだけページをめくる手を止めた。
仲のよかった相手でも、時間が経つと関係が変わることはある。
同じ学校に通っていても、クラスが違えば会う機会が減ることもあるし、卒業すればもっと難しくなるだろう。
だからこそ、今一緒に過ごせる時間を大切にしたい。
秋の物語で感じたことと、少しつながっている気がした。
俺は続きを読んだ。
物語の後半、主人公は思い切って友人へ連絡を送る。
長い文章ではなかった。
ただ、昔一緒に通っていた店へ来ていることと、懐かしくなったことを伝えるだけだった。
返事が来るかどうかも分からない。
それでも、何もしないまま時間が過ぎていくよりはいいと思ったのだ。
しばらくして、友人から返事が届く。
相手も同じ店のことを覚えていて、いつかまた一緒に行きたいと思っていた。
主人公はその言葉を読み、少しだけ涙ぐむ。
俺はその場面で、思わず小さく息を吐いた。
(……よかったな)
離れていても、同じ思い出を大切にしていることがある。
会えない時間があっても、関係がなくなるわけではない。
それは、とても優しい結末だと思った。
最後の場面では、主人公が店を出る前に、次の冬の予定を考えていた。
今度は一人ではなく、友人と一緒に来たい。
その願いが、静かな希望として描かれていた。
俺は最後のページを読み終え、ゆっくり本を閉じた。
◇◇◇
読み終えたあと、俺はしばらく机の上の本を眺めていた。
四つの季節。
四つの物語。
登場人物も舞台も違うのに、読み終えてみると、一冊全体が一つの大きな物語のように感じられた。
春は、新しい関係が始まること。
夏は、久しぶりに会った相手を改めて知ること。
秋は、昔の思い出と今の時間を大切にすること。
冬は、離れていても続いていく関係を信じること。
どの物語にも、人とのつながりを大切にしようとする気持ちが描かれていた。
俺はノートを開き、感想を書き始めた。
『冬の話。離れてしまった友人との関係を、もう一度つなごうとする物語。会えない時間があっても、思い出や気持ちがなくなるわけではないところがよかった』
そこまで書いてから、少し考えた。
この短編集を薦めてくれた雫は、どの物語を一番好きだと思っているのだろう。
秋の話が特に好きだとは言っていた。
けれど、他の物語にも、きっと雫なりの思い入れがあるはずだ。
俺は本の表紙を見つめた。
(……雫がこの本を選んでくれた理由、ちゃんと聞いてみたいな)
もちろん、好きな本を薦めるのに特別な理由が必要なわけではない。
ただ、今回は雫が二冊の間で迷っていたことを知っている。
そのうえで、この本を選んでくれた。
だから、どんなところが好きなのか、改めて聞いてみたくなった。
俺はスマートフォンを手に取った。
『雫、冬の話も読み終えたよ。これで全部読んだ』
送信すると、少しして返事が届いた。
『本当? 最後まで読んでくれてありがとう。どうだった?』
俺はノートを見ながら、感想を打ち始めた。
『すごくよかった。冬の話は、離れてても同じ思い出を大切にしてるところが好きだった。四つの話を全部読むと、人とのつながりが少しずつ違う形で描かれてるんだなって思ったよ』
少しして、雫から返事が届いた。
『……うん。私も、そこが好き』
そのあと、もう一通届く。
『春樹が最後まで楽しんでくれて、本当に嬉しい』
俺は自然に笑顔になった。
『こちらこそ、いい本を貸してくれてありがとう。今度、直接感想を話したいな』
送信すると、雫からすぐに返事が届いた。
『うん! 私も、春樹と話したい』
俺は少し驚いた。
文章からでも、雫が嬉しそうにしているのが伝わってくる。
『じゃあ、明日の帰り道にでも話そうか』
『うん。楽しみにしてるね』
俺はスマートフォンを置き、もう一度本の表紙を眺めた。
雫が薦めてくれた一冊。
読み始めたときには、こんなにいろいろ考えることになるとは思っていなかった。
ただ、四季を題材にした優しい短編集なのだろうと思っていた。
けれど、実際には、昔の思い出や今の関係、これからの時間について考えさせられる物語だった。
そして、不思議なことに、読み進めるたびに雫のことを思い出した。
昔から一緒にいる幼馴染。
いつも本の話を聞いてくれる相手。
最近は、彼女がどんな本を好きなのか、どんなところに心を動かされるのかを知ることが増えている。
(……雫のこと、まだまだ知らないことがあるんだな)
俺はそう思いながら、本を丁寧に閉じた。
◇◇◇
同じころ、西条雫は自室でスマートフォンを見つめていた。
春樹から届いた感想。
四つの物語を全部読み終えたこと。
人とのつながりが、季節ごとに違う形で描かれていると感じたこと。
そして、直接感想を話したいと言ってくれたこと。
その一つ一つが、雫には嬉しかった。
(……春樹、本当に丁寧に読んでくれたんだね)
雫はスマートフォンを胸元へ引き寄せ、小さく微笑んだ。
この本を春樹へ貸すと決めたとき、少しだけ不安があった。
自分が好きな物語を、春樹も好きになってくれるだろうか。
秋の話を読んだとき、何かを感じてくれるだろうか。
そんなことを考えていた。
けれど、春樹は一つ一つの物語を丁寧に読み、自分の言葉で感想を伝えてくれた。
しかも、秋の物語については、昔の思い出だけでなく、これからの時間を大切にしたいと話してくれた。
雫にとって、それは何より嬉しい言葉だった。
(……春樹は、私とこれからも一緒にいたいって思ってくれてる)
もちろん、それが恋愛感情なのかどうかは分からない。
春樹は昔から優しく、誰に対しても誠実だ。
自分だけが特別なのだと、簡単に思い込むことはできない。
それでも、雫は嬉しかった。
春樹が自分との時間を大切にしてくれている。
その事実だけでも、今は十分だった。
雫は机の上に置いてある、もう一冊の本へ目を向けた。
以前、春樹へ薦めようか迷っていた幼馴染の恋愛小説。
夕暮れの住宅街を二人で歩く表紙が印象的な作品だ。
この本には、幼いころから一緒にいた二人が、少しずつ相手への気持ちを自覚していく過程が描かれている。
雫はその物語も大好きだった。
けれど、春樹へ貸すには、まだ少し勇気が足りなかった。
あまりにも自分の気持ちと重なるところが多いからだ。
(……いつか、こっちも読んでもらえたらいいな)
雫は本の表紙へそっと触れた。
今すぐではなくてもいい。
春樹と本の話を重ねながら、少しずつ自分の気持ちを伝えられるようになりたい。
そう思った。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
明日も学校がある。
そして、春樹と一緒に帰る約束をした。
雫はそのことを思い出し、嬉しそうに微笑んだ。
◇◇◇
夜、俺は机の上の短編集を、もう一度手に取った。
読み終えた本をすぐに返すのは、少し名残惜しい。
けれど、雫から借りた大切な一冊だ。
明日、直接感想を話したあとで返そうと思った。
俺はしおりを挟み直し、表紙を丁寧に閉じた。
机の上には、まだ読みかけの本が何冊かある。
大学で再会した幼馴染の恋愛小説。
商店街を舞台にした日常小説。
まだ読み始めていない、日常の小さな謎を描いた短編集。
どれも、これから読むのが楽しみな作品だ。
俺はそれらを眺めながら、少しだけ笑った。
(……やっぱり、本がある生活っていいな)
面白い物語を読む時間。
誰かと感想を話す時間。
新しい本を探す時間。
どれも、俺にとって大切なものだ。
けれど、最近はそれだけではない。
雫と一緒に歩く時間。
悠斗と何でもない話をする時間。
白石先輩や九条さんと、図書室や読書週間のことを考える時間。
小日向さんや新海さんと、おすすめの本について話す時間。
そういう時間も、少しずつ大切になっている。
俺は机の明かりを消し、ベッドへ向かった。
明日は金曜日。
一週間も、もうすぐ終わる。
雫とは、帰り道で本の感想を話す約束をしている。
どんな話になるのか、今から少し楽しみだった。
(……雫、明日も喜んでくれるかな)
そんなことを考えながら、俺は目を閉じた。
四季の短編集を読み終えた今、俺の中には一つの思いが残っている。
誰かと過ごす時間は、当たり前のように見えて、実は少しずつ変わっていく。
だからこそ、その一つ一つを大切にしたい。
雫と一緒に歩く帰り道も、いつか振り返れば、大切な思い出になっているのかもしれない。
俺はそう思いながら、静かに眠りについた。




