第73話 幼馴染に本の感想を伝えたいだけなのに、どうして同じ帰り道が少し違って見えるんだ?
火曜日の朝、俺は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は昨日よりも柔らかく、窓の向こうには薄い雲がゆっくり流れている。秋が深まるにつれて朝の空気も冷たくなってきたが、布団の中にいると、その涼しさがかえって心地よかった。
枕元の時計を確かめてから身体を起こすと、机の上に置いた文庫本が目に入った。
昨日、雫から借りた四季の短編集だ。
春の物語を読み終えたあと、感想をメッセージで伝えたところ、雫はとても喜んでくれた。特に秋の物語について感想を聞きたいと言っていたので、そこまで読み進めるのが今から楽しみになっている。
(……でも、せっかく四季の順番になってるんだし、ちゃんと夏の話から読もう)
俺は本を手に取り、表紙を眺めた。
春の花と夏の青空、秋の落ち葉と冬の雪景色が一つにつながっている。昨日は最初の物語に夢中であまり意識しなかったが、改めて見ると、季節が変わっても同じ風景が続いているような構図になっていた。
同じ場所でも、季節によって見え方は変わる。
そう考えると、この表紙にも何か意味があるのかもしれない。
俺は本を鞄へしまい、制服へ着替えた。
今日は昼休みに読書週間の準備について少し確認する予定がある。白石先輩から正式な委員会の決定が出たわけではないものの、試作した紹介カードについて、実際に展示するとしたらどのくらいの場所が必要になるのかを確かめたいと言われていた。
俺は図書委員ではないので、あくまで協力する立場だ。
それでも、自分が好きな本を誰かに紹介するための準備に関われるのは嬉しい。
(……今日は本の話がたくさんできそうだな)
そんなことを考えながら朝食を済ませ、家を出る準備を整えた。
玄関で靴を履いていると、スマートフォンが短く震えた。
雫からのメッセージだった。
『おはよう、春樹。今日は少し風が冷たいみたいだから、上着を忘れないでね』
俺は思わず笑った。
雫は昔から、こういうところによく気がつく。
俺が読書に夢中になって天気を気にしなかったときも、帰りに雨が降りそうだと教えてくれたことが何度もあった。
『おはよう。ありがとう。ちゃんと持ったよ。いつものところで待ってるね』
返信してから、俺は鞄を肩にかけた。
そのとき、ふと昨日の短編集の一節を思い出した。
主人公が新しい学校で友人を作っていく春の物語。
そこでは、相手の何気ない親切に気づくことが、少しずつ関係を変えるきっかけになっていた。
(……雫にも、いつもいろいろ助けてもらってるんだよな)
俺は玄関の扉を開け、朝の住宅街へ足を踏み出した。
◇◇◇
待ち合わせ場所には、雫が先に来ていた。
制服の上に薄手の上着を羽織り、鞄を身体の前で持っている。道路沿いの街路樹は少しずつ色づき始めていて、風が吹くたびに枝先の葉が小さく揺れていた。
「おはよう、雫」
声をかけると、雫は顔を上げて笑った。
「おはよう、春樹。ちゃんと上着持ってきたんだね」
「うん。雫が教えてくれたから。朝はそこまで寒くないと思ったけど、風が吹くと結構冷たいね」
「でしょ? 昨日より少し気温が下がるって言ってたから、春樹も気をつけた方がいいかなって」
「ありがとう。助かったよ」
俺がそう言うと、雫は少し照れくさそうに目を細めた。
「……どういたしまして」
俺たちは並んで歩き始めた。
朝の通学路には、同じ制服を着た生徒たちが増え始めている。少し先の交差点では信号待ちの列ができていて、道路の向こうからは自転車のベルが聞こえてきた。
雫は周囲を確かめながら歩き、俺へ視線を向けた。
「昨日の春のお話、気に入ってくれてよかった」
「うん。すごくよかったよ。最初は教室で一人だった主人公が、最後には自分から友達を誘えるようになるところが好きだった」
「私もそこが好き。大きな出来事があったわけじゃないのに、読み終わるころには最初の景色まで違って見えるんだよね」
雫はそう話しながら、街路樹の方へ目を向けた。
俺もつられて見上げる。
同じ道を毎日歩いているのに、葉の色が少し変わったことには、今朝まで気づいていなかった。
「……確かに、そういうことってあるよね」
「え?」
「いや、この木もそうだなって。毎日通ってるのに、少しずつ色が変わってることにはあんまり気づかなかったから」
俺がそう言うと、雫は一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「春樹、最近そういうところにも目が向くようになったね」
「そうかな?」
「うん。前は歩いてるときも、本のことばっかり考えてたから」
「……それは否定できないな」
俺が苦笑すると、雫も小さく笑った。
以前の俺なら、通学路の景色が変わっていることより、昨夜読んだ小説の続きを考える方に夢中だっただろう。
今でも本のことを考える時間は多い。
けれど、最近は雫と話しながら歩く時間そのものも、前より楽しく感じている。
「でも、雫と話してると、今まで気づかなかったことにも気づける気がするんだよね」
俺がそう言うと、雫は少しだけ歩幅を緩めた。
「……そうなの?」
「うん。雫って、季節の変化とか、人のちょっとした様子とか、よく見てるだろ? 俺も見習わないとなって思うことがある」
雫はしばらく俺を見つめていた。
その頬がほんのり赤くなっているように見えたが、朝の光のせいかもしれない。
「……春樹にそんなふうに言ってもらえるの、嬉しいな」
雫はそう答え、少しだけ視線を落とした。
それから、何かを思い出したように顔を上げる。
「そうだ。今日は夏のお話を読む予定なんだよね?」
「うん。帰ったら読もうと思ってる。昨日は春の話だけだったし、順番に読みたいから」
「ふふ。春樹らしいね。……夏のお話も、私は好きだよ」
「どんなところが?」
俺が尋ねると、雫は少し考えてから首を振った。
「それは、読んでからのお楽しみにしておこうかな」
「なるほど。じゃあ、先入観なしで読んでみるよ」
「うん。その方が、春樹がどんな感想を持つのか楽しみだし」
雫は嬉しそうに笑った。
俺も自然に笑顔になり、学校へ向かって歩き続けた。
◇◇◇
教室へ入ると、高坂悠斗が机に肘をつきながら何かを考えていた。
いつもなら俺に気づくとすぐ声をかけてくるのに、今日は窓の外を眺めたまま動かない。
俺は鞄を置き、声をかけた。
「おはよう、悠斗。どうしたの? 何か考え事?」
悠斗は俺の声に気づき、顔を上げた。
「おう、春樹。おはよう。いや、別に大したことじゃないんだけどさ」
「そうなの?」
「……昨日、紗弥に本を貸しただろ?」
「ああ、うん。すごく喜んでたよね」
俺が頷くと、悠斗は少し照れくさそうに笑った。
「そうなんだよ。でさ、昨日の夜にメッセージが来て、少し読み始めたって教えてくれたんだ」
「へえ、早いね」
「だろ? しかも、冒頭の雰囲気が好きだって。まだ読み始めたばっかりなのに、そんなふうに言ってくれると嬉しいじゃん」
悠斗はそう言いながら、机の上に置いたスマートフォンへ目を向けた。
俺はその表情を見て、昨日の自分を思い出した。
雫から借りた短編集の春の話を読み終え、感想を伝えたときのことだ。
「分かるよ。俺も昨日、雫から借りた本を読んで感想を伝えたら、すごく喜んでくれたし」
俺がそう言うと、悠斗はぴたりと動きを止めた。
「……お前、昨日、西条から本借りたの?」
「うん。雫が好きな短編集を貸してくれたんだ」
「へえ……」
悠斗は何とも言えない表情で俺を見た。
俺は首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、別に。……お前ら、本当に仲いいよな」
「幼馴染だからね」
俺がそう答えると、悠斗は深く息を吐いた。
「……そういうところなんだよなあ」
「え?」
「いや、何でもねえ。とりあえず、お前も本を借りられてよかったな」
悠斗は苦笑しながら言った。
俺は何だかよく分からないまま頷いた。
そのとき、教室の入口から赤木紗弥さんが入ってきた。
悠斗はすぐに姿勢を正した。
「お、おはよう、紗弥」
「おはよう、高坂君。七瀬君もおはよう」
「おはよう、赤木さん」
俺が挨拶を返すと、赤木さんは悠斗へ向き直った。
「昨日貸してくれた本、少し読んだよ。まだ最初の方だけど、すごく読みやすくて面白いね」
その言葉に、悠斗の表情がぱっと明るくなった。
「本当? よかった。あの作品、最初は静かな感じなんだけど、後半になると印象が変わるんだよ」
「そうなんだ。じゃあ、続きが楽しみ」
赤木さんは嬉しそうに笑った。
悠斗も笑顔を返したが、少しだけ照れくさそうだった。
俺は二人の会話を聞きながら、好きな本を共有できるのはやっぱりいいことだと思った。
同じ作品を読んで、感想を話す。
それだけで、普段とは違う会話が生まれることもある。
悠斗が赤木さんへ本を貸したことも、きっと二人にとっていいきっかけになるのだろう。
そんなことを考えていると、雫が俺の隣へ来た。
「春樹、朝のホームルームまで少し時間あるね」
「そうだね。何か読む?」
「ううん。今日はちょっと、春樹と話してたいなって」
雫はそう言って微笑んだ。
俺は少し驚いたものの、すぐに頷いた。
「もちろん。何の話?」
「……何でもいいよ。今日の授業のことでも、昨日読んだ本のことでも」
雫は少し照れくさそうに笑った。
俺はその表情を見ながら、何となく嬉しくなった。
読書をする時間も好きだ。
けれど、雫とこうして話す時間も、最近は自然と楽しみになっている。
俺たちはホームルームが始まるまで、昨日の本の話や今日の授業の予定について、ゆっくり会話を続けた。
◇◇◇
昼休み、俺は図書室へ向かった。
白石先輩から、読書週間の紹介カードについて少し確認したいと聞いていたからだ。
図書室へ入ると、いつもの静かな空気が広がっていた。
窓際の席では数人の生徒が読書をしていて、奥の書架では本を探している生徒の姿が見える。
貸出カウンターの近くには、白石先輩が書類を広げていた。
俺に気づくと、先輩は柔らかく微笑んだ。
「こんにちは、七瀬君。来てくれてありがとう」
「こんにちは、白石先輩。今日は紹介カードの確認でしたよね?」
「ええ。昨日話していた、生徒のおすすめを集める案も含めて、少し整理しておきたくて」
先輩は机の上の紙を指差した。
そこには、これまで作ってきた紹介カードの試作品と、展示に必要な場所を考えるための簡単な図が並んでいた。
俺は隣へ立ち、内容を確認した。
「……結構、場所を使いますね」
「そうなの。カードだけならそれほどでもないけれど、実際に本を一緒に置くとなると、棚の高さや通路の幅も考えないといけないから」
先輩は落ち着いた声で説明してくれた。
俺は頷きながら、図書室の入口付近へ目を向けた。
そこは普段から利用者が行き交う場所だ。
もし展示を置くなら、通行の邪魔にならないようにしなければならない。
「九条さんが考えてる安全の案内とも、場所が重ならない方がいいですよね」
「ええ。そのあたりは、まだ確認が必要ね。風紀委員会の案内も、設置場所が正式に決まっているわけではないから」
先輩はそう言って、図の一部へ小さな印をつけた。
「だから、今日は実際に何かを置くんじゃなくて、どのくらいのスペースが必要かを考えるだけにしておきましょう」
「分かりました」
俺たちは机の上で試作品を並べ、展示の見え方を確認した。
紹介カードには、俺が考えた見出しや短いあらすじが書かれている。
大学で再会した幼馴染の恋愛小説。
何でもない日常の中にある小さな変化を描いた短編集。
どちらも、俺が好きな作品だ。
先輩はカードを少し離れた位置から眺め、首を傾げた。
「……七瀬君、この見出し、少し離れて見ると文字が小さく感じるかもしれないわね」
「本当ですね。近くで読むなら問題ないけど、通りかかった人が気づくには、もう少し大きい方がよさそうです」
「ええ。でも、文字を大きくすると、今度は説明文が入りきらなくなるのよね」
俺は少し考えた。
紹介したいことを全部書こうとすると、どうしても文章が長くなる。
けれど、展示を見た人に興味を持ってもらうには、最初の一言が大切なのかもしれない。
「……見出しを大きくして、説明文はもう少し短くするのはどうでしょう?」
俺がそう提案すると、先輩は頷いた。
「いいと思うわ。ただ、短くしすぎると作品の魅力が伝わりにくくなるから、どこを残すかが大事ね」
「そうですね。内容を説明しすぎずに、読んでみたいと思ってもらえる文章にしたいです」
先輩は少し嬉しそうに微笑んだ。
「七瀬君らしい考え方ね」
「そうですか?」
「ええ。あなたは、ただ目立つ紹介にしたいんじゃなくて、読んだ人がその本を好きになれるかどうかまで考えているから」
その言葉に、俺は少し照れくさくなった。
「……ありがとうございます。でも、まだまだ難しいです」
「ふふ。だからこそ、少しずつ考えていきましょう」
先輩はそう言い、カードを丁寧に並べ直した。
俺も頷き、試作品を見比べた。
◇◇◇
しばらくすると、図書室の入口から九条凛さんが入ってきた。
手には書類の入った薄いファイルを持っている。
俺たちに気づくと、九条さんは軽く会釈した。
「七瀬君、白石先輩。こんにちは」
「こんにちは、九条さん」
「こんにちは、九条さん。ちょうど展示の配置について考えていたところなの」
白石先輩がそう説明すると、九条さんは机の上の図へ目を向けた。
「そうでしたか。実は、風紀委員会の案内についても、まだ設置場所の確認が続いているんです」
九条さんはファイルを開き、候補の文章が書かれた紙を取り出した。
以前から検討している、安全に読書を楽しむための案内だ。
長い文章の候補と、短い文章の候補。
どちらも、まだ正式に決まったわけではない。
「委員会では、短い方が見やすいという意見が多かったんですが、図書室の入口付近に置くなら、少し柔らかい表現の方がいいんじゃないかという話も出ています」
九条さんはそう説明した。
白石先輩は頷きながら紙を見た。
「確かに、入口付近は本を探しに来る人も多いから、あまり強い印象にならない方がいいかもしれないわね」
「はい。ただ、まだ先生の確認も必要なので、今日は意見を聞きに来ただけです」
九条さんはきちんと説明した。
俺はその様子を見ながら、彼女らしいと思った。
九条さんは、何かを決めるときに順序を大切にする。
安全のために必要なことでも、勝手に進めたりはしない。
そういうところは、見習うべきだと思う。
「七瀬君は、どう思いますか?」
九条さんが俺へ尋ねた。
俺は少し考えた。
「……短い方が、通りかかったときには読みやすいと思います。でも、言い方がきつくならないようにするのも大事ですよね」
「そうですね。私もそこが気になっていました」
九条さんは頷いた。
「七瀬君、最近は歩きながら本を読むこともなくなりましたし、以前より周囲をよく見ているように思います」
「……そうですか?」
「はい。注意したことを、ちゃんと行動に移してくれているのは嬉しいです」
九条さんは少しだけ表情を柔らかくした。
俺は思わず笑った。
「ありがとうございます。九条さんに何度も注意してもらったおかげです」
「……何度も注意しなくてもよかったなら、もっとよかったんですけどね」
九条さんはそう言いながらも、少し照れくさそうに笑った。
白石先輩も小さく笑う。
俺は苦笑しながら頭をかいた。
「それは本当にすみませんでした」
「ふふ。今は気をつけているんですから、それでいいと思いますよ」
九条さんはそう答え、ファイルを閉じた。
それから、机の上の紹介カードへ視線を向ける。
「……これ、七瀬君が考えた文章ですよね?」
「うん。まだ試作品だけど」
九条さんは一枚のカードを手に取った。
大学で再会した幼馴染の恋愛小説を紹介するものだ。
見出しには、以前から考えていた文章が書かれている。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
九条さんはその言葉を静かに読んだ。
そして、少しだけ目を細めた。
「……いい言葉ですね」
「本当?」
「はい。相手のことをよく知っているつもりでも、実は知らないことがあるかもしれないって、考えさせられます」
九条さんはそう言って、俺を見た。
その視線がいつもより少し柔らかく感じられる。
「七瀬君は、こういうことを考えながら本を読んでいるんですね」
「そうですね。特に恋愛小説だと、登場人物が相手の気持ちに気づくまでの過程が面白いので」
俺がそう答えると、九条さんは一瞬だけ言葉を止めた。
白石先輩も、なぜか少しだけ微笑みを深くした。
「……なるほど。登場人物の気持ちに気づくまでの過程、ですか」
九条さんは小さく呟いた。
俺は頷いた。
「はい。読者には分かってるのに、本人だけ気づいてないっていう展開も、よくありますよね」
その瞬間、白石先輩が口元へ手を当てた。
九条さんは少しだけ視線を逸らす。
俺は不思議に思った。
「……どうかしました?」
「いえ、何でもありません」
九条さんはそう答えたが、耳が少し赤くなっているように見えた。
白石先輩は柔らかく笑いながら言った。
「七瀬君は、本当に恋愛小説が好きなのね」
「はい。大好きです」
俺がそう答えると、二人は顔を見合わせた。
何だか、少しだけ意味ありげな空気になった気がする。
けれど、俺には理由が分からなかった。
◇◇◇
放課後、俺は教室で帰り支度をしていた。
雫から借りた短編集は、今日も鞄の中へ丁寧にしまってある。
昼休みに図書室で話した紹介カードのことを考えながら、ノートを片づけていると、雫が近づいてきた。
「春樹、今日も一緒に帰れる?」
「うん。もちろん」
俺が答えると、雫は嬉しそうに微笑んだ。
俺たちは並んで教室を出た。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの姿があり、窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。
階段を下りながら、雫が尋ねてきた。
「昼休み、図書室に行ってたんだよね?」
「うん。白石先輩と紹介カードの配置を考えてたんだ。九条さんも来て、安全の案内について少し話したよ」
「そっか。準備、少しずつ進んでるんだね」
「そうだね。まだ決まってないことも多いけど、考えることが増えてきて面白いよ」
雫は嬉しそうに頷いた。
「春樹が楽しそうでよかった」
俺はその言葉に少し照れくさくなった。
「雫も、気分で本を選ぶ案を考えてくれただろ? あれもすごく参考になってるよ」
「……本当?」
「うん。読む人がどんな気持ちのときに本を手に取るのかって、俺はあんまり考えたことなかったから」
雫は少しだけ頬を赤くした。
「そう言ってもらえると嬉しいな。私も、何か役に立てたらいいなって思ってたから」
俺たちは校舎を出て、いつもの通学路へ向かった。
午後の空には薄い雲が広がっていたが、雨が降る気配はない。
風は朝より少し穏やかになっていて、街路樹の葉が静かに揺れていた。
しばらく歩いたところで、雫がふと足を緩めた。
「……ねえ、春樹」
「うん?」
「昨日の春のお話を読んで、何か思い出したことってあった?」
俺は少し考えた。
新しい学校へ通い始めた主人公が、少しずつ友人を作っていく物語。
最初は一人だった主人公が、最後には誰かと一緒に帰るようになる。
その変化が印象的だった。
「……そうだな。俺たちの帰り道のこと、ちょっと思い出したかも」
俺がそう答えると、雫は一瞬だけ目を見開いた。
「……私たちの?」
「うん。主人公にとって、一緒に帰る相手ができたことって、すごく大きな変化だっただろ? 俺は雫と一緒に帰るのが当たり前になってるけど、考えてみたら、それって結構ありがたいことなんだなって」
雫は何も言わず、俺を見つめていた。
俺は少し照れくさくなりながら続けた。
「毎日一緒に歩いて、いろんな話ができる相手がいるって、いいことだよね」
雫はしばらく黙っていた。
その頬が少しずつ赤くなっていく。
やがて、彼女は小さく微笑んだ。
「……うん。私も、そう思う」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
俺は何となく嬉しくなり、笑顔を返した。
「だから、これからもよろしくね、雫」
雫は一瞬だけ息を止めたように見えた。
けれど、すぐに頷いた。
「……うん。こちらこそ、よろしくね」
俺たちは再び歩き始めた。
その後、雫は少しだけ口数が少なくなった。
けれど、表情は穏やかで、どこか嬉しそうにも見える。
俺は無理に話題を変えず、彼女の歩幅に合わせて歩いた。
いつもの帰り道。
見慣れた街路樹。
何度も通った交差点。
それなのに、今日は少しだけ違って見える気がした。
(……本を読んだあとって、こういうことがあるんだよな)
物語の中で描かれていた景色や気持ちが、現実の何気ない場面と重なる。
だから、読書は面白い。
俺はそんなことを考えながら、雫と並んで歩き続けた。
◇◇◇
夕方、俺は自室の机へ向かい、雫から借りた短編集を開いた。
今日は夏の物語を読むつもりだ。
窓の外では、日が沈み始めた空が淡い橙色に染まっている。
机の上には温かい飲み物を置き、ページを汚さないように少し離しておいた。
俺はしおりを挟んでいたところから読み始めた。
夏の物語は、海辺の小さな町を舞台にしていた。
主人公は、毎年夏休みに祖父母の家へ遊びに来る高校生だった。
子どものころから何度も訪れている町なのに、今年は少しだけ景色が違って見える。
それは、久しぶりに再会した幼馴染の存在が大きかった。
以前は何も考えずに一緒に遊んでいた相手。
けれど、久しぶりに会うと、背が伸びていたり、話し方が変わっていたり、知らない表情を見せるようになっていた。
主人公は、その変化に戸惑いながらも、少しずつ相手のことを知ろうとする。
俺はページをめくりながら、自然に物語へ引き込まれていった。
(……なるほど。夏は再会の話なんだな)
春の物語が、新しい関係の始まりを描いていたのに対して、夏の物語は、昔から知っている相手との関係が少しずつ変わっていく話らしい。
同じ短編集でも、季節ごとに違う形の人間関係が描かれている。
俺はその構成が面白いと思った。
物語の中では、主人公と幼馴染が久しぶりに海辺を歩く場面へ進んでいた。
昔は当たり前のように手をつないでいた二人が、今は少しだけ距離を空けて歩いている。
主人公はその理由が分からず、何となく落ち着かない気持ちになっていた。
俺はその描写を読みながら、少し考えた。
(……昔と同じようにできなくなることって、あるよな)
成長すれば、関係も少しずつ変わっていく。
子どものころは何も気にしなかったことでも、今は違う意味を持つことがある。
それは、恋愛小説ではよく描かれるテーマだ。
俺はページをめくり、続きを読んだ。
主人公は幼馴染と話しているうちに、相手が自分の知らない時間を過ごしてきたことに気づく。
昔から知っているつもりだったのに、知らないことがたくさんある。
その事実に少し寂しさを覚えながらも、今の相手を知りたいと思うようになっていく。
俺はその部分を読んで、ふと雫のことを思い浮かべた。
雫とは幼いころから一緒にいる。
けれど、彼女がどんな本を好きなのか、最近になって初めて知ったことも多い。
今日借りた短編集も、その一つだ。
昔から知っている相手でも、まだ知らない一面がある。
そう考えると、少し不思議だった。
(……雫のこと、俺もまだ知らないことがあるんだろうな)
俺はページをめくる手を少しだけ止めた。
雫は以前、いつか話したいことがあると言っていた。
けれど、まだそのときではないとも話していた。
何を伝えようとしているのか、俺には分からない。
ただ、雫が自分の言葉で話せるようになるまで待とうと決めている。
だから、今は無理に聞く必要はない。
俺は再び本へ目を落とした。
物語の中では、主人公が幼馴染へ、昔の思い出について尋ねていた。
相手は少し驚きながらも、嬉しそうに答えている。
その会話を読みながら、俺は小さく笑った。
昔のことを話す時間も、きっと楽しいのだろう。
俺も今度、雫と昔の思い出について話してみたいと思った。
◇◇◇
同じころ、西条雫は自分の部屋で、春樹から借りている日常短編集を読んでいた。
今日は商店街の小さな喫茶店を舞台にした話を読み進めている。
主人公は、いつも同じ時間に店へ立ち寄る常連客のことを、少しずつ意識するようになる。
最初はただの顔見知りだった。
けれど、何度も会話を重ねるうちに、相手の好きな飲み物や、疲れているときの表情まで覚えるようになっていく。
その変化に、本人はなかなか気づかない。
周囲の人々の方が先に、二人の距離が変わっていることを感じ取っていた。
雫はその場面を読みながら、小さく微笑んだ。
(……春樹がこの本を好きなの、分かる気がする)
人と人との関係が、何気ない会話の中で少しずつ変わっていく。
その過程が丁寧に描かれているところが、春樹の好みに合っているのだろう。
けれど、雫にとっては、少しだけ別の意味でも心に残る作品だった。
相手の好きなものを覚えること。
相手が喜びそうなものを選ぶこと。
何でもない時間を、一緒に過ごしたいと思うこと。
それらは、雫が春樹に対して自然にしてきたことでもあった。
(……私も、いつの間にか春樹の好きなものばかり覚えてるんだよね)
雫は本を閉じずに、少しだけ視線を落とした。
春樹が好きな本の傾向。
読書に夢中になると時間を忘れてしまうこと。
気に入った作品を見つけると、感想を話したくなること。
そういうことを、昔からずっと見てきた。
だから、昨日貸した短編集も、きっと楽しんでくれると思えた。
雫はページをめくりながら、今日の帰り道で春樹が言ってくれた言葉を思い出した。
『毎日一緒に歩いて、いろんな話ができる相手がいるって、いいことだよね』
あの言葉を聞いたとき、胸の奥が温かくなった。
春樹にとって、自分と過ごす時間が当たり前のものではなく、大切なものとして感じられている。
そう思えただけで、嬉しかった。
(……でも、春樹はきっと、幼馴染として言ってくれたんだよね)
雫は小さく息を吐いた。
春樹は優しい。
けれど、恋愛に関しては驚くほど鈍感だ。
自分がどれだけ特別な気持ちで春樹を見ているのか、彼はまだ気づいていない。
雫は本を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの空には、薄い雲が広がっている。
遠くの家々には明かりが灯り始めていた。
(……いつか、ちゃんと伝えたいな)
その思いは、以前よりも少しだけはっきりしていた。
けれど、今すぐ言葉にする勇気はまだない。
幼いころ、二人で交わした約束。
春樹が忘れてしまっている、あの日のこと。
雫にとっては、今でも大切な思い出だった。
その約束を、いつか春樹へ話したい。
けれど、どんなふうに伝えればいいのか、まだ分からなかった。
雫は膝の上の本へ視線を戻した。
春樹が貸してくれた一冊。
その本を読んでいると、彼がどんな物語を好きなのか、少しだけ近くに感じられる。
雫は小さく微笑み、再びページを開いた。
◇◇◇
夜、俺は夏の物語を読み終えた。
海辺の町で再会した幼馴染の二人は、最後まで自分たちの気持ちをはっきり言葉にはしなかった。
けれど、以前とは少し違う距離で並んで歩くようになっていた。
昔の思い出を大切にしながら、今の相手を知ろうとする。
その変化が、とても印象的だった。
俺は本を閉じ、しばらく余韻に浸った。
(……うん。これもよかったな)
春の物語とは違う形で、人と人との関係が描かれている。
特に、昔から知っている相手でも、今の気持ちは改めて知ろうとしなければ分からないというところが心に残った。
俺はノートを開き、簡単に感想を書き留めた。
『夏の話。幼馴染との再会。昔の関係を大切にしながら、今の相手を知ろうとするところがよかった』
そこまで書いて、少し考える。
雫がこの本を選んでくれた理由が、少しずつ分かってきた気がする。
ただ、まだ秋と冬の物語が残っている。
全部読み終えたら、また違う印象になるかもしれない。
俺はスマートフォンを手に取った。
雫へ、今日の感想を少しだけ伝えてみよう。
『雫、夏の話も読み終えたよ』
送信すると、少しして返事が届いた。
『本当? どうだった?』
俺は少し考え、文章を打ち始めた。
『すごくよかった。昔から知ってる相手でも、今の相手をちゃんと知ろうとするところが印象的だった』
少しして、雫から返事が届いた。
『……うん。そこ、私も好き』
俺は自然に笑顔になった。
『春の話とは違う雰囲気だけど、どっちもいいね。秋の話も楽しみになってきた』
雫からの返事は、少し間を置いて届いた。
『ふふ。秋のお話は、私が特に好きなところがあるから、読んだらまた感想を聞かせてね』
『もちろん。明日、少し読み進めようと思ってる』
『うん。楽しみにしてる』
そのあと、雫からおやすみのメッセージが届いた。
俺も返信し、スマートフォンを机へ置いた。
窓の外には静かな夜が広がっている。
今日は、雫と朝から本の話をした。
悠斗と赤木さんが、借りた本について楽しそうに話しているところも見た。
昼休みには、白石先輩や九条さんと読書週間の準備について考えた。
そして、帰り道では、雫と一緒に歩く時間のことを少しだけ考えた。
俺は机の上の短編集へ目を向けた。
まだ秋と冬の物語が残っている。
雫が特に好きだと言っていた秋の話。
そこには、どんな気持ちが描かれているのだろう。
(……明日が楽しみだな)
俺は小さく笑い、本を丁寧に閉じた。
誰かに薦めてもらった本を読むことは、その人が大切にしているものを少しだけ知ることなのかもしれない。
雫がどんなところを好きだと思ったのか。
どんな場面に心を動かされたのか。
そのすべてを同じように感じることはできないかもしれない。
けれど、だからこそ感想を話すのが楽しみだった。
俺は机の明かりを消し、ベッドへ向かった。
明日も学校がある。
読書週間の準備も、少しずつ進んでいくだろう。
それでも、今日一番心に残っているのは、帰り道で雫が見せてくれた笑顔だった。
何でもない会話の中で、少し照れくさそうに笑っていた雫。
その表情を思い出すと、何だか温かい気持ちになる。
俺は目を閉じながら、明日も彼女と本の話ができたらいいなと思った。
そして、雫が秋の物語について特に感想を聞きたがっている理由を、まだ知らないまま、静かに眠りについた。




