第7話 他人の恋愛なら、わりと分かる
放課後のチャイムが鳴った瞬間、七瀬春樹は机の中へ手を伸ばした。
取り出したのは、白石栞から教えてもらった連作短編集である。
昼休みには新海真実から本選びの相談を受けたため、予定していたほど読み進めることができなかった。それ自体は楽しかったので不満はないものの、二編目がかなり気になるところで止まっている。
(ようやく読める)
春樹は机の上へ本を置き、鞄へ入れるべき教科書を手早く片づけた。
今日はこのまま図書室へ行く。
二編目を読み終える。
できれば三編目にも入る。
栞がいたら感想も話したい。
完璧な放課後だった。
「春樹」
「今日は無理」
「まだ何も言ってねえよ」
前の席から振り返った高坂悠斗が呆れた顔をする。
春樹は本を鞄へ入れながら答えた。
「お前がその声で俺を呼ぶとき、大体ろくなことがない」
「どんな認識だよ」
「昨日はサッカー、普段は雑談、たまに宿題見せろ。俺の読書時間を奪う要因としては、雫に次ぐ危険人物だぞ」
「西条より下ならまだいいか」
「よくない。反省しろ」
「なんで俺が怒られてんの?」
悠斗は笑ったが、いつものようにすぐ次の軽口を返してこなかった。
春樹が鞄を肩へ掛けようとして、その違和感に気づく。
「……どうした?」
「いや」
「なんかあるんだろ?」
「別に大したことじゃないんだけどさ」
「じゃあ明日でいい?」
「切り捨てるの早くない?」
「二編目が気になるんだよ」
「友達より本を取るのか」
「内容による」
「そこは即答で俺って言えよ!」
「だから内容聞いてから判断するって。お前が『消しゴム貸して』だったら本を取るし、『家が燃えてる』だったらお前を取る」
「比較対象の幅が極端すぎるだろ」
「ほら。話せよ」
春樹は肩へ掛けかけた鞄を机へ戻した。
悠斗は少し迷ったあと、周囲を確認する。
放課後になった教室では、部活動へ向かう生徒が次々と席を立っていた。机を引く音や笑い声が重なり、廊下からも別のクラスの生徒たちの声が流れ込んでくる。
雫は赤木紗弥と話しながら帰り支度をしている。
こちらを気にしている様子はない。
悠斗が少し声を落とした。
「……相談がある」
「金ならないぞ」
「違う」
「勉強なら内容による」
「それも違う」
「本?」
「お前の世界、金と勉強と本しかないの?」
「飯もある」
「増えたところでひどいな」
悠斗はため息を吐き、机に片腕を置いた。
「女子のことなんだけど」
春樹の動きが止まった。
「女子?」
「うん」
「お前、好きな人いるの?」
「声!」
「悪い」
思わず大きくなった声を、春樹は慌てて落とした。
何人かのクラスメイトがこちらを見たが、すぐ自分たちの会話へ戻っていく。
春樹は椅子へ座り直した。
「で?」
「急に食いつくなよ」
「そりゃ食いつくだろ。恋愛相談なんて滅多に来ないぞ」
「お前、恋愛経験ないよな?」
「ない」
「なんでそんな自信満々なんだよ」
「経験がないことと、物語として恋愛を理解できないことは別問題だ」
「もう不安になってきた」
「失礼だな。恋愛小説を何冊読んできたと思ってる」
「現実の女子は小説じゃねえぞ」
「分かってるよ。だから話を聞くんだろ。小説みたいに作者が地の文で相手の気持ちを説明してくれるわけじゃないんだから、現実は情報集めないと分からない」
悠斗が目を瞬かせた。
「……急にまともなこと言うじゃん」
「俺を何だと思ってるんだ」
「授業中に本読む奴」
「最近やってない!」
春樹が抗議したところで、少し離れた席から雫が振り返った。
「何騒いでるの?」
「なんでもない!」
悠斗が即答する。
雫の眉が上がった。
「何よ、その反応」
「男同士の話」
「へえ」
「なんだよ」
「別に?」
雫はそれ以上追及しなかった。
紗弥が何か言い、二人は教室を出ていく。
雫は扉のところで一度だけ振り返った。
「春樹、今日も図書室?」
「その予定」
「遅くなりすぎないようにね」
「分かってる」
「じゃあね」
「おう。また明日」
雫と紗弥が廊下へ消える。
悠斗はその後ろ姿を見てから、春樹へ視線を戻した。
「……お前ら、本当に自然だよな」
「何が?」
「いや、なんでもない」
「今日のお前、それ多くない?」
「今は俺の話」
「そうだった」
春樹は少し前のめりになる。
「誰?」
「いきなりそこ?」
「重要だろ」
「同じクラス」
「うちの?」
「そう」
春樹は反射的に教室を見回した。
「見るな!」
「誰か分からないと話進まないだろ」
「今は名前言わなくていい」
「じゃあ何を相談するんだよ」
「好きかどうか、まだ分かんないんだ」
春樹はそこで口を閉じた。
悠斗は先ほどまでの軽い表情から少し変わっていた。
照れているというより、本人も自分の感情を整理できていないように見える。
春樹は机へ肘をつく。
「なるほど」
「なんだよ」
「そういう段階か」
「分かるの?」
「分かるっていうか、珍しくないだろ。いきなり『俺はこの人が好きだ』って自覚するパターンばっかりじゃないし」
「小説の話?」
「小説にもあるけど、今は普通の話。なんか最近その子のこと気になるとか?」
「……まあ」
「よく目で追う?」
「たまに」
「その子が他の男子と喋ってると気になる?」
「質問が具体的だな」
「答えろよ」
「ちょっとだけ」
「連絡来たら嬉しい?」
「それは……嬉しい」
「二人で話せると?」
「まあ、嬉しい」
「その子に彼氏できたら?」
悠斗が黙った。
さっきまで机の上で動いていた指が止まる。
春樹は急かさなかった。
教室の窓から入り込んだ風がカーテンを揺らし、夕方に近づいた光が机の上を斜めに横切っている。運動部の生徒たちが校庭へ向かっているらしく、開いた窓の向こうから笛の音が聞こえ始めていた。
しばらくして、悠斗が口を開く。
「……嫌かも」
「じゃあ、かなり好き寄りじゃない?」
「やっぱり?」
「少なくとも『どうでもいい女子』ではないだろ」
「それは分かってる」
「なら無理に今すぐ名前つけなくてもいいんじゃない?」
悠斗が春樹を見る。
「え?」
「好きかどうか分からないんだろ?」
「うん」
「だったら、もうちょっと話してみればいいじゃん。相手のこと知って、それでももっと一緒にいたいと思うなら、そのとき考えればいい」
春樹は机の上に置いた本の角を指で軽くなぞった。
「恋愛って、好きだと気づいた瞬間から始まるわけじゃないと思うぞ。後から振り返って、『あの頃にはもう気になってたな』って分かることもあるだろうし」
「……お前」
「ん?」
「本当に恋愛経験ない?」
「ないって」
「なんでそんなこと言えるの?」
「恋愛小説読んでるから」
「全部そこに戻るのかよ!」
悠斗が笑う。
春樹も笑った。
「でも、変に告白急ぐ必要はないと思う。相手のことよく知らないまま『好きかもしれないから付き合って』って言われても、向こうも困るかもしれないし」
「そうだよな」
「ただし」
「ただし?」
「相手が誰かに取られてから『実は好きだった』って気づいても遅い場合はある」
「怖いこと言うなよ」
「現実だろ」
「どうすりゃいいんだよ!」
「だから普通に距離縮めろって。話す回数増やすとか、共通の話題探すとか。一緒に帰れるなら帰るとか」
「それってデート誘えってこと?」
「なんでいきなり飛ぶんだよ。お前、さっきまで好きかどうかも分からないって言ってただろ」
「じゃあ何?」
「まず普通に話せ。お前ならできるだろ」
「……まあ、それくらいなら」
「あと、変に格好つけない方がいいと思う」
「なんで?」
「普段のお前知ってる相手なんだろ? 急にキメ始めたら不自然じゃん」
「お前、妙に具体的だな」
「物語で散々見たからな。普段普通に喋ってる男が好きな女子の前だけ急に別人格になって失敗するやつ」
「また小説!」
「知識を馬鹿にするな。先人たちの失敗が詰まってるんだぞ」
「架空の先人だけどな!」
悠斗の表情から、さっきまでの迷いが少し薄れた。
春樹はそれを確認してから、机の上の本へ手を伸ばした。
「で、相談終わり?」
「たぶん」
「じゃあ俺、図書室行っていい?」
「切り替え早いな!」
「大事な相談だったから聞いた。でも終わったなら二編目が俺を待ってる」
「本は待ってない」
「待ってるよ。昨日からずっと同じページで」
「物理的にはな」
春樹は立ち上がり、鞄を肩へ掛けた。
「でも、ありがとな」
悠斗が言った。
春樹は振り返る。
「何が?」
「話聞いてくれて」
「友達なんだから、それくらい聞くって」
「本より俺を選んだ?」
「今日はな」
「今日はって言うなよ!」
「次が『消しゴム貸して』だったら本を選ぶ」
「まだ言ってる!」
笑いながら春樹は教室を出た。
◇◇◇
廊下へ出ると、教室内より少しだけ空気が涼しかった。
放課後になって十分ほど経ち、校舎内を歩く生徒の数も減り始めている。部活動へ向かった者が多いのだろう。
春樹は鞄の中に入れた本を意識しながら図書室へ向かう。
(悠斗がねぇ)
意外だった。
あいつは女子とも普通に話すし、雰囲気も明るい。恋愛に興味がないわけではないと思っていたが、具体的な相手がいるような話を聞いたのは初めてだった。
(誰だろ)
同じクラス。
よく話す女子。
そこまで絞れば何人か思い浮かぶ。
だが、悠斗が名前を言わなかった以上、勝手に探るのは違う気がした。
(まあ、そのうち自分で言うか)
それより気になったのは、悠斗自身がまだ「好き」と断定できていないことだった。
春樹には、その感覚も理解できる。
物語でも、感情はいつも明確な形で始まるわけではない。
なんとなく気になる。
いつの間にか目で追う。
他の誰かと話していると、理由もなく落ち着かない。
会えた日は少し嬉しい。
話せなかった日は少し物足りない。
そういう小さな変化が積み重なり、ある瞬間になってようやく「好きだったのか」と自覚する。
(王道だけど、いいんだよな。ああいうの)
春樹の頭の中に、これまで読んできた何冊もの恋愛小説が浮かぶ。
幼なじみ。
先輩後輩。
友人。
最初は反発し合っていた二人。
本を介して親しくなる二人。
何気ない日常の中で、少しずつ相手の存在が大きくなっていく。
「……いい」
思わず口元が緩んだ。
「何がいいの?」
「うわっ」
突然横から声をかけられ、春樹は肩を揺らした。
いつの間にか、隣を西条雫が歩いていた。
「お前、帰ったんじゃなかったの!?」
「紗弥が先生に呼ばれたから、昇降口まで行って戻ってきたのよ。春樹こそ、一人でニヤニヤしながら何歩いてるの?」
「ニヤニヤはしてない」
「してた」
「ちょっと恋愛について考えてただけ」
雫の足が止まった。
春樹は二歩進んでから気づき、振り返る。
「どうした?」
「……恋愛?」
「うん」
「春樹が?」
「なんだよ。その反応」
「いや……だって、春樹が自分から恋愛について考えてたって言うから」
「俺、恋愛もの好きなんだけど?」
「小説の中の話でしょ」
「現実の恋愛だって考えることくらいあるよ」
「へえ……」
雫の声が少しだけ低くなる。
春樹はまったく気づかない。
「実際、難しいよな。好きっていつから好きなのかとか」
「……何かあった?」
「まあ、ちょっと」
「誰かに何か言われたの?」
「それは言えない」
「なんで?」
「本人の話だから」
春樹はそこだけはきっぱり答えた。
「相談された内容を勝手に喋るのは駄目だろ」
「ああ……相談」
雫の肩から、わずかに力が抜けた。
本人にも、それがなぜなのかは分からなかった。
(何よ。相談されたってだけじゃない)
胸の中に浮かんだ言葉へ、自分で少し引っかかる。
(……だけって何?)
春樹が恋愛について考えていた。
ただそれだけで、なぜ一瞬変な感じがしたのか。
雫は答えを探す前に、その感覚を頭の隅へ押しやった。
春樹がこちらを見る。
「雫?」
「何でもない。それより、春樹に恋愛相談する人なんているのね」
「どういう意味だよ」
「だって春樹でしょ?」
「お前、幼なじみに対する敬意が足りなくない?」
「じゃあ聞くけど、春樹は恋愛経験あるの?」
「ない」
「告白したことは?」
「ない」
「付き合ったことは?」
「ない」
「デートは?」
「ない」
「ほら!」
「経験だけが全てじゃないだろ!」
廊下に春樹の声が響く。
近くを歩いていた女子生徒が何事かとこちらを見たため、春樹は慌てて声を落とした。
「俺は恋愛小説を相当読んでるんだぞ」
「それ、悠斗にも言った?」
「言った」
「呆れられたでしょ」
「なんで分かるんだよ」
「私でも呆れるもの」
「ひどいな!」
雫が笑う。
春樹もつられて笑った。
二人は並んで歩き始める。
「でもさ」
春樹が言う。
「恋愛経験ないからって、人の話聞けないわけじゃないだろ?」
「まあ、それはそうね」
「相手がどう思ってるかなんて本人じゃないと分からないし、俺が『絶対脈あり』とか決めるのも違うと思う。できるのは、相談してきた側がどう感じてるか整理するくらいじゃない?」
雫が横目で春樹を見る。
「……春樹って、そういうのはちゃんと考えるのね」
「そういうのって何だよ」
「人の恋愛」
「面白いからな」
「台無し」
「なんでだよ!」
「今ちょっと感心したのに」
「感心したなら最後まで感心してくれよ」
雫はまた笑った。
けれど、春樹の言った言葉は少しだけ頭に残った。
好きって、いつから好きなのか。
本人にも分からないことがある。
何気ない日常の中で少しずつ変わって、後から気づくこともある。
先ほど春樹が誰かにしたらしい話を、雫は詳しく聞いていない。
だから、今の言葉も春樹の一般論にすぎない。
それでも。
(好きって……いつからなんだろ)
そんな疑問が一瞬だけ浮かぶ。
雫はすぐに眉を寄せた。
(何考えてるの、私)
「どうした?」
「なんでもない」
「今日それ言う奴多いな」
「誰が言ってたの?」
「悠斗」
「ふうん」
「だから相談内容は聞くなよ?」
「聞かないわよ」
「ならいいけど」
春樹はそれ以上気にしなかった。
図書室へ向かう廊下の途中で、雫は階段へ進む。
「私、紗弥のところ戻るから」
「おう」
「春樹は図書室?」
「もちろん」
「また時間忘れないようにね」
「今日は放課後だから授業ないだろ」
「閉館時間」
「白石先輩にも昨日言われた」
「じゃあ気をつけなさい」
「みんな俺のこと子供だと思ってない?」
「思ってないわよ」
「今ちょっと間があったぞ」
「気のせい」
雫が手を振り、階段を下りていく。
春樹も軽く手を上げて見送った。
そして数秒後には、頭の中が本へ戻っていた。
(よし。今度こそ二編目読むぞ)
雫が最後にどんな顔をしていたのか。
春樹はまったく見ていなかった。
◇◇◇
図書室へ入ると、昼休みとは違う静けさがあった。
西へ傾き始めた陽光が窓から差し込み、机や椅子の影を長く床へ伸ばしている。外では運動部の掛け声が響いているものの、厚い窓ガラスと本棚に遮られ、ここまで届くころには遠い背景音になっていた。
春樹は入口近くで一度立ち止まる。
カウンターを見る。
栞がいた。
彼女は貸出用の端末の前で何か作業をしていたが、扉の音に気づいて顔を上げた。
目が合う。
「こんにちは」
栞が先に声をかけた。
「こんにちは。今日も来ました」
「今日は放課後ですね」
「昼も来ましたけどね」
「そうでした」
栞が小さく笑う。
春樹はカウンターへ近づいた。
「昼はありがとうございました。新海、助かったみたいです」
「よかったです」
「俺だけだったら、たぶん候補もっと増やしてました」
「七瀬君、途中から楽しそうでしたね」
「本を選ぶの好きなんですよ。人に勧めるのって、自分で読むのと別の面白さあるじゃないですか」
「分かります」
栞の返事が、昨日より少しだけ早くなっていた。
「その人が何を好きなのか考えながら選ぶの、楽しいですよね」
「ですよね。だから十冊くらい出したかったんですけど」
「多いです」
「新海にも止められました」
「だと思います」
「白石先輩、最近俺にちょっと厳しくないです?」
「そんなことないです」
そう答えながら、栞は少し笑っている。
春樹も笑った。
初めて話したときより、明らかに会話が自然になっていた。
ただし春樹にとって、それは恋愛的な変化ではない。
本について気兼ねなく話せる先輩ができた。
それが単純に嬉しかった。
「あ、そうだ」
春樹は鞄から連作短編集を取り出す。
「二編目、途中まで行きました」
「どうでした?」
「青い花」
それだけ言う。
栞の目が少し大きくなった。
「気づきました?」
「やっぱり意味ありますよね?」
「あります」
「うわ、やっぱり!」
春樹の声が大きくなりかける。
直後、自分で口元を押さえた。
「……危ない。またやるところだった」
栞が肩を小さく揺らす。
「前より早く気づきましたね」
「成長してるでしょう?」
「はい」
「今日みんなに成長を認めてもらえるな」
「何かあったんですか?」
「朝から色々」
春樹はそこまで言ってから、時計を見る。
「でも、先に読んでいいですか? 二編目があと少しなんですよ」
「もちろんです」
「読み終わったら話しましょう」
「はい」
栞の返事を聞き、春樹は窓際の席へ向かった。
椅子を引き、座る。
本を開く。
数分もしないうちに、春樹の意識は物語へ沈んでいった。
栞はカウンターからその姿を一度だけ見た。
昼休みに真実と一緒に来たときの春樹は、よく喋っていた。
本を選ぶときも楽しそうだった。
今はまったく違う。
ページへ目を落とし、静かに文字を追っている。
表情も穏やかだった。
(本当に、本が好きなんだ)
そんなことは、もう知っている。
それでも、見るたびに少し納得する。
栞は自分の手元へ視線を戻した。
彼が読み終われば、たぶん感想を話してくれる。
そのとき自分も何を話そうか。
そんなことを考えた自分に気づき、栞の指が一瞬止まった。
(……待ってるみたい)
少しだけ恥ずかしくなる。
けれど、嫌ではなかった。
好きな本を読んだ人が感想を聞かせてくれる。
ただ、それを楽しみにしているだけ。
今は、それ以上の意味を考える必要はなかった。
◇◇◇
二十分ほど経ったころ、春樹がゆっくり本を閉じた。
「…………」
しばらく動かない。
二編目の最後に書かれていた一文を、頭の中でもう一度思い返していた。
(一編目のあの台詞、そういう意味だったのか)
予想していた繋がりとは少し違った。
青い花の意味も分かった。
だが、それ以上に、一編目ではただの背景人物だと思っていた相手が二編目の主人公と深く関係していたことが大きい。
(これ、最終話まで行ったら全部変わって見えるんじゃないか?)
読み進めたい。
すぐ三編目へ入りたい。
同時に、話したい。
春樹は本へ栞を挟み、立ち上がった。
カウンターへ向かう。
「白石先輩」
「読み終わりました?」
「二編目まで」
「どうでした?」
春樹はカウンターの前で一度息を吸った。
「めちゃくちゃ話したいんですけど、今いいですか?」
「はい」
「長くなりますよ?」
「知ってます」
春樹が目を瞬かせる。
栞も自分の言葉に気づいたらしく、少しだけ視線を逸らした。
「……昨日から、何度か聞いてるので」
「なるほど」
春樹は笑った。
「じゃあ遠慮なく」
そこからの春樹は、本当によく喋った。
青い花。
駅の時計。
一編目で主人公が何気なく見ていた古い看板。
二編目の視点人物が同じ場所を通ったことで変わった印象。
最初は単なる雰囲気作りだと思っていた文章が、実は人物関係を示す手掛かりになっていたこと。
栞も途中から言葉を返す。
「私は、最初に読んだとき花は気づかなかったんです」
「本当ですか?」
「はい。でも、時計は少し気になって」
「あれ気づいたんですか? 俺、完全に流しました」
「何度も時間を確認していたので、何かあるのかなって」
「なるほどなぁ。じゃあ先輩、ミステリー読むときも結構細かいところ見ます?」
「たぶん……七瀬君よりは」
「今さらっと喧嘩売りました?」
「ち、違います」
「冗談ですって」
栞が困ったように笑う。
春樹も笑った。
そこからさらに話が続く。
同じ本を読んでいるのに、気づいた場所が違う。
好きだった台詞も違う。
春樹が展開の構造を面白がる一方で、栞は登場人物が言えなかった言葉や、沈黙の意味をよく覚えている。
その違いが面白かった。
「人の感想聞くのっていいですね」
春樹が言う。
「自分一人だと気づかなかったところ出てくるし」
「私も……七瀬君の話を聞いて、そう思いました」
「俺、細かい感情描写結構読み飛ばすときあるからなぁ」
「恋愛小説が好きなのに?」
「好きだから全部得意とは限らないですよ。俺、関係性が積み上がっていくの見るのが好きなんです」
「関係性?」
「最初は何とも思ってなかった二人が、何回も会って、喋って、一緒に何かして、そのうち相手がいるのが当たり前になっていく感じ」
栞は静かに春樹を見る。
春樹は本の表紙へ視線を落としながら続けた。
「だから、いきなり一目惚れして即告白みたいなのも嫌いじゃないですけど、どっちかっていうとゆっくり変わる方が好きですね。本人たちもいつから好きだったのか分からないくらいの」
「……そうなんですね」
「今日、ちょうど似たような話したんですよ」
「誰かと?」
「友達にちょっと相談されて」
そこまで言って、春樹は口を閉じる。
「内容は言えないですけど」
「もちろんです」
栞は追及しなかった。
それが春樹にはありがたかった。
「好きって気づくタイミングって、人によって違うじゃないですか」
「はい」
「俺はそこ読むの好きなんですよ。読者側は『もう好きだろ』って分かってるのに、本人だけ分かってないやつ」
春樹は楽しそうに笑った。
「『なんであいつが他の男と話してるだけで気になるんだ?』とか、『今日会えなかっただけなのに何で寂しいんだ?』とか。いや、それ好きだからだろって」
栞が何とも言えない表情になる。
「……七瀬君」
「はい?」
「そういうの、分かるんですね」
「分かりますよ?」
「そうですか」
「なんでちょっと意外そうなんです?」
「いえ……」
栞は言葉を探した。
春樹は、人の感情を理解できないわけではない。
むしろ今の話だけ聞けば、かなり細かく理解している。
それなのに。
自分へ向けられる視線については、妙に気づかなさそうな印象がある。
もちろん、栞自身が春樹へ何か特別な感情を持っているわけではない。
ただ、昼休みに一緒にいた真実が春樹を見る目。
教室の話に何度も出てくる雫。
そうしたものを春樹がどう捉えているのか、少しだけ不思議になった。
けれど、それを尋ねる理由もない。
「七瀬君は、本当に恋愛小説が好きなんだなと思っただけです」
「好きですよ。だから現実で自分がやりたいかは別ですけど」
「……別なんですか?」
「別ですね」
春樹は迷いなく答えた。
「読むのとやるのは違いますよ。スポーツ観戦好きな人が全員プロ選手になりたいわけじゃないでしょう?」
「それと同じなんでしょうか」
「俺の中では同じです」
栞は少し考えたあと、小さく笑った。
「七瀬君らしい気がします」
「知り合ってまだ数日なのに?」
「あ……」
「でも、俺も白石先輩がそう言うなら、たぶんそうなんでしょうね」
春樹は気にせず笑う。
栞は返事をしながら、ほんの少しだけ胸の内に残った感覚へ意識を向けた。
(七瀬君らしい、か)
確かにまだ知り合って間もない。
それでも、本について楽しそうに話す顔も、読んでいるときの静かな横顔も、時間を忘れて慌てるところも少しずつ知った。
その程度の積み重ねでしかない。
だからこそ、今はその程度のままでよかった。
◇◇◇
図書室を出たころには、夕方の光が校舎を橙色に染め始めていた。
春樹は昇降口へ向かいながら、満足そうに息を吐いた。
「今日は結構読めたな」
悠斗の相談で出発は遅れた。
途中で雫とも話した。
図書室では栞とかなり長く感想を語った。
純粋な読書時間だけで考えれば、予定より短い。
それでも不思議と損をした気分はなかった。
(まあ、本の話できたしな)
階段を下りる。
途中、窓の向こうにグラウンドが見えた。
サッカー部が練習をしている。
神谷蓮らしき姿もある。
別の方向にある剣道場からは、竹刀が打ち合う乾いた音が規則正しく響いていた。
春樹は少しだけそちらへ視線を向ける。
(そういや九条さん、剣道部だったっけ)
今朝会った風紀委員の少女を思い出す。
それだけだった。
わざわざ見に行こうとは思わない。
春樹の目的地は昇降口、その先は家。
帰ったら三編目を読む。
その前に、今読んでいるWeb小説の更新も確認したい。
やりたいことはいくらでもある。
「七瀬」
「ん?」
昇降口へ着く直前、後ろから声をかけられた。
春樹が振り返る。
永山が廊下を歩いてきていた。
「今帰りか?」
「はい」
「今日は一日全部授業出たな」
「先生」
「なんだ」
「俺をなんだと思ってるんですか」
「一昨日、朝から二限まで消えてた生徒」
「事実を並べるのやめてもらえます?」
「しかも昨日は昼休み明けに遅刻」
「数十秒!」
「遅刻は遅刻だ」
「最近そればっかり言われる!」
永山が笑う。
春樹は不満そうに靴箱から自分の靴を取り出した。
「今日はちゃんとしてたでしょう?」
「ああ。だから褒めてる」
「……珍しい」
「教師が生徒褒めて何が悪い」
「永山先生の場合、褒めたあと何か来そうで」
「お前なぁ」
永山は呆れたように息を吐く。
それでも表情は穏やかだった。
「まあいい。最近図書室行ってるらしいな」
「なんで知ってるんです?」
「昨日、自分で言ってただろ」
「ああ」
「今日は遅刻しなかったみたいだし、読むならああいう場所で読め」
「俺もそう思い始めました」
「最初から思え」
「ただ、図書室も最近ちょっと喋る時間増えてるんですよね」
「図書室で?」
「本の話ですけど」
「声量には気をつけろよ」
「そこはもう注意されました」
「誰に?」
「自分で気づきました」
「成長したな」
「でしょう?」
「そこまで得意げになることでもない」
「先生、褒めるなら最後まで褒めてくださいよ」
春樹が笑う。
永山はそんな春樹を少し見てから、肩をすくめた。
「友達増えるのは悪いことじゃない」
「急になんです?」
「別に」
「先生まで今日それ言うんですか」
「何がだ」
「『別に』『なんでもない』って今日よく聞くなと思って」
「知らん」
永山はそのまま職員室の方向へ歩いていく。
「寄り道しすぎるなよ」
「はーい」
「返事が軽い!」
「分かりました!」
春樹は笑いながら昇降口を出た。
外の空気は昼より涼しくなっていた。
校門へ向かう道を歩きながら、春樹は今日一日のことをぼんやり振り返る。
真実から本の相談を受けた。
栞と本を選んだ。
悠斗から恋愛相談を受けた。
雫と恋愛について少し話した。
放課後は栞と連作短編集の感想を語った。
(……今日、結構人と喋ったな)
本を読むつもりだった一日としては、明らかに会話量が多い。
それでも、嫌ではなかった。
春樹は歩きながら鞄を見る。
中には、続きが待っている本がある。
今朝、凛に注意されたことを思い出し、今日は取り出さない。
(家帰ってから読めばいいか)
そう考えられる程度には、少しだけ我慢を覚えたらしい。
その代わり、頭の中には悠斗との会話が残っていた。
誰かを目で追う。
話せると嬉しい。
他の異性と話していると気になる。
会えないと少し寂しい。
本人だけが、その感情の名前に気づいていない。
「王道だよなぁ」
春樹は楽しそうに呟く。
もし小説の登場人物なら、読者はきっとかなり早い段階で気づくのだろう。
本人がどれだけ否定していても、行動を見れば分かる。
春樹はそういう話が好きだった。
少しずつ積み重なった感情が、ある日ようやく名前を持つ瞬間が好きだった。
だから、他人の恋愛ならよく分かる。
少なくとも本人は、そう思っている。
ただし。
自分の周囲で少しずつ増え始めた視線や、言葉にできない小さな感情については、今のところ一つも気づいていなかった。
春樹にとってそれらは、まだ恋愛小説の中にしか存在しないものだった。




