第9話 本を読んでいただけなのに、後輩の勉強を見ることになった
金曜日の朝、七瀬春樹は珍しく、始業十五分前から自分の席に座っていた。
教室の窓は半分ほど開いており、五月の終わりに近づいた風が薄いカーテンをゆっくり揺らしている。登校してくる生徒はまだまばらで、廊下から聞こえる足音も普段より少ない。
そんな静かな教室で、春樹は一冊の文庫本を両手で持っていた。
例の連作短編集である。
四編目。
残り、およそ三十ページ。
(いける)
春樹は時計を見る。
ホームルームまで十四分。
平均的な読書速度を考えれば、三十ページ全部は厳しい。
しかし二十ページ程度なら読める。
そこで切りのいい場所まで進み、昼休みに残りを読めばいい。
(完璧だ)
昨日から少しずつ身につけ始めた時間管理能力を駆使した、隙のない計画である。
春樹はページへ視線を戻した。
四編目の主人公は、駅前の小さな花屋で働く二十代の女性だった。これまでの三編にも脇役として何度か登場していた人物であり、春樹はてっきり物語同士を繋ぐためだけの存在だと思っていた。
ところが、その予想は完全に外れた。
(この人が主人公になるのか。いや、待てよ。じゃあ一編目で花束渡してた相手って――)
「おはよー」
「…………」
「おはよう、春樹」
「…………」
「おーい」
本の上から手が現れた。
春樹は顔を上げる。
「悠斗」
「おはよう」
「今かなり重要なところなんだけど」
「朝の挨拶くらい返せよ」
「おはよう。じゃあ読んでいい?」
「扱い雑じゃない?」
高坂悠斗が笑いながら前の席へ座る。
春樹は一度本へ戻りかけたが、ふと昨日のことを思い出した。
「悠斗」
「ん?」
「昨日の――」
そこまで言って、春樹は周囲を見る。
まだ近くに生徒は少ない。
声を落とした。
「昨日の相談、大丈夫そう?」
悠斗は一瞬だけ目を丸くした。
「……覚えてたの?」
「友達から真面目に相談されたことくらい覚えてるよ。俺を何だと思ってるんだ」
「本以外は三歩歩いたら忘れるタイプかと」
「鶏以下じゃねえか」
「冗談だよ」
悠斗は笑ってから、少し考える。
「まだ別に何もしてない」
「そりゃ昨日の今日だしな」
「でも、普通に話してみようとは思ってる」
「それでいいんじゃない?」
「春樹に言われた通り、変に意識しないで」
「俺、『意識するな』とは言ってないぞ。もう気になってるんだから意識するのは仕方ないだろ。ただ、急に格好つけるなって言っただけ」
「細かいな」
「そこ大事だろ。昨日まで普通に喋ってた奴が、急に壁に手ついて『今日のお前、可愛いな』とか言い出したら怖いだろ」
「俺そんなことしねえよ!」
「例えだって」
「朝から気持ち悪い想像させるな」
悠斗が顔をしかめる。
春樹は笑い、本を持ち直した。
「まあ、焦る必要ないって。話せるなら話して、楽しかったらまた話せばいいだろ」
「……お前、本当に他人のことだと普通だな」
「何が?」
「いや」
「またそれ?」
最近、この返しを聞く機会が妙に多い。
春樹は首を傾げたものの、悠斗が話す気がないなら追及するほどでもない。
「じゃあ俺、読むから」
「はいはい」
再び本へ視線を落とす。
だが二ページ進んだところで、今度は教室の入口から聞き慣れた声が飛んできた。
「春樹、おはよう」
「おはよう。今日はちゃんと挨拶したから読ませてくれ」
「何その言い方」
西条雫が鞄を机へ置きながら眉を寄せる。
その隣には赤木紗弥もいる。
「おはよう、七瀬君」
「おはよう、赤木」
「私と扱い違わない?」
「赤木は本を取り上げないから」
「私だって毎回取らないわよ!」
「必要なときは取るじゃん」
「必要だからでしょ」
「ほら」
「何が『ほら』よ」
朝から始まった言い合いを、紗弥と悠斗が笑って眺める。
春樹は数往復したところで自分から手を上げた。
「休戦。あと十分しかない」
「はいはい。読めば?」
「ありがとう」
「許可なんかしてないけど」
「いい幼なじみを持った」
「都合いいときだけ言わないで」
雫は呆れながらも、それ以上邪魔しなかった。
春樹は本へ戻る。
朝の教室に、ページをめくる小さな音が混じる。
やがて生徒の数が増え、教室内の声も大きくなっていったが、春樹は気にしない。
物語へ集中しているとき、多少の雑音なら頭から消せる。
そしてホームルーム開始三分前。
春樹は栞を挟んだ。
「よし」
「自分で閉じた……」
雫が驚いた顔をする。
「お前、最近俺のこと何だと思ってる?」
「成長期」
「高校二年生に使う言葉じゃないだろ」
「精神的には合ってるんじゃない?」
「ひどくない?」
前から悠斗の笑い声が聞こえた。
その直後、教室の扉が開く。
「おーし、席につけ」
永山剛志が入ってきた。
春樹は本を机の中へ入れる。
永山がそれを見た。
「七瀬」
「はい」
「今、自分から本しまったな」
「先生まで!?」
教室に笑い声が広がった。
「何なんですか最近! 俺が時間守っただけで全員珍獣見たみたいな反応するのやめてもらえます!?」
「過去の積み重ねだ」
「積み重ねって怖いな!」
「信用というのはそういうものだ。これから積み直せ」
「急に教育者っぽい」
「教育者だ!」
再び笑いが起きる。
永山は出席簿を教卓へ置きながらも、口元は少し笑っていた。
◇◇◇
午前の授業は、驚くほど平和に終わった。
春樹は一度も本を開かなかった。
スマートフォンにも触らなかった。
当てられた問題には答え、ノートも最低限取った。
本人にとってはかなり頑張っているつもりなのだが、周囲からすればようやく普通の高校生になっただけらしい。
四時間目終了後。
春樹は机へ突っ伏した。
「疲れた……」
「何も特別なことしてないよね?」
弁当を持ってやってきた雫が冷静に言う。
「四時間ずっと目の前に本があるのに開かなかったんだぞ」
「授業中なんだから当たり前」
「甘い物を目の前に置かれた状態で四時間食べるなって言われるのと同じだぞ」
「違うと思う」
「同じだ」
「違う」
「俺にとっては同じなの!」
春樹は身体を起こし、弁当を取り出した。
悠斗と紗弥も集まる。
昨日までと同じ四人での昼食が始まった。
「今日は図書室行くの?」
紗弥が尋ねる。
「行く。四編目があと十ページくらい」
「もうそんなに読んだんだ」
「昨日三編目終わって、四編目途中まで読んだからな。朝も読んだし」
「白石先輩とまた感想会?」
悠斗がにやにやしながら言う。
「感想会ってほど大げさじゃないけど、いたら話す」
「毎日会ってんな」
「図書委員なんだから図書室にいること多いだろ」
「いや、そういう意味じゃ――」
「春樹」
雫が口を挟む。
「卵焼き落ちそう」
「うおっ」
箸で持った卵焼きが傾いていた。
春樹は慌てて口へ運ぶ。
「危なかった」
「本の話しながら食べるからよ」
「今のは悠斗が変なこと言うからだろ」
「俺!?」
「責任取れ」
「卵焼き一個で何の責任取るんだよ!」
騒がしい。
けれど、春樹はこの昼食時間を嫌いではなかった。
本を読む時間とはまったく違う。
誰かが話し、誰かが突っ込み、くだらないことで笑う。
それはそれで楽しい。
(まあ、二十五分くらい残れば十分だな)
春樹が時計を確認した、そのときだった。
「七瀬先輩」
教室の入口付近から声がした。
春樹だけでなく、周囲にいた何人かの生徒がそちらを見る。
新海真実が立っていた。
一年生の中でも目立つ容姿をしているため、二年生の教室に来ると自然に視線が集まる。
「新海?」
春樹が箸を置く。
真実は少しだけ居心地悪そうに周囲を見てから、春樹へ小さく手を上げた。
「少しいいですか?」
「いいけど」
春樹は立ち上がる。
雫が真実へ軽く手を振った。
「真実ちゃん、こんにちは」
「あ、雫先輩。こんにちは」
「どうしたの?」
「ちょっと七瀬先輩に聞きたいことがあって」
「俺に?」
「はい」
真実は手に持っていたノートと問題集を見せた。
「数学、教えてもらえませんか?」
「…………」
春樹は問題集を見る。
真実を見る。
時計を見る。
もう一度問題集を見る。
「……数学?」
「はい」
「俺に?」
「はい」
「なんで?」
「そこからですか?」
真実が困ったように笑う。
春樹は本気で分からなかった。
「いや、俺より先生に聞いた方が確実だろ」
「先生、昼休みに会議があるみたいで」
「友達は?」
「美優も同じところで分からなくなってます」
「同じクラスに数学得意な人いない?」
「いると思いますけど……」
真実は少し言いにくそうに間を置いた。
「七瀬先輩、成績いいって聞いたので」
「誰から?」
「雫先輩です」
春樹がゆっくり雫を見る。
「雫」
「何よ」
「売ったな?」
「売ってないわよ!」
「俺の貴重な昼休みを!」
「真実ちゃんが昨日、『七瀬先輩って授業中よく本読んでるのに大丈夫なんですか』って聞くから、順位は高いって言っただけ!」
「余計な情報を……!」
「事実でしょ!」
「俺は馬鹿だと思われてるくらいがちょうどいいんだよ!」
「何その生き方!」
教室の何人かが笑う。
真実も口元を押さえていた。
「で、どこ?」
春樹が言う。
「え?」
「数学。どこが分からない?」
真実が目を瞬かせる。
「いいんですか?」
「ここまで来た後輩を『本読みたいから帰れ』って追い返すほど薄情じゃないよ」
「……ありがとうございます」
「ただし俺、教師じゃないから教え方下手かもしれないぞ」
「それでも大丈夫です」
「あと十分くらいで終わらせたい」
「それは本を読むためですよね?」
「もちろん」
「そこは隠さないんですね」
「嘘ついても仕方ないだろ」
春樹は空いている隣の机を引いた。
「座れば?」
「はい」
真実が椅子へ座る。
雫たちはそのまま近くにいる。
「俺ら邪魔?」
悠斗が聞く。
「別に。数学やるだけだし」
「じゃあ見学しよ」
「見世物じゃないぞ」
「春樹が人に勉強教えるところ珍しいから」
「俺だって教えるくらいできるよ」
「私も見たい」
紗弥まで残る。
春樹はため息を吐いた。
「好きにしてくれ」
真実が問題集を開いた。
「ここなんですけど」
指差したのは二次関数の問題だった。
グラフと直線の交点、さらに条件から定数を求める形式。
春樹は問題文を読む。
「これ、どこまで分かる?」
「途中までは」
「じゃあやってみて」
「え?」
「俺が最初から解いたら、新海がどこで分からなくなってるか分からないだろ」
「あ……はい」
真実はシャープペンシルを持った。
ノートへ式を書いていく。
春樹は横から黙って見る。
途中までは合っている。
式の変形も問題ない。
だが、あるところで真実の手が止まった。
「ここです」
「なるほど」
春樹はノートを少し自分側へ寄せた。
「新海、これ二つを別々の情報として考えてるだろ?」
「はい」
「そこが引っかかってる原因かも。この直線と放物線が交わるってことは、交点では両方の式が同時に成立するんだよ」
春樹は余白へ小さなグラフを書く。
「例えば、こっちが道で、こっちも別の道だとするだろ?」
「はい」
「交差点に立ってる人は、どっちの道の上にもいる。だから同じ座標を両方へ入れられる」
「……あ」
「見えてきた?」
「ちょっと待ってください」
真実は自分で式を書き始めた。
春樹は手を出さない。
途中で一度止まったが、そのまま考えさせる。
数十秒後。
「……これですか?」
「そう」
「できた」
「じゃあ次、自分だけで似た問題やってみて」
「え、もう?」
「今できた直後にやった方がいい。俺の説明覚えてるんじゃなくて、自分で解けるか確認した方がいいから」
真実は隣の問題を見る。
春樹はその間に弁当の残りを食べ始めた。
「教えながら食べるの?」
雫が呆れる。
「時間は有限なんだぞ」
「何に追われてるのよ」
「本」
「知ってた」
数分後。
「七瀬先輩」
「ん?」
「できました」
真実がノートを見せる。
春樹は途中式まで確認する。
「うん。合ってる」
「本当ですか?」
「ここだけ一行飛ばさない方がいいかな。テストなら自分で後から見直すとき分からなくなるかもしれない」
「あ、はい」
「でも考え方は大丈夫」
真実の表情が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして」
「……すごく分かりやすかったです」
「そう?」
「はい。先生より分かりやすかったかも」
「それは先生に言うなよ。俺が怒られる」
春樹が笑う。
真実も笑った。
横で見ていた悠斗が腕を組む。
「なんかムカつくな」
「なんでだよ」
「普通に教えるの上手いじゃん」
「何を期待してたんだ」
「途中で『分からないところが分からない』とか言い出すかと」
「それ一番駄目な教え方だろ」
紗弥も感心したように春樹を見る。
「七瀬君、本当に頭いいんだね」
「赤木まで!」
「順位聞いてても、普段が普段だから」
「普段の俺どう見えてるんだよ!」
「本読んでる」
「それしかないの!?」
「たまに雫と喧嘩してる」
「情報増えたけど嬉しくない!」
笑い声が広がる。
春樹は時計を見る。
昼休みは残り十五分ほど。
「よし」
立ち上がる。
「新海、もう大丈夫?」
「はい。たぶん」
「分からなくなったら、さっきの交差点思い出せばいい」
「分かりました」
「じゃあ俺は図書室へ――」
「あの」
真実が呼び止める。
「ん?」
「もう一問だけ、いいですか?」
春樹が固まった。
真実は申し訳なさそうに別のページを開く。
「ここも、ちょっと分からなくて……」
春樹は時計を見る。
本を見る。
真実を見る。
再び時計を見る。
「…………」
「春樹」
雫が声をかける。
「何も言うな。今、俺の中で友情と読書が戦ってる」
「後輩でしょ」
「じゃあ先輩としての責任と読書!」
「大げさ」
真実が慌てて問題集を閉じかける。
「やっぱり大丈夫です。図書室行ってください」
「いや」
春樹が止めた。
「ここまで来たらやる」
「でも」
「気になったまま午後の授業受けても分からないだろ?」
「……はい」
「ならやろう。どうせ本は逃げない」
悠斗が反応した。
「お前、前に神谷から同じこと言われて『読む時間は逃げる』って返してなかった?」
「言った」
「じゃあ今は?」
「読む時間は逃げる。ものすごく惜しい」
「じゃあ行けよ!」
「でも人が困ってるのに本優先したら、読んでても気になるだろ」
春樹は当たり前のように言い、真実の問題集を開いた。
「ほら。どこ?」
真実はすぐには答えなかった。
春樹の横顔を少しだけ見ている。
体育倉庫の裏で初めて会ったとき。
彼は本ばかり気にしている変な先輩だと思った。
そのあと、自分が告白を断ったことについて責める必要はないと言ってくれた。
雫が来なければ自分が止めるつもりだったとも知った。
サッカーが上手かった。
本について話すと驚くほど饒舌だった。
そして今日は、昼休みに本を読む時間が減ることを本気で惜しみながら、それでも自分が困っているからと残ってくれた。
(……また一つ増えた)
真実は思う。
七瀬春樹という先輩について、自分が知っていることが。
「新海?」
「あ、すみません」
「どこ?」
「ここです」
「これは……ああ。さっきより簡単。たぶん考えすぎてる」
「そうなんですか?」
「うん。まず問題文を分けよう」
春樹がノートを指差す。
真実はその手元へ視線を落とした。
◇◇◇
結局、二問目が終わった時点で、昼休みは残り五分だった。
春樹は椅子の背にもたれた。
「終わった……」
「ありがとうございました」
「どういたしまして……」
「そんなに落ち込みます?」
「今日、四編目読み終わる予定だったんだよ」
「すみません」
「謝らなくていいって。俺がやるって言ったんだから」
春樹は身体を起こす。
「それより、次の問題は自分でできそう?」
「はい」
「ならよし」
真実はノートと問題集を抱える。
「七瀬先輩」
「ん?」
「本当にありがとうございました」
「だからいいって」
「でも」
「じゃあ今度、本読んだら感想聞かせて」
「え?」
「この前言ってた連作短編集。俺が読み終わったら新海も読むんだろ?」
「はい」
「それで十分」
春樹は笑った。
「人によって感想違うの面白いから」
「……分かりました」
真実も笑う。
「ちゃんと読みます」
「無理して読まなくてもいいぞ。合わなかったら途中でやめても――」
「読みます」
「お、おう」
思ったより強く返され、春樹が少し驚く。
真実はそんな春樹へ頭を下げ、教室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、春樹は伸びをする。
「さて」
机の端にある本へ手を伸ばす。
「五分」
雫が言う。
「五分もある」
「移動時間」
「二分」
「戻ってくる時間」
「二分」
「読めるの一分じゃない」
「一分もある」
「行く気!?」
「当たり前だろ!」
春樹が本を掴む。
だが教室を出ようとしたところで、悠斗が制服の裾を掴んだ。
「やめとけ」
「離せ!」
「絶対またギリギリになる!」
「今日は走らない!」
「じゃあ遅刻するだろ!」
「図書室に一分だけ滞在する!」
「何のために!?」
「図書室で読む一分と教室で読む一分は違う!」
「意味分かんねえよ!」
悠斗が引っ張り、春樹が前へ進もうとする。
紗弥が笑い、雫が額を押さえた。
「もう教室で読みなさい!」
「雰囲気が違うんだって!」
「一分で雰囲気も何もないでしょ!」
「ある!」
「ない!」
数十秒の攻防の末、春樹は負けた。
「……俺の昼休みが」
「新海さんに勉強教えたんだからいいじゃん」
悠斗が言う。
「それはそれ。これはこれ」
「面倒くせえ!」
春樹は渋々自分の席へ戻った。
それでも本は開く。
残り三分。
読む。
雫がその姿を見ながら、小さく笑った。
「本当に好きなのね」
「何回確認するんだよ」
「いや」
雫は頬杖をつく。
「真実ちゃんに教えるの、途中で断ると思ってたから」
「なんで?」
「本読みたがってたし」
「読みたかったよ」
「じゃあ、なんで?」
春樹は本から顔を上げた。
「困ってたからだろ?」
それだけ言う。
「本ならあとで読めるし」
「さっき『読む時間は逃げる』って言ってたじゃない」
「逃げるよ。だから惜しい。でも、惜しいのと助けないのは別だろ」
春樹は再び本へ目を落とした。
雫は何も言わなかった。
長い付き合いだ。
春樹がこういう人間なのは、昔から知っている。
自分の好きなことには呆れるほど一直線で、ときどき周囲が見えなくなる。
けれど、本当に誰かが困っていれば、結局そちらへ手を伸ばす。
(……昔から、そうなのよね)
小学生のころも。
中学生のころも。
サッカーをしていたころも。
自分が得をするかどうかより先に動くことがあった。
本人は、そのたびに大したことではないという顔をする。
「何?」
春樹が本を読みながら尋ねる。
「見てただろ」
「見てない」
「視線感じたぞ」
「自意識過剰」
「ひどい」
雫は笑い、春樹も小さく笑った。
その直後、予鈴が鳴った。
「ああっ!」
春樹が本を閉じる。
「あと六ページ!」
「十分読めてるじゃない」
「いいところだったんだよ!」
「放課後読みなさい」
「分かってる!」
◇◇◇
放課後になると、春樹は迷わず図書室へ向かった。
今日は誰にも捕まらない。
悠斗には「相談は昨日聞いた」、雫には「今日は四編目を読み終える」、神谷が廊下の向こうから手を振ってきたときには「今日は無理!」と先制しておいた。
もちろん本は歩きながら読まない。
図書室の扉を開ける。
涼しい空気と紙の匂い。
昼間より静かな室内。
カウンターを見る。
今日は栞がいた。
「あ」
栞も春樹に気づく。
「七瀬君」
「こんにちは」
「こんにちは」
春樹はカウンターへ向かった。
「昨日はいなかったですね」
口にしてから、春樹は少し考える。
「あ、当番じゃなかった?」
「はい。木曜日の昼は当番じゃないんです」
「なるほど」
「……昨日、来たんですか?」
「来ましたよ」
「そうなんですね」
栞の表情が少し柔らかくなる。
ほんのわずかな変化だった。
春樹は気づいても、単に本の話ができるからだと思う。
「三編目まで終わりました」
「もう?」
「昨日の昼で三編目。今朝と昼で四編目の途中まで」
「早いですね」
「本当なら昼に四編目終わる予定だったんですけど」
「何かあったんですか?」
「後輩に数学教えてました」
栞が少し驚いた。
「七瀬君が?」
「先輩までその反応!?」
「す、すみません」
「最近みんな俺の扱いひどくないですか?」
「そういう意味じゃなくて……」
栞は困ったように手を動かす。
「七瀬君は、勉強するより本を読んでいる印象が強かったので」
「否定できない」
春樹はすぐ納得した。
「でも一応、勉強もできますよ。前の試験十八位だったし」
「十八位?」
「はい」
「すごい……」
「でも一位狙う気はないです」
「どうしてですか?」
「そのために勉強時間増やしたら、本読む時間減るでしょう?」
栞が数秒黙った。
「……七瀬君らしいですね」
「最近それ言われると褒められてる気がしてきました」
「褒めてます」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん!?」
栞が小さく笑う。
春樹も笑った。
「それで、誰に教えてたんですか?」
「新海です。一年生の」
「ああ、昨日一緒に来た」
「そうです。友達と同じところ分からなかったみたいで」
「優しいんですね」
「いや、普通でしょう」
春樹は首を傾げた。
「分かる問題なら教えるくらい」
栞は何か言おうとして、やめた。
代わりに小さく頷く。
「そうですね」
「で、俺はそのせいで四編目が六ページ残ってるので」
春樹は本を持ち上げる。
「読んできます」
「はい」
「六ページ終わったら感想言っていいですか?」
「もちろんです」
「たぶん長いですよ」
「知ってます」
昨日と同じ返事。
春樹は嬉しそうに笑った。
「じゃあ行ってきます」
「はい」
窓際の席へ向かう。
栞はその背中を見送った。
(新海さんに、勉強を教えてたんだ)
昨日一緒に図書室へ来た一年生。
明るく、礼儀正しい少女だった。
春樹とはすでに何度か話しているらしい。
それを考えたところで、栞は自分の手元へ視線を戻した。
(……だから、何だろう)
別に何もない。
春樹が誰と話していようと自由だ。
ただ、自分の知らないところで春樹が誰かと過ごしていたと聞き、ほんの少しだけその場面を想像した。
それだけ。
栞は貸出記録へ視線を戻す。
数分後。
「白石先輩」
声がした。
顔を上げる。
春樹が本を持って立っていた。
表情を見ただけで分かる。
話したくて仕方がない顔だった。
「終わりました?」
「終わりました。四編目、すごかったです」
春樹は声量を抑えながらも、目を輝かせている。
「俺、完全に騙されました。二編目であの人のこと――」
そこから、また本の話が始まった。
◇◇◇
一方そのころ。
一年二組では、真実が帰り支度をしていた。
「真実」
「ん?」
藤崎美優が隣の席から声をかける。
「さっき教えてもらったところ、もう一回やってみた?」
「やったよ」
「できた?」
「うん」
「すご」
「教え方が分かりやすかったから」
「七瀬先輩だっけ?」
「そう」
美優は少し考える。
「前に話してた、本好きの先輩?」
「うん」
「サッカーも上手い人?」
「そう」
「成績もいいの?」
「十八位だって」
「……何その人」
美優が怪訝そうな顔をする。
真実は思わず笑った。
「私も最初そう思った」
「なのに授業中本読むの?」
「最近は読んでないみたい」
「最近は、なんだ」
「うん」
「変な先輩だね」
「うん。変な先輩」
真実は笑う。
けれど、その言葉には以前とは少し違う響きがあった。
最初は、本当に「変な人」だった。
今は違う。
変なのは変わらない。
でも、それだけではないことを少しずつ知っている。
本が好き。
サッカーが上手い。
頭もいい。
人を助けるときに、いちいち格好つけない。
自分の時間が減ると本気で惜しがるくせに、結局困っている人を放っておけない。
(まだ、全然知らない)
体育倉庫の裏で思ったことを、真実はもう一度思い出す。
ただし、あのときとは少し意味が違った。
知らないから気になる。
次は何を知るのだろう。
それを楽しみに思う気持ちが、ほんの少しだけ増えていた。
「真実?」
「何?」
「なんか笑ってる」
「え?」
真実は自分の頬へ手を当てた。
「笑ってた?」
「うん」
「……数学分かったからじゃない?」
「なんで疑問形?」
「知らない」
美優が不思議そうにする。
真実自身にも、それ以上は分からなかった。
だから今は、そのままでいい。
◇◇◇
夕方。
図書室で四編目の感想を語り終えた春樹は、満足そうに校舎を出た。
空はまだ明るい。
グラウンドからサッカー部の声が聞こえ、剣道場の方からは竹刀の音が響いている。
春樹は鞄の中にある本を思う。
残る話は、あといくつか。
読み終われば栞と全体の感想を話せる。
そのあと真実も読むと言っていたから、今度は彼女の感想も聞けるかもしれない。
雫には別の恋愛小説を貸す約束をした。
自分は雫が買った本を借りる。
(……読む本増えてきたな)
悪くない。
むしろ嬉しい。
春樹は校門へ向かいながら、今日一日を振り返った。
悠斗の恋愛相談の続き。
真実への勉強。
栞との本の話。
全部、予定にはなかった。
本を読む時間も少し減った。
それでも、不思議と嫌ではない。
「まあ、六ページは取り戻したし」
結局、基準はそこだった。
春樹は笑う。
人と関わることが嫌いなわけではない。
一人でいることだけが好きなわけでもない。
友達と騒ぐのも、サッカーをするのも、誰かへ勉強を教えるのも、本について語るのも楽しい。
ただ、それらと同じか、それ以上に本を読むことが好きなのだ。
だから春樹は、今日も特別なことをしたつもりなどなかった。
困っている後輩へ数学を教えただけ。
好きな本について先輩と話しただけ。
友人の相談を少し気にしただけ。
幼なじみといつものように言い合っただけ。
本人にとっては、それだけの一日だった。
けれど春樹が知らないところで、新海真実の中にある「七瀬春樹」という人物像には、今日も新しい一面が一つ加わっていた。
白石栞の中にも、知らなかった春樹が一つ増えた。
そして雫にとっては、ずっと前から知っていた春樹の一面を、別の誰かが少しずつ知り始めている。
まだ誰も、そのことに大きな意味など与えていない。
春樹はなおさらだった。
(帰ったら五編目だな。いや、その前にWeb小説の更新確認するか)
彼の頭の中は、すでに次に読む物語でいっぱいだった。
現実の自分の周囲でも、小さな物語がいくつも動き始めていることには、当然のように気づかないまま。




