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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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8/50

第8話 風紀委員だって、ずっと真面目なわけじゃない


 翌日の昼休み。


 四時間目の終了を告げるチャイムが鳴った瞬間、七瀬春樹は机の中へ手を伸ばした。


 教科書とノートを重ねて端へ寄せ、代わりに鞄から取り出したのは、昨日から読み進めている連作短編集だった。


「よし」


 小さく呟き、表紙を開く。


 昨日の放課後、白石栞と二編目についてかなり長く感想を語ったあと、帰宅してから三編目へ入った。ところがWeb小説の更新を確認したところ、追いかけている作品が二本同時に更新されており、さらに片方が長めの更新だったせいで、結局三編目は途中までしか読めなかった。


 ならば昼休みに続きを読めばいい。


 今日は誰かから相談される予定もない。


 サッカーへ誘われてもいない。


 昼食は母親が作ってくれた弁当があるので、購買へ行く必要もない。


 つまり。


(今日こそ、完璧な昼休みになる)


 春樹が一ページ目を開く。


「春樹」


「…………」


「春樹?」


「…………」


「七瀬春樹」


「今、主人公が十年ぶりに実家へ帰ったところだからちょっと待って」


「待たないわよ」


 目の前から本が消えた。


「あっ!」


 春樹が顔を上げる。


 机の前に西条雫が立っていた。


 その手には、たった今まで春樹が読んでいた文庫本がある。


「返せ!」


「先にご飯食べなさい」


「読書と食事は両立できる!」


「昨日、パンの袋開けたまま二十分放置してた人が何言ってるの?」


「昨日は悠斗の相談が――」


 そこで春樹は口を閉じた。


 雫の眉がわずかに上がる。


「相談?」


「何でもない」


「昨日の男同士の話?」


「ノーコメント」


「別に聞かないわよ」


 雫は文庫本を春樹の机へ戻した。ただし開いていた場所ではなく、弁当箱の横へ置く。


「ほら。食べてから読みなさい」


「母親かよ」


「誰が母親よ」


「昨日、九条さんも似たようなこと言われてたな」


「九条さん?」


「登校指導してるとき、他の女子に」


「ああ」


 雫は納得したように頷き、自分の弁当を持って近くの席へ移動する。


 そこへ高坂悠斗と赤木紗弥もやってきた。


「お、今日は春樹いるじゃん」


「最近毎日いるだろ」


 春樹が弁当箱の蓋を開けながら睨む。


「もう体育倉庫裏に逃げたの一回だけで永久に言われるの納得いかないんだけど」


「一回の内容が濃いんだよ」


 悠斗が笑いながら椅子を引いた。


「朝から二時間近く消えてたんだぞ」


「本読んでただけだ」


「理由になってない」


「誰にも迷惑かけてないだろ」


「永山先生にはかけてたと思う」


 紗弥がさらりと言う。


 春樹は箸を持ったまま止まった。


「……確かに」


「認めるんだ」


「正論には逆らわない主義なんだよ」


「そのわりに雫とはいつも言い合ってるじゃん」


「雫が正論ばっかり言ってるとは限らないからな」


「何ですって?」


「ほら始まった」


 紗弥が笑い、悠斗も肩を揺らす。


 いつもの昼休みだった。


 春樹は弁当を食べながら、机の端に置かれた本へ何度か視線を向ける。


 雫が三回目で気づいた。


「そんなに気になるなら早く食べれば?」


「急いで食べると身体に悪いだろ」


「そこだけ健康意識高いの何なの?」


「長く本を読むには健康が大事なんだよ」


「目的が全部読書に繋がるのね」


「当然だろ。目も大事にしてるぞ」


「授業中にスマホでWeb小説読んでた人が?」


「最近はやってないって!」


 春樹が反論したところで、悠斗が少しだけ笑った。


 昨日の放課後に見せていた迷いは、少なくとも表情からはほとんど消えている。


 春樹はそれを見ても、何も言わなかった。


 相談された内容を雫や紗弥の前で触れるつもりはない。


 悠斗が自分から話したくなれば、そのとき聞けばいい。


「そういや春樹」


「ん?」


「昨日の本、進んだ?」


「お前が相談持ち込まなければもっと進んでた」


「言い方!」


「冗談だよ。二編目まで読み終わった」


「面白い?」


「かなり。最初は別々の短編に見えるんだけど、実は登場人物とか場所とか小道具が少しずつ繋がっててさ。一編目で意味なさそうだった描写が二編目で別の意味になるんだよ。昨日は青い花が――」


「春樹」


 雫が止める。


「まだ二文しか説明してないぞ?」


「その顔は十分コースに入ってる」


「十分で済むと思う?」


「もっと長いの!?」


「内容について話すなら最低二十分は欲しい」


「昼休み終わるじゃん」


「だから白石先輩と話してるんだよ。先輩なら最後まで聞いてくれるから」


 春樹が何気なく言う。


 雫は箸を動かしたまま、一度だけ春樹を見た。


「……ずいぶん話すようになったのね」


「本の話できるからな。白石先輩も結構読むし、同じ本でも見てるところ違って面白いんだよ」


「へえ」


 雫はそれ以上何も言わなかった。


 春樹も特に気にしない。


 紗弥だけが二人を一度見比べたものの、何も口にせず卵焼きを食べた。


 数分後。


 春樹は弁当箱を閉じた。


「ごちそうさまでした」


「早くない?」


「普通だ」


 春樹は時計を見る。


 昼休みはまだ二十五分以上残っている。


「よし。今日は余裕」


「図書室?」


 悠斗が尋ねる。


「もちろん」


「毎日行ってない?」


「図書室って毎日使っちゃ駄目なの?」


「そういう意味じゃねえよ」


「じゃあ問題ない」


 春樹は本を手に取る。


 雫がそれを見る。


「廊下で読まないようにね」


「もうしないって。九条さんにも注意されたし」


「ちゃんと学習してる」


「俺を何だと思ってるんだよ」


「本が絡むと判断力が落ちる人」


「永山先生みたいなこと言うな!」


 春樹は文句を言いながら立ち上がった。


「じゃあ行ってくる」


「いってらっしゃい」


「別に帰宅するわけじゃないんだけど」


「いいから行きなさいよ」


「なんか追い出された気分だな」


 笑いながら教室を出る。


 手には本を持っているが、開かない。


 昨日までは、それだけで少し物足りなかった。


 今日は違う。


(教室から図書室までなら三分もかからないしな)


 我慢できる。


 ほんの少しだけ、自制心が育ったらしい。


     ◇◇◇


 二階から階段を下り、一階の図書室へ続く廊下へ入ったところで、春樹は見覚えのある後ろ姿を見つけた。


 黒いポニーテール。


 きちんと着た制服。


 背筋の伸びた歩き方。


「九条さん?」


 声をかける。


 少女が振り返った。


「……七瀬君」


 九条凛だった。


「こんにちは」


「こんにちは」


 挨拶を交わしたあと、凛の視線が春樹の手元へ移る。


 文庫本。


 春樹はすぐに持ち上げた。


「読んでませんよ」


「まだ何も言ってないけど」


「本見たでしょう」


「見ただけよ」


「疑われた気がした」


「昨日の朝、歩きながら読んでいた人だからでしょう」


「一回の失敗で信用なくなるの早くない?」


「注意した直後にまた開こうとした人が言う?」


「……そこまで覚えてるんですね」


「印象に残ったから」


 凛が答える。


 春樹が少しだけ首を傾げた。


「悪い意味で?」


「少なくとも良い意味ではなかったわね」


「ひどい」


 凛の口元がほんの少し緩む。


 昨日の朝より、声にも硬さがない。


 風紀委員として登校指導をしていたときとは違い、今日は腕章もつけていなかった。


「九条さんも図書室?」


「違うわ」


「じゃあ何してるんです?」


「……あなた、普通に聞くのね」


「聞いちゃ駄目だった?」


「そういうわけじゃないけど」


 凛は手に持っている紙を見る。


「先生に頼まれて、資料を職員室へ届けた帰り」


「ああ」


「剣道部の顧問の鬼塚先生が、午後の授業で使う資料を忘れたらしくて」


「鬼塚先生、忘れ物するんだ」


「するわよ。普通に」


「意外だな。『忘れ物をするなぁぁぁ!』って怒鳴る側なのに」


 春樹が鬼塚の声を真似する。


 思った以上に似ていた。


 凛の口元が崩れた。


「……ふっ」


 小さな音が漏れる。


 春樹が止まる。


 凛も止まった。


 二人の間に、一瞬だけ妙な沈黙が生まれた。


「今、笑いました?」


「笑ってない」


「いや、絶対笑ったでしょう」


「笑ってないわ」


「なんで隠すんです?」


「隠してない」


「じゃあもう一回やります?」


「やらなくていい!」


 凛が少し声を強める。


 その反応が昨日の生真面目な風紀委員姿と違い、春樹は思わず笑った。


「九条さん、普通に笑うんですね」


「……何だと思ってるの、私を」


「真面目な風紀委員」


「それは役割でしょう」


「剣道部」


「所属ね」


「二組」


「クラス」


「九条凛」


「名前!」


 とうとう凛が突っ込んだ。


 春樹が吹き出す。


「ちゃんと突っ込むんですね」


「あなたが変なことばかり言うからでしょう!」


「昨日より喋りやすいな」


 春樹が何気なく言った。


 凛の表情が一瞬だけ止まる。


「……昨日は風紀委員として注意してたからよ」


「なるほど」


 春樹は素直に納得した。


 それ以上の意味など考えない。


「じゃあ普段はもう少し普通なんですね」


「だから何だと思ってたのよ」


「校則を擬人化した人?」


「失礼すぎない!?」


「冗談ですって」


 春樹が笑う。


 凛は呆れたように息を吐いた。


 けれど、本気で怒っているわけではない。


 そのことは春樹にも分かった。


「七瀬君」


「はい?」


「あなた、昨日も思ったけど……誰にでもそんな感じなの?」


「そんな感じって?」


「よく喋るというか、遠慮がないというか」


「相手によりますよ」


「そうなの?」


「初対面でいきなり誰にでも『校則の擬人化ですか?』なんて言ったら、ただの失礼な奴でしょう」


「私には言ったじゃない!」


「九条さんなら大丈夫かなって」


「判断基準がおかしいわよ!」


 春樹はまた笑った。


 凛も何か言い返そうとしていたが、途中で諦めたように肩の力を抜く。


「……本当に変な人」


「それ昨日も言われた気がする」


「昨日は口に出してないわよ」


「え?」


 凛が固まった。


 春樹も彼女を見る。


「……じゃあ俺、誰に言われたんだろ」


「知らないわよ!」


「最近いろんな人に変人扱いされるから混ざってきた」


「原因を考えた方がいいと思う」


「本読んでるだけなのになぁ」


「少なくとも昨日は歩きながら読んでたでしょう」


「またそこに戻る!」


 凛が今度こそ小さく笑った。


 昨日の朝に見た表情よりずっと自然だった。


 春樹はそれを見ながら、単純に思う。


(普通に話すと結構面白い人なんだな)


 風紀委員という肩書きが先に入ったせいで、もっと堅い人だと思っていた。


 もちろん真面目なのは間違いない。


 しかし、それだけではないらしい。


「ところで七瀬君」


「はい」


「図書室へ行くんじゃないの?」


「あ」


 春樹は時計を見る。


「やば。五分くらい喋ってた」


「私のせい?」


「いや、俺も喋ってたから半々でしょう」


「そこはちゃんとしてるのね」


「何が?」


「人のせいにしないところ」


「自分も喋ってたのに九条さんのせいにしたら、さすがに性格悪いでしょう」


 春樹は当然のように答えた。


「それに昼休みまだ二十分くらいあるし。今日は余裕です」


「今日は?」


「前に図書室で本の話してたら授業に数十秒遅刻したんですよ」


「……もしかして」


 凛が目を細める。


「昨日の朝、私が登校指導していたときに高坂君が言っていた件?」


「悠斗、そんなこと言ってたっけ?」


「授業態度がどうとか少し」


「余計な情報を……」


「本当に授業へ遅れたの?」


「数十秒です」


「遅刻は遅刻よ」


「またそれ!」


 春樹が頭を抱える。


「永山先生、雫、白石先輩、悠斗、みんな同じこと言う!」


「全員が同じことを言うなら、あなたが間違ってるんじゃない?」


「正論で逃げ道塞ぐのやめてもらえます?」


「正論を言ってるだけよ」


「九条さん、風紀委員のときより今の方が厳しくない?」


「気のせいです」


「敬語になった!」


 春樹の反応に、凛はまた笑いそうになって口元を押さえた。


 今度は春樹も追及しなかった。


「じゃあ俺、今度こそ図書室行きます」


「ええ」


「九条さんは?」


「教室へ戻るところ」


「じゃあ途中まで一緒ですね」


 自然に二人で歩き始める。


 廊下を行き交う生徒はそれほど多くない。


 春樹は本を持ったままだが、開かずに歩いている。


 凛がそれを横目で確認した。


「ちゃんと読まないのね」


「昨日約束したでしょう」


「そうだけど」


「俺、約束したことまで破る人間に見えます?」


「……昨日の第一印象なら、少し」


「まだ引きずってる!」


「でも今は、少し違うかも」


 春樹が凛を見る。


「へえ」


「何?」


「いや。信用回復してきたなと思って」


「ゼロから始まってただけでしょう」


「昨日会ったばっかりなんだから普通では?」


「それもそうね」


 凛が少し考えてから頷く。


 二人は階段の前まで来た。


 図書室はこのまま直進。


 二組へ戻る凛は階段を上がる。


「じゃあ、ここで」


「はい。また」


 春樹が何気なく言う。


 凛が一段目へ足を掛けたところで、少しだけ振り返った。


「……また?」


「学校同じなんだから会うでしょう」


「ああ」


「それとも、もう会いたくない?」


「そういう意味じゃないわよ!」


「じゃあまた」


「……ええ。また」


 凛は階段を上がっていく。


 春樹も図書室へ向かった。


 ほんの数歩進んだところで、後ろから声が飛んでくる。


「七瀬君!」


「はい?」


 振り返る。


 階段の途中から凛がこちらを見ていた。


「本、開いてないでしょうね?」


「まだ三秒しか経ってないですよ!」


「念のためよ!」


「信用回復したんじゃなかったの!?」


「それとこれは別!」


 凛の声が階段に響く。


 近くを歩いていた生徒が何人か振り返り、春樹は思わず笑った。


「分かりましたよ!」


 返事をして、今度こそ図書室へ向かう。


(やっぱり真面目だな)


 けれど昨日の朝とは少し印象が違う。


 真面目なだけではない。


 冗談に突っ込む。


 鬼塚の物真似で笑う。


 少し意地悪なことも言う。


 知っていることが一つ増えた。


 それだけだった。


     ◇◇◇


 図書室へ入ると、今日は栞がカウンターにいなかった。


「……あれ?」


 春樹は入口で少しだけ立ち止まる。


 別の図書委員らしい男子生徒が貸出対応をしている。


 休みなのか。


 あるいは当番ではないのか。


 考えてみれば、栞が毎日必ずいると決まっているわけではない。


(まあ、そりゃそうか)


 春樹はすぐに納得した。


 目的は読書である。


 栞と話すのも楽しいが、彼女がいなければ本を読めないわけではない。


 いつもの窓際へ向かう。


 椅子を引き、座った。


 連作短編集を開く。


 ところが。


「…………」


 三行読む。


 ページをめくる。


 少しして、ふとカウンターを見る。


 知らない男子生徒がいる。


「…………」


 春樹は再び本へ戻る。


(何やってんだ、俺)


 別に栞を探す必要はない。


 感想なら次に会ったとき話せばいい。


 昨日、二編目についてかなり話した。


 三編目も読み終われば、また話題が増える。


 それでいい。


 春樹は意識を文章へ戻した。


 数分後には完全に物語へ入り込み、カウンターのことなど忘れていた。


     ◇◇◇


 昼休み終了十分前。


 春樹が三編目を読み終え、本を閉じた。


「……そう来たか」


 声は小さい。


 前回の反省が活きている。


 三編目では、それまで善人だと思っていた人物の行動が別の角度から描かれていた。


 悪人だったわけではない。


 ただ、本人なりの事情があり、その結果として誰かを傷つけていた。


(これ、白石先輩はどう読んだんだろ)


 自然にそんな疑問が浮かぶ。


 春樹は時計を確認した。


 まだ十分。


 あと一編へ入るには微妙だ。


 そこで本を閉じ、席を立った。


 今日は余裕を持って教室へ戻る。


「成長したな、俺」


 自分で自分を褒めながら図書室を出た。


 廊下へ出て数歩進んだところで、前から女子生徒が歩いてくる。


「あ」


 向こうが先に声を出した。


 新海真実だった。


「新海」


「こんにちは、七瀬先輩」


「こんにちは」


 春樹は足を止める。


「今日も図書室?」


「いえ、今日は七瀬先輩を探してました」


「俺?」


 春樹が目を瞬かせる。


「なんで?」


「昨日の本のことで」


「ああ!」


 途端に春樹の顔が明るくなる。


「藤崎さん、決めた?」


「はい。昨日教えてもらった三冊の中から、一冊選びました」


「どれ?」


 真実がタイトルを言う。


 栞が候補として出した、高校生が主人公の短めの恋愛小説だった。


「おお、あれにしたんだ」


「表紙が一番好きだったみたいです」


「いい選び方だと思う」


「それで、今日の朝から読んでるんですけど……」


「もう読んでるの?」


「はい。休み時間に結構進んだみたいで」


「早いじゃん」


 春樹は素直に嬉しくなった。


 自分が直接勧めたわけではない。


 栞が出した候補を、真実が友人へ伝え、その友人が選んだ。


 それでも、普段あまり本を読まないという相手が続きを読み進めていると聞けば、本好きとして嬉しい。


「美優が、『思ってたより本って読みやすいんだね』って」


「それ最高の感想だな」


「そこですか?」


「そこだよ。最初から『人生変わりました』とか言われるより全然いい。本って別に構えなくていいんだよ。面白そうなら読んで、合わなかったら別の探せばいいんだから」


「七瀬先輩らしいですね」


 真実が笑う。


「何が?」


「白石先輩も、昨日似たようなこと言ってました」


「先輩が?」


「私が候補を借りるときに、『無理に最後まで読まなくてもいいと思います』って」


「へえ」


 春樹は少し笑った。


「やっぱり白石先輩、本好きだな」


「そうなんですか?」


「本好きだからこそ、無理に読めとは言わないんだと思う。合う本なんていくらでもあるし」


「なるほど……」


 真実は頷いたあと、春樹の手元を見る。


「七瀬先輩は、昨日の続きですか?」


「うん。三編目まで終わった」


「面白かったですか?」


「面白かった。三編目で人物の見え方がかなり変わってさ。最初は――」


 春樹が話し始める。


 真実は数秒聞いたところで、くすっと笑った。


「何?」


「いえ」


「また俺なんか変なこと言った?」


「そうじゃなくて、昨日白石先輩と話してたときと同じ顔してるなって」


「どんな顔?」


「楽しそうな顔です」


 春樹は少し考える。


「そりゃ面白い本の話してるからな」


「そうですよね」


「新海も読む?」


「え?」


「これ。藤崎さんに勧めた方じゃなくて、俺が今読んでる連作短編集」


「私がですか?」


「興味あるなら。読み終わったら返却するから、そのあと借りればいいし」


 真実は春樹の持っている本を見る。


 少し迷った。


「……じゃあ、七瀬先輩が読み終わったら」


「お、読む?」


「はい。七瀬先輩がそこまで楽しそうに話すなら、ちょっと気になります」


「よし」


 春樹は嬉しそうに頷く。


「じゃあネタバレしないように気をつける」


「今まで結構話してませんでした?」


「核心は言ってない」


「本当ですか?」


「たぶん」


「不安です」


「信用ないな!」


 真実が笑う。


 春樹も笑った。


 そのとき、予鈴まで残り時間が少ないことに気づく。


「やば。戻らないと」


「あと七分ありますよ?」


「七分『しか』ない」


「昨日は七分あれば余裕って言ってませんでした?」


「新海、そういう細かいことよく覚えてるな」


「七瀬先輩が毎回時間の話するからです」


「俺、最近時間管理キャラになってない?」


「元々できてなかったからでは?」


「後輩が容赦なくなってきた!」


 真実がまた笑う。


「じゃあ戻りましょうか」


「新海は一年の階だろ?」


「途中まで同じです」


 二人で歩き始める。


 春樹はもちろん本を開かない。


 真実がその様子を見た。


「今日は歩きながら読まないんですね」


「新海まで監視するなよ!」


「してません。ただ、この前は読んでたって言ってたから」


「風紀委員と約束したからな」


「九条先輩ですか?」


「そう。さっきも会った」


「仲良くなったんですか?」


「なんでそうなる?」


「二日続けて話してるから」


「学校同じなんだから普通に会うだろ。今日はたまたま廊下で会って、ちょっと話しただけ」


「どんな話を?」


「鬼塚先生の物真似したら笑った」


「……何してるんですか?」


「似てたんだよ」


「そういう問題ですか?」


「新海も今度聞く?」


「遠慮します」


「即答!?」


 真実が肩を揺らして笑う。


 春樹は不満そうな顔をしながらも、口元には笑みを浮かべていた。


     ◇◇◇


 二年三組へ戻った春樹は、席へ着くなり時計を確認した。


 授業開始まで四分。


「完璧」


「何が?」


 雫が聞く。


「今日も遅刻回避」


「普通」


「最近みんな厳しくない?」


「普通のことを普通って言ってるだけよ」


「もうちょっと褒めてもいいだろ」


「じゃあ偉い偉い」


「雑!」


 雫が笑う。


 春樹は机の中へ本をしまった。


「そういや新海に会ったぞ」


「また?」


「図書室の前でな。昨日選んだ本、藤崎さんが読み始めたって」


「へえ。美優ちゃん、何選んだの?」


 春樹がタイトルを答える。


 雫は少し考えた。


「知らない」


「今度読む?」


「面白い?」


「俺は好き。恋愛だけじゃなくて家族の話も入ってる。文章も読みやすいし――」


「春樹」


「何?」


「今度貸して」


 春樹が止まった。


「……読むの?」


「何よ、その顔」


「いや、お前が俺の勧めた本読むって珍しいなと思って」


「この前、駅前の本屋で私が買った恋愛小説、貸せって言ったの春樹でしょ」


「それとこれは別だろ」


「何が違うのよ」


「俺が勧める側だから」


「じゃあ嫌なの?」


「まさか」


 春樹の表情が明るくなる。


「読むならちゃんと選ぶぞ。雫だったら――」


「待って。今話してた本でいいから」


「なんで?」


「また十冊くらい候補出しそう」


「よく分かったな」


「何年一緒にいると思ってるのよ」


 雫は呆れながら笑った。


 春樹も笑う。


「じゃあ今度貸す」


「うん」


「ただし、先に俺が借りる予定だからな」


「何を?」


「お前がこの前買った恋愛小説」


「ああ、あれ」


「忘れてただろ」


「春樹こそ忘れてると思ってた」


「本の約束を忘れるわけないだろ」


「そういうところだけ信用できるわね」


「『だけ』は余計だ!」


 いつもの言い合いが始まる。


 その声を聞きながら、悠斗が前の席から振り返った。


「お前ら、本の貸し借りまでしてんの?」


「昔からするぞ」


 春樹が答える。


「雫は俺ほど読まないけど、たまに買うから」


「春樹が勝手に借りてくのよ」


「ちゃんと許可取ってるだろ」


「『幼なじみだろ?』って圧かけてくるじゃない」


「便利な関係は有効活用しないと」


「そういうとこよ!」


 雫が笑いながら春樹の肩を軽く叩く。


「痛っ。暴力反対」


「全然痛くないでしょ」


「心が痛い」


「じゃあもっと痛くしてあげようか?」


「すみませんでした」


「謝るの早っ」


 悠斗が笑う。


 そのまま教師が入ってきて、午後の授業が始まった。


     ◇◇◇


 放課後。


 九条凛は剣道場にいた。


 道着と袴へ着替え、髪をいつもの位置で結び直している。


 昼休みの柔らかな雰囲気とは違い、竹刀を握ると自然に表情が引き締まった。


「九条!」


「はい!」


 鬼塚鉄平の声が響く。


 剣道部員たちが一斉に動き始める。


 準備運動を終え、素振りへ移る。


 竹刀が空気を切る音が重なる。


「声が小さいぞぉぉぉ!」


「はい!」


「もっと腹から出せぇぇぇ!」


 鬼塚の大声が剣道場全体を揺らした。


 凛は竹刀を振りながら、昼休みのことを思い出す。


『忘れ物をするなぁぁぁ!』


 七瀬春樹が真似した鬼塚の声。


「…………」


 危うく笑いそうになった。


「九条!」


「はいっ!」


「集中!」


「すみません!」


 鬼塚に注意され、凛は慌てて表情を引き締める。


(何考えてるの、私)


 稽古中だ。


 集中しなければならない。


 凛は竹刀を構え直した。


 七瀬春樹。


 昨日の朝、歩きながら本を読んでいた男子生徒。


 最初は、注意しても適当に流すタイプだと思った。


 けれど、危険だと説明すれば素直に認めた。


 今日も本を手に持っていたのに、歩きながら開いてはいなかった。


 約束したからだと言った。


(少なくとも、言ったことは守るのね)


 それだけなら、少し印象が変わっただけで終わる。


 しかし実際に話してみると、想像していた以上によく喋る。


 冗談も多い。


 こちらが風紀委員だからと緊張する様子もなく、かといって馬鹿にしているわけでもない。


 変なところで真面目で、変なところで適当。


(……やっぱり変な人)


 凛は心の中で結論づけた。


「九条ぉぉぉ!」


「はい!?」


「今また別のこと考えてただろぉぉぉ!」


「すみません!」


「珍しいな!」


「集中します!」


 周囲の部員から小さな笑い声が上がる。


 凛は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら竹刀を握り直した。


 恋愛でも何でもない。


 ただ、昨日まで知らなかった同級生の印象が、二日続けて少しずつ変わった。


 それだけだ。


 けれど、昨日までなら校内ですれ違っても名前すら知らなかった相手が、今日は「七瀬君」になった。


 その小さな変化だけは、確かに残っていた。


     ◇◇◇


 同じころ。


 春樹は教室に残り、机へ本を広げていた。


 今日は図書室へ行かない。


 三編目を読み終えたことで一度区切りがついたし、雫が部活動の用事を済ませるまで少し待つことになったからだ。


 夕方の教室は静かだった。


 窓から入る風がカーテンを揺らし、遠くから運動部の声が聞こえてくる。


 春樹は四編目の最初を読みながら、時折ページをめくる。


「……春樹」


「ん?」


 顔を上げる。


 雫が教室の入口に立っていた。


「終わった?」


「終わった。帰る?」


「おう」


 春樹は栞を挟んで本を閉じる。


 雫が少し驚いた。


「今日はすぐ閉じるのね」


「帰りながら読めないからな」


「……ちゃんと守ってるんだ」


「俺、そんな信用ない?」


「前までなら読みながら歩いてた可能性あるから」


「否定できないのが悔しい」


 春樹は鞄へ本をしまった。


「九条さんに注意されたの、意外と効いてるのね」


「正しいこと言われたからな。あと今日会ったし」


「九条さんに?」


「うん。昼休み」


「何話したの?」


「鬼塚先生の物真似」


「……なんで?」


「流れで」


「どんな流れよ」


 春樹は鬼塚の真似を再現しようとして、雫に止められた。


「廊下でやらないで」


「まだ何もしてないだろ!」


「絶対大声出すでしょ」


「……出すな」


「ほら」


「じゃあ外出てから」


「やらなくていい!」


 二人で笑いながら教室を出る。


 春樹にとって、それはいつもとほとんど変わらない放課後だった。


 本を読んだ。


 友人と話した。


 後輩と話した。


 風紀委員と少し話した。


 幼なじみと帰る。


 特別な事件など、何も起きていない。


 それでも。


 昨日まで「真面目な風紀委員」だった九条凛には、冗談で笑う顔があることを知った。


 新海真実とは、本について話せる話題が一つ増えた。


 西条雫とは、また本を貸し借りする約束が増えた。


 白石栞が図書室にいなければ、一瞬だけその姿を探す程度には、彼女がそこにいることを自然に思うようになっていた。


 春樹自身は、そのどれにも特別な意味をつけていない。


 人と知り合えば、話すことが増える。


 何度も会えば、知らなかった一面を知る。


 ただそれだけのことだと思っている。


 そして、それは今のところ間違ってはいなかった。


「春樹」


「ん?」


「何ぼーっとしてるの?」


「今日帰ったらどこまで読もうかなって」


「結局本のことじゃない」


「俺なんだから当然だろ」


「はいはい」


「なんだよ、その反応」


「別に?」


「またそれ!」


 雫の笑い声が夕方の廊下へ響く。


 春樹は文句を言いながら、その隣を歩いていった。


 静かに本を読みたいという願いは、今日も変わっていない。


 ただ最近は、その本を開く前と閉じたあとに、誰かと話している時間が少しずつ増えていた。


 そして春樹はまだ、その変化を嫌だとは一度も思っていなかった。

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