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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第72話 幼馴染から本を借りたいだけなのに、どうして渡される前からこんなに大切な一冊になっているんだ?


 月曜日の朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。


 窓の外には薄い雲が広がっていたものの、雨が降りそうな気配はなく、住宅街には通勤や通学へ向かう人たちの姿がちらほらと見え始めていた。休日の静けさが残っていた昨日とは違い、遠くから聞こえる車の音にも、平日の朝らしい慌ただしさが混じっている。


 俺は布団から起き上がり、机の上に置いた鞄へ目を向けた。


 昨日の夜、学校へ持っていくものは一通り準備してある。教科書やノートのほかに、学校の図書室で借りていた連作短編集も入れておいた。


 白石先輩に薦めてもらった、駅を舞台にした作品だ。


 土曜日の午前中に読み終えたばかりなので、まだ物語の余韻が残っている。登場人物たちがそれぞれ違う時間を過ごしながら、同じ場所で少しずつ関わっていく構成が印象的で、読み終えたあとには最初の話をもう一度読み返したくなった。


 今日は、その本を図書室へ返却するつもりだった。


 そして、もう一つ楽しみにしていることがある。


(……雫が選んでくれた本、今日持ってきてくれるんだよな)


 昨日の夜、雫は自分の好きな短編集を貸してくれると約束してくれた。


 春夏秋冬、それぞれの季節を舞台にした日常の物語が収められているらしい。何気ない優しさや、誰かと一緒に過ごす時間の大切さが丁寧に描かれていると聞いて、俺はすっかり興味を引かれていた。


 もちろん、まだ実際に読んだわけではない。


 それでも、雫が二冊の候補から悩んで選んでくれたというだけで、何となく特別な本のように感じられる。


(……自分で選んだ本とは、また違う楽しみがあるんだな)


 俺はそんなことを考えながら制服へ着替え、朝食を済ませた。


 家を出る前には、鞄の中身をもう一度確認する。


 図書室へ返す本が入っていることを確かめてから、玄関で靴を履いた。


 いつもどおりの月曜日。


 けれど、今日は少しだけ学校へ向かうのが楽しみだった。


     ◇◇◇


 待ち合わせ場所へ向かうと、雫はすでに来ていた。


 いつもの通学路の脇で鞄を両手に持ち、道路の向こうを眺めている。朝の風が吹くたびに髪が小さく揺れ、制服の袖口を押さえる仕草が見えた。


 俺に気づいた雫は、ぱっと表情を明るくした。


「おはよう、春樹。今日はいつもより少し早いね」


「おはよう、雫。何となく早く目が覚めたんだ。雫も早かったみたいだけど、待たせちゃった?」


「ううん、私も今来たところだよ。それに、今日はちょっと楽しみなことがあったから、早めに準備が終わっちゃったの」


 雫はそう言って、鞄を持ち直した。


 その言葉を聞いた瞬間、俺は昨日の約束を思い出した。


「もしかして、昨日話してた本?」


「……うん。ちゃんと持ってきたよ」


 雫は少し照れくさそうに笑った。


 俺は思わず頬を緩めた。


「ありがとう。すごく楽しみにしてたんだ」


「ふふ。春樹ならそう言ってくれると思ってた。でも、まだ渡してないのに、そんなに楽しみにしてもらえると、ちょっと緊張しちゃうね」


「そうなの? 俺は雫が好きな本を読めるってだけで嬉しいけどな」


 俺がそう答えると、雫は一瞬だけ言葉を止めた。


 朝の光の中で、彼女の頬がほんのり赤くなったように見える。


 けれど、すぐに柔らかく笑い、俺の隣へ並んだ。


「……ありがとう。じゃあ、学校に着いたら渡すね。歩きながら出すと落としちゃいそうだし」


「うん。その方がいいね。九条さんにも、歩きながら本を出したりしないように言われてるし」


「そうだね。春樹、最近ちゃんと気をつけてるもんね」


 雫は少し嬉しそうに頷いた。


 以前の俺なら、鞄から本を取り出して表紙を眺めながら歩いてしまったかもしれない。


 けれど、九条さんから何度も注意され、周囲の安全を考えるようになってからは、歩きながら本を読むことを意識して避けている。


 好きなことを楽しむためにも、安全は大切だ。


 そんな当たり前のことを、最近になってようやく身につけつつある気がした。


 俺たちは並んで歩き始めた。


 通学路には同じ学校の生徒たちが増えていて、少し先の交差点では、信号が変わるのを待つ人たちが集まっている。雫は周囲の流れに合わせて歩きながら、昨日の読書について尋ねてきた。


「春樹、昨日は何を読んでたの? この前買った本、進んだ?」


「うん。商店街を舞台にした日常小説を読み終えたよ。新しい町へ引っ越してきた主人公が、少しずつ居場所を見つけていく話なんだけど、すごくよかった」


 俺は昨日読んだ物語を思い出しながら、印象に残った場面について話した。


 主人公が最初は周囲の親切を素直に受け取れなかったこと。


 それでも、商店街の人々と顔を合わせるうちに、少しずつ自分から挨拶できるようになったこと。


 そして、何でもない町の風景が、最後には主人公にとって大切な場所へ変わっていったこと。


 雫は俺の話を遮らず、時折頷きながら聞いてくれた。


「……そういうお話、私も好きだな。最初から全部うまくいくんじゃなくて、少しずつ変わっていくところがいいよね」


「そうそう。大きな事件がなくても、登場人物の気持ちが変わっていくのが分かると、読んでて嬉しくなるんだよ」


「春樹って、そういう小さな変化を見つけるのが上手だよね」


「え、そうかな?」


「うん。私が何となくいいなって思った場面でも、春樹はどうしてそう感じたのか、ちゃんと言葉にしてくれることがあるから」


 雫は少し考えるように視線を落としたあと、再び俺を見た。


「だから、今日貸す本も楽しみにしてるの。春樹が読んだら、私とは違うところに気づいてくれるかもしれないでしょ?」


 その言葉が嬉しくて、俺は自然に笑った。


「それなら、ちゃんと感想を伝えないとな。もちろん、無理に何か見つけようとするんじゃなくて、普通に楽しんで読むつもりだけど」


「うん。それが一番嬉しいよ」


 雫はそう答え、少しだけ歩幅を緩めた。


 俺も自然に速度を合わせる。


 そのとき、雫が何か言いかけるように唇を動かした。


 けれど、すぐに小さく首を振り、前を向いた。


「……どうしたの?」


「ううん、何でもない。ちょっと、今日の本のことを考えてただけ」


 雫は笑って答えた。


 俺はそれ以上尋ねなかった。


 以前、雫はいつか話したいことがあると言っていた。


 けれど、まだそのときではないとも話していた。


 何を伝えようとしているのかは分からないが、雫が自分の言葉で話せるようになるまで待とうと決めている。


 だから、今は無理に聞く必要はない。


 俺たちは再び学校へ向かって歩き始めた。


 朝の通学路には、生徒たちの話し声と足音が重なっている。


 その中で、雫はいつもより少しだけ嬉しそうに見えた。


     ◇◇◇


 教室へ入ると、すでに何人かのクラスメイトが登校していた。


 窓際では数人の生徒が週末の出来事について話していて、教室の後ろでは部活動の予定を確認している声が聞こえる。月曜日らしい少し眠そうな空気はあるものの、朝の教室は思っていたより賑やかだった。


 俺が席へ向かうと、高坂悠斗がこちらに気づいて手を上げた。


「おう、春樹。おはよう。昨日はありがとな」


「おはよう、悠斗。別に大したことはしてないよ」


「いや、結構助かったんだって。おかげで、余計なこと考えすぎずに済んだし」


 悠斗はそう言って笑った。


 昨日の電話で話していた、赤木さんへ本を貸すかどうかという相談のことだろう。


 俺は鞄を机へ置きながら尋ねた。


「それで、貸すことにしたの?」


「ああ。今日持ってきた。紗弥が前に興味あるって言ってた作品だし、まずは読んでもらおうかなって」


 悠斗は鞄の中から一冊の文庫本を取り出した。


 表紙には落ち着いた色合いのイラストが描かれていて、以前二人が見に行った展示と関係のある作品らしい。


「へえ、これなんだ。結構雰囲気のある表紙だね」


「だろ? 内容も面白いんだよ。まあ、紗弥がどう思うかは分かんないけどさ」


 そう言いながらも、悠斗の表情は昨日より明るかった。


 俺は少し安心した。


 そのとき、教室の入口から赤木紗弥さんが入ってきた。


 彼女は悠斗の姿を見つけると、軽く手を上げて近づいてきた。


「おはよう、高坂君。七瀬君もおはよう」


「おはよう、赤木さん」


 俺が挨拶を返す横で、悠斗は少し姿勢を正した。


「お、おはよう。あのさ、紗弥。この前話してた本、持ってきたんだけど」


 悠斗が文庫本を差し出すと、赤木さんの表情がぱっと明るくなった。


「本当? ありがとう。覚えててくれたんだ」


「そりゃ、興味あるって言ってたし。俺も好きな作品だから、読んでもらえたら嬉しいなって」


 赤木さんは本を受け取り、表紙を丁寧に眺めた。


 それから、悠斗へ視線を戻す。


「嬉しい。高坂君が面白いって言ってたから、ずっと気になってたんだ。大切に読むね」


 その言葉を聞いた悠斗は、一瞬だけ目を見開いた。


 すぐに笑顔を浮かべたものの、耳が少し赤くなっている。


「おう。急がなくていいからさ。読み終わったら、また感想聞かせてくれよ」


「うん。楽しみにしてる」


 赤木さんは本を鞄へしまい、自分の席へ向かった。


 悠斗はその後ろ姿を見送りながら、しばらく何も言わなかった。


 俺は少し笑って声をかけた。


「よかったね、悠斗。すごく喜んでたよ」


「……ああ。そうだな」


 悠斗は小さく頷いたあと、俺へ顔を向けた。


「なあ、春樹。お前、今の見てどう思った?」


「え? 赤木さん、本当に読みたそうだったし、貸してよかったんじゃないかな」


「……いや、まあ、それはそうなんだけどさ」


 悠斗は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局小さく笑って首を振った。


「何でもねえ。お前に聞いた俺が悪かった」


「えっ、何で?」


「いや、いいんだ。お前はそのままでいてくれ」


 何だかよく分からないことを言われた。


 けれど、悠斗は満足そうだったので、あまり気にしないことにした。


 そのやり取りを少し離れたところから見ていた雫は、俺たちへ近づきながら小さく笑った。


「高坂君、よかったね。赤木さん、すごく嬉しそうだったよ」


「西条まで……。いや、ありがとな」


 悠斗は照れくさそうに頭をかいた。


 雫はそれ以上からかわず、俺の方へ向き直った。


「春樹、ちょっといい?」


「うん。どうしたの?」


 雫は自分の鞄を開き、丁寧に包まれた一冊の文庫本を取り出した。


 薄いブックカバーがかけられていて、角が折れないように気をつけて持ってきたことが分かる。


「昨日話してた本。これ、春樹に貸したくて」


 俺は思わず笑顔になった。


「ありがとう、雫。すごく楽しみにしてたんだ」


 雫は少し照れくさそうに笑いながら、本を差し出した。


 俺は両手で受け取る。


 文庫本は思っていたより少し薄く、手に馴染む大きさだった。


 表紙を眺めると、四季を感じさせる柔らかな色使いのイラストが描かれている。


 春の花。


 夏の青空。


 秋の落ち葉。


 冬の雪景色。


 それぞれの季節が、一つの風景の中へ自然に収められていた。


「……いい表紙だね。何だか、見てるだけで落ち着く」


「ふふ、私もそこが好きなの。最初に本屋さんで見つけたとき、表紙が気になって手に取ったんだ」


 雫は嬉しそうに話してくれた。


 俺は本を開かず、まず表紙をゆっくり眺めた。


 人から借りた本なので、扱いには気をつけたい。


 それに、今は教室で本を読み始めるよりも、雫の話を聞きたかった。


「どの話が一番好きなの?」


 俺が尋ねると、雫は少し考えるように視線を落とした。


「……一つに決めるのは難しいかな。でも、秋のお話と冬のお話が特に好き」


「へえ。どんなところが?」


「秋のお話はね、いつも一緒に帰っている二人が、相手の何気ない優しさに気づくところが好きなの。冬のお話は、落ち込んでいる人の隣に、無理に理由を聞かずにいてくれる人が出てくるんだ」


 雫は言葉を選びながら、ゆっくり説明してくれた。


 俺はその話を聞き、ますます興味を引かれた。


「いいね。そういう、何でもない行動に気持ちが表れる話って好きだな」


「うん。春樹なら、そう言ってくれると思った」


 雫は柔らかく微笑んだ。


 その笑顔を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。


「大切に読むよ。読み終わったら、ちゃんと感想を伝えるね」


「ありがとう。急がなくていいから、春樹のペースで読んでね」


 雫はそう言ったあと、少しだけ迷うように鞄へ手を入れた。


 何かを取り出しかけたようだったが、すぐに手を戻す。


 俺は気になったものの、彼女が話し始めるのを待った。


「……それとね、春樹」


「うん?」


「この本、私が好きなところを全部先に話しちゃうと、読む楽しみが減っちゃうかもしれないから……続きは、読んでから話したいな」


 雫は少し照れくさそうに笑った。


 俺は頷いた。


「それがいいね。俺も、先入観なしで読んでみたいし」


「うん。じゃあ、約束」


 雫は嬉しそうに微笑んだ。


 俺は本を鞄へしまいながら、改めて思った。


 まだ一ページも読んでいない。


 それなのに、雫が選んでくれたというだけで、もうこの本を大切にしたいと思っている。


 何だか、不思議な感覚だった。


     ◇◇◇


 午前中の授業が終わり、昼休みになると、教室には弁当を広げる生徒たちの声が響き始めた。


 俺は昼食を済ませたあと、鞄から駅を舞台にした連作短編集を取り出した。


 今日は図書室へ返却するつもりだ。


 白石先輩に感想を伝える約束もしているので、少し早めに向かうことにした。


 廊下へ出ると、窓から差し込む光が床へ長く伸びていた。


 生徒たちが行き交う中、俺は本を鞄へしまったまま歩く。


 以前なら、つい表紙を眺めながら歩いてしまったかもしれないが、最近は意識して気をつけている。


 図書室の前へ到着すると、入口近くには読書週間に関する小さな案内が掲示されていた。


 まだ正式な展示が始まっているわけではない。


 けれど、準備が少しずつ進んでいることは分かる。


 俺は扉を開け、静かな図書室へ入った。


 室内には本の紙の匂いが漂い、窓際の席では何人かの生徒が読書をしていた。


 貸出カウンターの近くでは、白石先輩が書類を確認している。


 俺に気づくと、先輩は柔らかく微笑んだ。


「あら、七瀬君。こんにちは」


「こんにちは、白石先輩。借りていた本を返しに来ました」


 俺が本を差し出すと、先輩は表紙を確認してから受け取った。


「駅の連作短編集ね。昨日、読み終わったって教えてくれたもの」


「はい。すごく面白かったです。薦めてもらえてよかったです」


 先輩は少し嬉しそうに目を細めた。


「そう言ってもらえると、私も嬉しいわ。返却の手続きを済ませるから、少し待っていてね」


 俺は頷き、カウンターの前で待った。


 先輩は本の状態を確認し、返却の処理を進める。


 その手つきは慣れていて、普段から図書委員として丁寧に仕事をしていることが伝わってきた。


 手続きが終わると、先輩は本を所定の場所へ置いた。


「これで返却は大丈夫よ。ところで、昨日の感想、もう少し聞いてもいいかしら?」


「もちろんです。俺も話したかったので」


 俺たちはカウンターの端へ少し移動し、ほかの生徒の利用を妨げない位置で話し始めた。


 先輩は俺の話を急かさず、時折頷きながら聞いてくれた。


「最初は、それぞれ独立した話だと思ってたんです。でも、読み進めると前に出てきた人物が別の話にも登場していて、少しずつつながっていくのが面白かったです」


「ええ。あの構成は、読み返すと印象が変わるところが魅力なのよね」


「特に、同じ出来事を別々の人が違う形で覚えていたところが印象的でした。片方にとっては何でもないことでも、もう片方には大切な思い出になっているっていうのが、すごくよかったです」


 俺がそう話すと、先輩は少しだけ表情を変えた。


 驚いたようにも、何かを考えているようにも見える。


「……七瀬君は、そこが一番心に残ったのね」


「はい。何だか、現実でもありそうだなって思って」


 先輩は静かに頷いた。


「そうね。誰かにとっては何気ない会話でも、別の誰かにとっては、ずっと覚えていたい言葉になることがあるもの」


 その声は、いつもより少し柔らかかった。


 俺は頷きながら答えた。


「だから、読み終わったあとに最初の話をもう一度読みたくなったんです。登場人物が何を感じてたのか、最初とは違う見方ができそうで」


「ふふ。私もそうだったわ」


 先輩は嬉しそうに笑った。


 それから、少しだけ視線を落とした。


「……七瀬君に薦めてよかった。あなたがどう感じるのか、実は少し気になっていたの」


「そうだったんですか?」


「ええ。自分が好きな本を誰かに薦めるときって、少し緊張するでしょう?」


 俺は昨日の悠斗との電話を思い出した。


 赤木さんへ本を貸すことについて、悠斗も同じようなことを言っていた。


「分かります。相手が楽しんでくれるか、気になりますよね」


「そうなの。もちろん、感想が違ってもいいと思っているけれど……やっぱり、好きな本を大切に読んでもらえると嬉しいわ」


 先輩はそう言って微笑んだ。


 俺は自然に笑顔になった。


「それなら、俺も嬉しいです。先輩が薦めてくれた本、すごく大切に読めましたから」


 その瞬間、先輩の頬がほんのり赤くなった。


 けれど、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻る。


「……ありがとう、七瀬君」


 先輩は小さく微笑んだ。


 その笑顔が何となく嬉しくて、俺も笑い返した。


     ◇◇◇


 その後、俺たちは読書週間の準備について少しだけ話した。


 昨日、白石先輩から相談された、生徒のおすすめを集める案についてだ。


 先輩はカウンターの下からメモを取り出し、俺へ見せてくれた。


「昨日、七瀬君が話してくれたことを、簡単にまとめてみたの」


 そこには、作品名だけでなく、どんな気分のときに読みたいか、なぜおすすめしたいのかを尋ねる案が書かれていた。


 俺は内容を確認し、頷いた。


「いいと思います。理由を長く書かなくてもいいっていうのも、入れてもらえたんですね」


「ええ。参加する人が負担に感じないようにした方がいいと思って」


 先輩はそう言いながら、別の欄を指差した。


「ただ、実際に募集するかどうかは、まだ決まっていないの。委員会で相談して、必要な確認をしてからになるわ」


「もちろんです。俺も、まずは候補として考えてもらえれば十分です」


 俺は頷いた。


 思いついた案がすぐに実現するとは限らない。


 けれど、こうして一つずつ形にしていく過程も楽しかった。


 先輩はメモを閉じ、少し考えるように俺を見た。


「七瀬君は、最近いろいろな人と本の話をしているでしょう?」


「そうですね。前より増えた気がします」


「それって、きっといいことだと思うの。読書が好きな人だけじゃなくて、普段あまり本を読まない人にも、楽しさが伝わるかもしれないから」


 俺は少し考えた。


 確かに、最初は自分が好きな本を読むだけで十分だと思っていた。


 けれど、誰かと感想を話すようになってから、読書の楽しみ方が少し変わった気がする。


「俺も、そう思います。最近は、自分が読む本を選ぶときにも、誰かのことを考えるようになりました」


「……誰かのこと?」


 先輩が静かに尋ねた。


「はい。雫ならこういう話が好きそうだなとか、小日向さんならこの登場人物を気に入りそうだなとか。先輩なら、こういう構成を面白がってくれそうだなって」


 俺がそう答えると、先輩は少しだけ目を見開いた。


 それから、柔らかく微笑む。


「……そう。私のことも、考えてくれているのね」


「もちろんです。先輩にはいろいろ薦めてもらってますし、俺も面白い本を見つけたら話したいですから」


 先輩は少しだけ視線を落とした。


 何かを考えているようだったが、やがて顔を上げた。


「ありがとう。私も、七瀬君と本の話をする時間が好きよ」


 その言葉が嬉しくて、俺は笑顔になった。


「俺もです。また面白い本を見つけたら、ぜひ話しましょう」


「ええ。楽しみにしているわ」


 先輩はそう答え、少し照れくさそうに微笑んだ。


 俺はその表情を見ながら、やっぱり本の話ができる相手がいるのはいいことだと思った。


     ◇◇◇


 放課後、俺は教室で帰り支度をしていた。


 雫から借りた短編集は、鞄の中へ丁寧にしまってある。


 今日はまだ読めていないが、帰宅したら少しずつ読み始めるつもりだ。


 教室では、悠斗が赤木さんと何か話していた。


 どうやら、今朝貸した本についての話らしい。


 赤木さんはまだ読み始めていないようだったが、表紙やあらすじについて楽しそうに話している。


 悠斗も嬉しそうだった。


 俺はその様子を見て、小さく笑った。


(……よかったな、悠斗)


 好きな本を誰かに貸す。


 それだけでも、会話のきっかけになることがある。


 悠斗と赤木さんも、きっとこれから感想を話す時間が増えるのだろう。


 そんなことを考えていると、雫が俺の席へ近づいてきた。


「春樹、帰る準備できた?」


「うん。ちょうど終わったところ」


「よかった。じゃあ、一緒に帰ろう?」


「もちろん」


 俺は鞄を持ち、雫と並んで教室を出た。


 廊下には部活動へ向かう生徒たちの姿があり、窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。


 階段を下りながら、雫は少しだけこちらを見た。


「春樹、今日貸した本、帰ったら読む?」


「うん。すごく楽しみにしてるから、少し読み始めようと思ってる」


 俺がそう答えると、雫は嬉しそうに微笑んだ。


「そっか。……でも、無理して今日読まなくてもいいからね」


「大丈夫。読みたいから読むんだよ」


「ふふ。春樹らしいね」


 雫はそう言って笑った。


 校舎を出ると、午後の風が少し冷たく感じられた。


 空には薄い雲が広がっているものの、雨の気配はない。


 俺たちはいつもの通学路を並んで歩き始めた。


 しばらくは授業の話や、今日の教室での出来事について話していた。


 その途中で、雫がふと足元へ視線を落とした。


「……春樹」


「うん?」


「今日、本を渡せてよかった」


 雫は少し照れくさそうに笑った。


 俺は自然に頷いた。


「俺も嬉しかったよ。雫が好きな本を選んでくれたんだし」


「……うん」


 雫は小さく頷いたあと、少しだけ歩幅を緩めた。


 俺も自然に速度を合わせる。


「ねえ、春樹。誰かに本を薦めるのって、ちょっと勇気がいることもあるんだね」


 その言葉に、俺は少し考えた。


「そうかもしれないね。自分が好きな本だからこそ、相手がどう思うか気になることもあるし」


「うん。私も、昨日までずっと迷ってたの。春樹に読んでほしい本が二冊あって、どっちを選べばいいのかなって」


 雫はそう話しながら、少しだけ遠くを見た。


「でもね、最後は、今の私が一番読んでほしいと思った方を選んだんだ」


 俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。


 雫は、ただ適当に本を選んだわけではない。


 俺が楽しめるかどうかを考えながら、自分の好きな作品を選んでくれたのだ。


「ありがとう、雫。そうやって選んでもらえるの、すごく嬉しいよ」


 俺がそう言うと、雫は一瞬だけ足を止めかけた。


 けれど、すぐに歩き続けながら、柔らかく微笑んだ。


「……春樹って、本当にそういうことを自然に言うよね」


「え? 変なこと言った?」


「ううん。全然。……むしろ、嬉しいよ」


 雫はそう答え、少しだけ頬を赤くした。


 俺は首を傾げたものの、彼女が嬉しそうだったので、それ以上気にしなかった。


 しばらく歩いたあと、雫が小さく笑った。


「春樹、読んでみて、もし私と違う感想になっても気にしないでね」


「もちろん。むしろ、違うところに注目してたら、それも面白いと思うよ」


「……うん。そうだよね」


 雫は安心したように頷いた。


 その横顔を見ながら、俺は改めて思った。


 誰かに本を薦めることは、ただ作品を紹介するだけではないのかもしれない。


 自分がどんなところを好きなのか、何を大切に感じているのか。


 そういうことを、少しだけ相手へ伝える行為でもあるのだろう。


 だからこそ、雫が選んでくれた本を大切に読みたい。


 俺はそんなことを考えながら、彼女と並んで帰り道を歩いた。


     ◇◇◇


 夕方、俺は自室の机へ向かい、雫から借りた短編集を取り出した。


 薄いブックカバーを外さず、まずは本の厚さや手触りを確かめる。


 何度か読まれているらしく、ページには自然な柔らかさがあった。


 けれど、角が折れているところはなく、丁寧に扱われてきたことが分かる。


(……雫、大切に読んでるんだな)


 俺は少し嬉しくなった。


 自分が好きな本を誰かに貸すとき、きれいな状態で返ってくると安心する。


 だから、俺も同じように大切に扱いたい。


 机の上を片づけ、飲み物を少し離れた場所へ置く。


 それから、ゆっくりと最初のページを開いた。


 最初の物語は、春を舞台にしていた。


 新しい学校へ通い始めた主人公が、慣れない教室で少しずつ友人を作っていく話らしい。


 最初の場面では、教室の窓から見える桜の木が描かれていた。


 満開の花びらが風に舞い、校庭を歩く生徒たちの肩へ静かに落ちていく。


 主人公はその景色を眺めながら、新しい環境への不安を抱えている。


 周囲では楽しそうに会話する生徒たちがいるのに、自分だけがその輪へ入れないように感じていた。


 俺は読み進めながら、文章の雰囲気に引き込まれていった。


 大きな事件が起きるわけではない。


 けれど、主人公が教室の中で感じている小さな緊張や、誰かに声をかけられたときの戸惑いが丁寧に描かれている。


 やがて、隣の席の生徒が何気なく声をかけてくる。


 最初は短い会話だけだった。


 けれど、翌日も、その次の日も、少しずつ言葉を交わすようになる。


 主人公は、いつの間にか学校へ向かう足取りが軽くなっていることに気づく。


(……うん。こういう話、好きだな)


 俺は自然に頬を緩めた。


 雫が薦めてくれた理由が、少し分かる気がする。


 登場人物の感情が大きく変わる瞬間だけではなく、そこへ至るまでの小さな積み重ねが丁寧に描かれている。


 何気ない挨拶。


 少しずつ増える会話。


 相手の好きなものを覚えること。


 そうした行動が、少しずつ人と人との距離を変えていく。


 俺はページをめくりながら、雫と過ごしてきた時間を思い出した。


 幼いころから一緒にいるので、初めて会った日のことはほとんど覚えていない。


 けれど、学校へ向かう朝の道や、帰り道に交わす会話は、今でも当たり前のように続いている。


 雫は俺の好きな本のことをよく覚えていてくれる。


 俺が話し始めると、急かさずに聞いてくれる。


 それがどれだけありがたいことなのか、最近になって少しずつ実感するようになった。


(……雫って、本当にいい幼馴染だよな)


 俺は小さく笑い、再び本へ目を落とした。


 物語の中では、主人公が初めて友人と一緒に帰る場面へ進んでいた。


 夕方の校門を出て、まだ慣れない道を二人で歩く。


 それまで一人で帰っていた主人公にとって、その時間は少しだけ特別なものになっていた。


 俺はその描写を読みながら、自然に雫の顔を思い浮かべた。


 いつもの帰り道。


 何でもない会話。


 同じ景色を眺めながら歩く時間。


 そういうものが、誰かにとっては大切な思い出になることもある。


 昨日まで読んでいた駅の連作短編集にも、似たようなことが描かれていた。


 俺はページをめくる手を少しだけ止めた。


(……雫は、こういうところが好きなのかな)


 まだ最初の話の途中だ。


 それでも、彼女がこの本を選んでくれた理由を少しだけ理解できた気がした。


 俺は続きを読み進めた。


     ◇◇◇


 同じころ、西条雫は自分の部屋で、春樹から借りている日常短編集を読んでいた。


 すでに何編か読み終えているものの、まだ最後までは進んでいない。


 今日は、商店街の小さな店を舞台にした話を読んでいた。


 主人公は、いつも同じ時間に店へ立ち寄る常連客のことを、少しずつ意識するようになる。


 最初はただの顔見知りだった。


 けれど、何度も会話を重ねるうちに、相手の好きな飲み物や、疲れているときの表情まで覚えるようになっていく。


 その変化に、本人はなかなか気づかない。


 周囲の人々の方が先に、二人の距離が変わっていることを感じ取っていた。


 雫はその場面を読みながら、小さく微笑んだ。


(……春樹がこの本を好きなの、分かる気がする)


 人と人との関係が、何気ない会話の中で少しずつ変わっていく。


 その過程が丁寧に描かれているところが、春樹の好みに合っているのだろう。


 けれど、雫にとっては、少しだけ別の意味でも心に残る作品だった。


 相手の好きなものを覚えること。


 相手が喜びそうなものを選ぶこと。


 何でもない時間を、一緒に過ごしたいと思うこと。


 それらは、雫が春樹に対して自然にしてきたことでもあった。


(……私も、いつの間にか春樹の好きなものばかり覚えてるんだよね)


 雫は本を閉じずに、少しだけ視線を落とした。


 春樹が好きな本の傾向。


 読書に夢中になると時間を忘れてしまうこと。


 気に入った作品を見つけると、感想を話したくなること。


 そういうことを、昔からずっと見てきた。


 だから、今日貸した短編集も、きっと楽しんでくれると思えた。


 雫はページをめくりながら、朝の教室で本を渡したときの春樹の笑顔を思い出した。


 あんなに嬉しそうに受け取ってくれるとは思わなかった。


 自分が好きな本を選んだだけなのに、春樹は何度もありがとうと言ってくれた。


 その言葉が、今も胸の奥に残っている。


(……よかった。あの本にして)


 雫は小さく息を吐き、再び物語へ目を向けた。


 春樹がどんな感想を持つのか、まだ分からない。


 けれど、違う感想になっても構わない。


 自分が好きな本を、彼が自分の言葉で読んでくれる。


 そのこと自体が嬉しかった。


 雫は少しだけ笑い、続きを読み始めた。


     ◇◇◇


 夜、俺は雫から借りた短編集の最初の話を読み終えた。


 新しい学校へ通い始めた主人公が、少しずつ友人を作っていく春の物語だった。


 最後の場面では、主人公が初めて自分から友人を誘い、一緒に帰ることになる。


 それまで不安そうだった主人公が、夕方の桜並木を歩きながら自然に笑えるようになっている。


 大きな出来事が起きたわけではない。


 けれど、その変化がとても印象的だった。


 俺は本を閉じ、しばらく余韻に浸った。


(……うん。雫が薦めてくれた理由、少し分かってきたな)


 誰かと一緒に過ごす時間が、少しずつ特別なものになる。


 その過程が、丁寧に描かれている。


 俺は机の上のノートを開き、簡単に感想を書き留めた。


『春の話。新しい環境への不安が、何気ない会話の積み重ねで少しずつ和らいでいくところがよかった』


 そこまで書いて、少し考える。


 まだ一編しか読んでいないので、作品全体の感想を決めるのは早い。


 けれど、最初の話だけでも、かなり気に入った。


 俺はノートを閉じ、スマートフォンを手に取った。


 雫へ、少しだけ感想を伝えてみよう。


『雫、今日貸してくれた本、春の話を読み終えたよ』


 送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『本当? どうだった?』


 俺は少し考え、文章を打ち始めた。


『すごくよかった。主人公が少しずつ学校に馴染んでいくところが丁寧で、最後に自分から友達を誘えるようになったのが嬉しかった』


 少しして、雫から返事が届いた。


『ふふ。そこ、私も好きなの。最初は声をかけられるだけで緊張してたのに、最後は自分から誘えるようになるんだよね』


『そうそう。大きな事件がなくても、気持ちの変化がちゃんと伝わってくるのがいいなって思った』


 雫からの返事は、少し間を置いて届いた。


『春樹にそう言ってもらえて、すごく嬉しい』


 俺は自然に笑顔になった。


『薦めてくれてありがとう。まだ最初の話だけだけど、もうかなり好きだよ』


 送信すると、雫から笑顔のスタンプが届いた。


 それから、もう一通。


『……ねえ、春樹。秋のお話を読んだら、また感想を聞かせてほしいな』


 俺は少し首を傾げた。


 秋の話は、雫が特に好きだと言っていた作品だ。


 だから、感想を聞きたいのだろう。


『もちろん。秋の話、楽しみにしてる』


『うん。ありがとう』


 そのあと、雫からおやすみのメッセージが届いた。


 俺も返信し、スマートフォンを机へ置いた。


 窓の外には静かな夜が広がっている。


 今日は、雫から本を借りた。


 白石先輩へ、読み終えた本の感想を伝えた。


 悠斗は赤木さんへ、自分の好きな作品を貸していた。


 考えてみれば、今日は本を通じて、いろいろな人の気持ちが動いた一日だったのかもしれない。


 俺は机の上の短編集へ目を向けた。


 雫が大切にしている一冊。


 その本を、今は俺が借りている。


 まだ最初の物語しか読んでいないけれど、すでに続きを楽しみにしている自分がいた。


(……明日は夏の話を読もうかな)


 俺は小さく笑い、本を丁寧に閉じた。


 誰かに薦めてもらった本を読むことは、その人が大切にしているものを少しだけ知ることなのかもしれない。


 雫がどんなところを好きだと思ったのか。


 どんな場面に心を動かされたのか。


 そのすべてを同じように感じることはできないかもしれない。


 けれど、だからこそ感想を話すのが楽しみだった。


 俺は机の明かりを消し、ベッドへ向かった。


 明日も学校がある。


 読書週間の準備も、少しずつ進んでいくだろう。


 それでも、今日一番心に残っているのは、朝の教室で雫が本を差し出してくれたときのことだった。


 大切にしている本を、少し照れくさそうに渡してくれた雫。


 その笑顔を思い出すと、何だか温かい気持ちになる。


 俺は目を閉じながら、明日も彼女と本の話ができたらいいなと思った。


 そして、雫が秋の物語について特に感想を聞きたがっている理由を、まだ知らないまま、静かに眠りについた。


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