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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第74話 幼馴染が好きだと言った秋の物語を読みたいだけなのに、どうして本の中の言葉がこんなに気になるんだ?


 水曜日の朝、俺は机の上に置いてある一冊の文庫本を眺めながら、昨日の夜に雫と交わしたメッセージを思い出していた。


 四季を題材にした連作短編集。月曜日に雫から借りたその本は、春と夏の物語を読み終え、次はいよいよ秋の物語へ進むところだった。


 春は、新しい場所で少しずつ人間関係を築いていく話だった。夏は、久しぶりに再会した幼馴染が、昔とは違う相手の一面を知っていく話。どちらも派手な事件が起こるわけではなかったが、読み終えたあとに登場人物たちの表情を思い返したくなるような、優しい余韻が残っていた。


 そして雫は、秋の物語について、特に感想を聞きたいと言っていた。


(……雫がそこまで気に入ってるなら、きっと何か印象的な場面があるんだろうな)


 俺は本を手に取って表紙を眺めた。四つの季節が一枚の風景につながっている装丁は、最初に見たときよりも意味深く感じられる。


 春と夏の物語に直接的なつながりはなかったものの、どちらも人との距離を描いていた。秋と冬にも同じような主題があるのだろうか。


 できれば今すぐ続きを読みたいところだったが、時計を見ると、そろそろ朝食を済ませなければならない時間だった。


 俺は名残惜しく思いながら本を鞄にしまい、制服の上着を羽織った。


 今日は水曜日。昼休みには図書室へ寄るつもりだが、昨日のように長く打ち合わせをする予定はない。白石先輩たちが読書週間の準備を進めているとはいえ、図書委員会で正式に決まっていないことも多く、俺にできるのは試作品について意見を出すことくらいだった。


 それでも、昨日は紹介カードの文字の大きさや展示場所について、実際に使う場面を想像しながら話すことができた。


 自分が好きな本を紹介するだけなら、感想を好きなように書けばいい。けれど、図書室を利用する人たちへ届けようと思うと、考えなければならないことが増える。


(……本を読むのも楽しいけど、誰かに読んでもらうために考えるのも面白いんだよな)


 そんなことを考えながら階段を下り、朝食を済ませた。


 家を出る前にスマートフォンを確認すると、雫からメッセージが届いていた。


『おはよう、春樹。今日は昨日より少し暖かいみたいだね』


『おはよう。そうなんだ。昨日は結構風が冷たかったから助かるな』


 返信すると、間を置かずに新しいメッセージが表示された。


『今日は秋のお話、読む予定?』


 俺は思わず笑った。


 昨日もその話をしたばかりなのに、雫は本当に感想を楽しみにしてくれているらしい。


『うん。学校から帰ったら読むつもり。雫が好きなところ、どんな場面なのか楽しみだよ』


 送信して少し待つと、返事が届いた。


『ふふ。あんまり期待しすぎないでね。でも、春樹がどう感じるのかは知りたいな』


『了解。読み終えたら伝えるよ』


 俺はスマートフォンをしまい、玄関へ向かった。


 朝の住宅街には、遠くから車の走る音が聞こえていた。昨日より風は穏やかで、街路樹の枝先に残る葉が、朝日に照らされて淡く色づいている。


 その景色を見て、俺は少しだけ足を緩めた。


 秋の物語を読む前から、何だか秋という季節そのものが気になり始めている。


 これも、雫から本を借りた影響なのかもしれなかった。


     ◇◇◇


 待ち合わせ場所へ着くと、雫は道沿いの植え込みのそばに立っていた。


 今日は薄手の上着を鞄に掛けていて、朝の光を受けた髪が柔らかく揺れている。俺の姿に気づくと、雫は小さく手を上げた。


「おはよう、春樹。今日は昨日より早かったね」


「おはよう。ちょっと早く準備が終わったんだ。雫こそ、いつも待たせちゃってない?」


「そんなことないよ。私も今来たところだから」


 雫はそう答えて微笑んだが、俺は少し首を傾げた。


 昔から待ち合わせをすると、雫は決まって俺より先に来ていることが多い。本人はいつも同じように答えるけれど、実際には少し早めに家を出ているのかもしれない。


「……今度は俺が先に来てみようかな」


「え?」


「いや、いつも雫に待ってもらってる気がするから。たまには俺が待ってる側になってもいいかなって」


 俺がそう言うと、雫は少し驚いたように瞬きをした。


 それから、口元を緩めながら首を横に振る。


「私は待ってる時間も嫌いじゃないよ。春樹が来るのを見つけると、今日も一緒に学校へ行けるんだなって思うから」


「そっか。でも、寒い日もあるし、無理はしないでね」


「うん。春樹もね」


 雫は嬉しそうに笑い、俺たちは並んで歩き始めた。


 通学路の途中には、小さな公園がある。以前はその横を通り過ぎるだけだったが、最近は木々の色や花壇の様子が少しずつ変わっていくことにも目が向くようになっていた。


 今朝は公園の入口近くに、黄色い落ち葉が何枚か集まっていた。


「昨日より葉っぱが増えてるね」


 雫がそう言ったので、俺も足元へ目を向けた。


「本当だ。まだ全部色づいてるわけじゃないのに、結構落ちるんだね」


「風が強かったからかな。もう少ししたら、この辺りもきれいな色になると思うよ」


 雫は公園の奥を眺めながら、少し楽しそうに続けた。


「秋って、同じ道でも日によって雰囲気が違うよね。葉っぱの色も変わるし、夕方になる時間も早くなるし」


「確かに。昨日も雫と帰ってるとき、いつもの道が少し違って見えたんだ」


 俺が何気なく答えると、雫は隣で小さく息を呑んだ。


「……昨日の帰り道?」


「うん。雫と話してたからかもしれないけど、普段は気にしない景色が結構目に入ったんだよね。ああいうの、読書してるときと似てる気がする」


 雫は少しだけ歩幅を緩めた。


「読書してるときと?」


「物語を読んでると、何でもない景色にも意味があるように感じることがあるだろ? 登場人物がどんな気持ちで見てるかによって、同じ場所でも印象が変わるから」


 俺はそう説明しながら、道路の向こうにある並木を眺めた。


「昨日の短編集を読んでから、そういうことを前より意識するようになったのかも」


 雫はすぐには答えなかった。


 隣を見ると、彼女はどこか嬉しそうで、それでいて少し困ったような表情をしていた。


「……春樹って、本当に本が好きだね」


「うん。それはもう、昔からだから」


「知ってる。小さいころから、好きな本の話になると止まらなかったもん」


 雫は懐かしそうに笑った。


 俺もつられて笑いながら、子どものころのことを思い返した。


 確かに、面白い本を見つけると、雫へ話したくなったことは何度もある。今ほどたくさんの本を読んでいたわけではないけれど、好きな物語を誰かに伝えたい気持ちは、あのころから変わっていないのだろう。


「そういえば、昔も雫に本の話ばっかりしてた気がするな」


「うん。私が読んでない本でも、春樹が楽しそうに話すから、つい最後まで聞いちゃってた」


「……それ、結構迷惑じゃなかった?」


 少し心配になって尋ねると、雫は驚いたように首を振った。


「全然。むしろ、私は好きだったよ。春樹がどんなところを面白いと思ったのか聞くの、楽しかったから」


 その言葉に、俺は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 自分が好きなことを話している時間を、相手も楽しんでくれていた。


 それは、思っていた以上に嬉しいことだった。


「……ありがとう、雫。今さらだけど、そう言ってもらえると嬉しいよ」


「ふふ。今さらじゃないよ。私も、春樹が本の話を聞いてくれるの、嬉しいから」


 雫はそう答え、前を向いた。


 俺たちは公園の横を通り過ぎ、学校へ向かう坂道を上っていった。


     ◇◇◇


 教室へ入ると、高坂悠斗が赤木紗弥さんと話していた。


 二人の机の間には一冊の文庫本が置かれている。昨日、悠斗が赤木さんへ貸したと話していた本だろう。


 俺が近づくと、悠斗がこちらへ気づいた。


「おう、春樹。おはよう。ちょうどいいところに来たな」


「おはよう。何かあった?」


「いや、紗弥がさ、昨日貸した本を結構読み進めてくれたんだよ。で、感想を聞いてたところ」


 悠斗は嬉しそうに説明した。


 赤木さんも俺へ笑顔を向ける。


「おはよう、七瀬君。高坂君が薦めてくれた本、思ってた以上に面白くて。昨日、つい夜更かししそうになっちゃった」


「おはよう、赤木さん。それはよかったね。気に入った本って、途中でやめるのが難しいよね」


「そうなの。ちょうど気になるところで区切りが来るから、あと少しだけって思っちゃって」


 赤木さんは楽しそうに話した。


 悠斗はその横で、何度も頷いている。


「分かるだろ? 俺も最初に読んだとき、そこから一気に進んだんだよ」


「うん。でも、続きは今日の夜にしようと思ってる。ちゃんと読み終わってから、高坂君と話したいし」


 赤木さんがそう言うと、悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……お、おう。もちろん。急がなくていいからな」


 その声が少し上ずっていたので、俺は不思議に思った。


 けれど、赤木さんは気にした様子もなく、文庫本を大切そうに鞄へしまっている。


 俺は二人を見ながら、好きな作品を共有できる相手がいるのはいいことだと思った。


「悠斗、よかったね。赤木さんが楽しんでくれて」


「……お前、そういうこと普通に言うよな」


「え? だって嬉しいことでしょ?」


「まあ、そりゃ嬉しいけどさ」


 悠斗は少し照れくさそうに笑い、赤木さんへ視線を向けた。


 赤木さんも頬を緩めていたが、俺と目が合うと、何だか意味ありげな表情になった。


「七瀬君も、最近は西条さんと本を貸し借りしてるんだよね?」


「うん。今は雫が好きな短編集を借りてるよ」


「そっか。好きな本を貸すのって、結構勇気がいるよね」


 赤木さんは少し考えるように言った。


 俺は首を傾げた。


「そうかな? 面白かったら、誰かに読んでもらいたくならない?」


「もちろん、そういう気持ちもあるんだけど……自分が大切にしてる作品ほど、相手にどう思われるか気になることもあるかな」


 その言葉に、俺は少し考え込んだ。


 確かに、自分が好きな本を薦めて、相手が楽しんでくれたら嬉しい。


 逆に、あまり合わなかったと言われれば、少し残念に思うこともあるだろう。


「……なるほど。そういう意味では、雫も感想を気にしてるのかもしれないね」


 俺がそう答えると、赤木さんは小さく笑った。


「うん。きっとそうだと思うよ」


 悠斗は隣で何か言いたそうにしていたが、結局、肩をすくめるだけだった。


 そのとき、雫が教室へ入ってきた。


 赤木さんは彼女へ視線を向け、柔らかく微笑んだ。


「西条さん、おはよう」


「おはよう、紗弥ちゃん。何の話をしてたの?」


「好きな本を貸すときって、ちょっと緊張するよねって話」


 赤木さんが答えると、雫は一瞬だけ俺を見た。


「……うん。そういうこと、あるかもしれないね」


 その声が少し控えめだったので、俺は昨日のメッセージを思い出した。


 雫は秋の物語の感想を、特に楽しみにしてくれている。


 だからこそ、いい加減な感想ではなく、自分が感じたことをちゃんと伝えたいと思った。


「雫、今日帰ったら秋の話を読むよ。昨日の夏の話もよかったし、楽しみにしてる」


 俺がそう言うと、雫は少し頬を赤くした。


「……うん。無理に急がなくていいからね」


「大丈夫。ちゃんと時間を取って読むつもりだから」


 雫は嬉しそうに微笑んだ。


 その横で、悠斗と赤木さんが顔を見合わせていたことには、俺は気づかなかった。


     ◇◇◇


 昼休み、俺は図書室へ向かった。


 昨日、白石先輩たちと紹介カードの配置について話したばかりなので、今日は借りている本の返却と、少しだけ書架を眺めるつもりだった。


 鞄には、以前学校の図書室から借りた、駅を舞台にした連作短編集が入っている。


 土曜日に読み終えてから、感想をノートへまとめていた一冊だ。


 借りたままにしておく理由もないので、今日返却することにした。


 図書室へ入ると、カウンターには白石先輩がいた。


 先輩は俺の姿に気づき、穏やかに微笑んだ。


「こんにちは、七瀬君。今日は返却かしら?」


「こんにちは、白石先輩。はい。前に薦めてもらった短編集、読み終えたので返しに来ました」


 俺が本を差し出すと、先輩は表紙を見て嬉しそうに目を細めた。


「最後まで読んでくれたのね。どうだった?」


「すごくよかったです。駅で出会う人たちの話が、別々に見えて少しずつつながっていくところが好きでした。特に、最初は何でもないように思えた会話が、あとから別の意味を持つところが印象的で」


 俺は読み終えたときに感じたことを、できるだけ自分の言葉で説明した。


 先輩は途中で口を挟まず、静かに聞いてくれている。


 俺が話し終えると、先輩は少し嬉しそうに笑った。


「……よかった。七瀬君なら、そういうところを楽しんでくれると思っていたの」


「先輩は、最初に読んだときからそこが好きだったんですか?」


「ええ。でも、私は登場人物たちが同じ場所を通り過ぎているのに、それぞれ違う時間を生きているところにも惹かれたわ」


 先輩は本の表紙へ目を落とした。


「駅って、誰にとっても通り道でしょう? でも、誰かにとっては別れの場所だったり、誰かにとっては新しい出会いの場所だったりする。同じ風景なのに、その人が抱えているものによって意味が変わるのが素敵だと思ったの」


 俺はその言葉を聞き、改めて物語の場面を思い返した。


 確かに、先輩の言うとおりだ。


 同じホーム、同じ改札、同じベンチ。


 それでも、そこに立つ人の気持ちは一人ずつ違っている。


「……なるほど。そう考えると、また読み返したくなりますね」


「ふふ。気に入った本は、少し時間を置いて読むと新しい発見があるものね」


 先輩はそう言いながら、返却の手続きを進めてくれた。


 俺はカウンターの端に置かれている紹介カードの試作品へ目を向けた。


 昨日と同じ二枚が、透明なケースに入れられている。


「先輩、昨日のカード、少し変えたんですか?」


「ええ。文字の大きさだけ、試しに調整してみたの。まだ委員会で決まったものではないけれど、比較しやすいようにね」


 先輩は二種類の試作品を並べてくれた。


 片方は以前の大きさで、もう片方は見出しの文字を少し大きくしたものだった。


 確かに、少し離れて見ると後者の方が目に入りやすい。


 ただし、その分だけ説明文の余白が狭くなっている。


「……見出しは大きい方が読みやすいですね。でも、説明文がちょっと詰まって見えるかもしれません」


「そうなの。だから、文章そのものを少し調整する必要がありそうね」


 先輩は頷き、試作品を元の位置へ戻した。


「それと、生徒からおすすめを集める案については、次の委員会で話し合えるように準備しているところよ。まだ実施が決まったわけではないから、質問の数や集め方も含めて相談するつもりなの」


「分かりました。俺が考えた質問も、必要なら使ってください」


「ありがとう。七瀬君が言ってくれた、どんな気分のときに読みたい本なのかを尋ねる案は、分かりやすいと思うわ」


 先輩はそう言って微笑んだ。


 俺は少し照れくさくなりながら頷いた。


 自分が考えたことが、誰かの役に立つかもしれない。


 それは、好きな本を読んでいるときとはまた違う嬉しさだった。


 そのあと、俺は書架を少し眺めてから図書室を出た。


 廊下へ出ると、昼休みの終わりが近づいていた。


 俺は時計を確認し、教室へ戻ることにした。


     ◇◇◇


 午後の授業が終わり、放課後になった。


 教室では部活動へ向かう生徒たちが帰り支度を始めている。窓の外には薄い雲が広がり、校庭からは運動部の掛け声が聞こえていた。


 俺が鞄へ教科書をしまっていると、雫が隣へやってきた。


「春樹、今日はまっすぐ帰る?」


「うん。今日は家で本を読みたいし、寄り道する予定はないよ」


「そっか。じゃあ、一緒に帰ろう?」


「もちろん」


 俺が答えると、雫は嬉しそうに微笑んだ。


 俺たちは並んで教室を出た。


 階段を下りて昇降口へ向かう途中、雫は俺の鞄へちらりと視線を向けた。


「……今日も、本を持ってきてくれてるんだね」


「うん。雫から借りた短編集。学校では読めなかったけど、帰ったら秋の話を読むつもりだよ」


「ふふ。そんなに楽しみにしてくれてるんだ」


「そりゃそうだよ。雫が好きだって言ってたところが気になるし」


 俺がそう答えると、雫は少しだけ視線を落とした。


「……私が好きなところ、春樹も好きだといいな」


 その声は、普段よりも少し小さかった。


 俺は彼女の表情を見て、朝に赤木さんが話していたことを思い出した。


 自分が大切にしている本ほど、相手の感想が気になる。


 雫も、きっとそうなのだろう。


「雫、もし俺の感想が雫と違ってても、ちゃんと話していい?」


 俺が尋ねると、雫は少し驚いたように顔を上げた。


「え?」


「いや、雫が好きなところを俺も好きになれたら嬉しいけど、同じ本を読んでも感じ方って違うことがあるだろ? だから、無理に合わせるんじゃなくて、俺が思ったことをちゃんと伝えたいなって」


 雫はしばらく俺を見つめていた。


 それから、ゆっくり微笑んだ。


「……うん。それがいいと思う」


 彼女は少しだけ息を整え、続けた。


「私も、春樹がどんなふうに読んだのか知りたい。私と同じところが好きでも、違うところが好きでも、ちゃんと聞きたいな」


「よかった。じゃあ、読み終えたら感想を伝えるね」


「うん。楽しみにしてる」


 雫はそう答えたが、その頬は少し赤くなっていた。


 俺たちは昇降口で靴を履き替え、校門へ向かった。


 帰り道には、昨日と同じように秋の風が吹いている。


 ただ、今日は少しだけ暖かかった。


 学校から少し離れた交差点で信号を待っていると、雫が道の向こうを眺めながら言った。


「……春樹って、昔のこと、どのくらい覚えてる?」


 突然の質問に、俺は少し考えた。


「昔って、小学生のころとか?」


「うん。もっと小さいころのことも含めて」


 雫は信号機へ目を向けたまま答えた。


 俺は記憶をたどってみた。


 子どものころ、雫と一緒に遊んだことはたくさん覚えている。


 公園で遊んだこと。


 本を持っていって、雫に読み聞かせるように話したこと。


 休日に一緒に出かけたこと。


 けれど、細かな会話までは思い出せないものも多い。


「……結構覚えてるつもりだけど、全部は無理かな。雫と遊んだこととか、一緒に出かけたことは覚えてるよ」


 俺がそう答えると、雫は小さく頷いた。


「そっか」


「どうしたの? 何か思い出したことでもある?」


 雫は少しだけ迷うような表情を見せた。


 そのとき、信号が青へ変わった。


 俺たちは周囲を確認して横断歩道を渡り、歩道へ戻ったところで、雫がゆっくり口を開いた。


「……うん。昔、春樹と一緒に見た景色のことを思い出してたの」


「景色?」


「この前、一緒に行った見晴らしのいい場所、覚えてる?」


「ああ、うん。丘の上のところだよね」


 俺はすぐに頷いた。


 雫と久しぶりに訪れた、あの場所。


 高いところから町を見渡せて、風が気持ちよかった。


 あの日、雫は何かを懐かしむような表情をしていた。


「……あそこ、昔も一緒に行ったんだよね」


 俺がそう言うと、雫は静かに頷いた。


「うん。春樹と一緒に行ったこと、私はよく覚えてる」


「そっか。俺も景色は何となく覚えてるんだけど、細かいことはあんまり思い出せなくて」


 雫は少しだけ寂しそうに笑った。


 その表情を見て、俺は胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。


(……雫にとっては、すごく大切な思い出なのかもしれないな)


 俺が覚えていないことを、雫はずっと覚えている。


 それは少し申し訳ないような気持ちにもなった。


「……ごめんね。雫が覚えてること、俺は忘れちゃってるみたいで」


 俺がそう言うと、雫はすぐに首を振った。


「謝らなくていいよ。小さいころのことだもん。全部覚えてる方が珍しいと思うし」


「でも、雫が大切にしてる思い出なら、俺もちゃんと覚えていたかったな」


 そう口にすると、雫は足を止めかけた。


 俺も歩幅を緩め、彼女へ目を向ける。


 雫はしばらく何も言わなかった。


 その頬が少しずつ赤くなっていく。


「……春樹」


「うん?」


「……そう思ってくれるだけで、私は嬉しいよ」


 雫はそう言って、小さく微笑んだ。


 俺は少し安心した。


「そっか。ならよかった」


 俺たちは再び歩き始めた。


 そのあと、雫は昔の話をそれ以上続けなかった。


 俺も無理に尋ねることはしなかった。


 以前、雫はいつか話したいことがあると言っていた。


 もし今の話がそれにつながるものなら、彼女が自分から話してくれるときを待ちたい。


 そう思いながら、俺は隣を歩く雫の横顔を見た。


 雫は前を向いていたが、表情は穏やかだった。


     ◇◇◇


 夕方、俺は自室の机へ向かい、雫から借りた短編集を開いた。


 今日は秋の物語を読む。


 窓の外では、夕日が建物の屋根を淡い橙色に染めている。机の上には温かい飲み物を置き、読み終えた春と夏の感想を書いたノートも用意した。


 俺はしおりを抜き、秋の物語の最初のページへ目を落とした。


 舞台は、山あいの小さな町だった。


 主人公は高校生の女の子で、子どものころから仲のよかった男の子と、毎年秋になると同じ道を歩いていた。


 町の外れにある古い並木道。


 秋になると葉が色づき、夕方には道全体が金色に染まる。


 二人は小さいころから、その道を歩くのが好きだった。


 けれど、高校生になった今、主人公は以前と同じように話せなくなっている。


 男の子は昔と変わらず優しく、いつも自然に隣を歩いてくれる。


 それなのに、主人公はその優しさを素直に受け取れないことがあった。


 自分にとって特別な時間が、相手にとっては何でもない日常なのかもしれない。


 そんな不安が、彼女の胸に少しずつ積もっていく。


 俺はページをめくる手を緩めた。


(……なるほど。秋は、ずっと一緒にいた二人の話なんだな)


 夏の物語にも幼馴染が登場したが、こちらは再会ではなく、今も日常を共有している二人の関係を描いているらしい。


 主人公は、男の子が自分の好きなものを覚えてくれていることに喜びながらも、同時に、その優しさが誰に対しても向けられるものだと知っていた。


 だからこそ、相手の言葉を深読みしてしまう。


 男の子が何気なく言った「また一緒に来よう」という言葉を、主人公は何度も思い返していた。


 彼にとっては、いつもの約束。


 けれど、彼女にとっては、来年もその隣にいられるかもしれないという、小さな希望だった。


 俺はその場面を読みながら、思わず息を吐いた。


(……こういうの、恋愛小説でもよくあるけど、やっぱり難しいよな)


 同じ言葉でも、受け取る側の気持ちによって意味が変わる。


 相手にとっては何気ない一言でも、自分にとっては忘れられない言葉になることがある。


 俺はページをめくり、続きを読んだ。


 物語の中で、主人公はある日、男の子へ昔の思い出について尋ねていた。


 小さいころ、二人で並木道を歩いた日のこと。


 夕暮れの中で交わした、何でもない会話。


 けれど、男の子は細かなことを覚えていなかった。


 主人公は笑って「そうだよね」と答える。


 しかし、そのあと一人になった彼女は、少しだけ寂しさを感じていた。


 俺はそこで、本を持つ手を止めた。


 今日の帰り道。


 雫が、昔のことをどのくらい覚えているかと尋ねてきた。


 そして、丘の上で一緒に見た景色の話をしていた。


(……偶然だと思うけど、ちょっと似てるな)


 俺は本のページを見つめた。


 もちろん、物語の主人公と雫が同じ気持ちだとは限らない。


 それでも、昔の思い出を自分だけが覚えていることに寂しさを感じる、という描写は気になった。


 雫も、俺が細かなことを忘れていると知って、少し寂しくなったのだろうか。


 帰り道で見せた、あの表情。


 俺はしばらく考えた。


 けれど、今ここで答えが出るわけではない。


 俺は再びページへ目を落とした。


 物語の中では、主人公が男の子へ昔のことを話そうとしていた。


 しかし、彼女は途中で言葉を止める。


 相手が忘れているなら、自分だけが大切にしている思い出なのかもしれない。


 そう考えると、急に話すのが怖くなってしまったのだ。


 俺はその心理描写を読みながら、少し胸が苦しくなった。


(……忘れてる方には悪気がなくても、覚えてる方は寂しいことがあるんだな)


 恋愛小説を読んでいると、登場人物の気持ちがすれ違う場面は珍しくない。


 けれど、今回の物語は、普段よりも身近に感じられた。


 雫と俺も、昔から一緒にいる。


 俺が忘れていることを、雫が覚えている場合もある。


 その逆だって、きっとあるだろう。


 ただ、今日の帰り道で見た雫の表情が、なぜか頭から離れなかった。


 俺は本を閉じずに、少しだけ窓の外へ目を向けた。


 夕日はすでに低くなり、向かいの家の屋根には長い影が伸びている。


 いつもなら、物語の続きを読みたい気持ちが先に立つ。


 けれど、今日は少し違った。


 俺は登場人物の気持ちを考えながら、同時に、雫がどんな気持ちでこの本を読んだのかを想像していた。


     ◇◇◇


 同じころ、西条雫は自室で、春樹から借りている日常短編集を開いていた。


 けれど、今日はなかなか物語へ集中できなかった。


 ページをめくっても、文字を追っているうちに、帰り道で春樹が言ってくれた言葉を思い出してしまう。


『雫が大切にしてる思い出なら、俺もちゃんと覚えていたかったな』


 あの言葉は、雫にとって予想していなかったものだった。


 春樹が昔の約束を忘れていることは、ずっと前から分かっていた。


 丘の上へ一緒に行ったときも、彼は景色を懐かしんでくれたけれど、あの日に交わした言葉までは思い出していなかった。


 それでも、雫は責めたいと思ったことなどなかった。


 子どものころの約束を、何年も覚えている方が珍しいのかもしれない。


 ただ、自分にとっては大切な思い出だった。


 だから、いつか春樹にも思い出してもらえたら嬉しい。


 そんな気持ちを、ずっと胸の奥にしまっていた。


(……春樹は、覚えていないことを気にしてくれたんだね)


 雫は本を閉じ、膝の上へ置いた。


 窓の外には夕暮れの空が広がっている。


 春樹が借りていった四季の短編集。


 その秋の物語には、雫が特に好きな場面がある。


 主人公の女の子が、昔の思い出を忘れてしまった男の子へ、無理に思い出してほしいとは言わない場面だ。


 代わりに、彼女は今の二人で新しい思い出を作ろうとする。


 過去を大切にしながら、今の時間も同じくらい大切にしようとする。


 雫はその考え方が好きだった。


 昔の約束を忘れてしまっていても、春樹と一緒に過ごしてきた時間がなくなるわけではない。


 そして、これからも一緒に過ごせるなら、新しい思い出を増やしていける。


 そう思いたかった。


(……でも、本当は少しだけ、覚えていてほしい気持ちもあるんだよね)


 雫は小さく息を吐いた。


 自分でも、矛盾していると思う。


 春樹に無理をさせたくない。


 けれど、あの日の約束を思い出してほしい。


 昔と同じように一緒にいたい。


 でも、今の関係が少しずつ変わってくれたらとも思っている。


 そんな気持ちを抱えたまま、雫は今日も春樹と並んで歩いた。


 そして、春樹はいつもと同じように優しく笑ってくれた。


 その笑顔を見るたびに、嬉しくなる。


 同時に、いつか自分の気持ちを伝える日が来ることを思うと、少し怖くもなる。


 雫は膝の上の本へ目を落とした。


 春樹から借りた日常短編集。


 彼が好きな物語には、人と人との関係がゆっくり変わっていく話が多い。


 そのことを思うと、少しだけ勇気が湧いてくる。


(……私たちも、急がなくていいのかな)


 雫はそう考えながら、再び本を開いた。


 けれど、今夜は少しだけ、春樹からの感想が届くのを待ちたい気持ちの方が強かった。


     ◇◇◇


 夜、俺は秋の物語を最後まで読み終えた。


 主人公の女の子は、最後まで昔の思い出を男の子へ詳しく話さなかった。


 けれど、二人はもう一度、秋の並木道を歩く。


 以前と同じ道。


 以前と同じ季節。


 それでも、そこにいる二人は少しずつ変わっていた。


 男の子は、主人公が昔の思い出を大切にしていることに気づき、今度は自分から「来年も一緒に歩こう」と伝える。


 主人公はその言葉を聞いて、初めて心から笑う。


 過去を思い出してもらうことだけが、大切なのではない。


 これから一緒に過ごす時間を、二人で選んでいくことにも意味がある。


 そんな余韻を残して、秋の物語は終わっていた。


 俺は本を閉じ、しばらく机の上へ置いたまま考え込んだ。


(……雫が好きだって言ってたの、こういうところなのかな)


 春と夏の物語もよかった。


 けれど、秋の物語は、今までとは少し違う印象を残した。


 登場人物の気持ちが、すぐに言葉になるわけではない。


 相手に伝えたいことがあっても、簡単には話せない。


 それでも、相手と一緒に過ごす時間を大切にしている。


 その関係が、とても丁寧に描かれていた。


 俺はノートを開き、感想を書き始めた。


『秋の話。昔から一緒にいる二人が、過去の思い出と今の関係を見つめ直す物語。忘れてしまったことがあっても、これから新しい思い出を作れるというところがよかった』


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 今日の帰り道。


 雫は昔のことを思い出していた。


 そして、俺が細かなことを覚えていないと知って、少し寂しそうな表情を見せた。


 俺はノートの文章を見つめながら、考えた。


(……俺も、雫との思い出をもっと大切にしたいな)


 今までだって、大切にしていなかったわけではない。


 けれど、昔のことを覚えていない自分に、少しだけもどかしさを感じていた。


 雫は俺との思い出を、今でも大切にしてくれている。


 なら、俺もこれからの時間を、もっと意識して過ごしたい。


 そう思った。


 俺はスマートフォンを手に取った。


 雫へ感想を伝える約束をしている。


 ただ、今回は少しだけ、どんな言葉にすればいいのか迷った。


 普段なら、面白かった場面や好きだった台詞について、思ったままに話せばいい。


 けれど、今日はそれだけでは足りない気がした。


 雫がこの物語を大切にしている理由を、俺はまだ知らない。


 だからこそ、自分が感じたことを丁寧に伝えたい。


 俺は少し考えてから、メッセージを打ち始めた。


『雫、秋の話を読み終えたよ』


 送信すると、しばらくして返事が届いた。


『本当? どうだった?』


 俺はノートへ書いた感想を見ながら、文章を考えた。


『すごくよかった。昔の思い出を大切にしながら、これからの時間も大切にしようとするところが好きだった』


 送信したあと、少しだけ待つ。


 返事はすぐには届かなかった。


 俺はスマートフォンを机へ置き、本の表紙を眺めた。


 雫は今、どんなふうに受け取ってくれているのだろう。


 少しして、画面が明るくなった。


『……うん。私も、そこが好き』


 短い返事だった。


 けれど、その言葉を見た瞬間、俺は自然に笑顔になった。


『あと、昔のことを忘れてしまってても、今から新しい思い出を作れるっていうところがよかった。読んでて、雫と昔の話をしたことも思い出したよ』


 俺はそこまで打ち、少しだけ迷った。


 今日の帰り道で感じたこと。


 雫が大切にしている思い出を、自分も大切にしたいと思ったこと。


 それを伝えてもいいだろうか。


 しばらく考えたあと、俺は続きを打った。


『俺、昔のことを全部覚えてるわけじゃないけど、雫とこれからもいろんな思い出を作れたらいいなって思った』


 送信すると、今度は少し長い間、返事がなかった。


 俺はスマートフォンを見つめながら、少し心配になった。


(……変なこと言ったかな)


 けれど、雫とこれからも一緒に過ごしたいと思ったのは本当だ。


 幼馴染として、友達として。


 これからも本の話をしたり、一緒に出かけたり、何でもない時間を楽しめたら嬉しい。


 そういう気持ちを伝えたかった。


 やがて、スマートフォンが震えた。


『……ありがとう、春樹』


 そのあと、もう一通届いた。


『私も、春樹とこれからもたくさん思い出を作りたい』


 俺はその言葉を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


『うん。今度また一緒に出かけようね。まだ行き先は決めてないけど』


 以前、雫とまた出かけようと話したことを思い出しながら送る。


 すると、雫から嬉しそうな返事が届いた。


『うん。楽しみにしてる。行き先は、また一緒に考えようね』


『そうだね。雫が行きたいところも聞きたいし』


『ふふ。じゃあ、今度考えておくね』


 俺は自然に笑顔になった。


 雫と出かけるなら、本屋もいい。


 けれど、最近は本屋以外の場所へ行くのも楽しいと思うようになっていた。


 丘の上で見た景色。


 公園で話した時間。


 何でもない帰り道。


 そういう時間も、俺にとって大切なものになっている。


 俺は最後に、おやすみのメッセージを送った。


 雫からも返事が届き、そこで会話を終えた。


     ◇◇◇


 西条雫は、スマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく動けずにいた。


 春樹から届いた言葉。


『雫とこれからもいろんな思い出を作れたらいいなって思った』


 その一文が、胸の奥に何度も浮かんでくる。


 雫はベッドへ腰を下ろし、スマートフォンを両手で包み込むように持った。


 春樹がどんな気持ちでその言葉を送ってくれたのか、雫には分からない。


 きっと、彼にとっては自然な言葉なのだろう。


 昔から一緒にいる幼馴染へ向けた、優しい気持ち。


 それでも、雫にとっては十分すぎるほど嬉しかった。


(……春樹は、これからも私と一緒にいたいって思ってくれてるんだ)


 雫は小さく息を吐いた。


 昔の約束を覚えていないことは、少し寂しい。


 けれど、今の春樹が自分との時間を大切にしてくれている。


 そのことが、何より嬉しかった。


 雫は机の上に置いてある四季の短編集と同じ装丁の、別の文庫本へ目を向けた。


 以前、春樹へ薦めようか迷っていた、幼馴染の恋愛小説だ。


 結局、今回は四季の短編集を選んだ。


 あの恋愛小説を薦めるには、まだ少し勇気が足りなかったから。


 けれど、今日の春樹の感想を聞いて、雫は少しだけ考えが変わった。


 春樹は、物語の中に描かれている人の気持ちを、丁寧に受け取ってくれる。


 そして、自分が感じたことを、まっすぐな言葉で伝えてくれる。


 だから、いつかあの恋愛小説も読んでもらえたらいい。


 ただ、そのとき自分がどんな気持ちになるのかは、まだ想像できなかった。


(……今は、もう少しだけ、このままでいたいな)


 雫はスマートフォンを胸元へ引き寄せ、静かに微笑んだ。


 春樹が秋の物語を好きになってくれた。


 それだけでも嬉しい。


 けれど、それ以上に、これからの思い出を一緒に作りたいと言ってくれたことが嬉しかった。


 雫は窓の外へ目を向けた。


 夜の住宅街には、家々の明かりが静かに灯っている。


 明日も、春樹と一緒に学校へ行ける。


 そして、また本の話ができる。


 そんな何でもない日常が、今夜はいつも以上に大切に感じられた。


     ◇◇◇


 俺は机の上の短編集を、もう一度手に取った。


 春、夏、秋。


 三つの物語を読み終え、残るのは冬の物語だけになった。


 それぞれ違う登場人物が描かれているのに、どの話にも、人と人との関係が少しずつ変わっていく様子があった。


 春は、新しい出会い。


 夏は、久しぶりの再会。


 秋は、昔から続いてきた関係を見つめ直す時間。


 では、冬はどんな物語なのだろう。


 俺は本の表紙を眺めながら、少し考えた。


(……雫がこの本を好きな理由、少し分かってきた気がする)


 ただ優しいだけの短編集ではない。


 登場人物たちは、誰かとの距離に迷ったり、言葉にできない気持ちを抱えたりしている。


 それでも、相手と向き合おうとする。


 その姿が、読む人の心に残るのだろう。


 俺は本を閉じ、机の上へ置いた。


 明日は冬の物語を読もう。


 全部読み終えたら、雫へ改めて感想を伝えたい。


 そして、いつか自分が好きな本も、また雫に薦めたいと思った。


 俺は机の明かりを消し、ベッドへ向かった。


 窓の外には、静かな夜が広がっている。


 今日も、いろいろな人と本の話ができた。


 白石先輩とは、駅を舞台にした短編集の感想を話した。


 悠斗と赤木さんは、貸した本について楽しそうに話していた。


 そして雫とは、昔の思い出と、これからの時間について少しだけ話した。


 俺は目を閉じながら、今日の帰り道を思い返した。


 雫が昔の景色を思い出していたこと。


 俺が細かなことを覚えていないと知って、少し寂しそうに笑ったこと。


 そして、これからも一緒に思い出を作りたいと伝えたとき、嬉しそうに返事をくれたこと。


 その一つ一つが、静かに胸の中へ残っていた。


(……明日も、雫と話せるのが楽しみだな)


 そう思いながら、俺はゆっくり眠りについた。


 まだ、雫があの日の約束をどれほど大切にしているのかは知らない。


 けれど、今日読んだ秋の物語は、俺に一つのことを教えてくれた。


 昔から一緒にいる相手でも、知らない気持ちはある。


 だからこそ、今の相手を知ろうとすることが大切なのだ。


 そのことを、俺は少しずつ理解し始めていた。


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