第6話 後輩に本を選んでほしいと言われても、俺は恋愛相談員じゃない
昼休みの図書室には、昨日までと変わらない静かな時間が流れていた。
大きな窓から差し込む五月の光が閲覧机の端を照らし、開けられた窓から入る風が薄いカーテンをゆっくりと膨らませている。グラウンドから聞こえてくる声もここまで来れば遠く、ページをめくる音を邪魔するほどではない。
七瀬春樹は、窓際のいつもの席に座っていた。
机の上には、白石栞から教えてもらった連作短編集。
すでに最初の一編は読み終わり、今は二編目の半ばまで進んでいる。
最初の物語では駅のホームで誰かを待っていた人物が、二編目では名前すら出ない脇役として登場していた。しかも一編目を読んだだけでは気づかなかった小さな情報が、別の人物の視点を通すことで少しずつ意味を変えている。
春樹の指がページの途中で止まった。
(なるほど。そう繋がるのか)
一編目で何気なく描かれていた駅前の花屋。
そこに置かれていた青い花。
二編目では、その花を買った人物が別の角度から描かれている。
(これ、最後まで読んでから一編目に戻ったら絶対面白いやつだ)
すぐにでも栞へ言いたくなる。
しかし春樹は本から顔を上げかけたところで、その動きを止めた。
カウンターの向こうでは、栞が返却された本を整理している。今日は昼休みの利用者も昨日より多く、彼女は一人ずつ貸出や返却の対応をしていた。
今は仕事中だ。
ならば邪魔をする必要はない。
春樹は再び本へ視線を戻した。
話すなら、落ち着いてからでいい。
昨日までなら、面白い箇所を見つけた瞬間に誰かへ話したくなったかもしれない。もっとも、雫に話そうとすれば途中で「長い」と止められ、悠斗に話せば「俺その本知らねえよ」と返される可能性が高い。
今は、読み終わったあとに感想を話せる相手がいる。
それだけで、少し読み方まで変わった気がした。
(先輩、あの花の意味まで気づいてたのかな)
ページをめくる。
さらに数行読む。
そこで、図書室の扉が静かに開いた。
春樹は顔を上げなかった。
誰かが入ってくるたびに確認していたら、読書に集中できない。
入室した人物の足音が、入口から本棚の方へ向かっていく。しばらくして止まり、また少し移動する。
何かを探しているらしい。
それも春樹には関係ない。
ところが。
「……あの」
小さな声が聞こえた。
春樹はまだ本を読んでいる。
「七瀬先輩」
「ん?」
自分の名前を呼ばれ、ようやく顔を上げた。
机の横に、新海真実が立っていた。
一年生を示す上履き。きちんと整えられた制服に、肩から下げた小さめの鞄。
以前、体育倉庫裏で会ったときと同じく、周囲の視線を自然と集める整った顔立ちをしている。
もっとも今は、少し困ったように春樹を見ていた。
「新海?」
「こんにちは」
「おう。こんにちは」
春樹は本へ栞を挟んだ。
「珍しいな。図書室使うんだ?」
「たまに来ます」
「あ、そうなんだ。悪い。勝手に来ない人だと思ってた」
「どうしてですか?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで決めないでください」
「ごもっとも」
真実の口元が少しだけ緩んだ。
最初に会ったときより、随分と話しやすくなったように見える。
とはいえ、知り合ってまだ数日だ。
春樹にとって真実は、雫の知っている一年生であり、たまたま告白現場に居合わせた後輩という位置から、ようやく「会えば普通に話す後輩」になり始めた程度だった。
「で、どうした?」
「え?」
「俺に用事じゃないの? 名前呼んだだろ」
「あ、はい」
真実は一度周囲を確認した。
図書室だから当然だが、近くで大声を出している者はいない。
それでも少しだけ声を落とす。
「七瀬先輩に、ちょっと聞きたいことがあって」
「俺に?」
「はい」
「勉強?」
「違います」
「サッカー?」
「それも違います」
「じゃあ本?」
真実が少し驚いた顔をした。
「……どうして分かったんですか?」
「ここ図書室だから」
「…………」
「そんな顔する?」
「いえ。もっとすごい理由があるのかと思いました」
「俺に何を期待してるんだよ」
春樹が笑う。
真実も小さく笑った。
春樹は向かい側の椅子を見る。
「座る?」
「いいんですか?」
「立ったまま話す理由もないだろ。図書室だから静かにすれば問題ないし」
「じゃあ……失礼します」
真実が椅子を引く。
音を立てないようにゆっくり腰を下ろした。
春樹も机へ本を置く。
「それで、本がどうした?」
「実は……友達に貸す本を探していて」
「友達に?」
「はい。同じクラスの美優なんですけど」
「美優?」
「藤崎美優です」
「ああ、新海の友達か」
春樹は名前だけ覚える。
真実と同じ一年生。
今のところ、自分とは直接関係のない相手だ。
「その藤崎さんが本好きなの?」
「逆です。普段はほとんど読まなくて」
「なるほど」
春樹の表情が少し変わる。
これは意外と難しい相談だった。
本を読む人間に本を勧めるのと、普段あまり読まない人間に勧めるのでは条件が違う。
「なんで急に読みたいって?」
「来月、国語の授業で好きな本を紹介する課題があるみたいなんです」
「一年生はそんなのやるんだ」
「はい。それで美優が『何読めばいいか分からない』って」
「新海は何か勧めなかったの?」
「一冊紹介したんですけど、少し難しそうって言われてしまって」
「何を勧めた?」
真実が作品名を答える。
春樹は数秒考えた。
「ああ、あれか。面白いけど、普段読まない人の一冊目としてはちょっと重いかもな」
「やっぱりそうですか?」
「文章が難しいっていうより、序盤がゆっくりだから。読書習慣ない人だと、面白くなる前に止まる可能性ある」
「そうなんです。私も好きな本なんですけど……」
「好きな本と、人に勧めやすい本って別だからな」
春樹は椅子の背もたれへ少し身体を預けた。
「藤崎さんって、何が好き?」
「何が、ですか?」
「本以外。ドラマでも映画でも漫画でもいい。恋愛が好きとか、ミステリーが好きとか、泣ける話が好きとか。あと長い話が平気かどうか」
「そこまで考えるんですか?」
「そりゃ考えるだろ」
春樹は当然のように答えた。
「本って、人によって刺さるところ全然違うから。俺が百点だと思ってる本を誰かに渡しても、その人には五十点かもしれない。逆もあるし」
「……なるほど」
「それに、普段本を読まない人へいきなり分厚い長編渡すのは、いくら名作でもちょっと酷だろ?」
「確かに……美優、厚い本を見ただけで嫌がると思います」
「じゃあ薄め。章も短い方がいいな」
春樹の声が少し弾み始める。
「あと課題で紹介するなら、読んだあとに自分の言葉で話しやすい作品がいい。構造が複雑すぎるミステリーだと説明だけで時間使うし、設定が多いファンタジーも紹介時間が短いなら難しい」
「七瀬先輩」
「ん?」
「すごく楽しそうですね」
「そりゃ本の話だからな」
即答だった。
真実は一瞬黙ったあと、ふっと笑った。
「本当に好きなんですね」
「好きだよ。じゃなきゃ授業サボってまで読まない」
「それは威張って言うことじゃないと思います」
「最近みんな俺にそれ言うなぁ」
「みんな?」
「雫とか、永山先生とか、今朝は風紀委員にも注意された」
「風紀委員?」
「歩きながら本読んでたら止められた」
「それは止められますよ」
「新海まで!」
春樹が小声で抗議する。
図書室なので声量は抑えているが、表情は大げさだった。
「ちゃんと反省したよ。危ないのはその通りだから」
「だったら最初から歩きながら読まなければいいのに」
「あと十二ページだったんだよ」
「十二ページなら教室で読めますよね?」
「教室には雫が来る」
「雫先輩が?」
「話しかけてくるんだよ。俺が本読んでても普通に」
「……仲いいですね」
「なんでそうなるんだ?」
「普通に話を聞いていて」
「幼なじみだから遠慮がないだけだぞ」
春樹は何の疑いもなく答えた。
真実はその顔を少し見てから、「そうなんですね」とだけ返した。
そこに嫉妬のようなものはない。
ただ、春樹と雫の距離感について、以前より少し具体的に理解しただけだった。
「それより藤崎さんだよ。好きなジャンル分かる?」
「あ、はい。恋愛ドラマはよく見てます。あと、映画も恋愛ものが多いって」
「恋愛か」
春樹の目が少し輝いた。
真実はそれを見逃さなかった。
「七瀬先輩、恋愛もの好きなんですよね」
「好き。かなり」
「……やっぱりちょっと意外です」
「なんで?」
「いえ、見た目というか……」
「俺、そんな恋愛小説読まなそうに見える?」
「少しだけ」
「偏見だぞ、新海」
「すみません」
「別に怒ってないけど」
春樹は笑い、顎へ手を当てた。
「恋愛ドラマ好きなら選択肢増えるな。高校生が主人公の方が入りやすいかもしれないけど、課題で紹介するならベタすぎない方が話しやすいか……いや、でも普段読まないなら王道の方がいいか」
完全に考え込み始める。
真実は黙ってその様子を見ていた。
春樹は、誰かに格好よく見せようとしているわけではない。
頼られたから、ただ真面目に考えている。
それが真実には少し不思議だった。
初めて見たときは、体育倉庫の裏で授業を抜けて本を読んでいた変な先輩。
その次に、告白を断った自分へ「悪くない」と言ってくれた。
サッカーボールを簡単に蹴り返した。
雫や友人といるときはよく喋り、教師とも平然と冗談を言うらしい。
そして今は、会ったこともない一年生のために真剣な顔で本を選ぼうとしている。
(やっぱり、よく分からない人だな)
それは嫌な意味ではなかった。
むしろ、知っている部分が増えるたびに、最初に抱いた印象が少しずつ書き換わっていく。
だから気になる。
何を考えているのか。
普段どんな人なのか。
まだその程度だった。
「新海」
「はい?」
「藤崎さん、悲しい話いける?」
「えっと……たぶん。映画で泣くの好きって言ってました」
「なら候補三冊くらいある」
「本当ですか?」
「ちょっと待って」
春樹が立ち上がる。
そのまま小説の棚へ向かおうとして、途中で足を止めた。
カウンターを見る。
栞がちょうど返却作業を終えたところだった。
「白石先輩」
呼ばれた栞が顔を上げる。
「はい?」
「ちょっと聞いていいですか?」
「どうぞ」
春樹は真実へ振り返った。
「新海も来る?」
「あ、はい」
二人でカウンターへ向かう。
栞の視線が、春樹の後ろにいる真実へ移った。
少しだけ目を瞬かせる。
知らない一年生が一緒に来たからだろう。
「こちら、新海真実。一年生」
「新海です。こんにちは」
「白石栞です。三年生で、図書委員をしています」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
静かな挨拶が交わされる。
春樹は二人の間に妙な意味など何も感じていない。
ただ本を選ぶために、図書委員で本好きの栞へ相談しただけだった。
「白石先輩、普段あんまり本読まない人に最初の一冊として恋愛もの勧めるなら、何にします?」
「恋愛もの……ですか?」
「新海の友達が、授業で本紹介するらしくて。恋愛ドラマとか映画は好きだけど、読書習慣はあんまりない。分厚い本は苦手。できれば一冊で完結してて、紹介もしやすいやつ」
「七瀬先輩、条件まとめるの早いですね」
「条件分からないと選べないからな」
栞は少し考え込んだ。
その表情を見て、春樹は急かさない。
数秒後、栞が顔を上げる。
「それなら……あの棚にある短めの作品はどうでしょう」
「ああ、あれか」
「七瀬君、読んだことあります?」
「あります。確かにいいかも」
二人の会話がすぐに繋がる。
「主人公が高校生だから入りやすいし、文章も読みやすいですよね」
「はい。それに、恋愛だけじゃなくて家族の話もあるので、紹介するときに感想をまとめやすいと思います」
「終盤ちょっと重いけど、映画で泣くの好きならむしろありか」
「私は……好きでした」
「俺も好きです。あの最後、ちゃんと全部解決するわけじゃないのがいいんですよ」
「分かります」
栞の声が少しだけ明るくなる。
「全部綺麗に終わるより、二人がこれからも続いていく感じがして」
「そうそう。恋愛ものって付き合った瞬間をゴールにする作品も多いですけど、実際そこからじゃないですか。だからああいう終わり方、俺かなり好きで――」
「あの」
真実が控えめに手を上げた。
二人が同時にそちらを見る。
「すみません。私、全然分からなくなりました」
「……あ」
春樹が止まる。
栞も少し恥ずかしそうに視線を下げた。
「ご、ごめんなさい」
「いえ! 謝らないでください。なんというか……お二人とも本当に本が好きなんだなって」
真実は少し笑っていた。
「白石先輩と七瀬先輩、話し始めるとすごいですね」
「そう?」
「はい。私が入る隙がなくなるくらい」
「悪い。完全に本の話に入ってた」
「だから怒ってないですって」
真実が笑う。
栞はまだ少し申し訳なさそうだった。
「すみません、新海さん」
「本当に大丈夫です。むしろ、ちょっと羨ましいです」
「羨ましい?」
栞が聞き返す。
「好きなものの話を、あんなに楽しそうにできるのっていいなと思って」
栞は一瞬だけ黙った。
それから、ほんの少し柔らかな表情になる。
「……そうですね」
その返事は静かだった。
春樹は深く考えず、話を本題へ戻した。
「じゃあ、その本見に行こう。新海が実物見て、藤崎さんが読めそうか判断した方がいい」
「はい」
三人で棚へ向かう。
春樹が目的の本を抜き取った。
文庫サイズで、厚さもそれほどない。
「これ」
真実が受け取る。
「思ってたより薄いですね」
「だろ? 文字もそこまで小さくない」
「表紙も綺麗……」
「そこ結構大事なんだよな」
「表紙もですか?」
「普段読まない人なら特に。最初に手に取りたいと思えるかって大きいから」
栞も隣で頷く。
「本屋さんでも、表紙を見て手に取ることってありますから」
「ですよね」
真実は本を裏返し、あらすじを見る。
春樹がすぐに口を開いた。
「待った」
「え?」
「裏のあらすじは読んでいい。でも帯がついてたら気をつけろ」
「帯?」
「余計な情報書いてあることあるから」
栞が小さく笑った。
「七瀬君、それ昨日も言ってましたね」
「重要ですから」
「そんなに嫌なんですか?」
真実が聞く。
「嫌っていうより、何も知らずに読みたいときがあるんだよ。『衝撃の結末』くらいならまだいいけど、『最後に明かされる彼女の秘密』とか書かれたら、こっちは最初から秘密探しながら読むことになるだろ?」
「……確かに」
「だろ?」
「でも美優は、逆に何かあるって分かった方が読みそうです」
春樹が止まった。
「なるほど」
「人によるんですね」
「そういうことだ」
春樹は嬉しそうに頷いた。
「だから本を勧めるの面白いんだよ。自分が好きかどうかだけじゃなくて、その人が何を面白いと思うか考えるから」
「七瀬先輩、本屋さんで働けそうですね」
「それはちょっと考えたことある」
「あるんですか?」
「でも仕事になったら、勤務中に読めないだろ?」
「当たり前です」
「だから悩ましい」
「そこなんですね……」
真実が笑い、栞も口元を緩める。
三人で棚の前に立ちながら、しばらく本を見比べた。
春樹が最初に考えた候補。
栞が勧めた作品。
もう一冊、少し明るめの青春恋愛もの。
最終的に真実は三冊のタイトルをスマートフォンへメモした。
「ありがとうございます。美優に聞いてみます」
「本人に選ばせた方がいいよ」
「一冊に決めなくていいんですか?」
「俺らが決めるより、三冊見せて本人が一番気になったやつ選んだ方がいい。読むのは藤崎さんなんだから」
春樹はそう言って、自分の席へ戻ろうとした。
真実はその背中を見て、少しだけ目を細める。
先日、告白を断ったことについて話したときもそうだった。
春樹は、人の代わりに勝手に答えを決めない。
自分ならこうするとは言う。
けれど、最後に選ぶのは本人だという線を、妙なところで崩さない。
(こういうところなのかな)
真実はそこまで考え、すぐに首を傾げた。
(……何が?)
自分でも何を考えようとしたのか、よく分からなかった。
ただ、春樹のことをまた一つ知った。
今は、それで十分だった。
◇◇◇
昼休み終了まで、残り七分。
春樹は時計を確認した。
「そろそろ戻るか」
昨日の失敗は繰り返さない。
本を閉じ、栞を挟む。
真実もスマートフォンを鞄へしまった。
「七瀬先輩」
「ん?」
「今日はちゃんと時間見てるんですね」
「なんで新海まで知ってるみたいな言い方するんだよ」
「さっき、昨日遅刻したって自分で言ってたじゃないですか」
「ああ、そうだった」
「本当に本のこと以外、ちょっと抜けてません?」
「失礼だな。成績十八位だぞ」
「そこはすごいと思いますけど」
「だろ?」
「でも歩きながら本読んで風紀委員に注意されたんですよね」
「……成績と生活態度は別問題だから」
「自分で言うんですね」
「認めるところは認める主義なんだよ」
真実が笑う。
春樹はカウンターへ向かった。
「白石先輩、俺ら戻ります」
「はい」
「今日は余裕あります」
「あと七分ですね」
「完璧でしょう?」
「普通だと思います」
「またそれ言う!」
栞が少し笑う。
「七瀬先輩って、白石先輩ともこういう感じなんですね」
真実の言葉に、春樹が振り返る。
「こういう感じって?」
「よく喋るというか」
「本の話できるからな」
「七瀬君は、本の話になると本当にたくさん話すので」
栞が控えめに補足する。
「先輩も結構喋ってますよ」
「わ、私は……七瀬君が聞くから」
「俺のせい?」
「せいという意味ではなくて……」
「分かってますって」
春樹が笑う。
栞も安心したように表情を緩めた。
真実は二人を見比べる。
そこに恋人のような雰囲気があるわけではない。
まだ知り合って間もないことも、話を聞けば分かる。
ただ、本という共通のものが間にあると、二人の会話はとても自然だった。
「白石先輩も、ありがとうございました」
真実が頭を下げる。
「いえ。お友達が気に入ってくれるといいですね」
「はい」
「じゃあ、また」
春樹が手を上げる。
「はい。また」
栞の返事を聞き、春樹と真実は図書室を出た。
◇◇◇
廊下へ出ると、図書室の静けさから一転して、生徒たちの話し声が戻ってきた。
教室へ向かう者。
購買から急いで戻ってくる者。
友人同士で笑いながら歩く者。
春樹は真実と並んで歩きながら、時計をもう一度確認した。
「六分。余裕」
「そんなに何回も見なくても大丈夫ですよ」
「昨日の反省を活かしてるんだ」
「極端ですね」
「また遅刻したら永山先生に何言われるか分からないし、今朝会った九条さんにも見つかったら面倒だ」
「風紀委員の人でしたっけ」
「そう。九条凛。同じ二年」
「有名ですよね」
春樹が横を見る。
「新海も知ってるの?」
「名前は。剣道部の先輩ですよね」
「俺、今日初めて知ったんだけど」
「七瀬先輩、学校のこと知らなすぎません?」
「本に載ってないからな」
「学校の人間関係は本に載らないと思います」
「だから困る」
「困ってるように見えませんけど」
真実が笑う。
二人が階段へ差しかかったところで、下から数人の女子生徒が上がってきた。
その中の一人が、真実を見つける。
「あ、真実!」
「美優」
真実が足を止めた。
春樹も自然に止まる。
声をかけてきた女子生徒が、春樹を見て少し驚いた顔をした。
「え……?」
「ちょうどよかった」
真実が少し嬉しそうに言う。
「本、候補見つけたよ」
「本?」
「紹介の課題の。七瀬先輩と白石先輩に選ぶの手伝ってもらったの」
「七瀬先輩……?」
美優の視線が春樹へ移る。
春樹は軽く手を上げた。
「どうも。二年の七瀬です」
「あ、藤崎美優です」
「新海から聞いた」
「私のこと?」
「本あんまり読まないけど恋愛ドラマ好きで、分厚い本は苦手って」
「真実!?」
美優が顔を赤くして真実を見る。
「なんでそこまで言うの!?」
「選んでもらうのに必要だったから」
「恥ずかしいんだけど!」
「別に恥ずかしくないだろ」
春樹が言う。
美優がこちらを見る。
「本読むかどうかなんて人それぞれだし。普段読まないなら、読みやすいやつから選べばいいだけだから」
「……そうなんですか?」
「うん。むしろ課題だからって難しい本選ぶ方が大変だと思う。面白かったところを自分の言葉で話せる本の方が絶対いいよ」
美優は少し安心したように頷いた。
「ありがとうございます」
「俺は候補出しただけ。選ぶのは藤崎さんだから」
「はい」
春樹は時計を見る。
「やば。五分切った」
「まだ大丈夫ですよ」
真実が言う。
「昨日その油断で失敗したんだよ。俺、先行くな」
「あ、はい。ありがとうございました、七瀬先輩」
「おう。藤崎さんも、本決まったら新海経由で教えて。合わなそうなら別の探すから」
「そこまでしてくれるんですか?」
「本選ぶの楽しいし」
春樹は当然のように答えた。
「じゃあまた」
今度は走らず、少しだけ歩く速度を上げて去っていく。
美優はその背中を見送ったあと、隣の真実を見る。
「……あの人?」
「何が?」
「この前言ってた先輩」
「うん」
「体育倉庫のところにいた?」
「そう」
「へえ……」
「何?」
「いや」
美優は少しだけ面白そうな顔をした。
「思ってた感じと違ったから」
「どんな人だと思ってたの?」
「真実の話だと、もっと無口で変な人かと」
「私、そんな言い方してないよ」
「授業抜けて本読んでたって言ってたじゃん」
「それは本当だけど」
「あと、サッカー上手いんでしょ?」
「うん」
「で、本めちゃくちゃ詳しい」
「そうみたい」
「しかも白石先輩とも知り合い?」
「昨日初めて話したって言ってた」
「……情報量多くない?」
美優の言葉に、真実は少し考えた。
そして、小さく笑った。
「私もそう思う」
「何それ」
「知れば知るほど、最初の印象と違うから」
真実はそう言ってから、自分の言葉を少しだけ意識した。
けれど、それ以上の意味を探す前に、美優がスマートフォンのメモを見せてほしいと言い出した。
二人は候補の本について話しながら、一年生の教室へ戻っていった。
◇◇◇
一方。
春樹は授業開始三分前に二年三組へ戻った。
「間に合った!」
席へ着くなり、満足そうに言う。
悠斗が弁当箱を片づけながら振り返った。
「何が?」
「授業」
「普通だろ」
「昨日の俺を知ってるだろ?」
「比較対象が昨日のお前なの終わってるぞ」
「成長は過去の自分と比べるものだ」
「いいこと言ってるっぽく誤魔化すなよ」
春樹が鞄を机の横へ置く。
その向こうから雫が戻ってきた。
「春樹、また図書室?」
「おう」
「今日は遅刻しなかったのね」
「余裕だった。七分前に出たからな」
「最初からそうしなさいよ」
「今日それ何回目だろうな、俺が正論言われるの」
「知らないわよ」
雫が自分の席へ戻ろうとする。
春樹は何気なく続けた。
「あ、新海にも会ったぞ」
「真実に?」
雫が振り返った。
「図書室来てた。友達に貸す本探してるっていうから、白石先輩と三人で候補選んでた」
「へえ」
雫の反応は、それだけだった。
少し意外そうではある。
「真実、本読むんだ?」
「本人じゃなくて友達用。藤崎美優って子」
「ああ、美優ちゃんね」
「雫も知ってるの?」
「真実と一緒にいるの何回か見たことあるから」
「なるほど」
春樹は納得する。
雫は自分の席へ向かいながら、ほんの少しだけ考えた。
春樹が真実と話していた。
白石栞とも一緒だった。
だからどうした、という話だ。
春樹は昔から、頼まれれば意外と面倒見がいい。
自分が興味のある分野ならなおさらだろう。
(本のことなら、そりゃ張り切るわよね)
それで納得できる。
実際、何もおかしくない。
ただ。
昨日までは名前すら知らなかった三年生の先輩と、今日は一年生の後輩を交えて本を選んでいた。
少しずつ、春樹の周囲に自分の知らない人が増えている。
そのことが、ほんのわずかに引っかかった。
嫌というほどではない。
寂しいとも違う。
まして、嫉妬などと呼ぶには形が曖昧すぎる。
雫自身、その小さな感覚へ名前をつける気もなかった。
「雫?」
「何?」
「いや、止まってたから」
「別に。次の授業のこと考えてただけ」
「真面目だなぁ」
「春樹に言われたくない」
「ひどい」
いつもの調子で会話が終わる。
雫もそのまま自分の席へ戻った。
春樹は机の中へ教科書を入れながら、別のことを考えていた。
(放課後、二編目の続き読めるかな)
新海の相談に乗ったせいで、昼休みは予定より読書が進まなかった。
しかし、不満はなかった。
本を選ぶのも楽しかったし、白石先輩と話すのも面白かった。
藤崎という一年生が、候補の中からどれを選ぶのかも少し気になる。
自分一人で本を読む時間とは違う。
けれど、本を介して誰かと話す時間も悪くない。
春樹はそんなことを考えながら、授業の準備を始めた。
そして、ふと手を止める。
(……ん?)
ここ数日。
本を読もうとするたび、なぜか誰かとの会話が増えている気がする。
雫。
悠斗。
真実。
栞。
今朝は凛まで増えた。
しかも今日は、本を読むために入った図書室で後輩の本選びまでしている。
(いや、待て。俺は静かに本が読みたいだけなんだけど)
目的は何も変わっていない。
恋愛小説を読みたい。
Web小説の続きを読みたい。
図書室で静かにページをめくりたい。
それだけのはずだ。
なのに、気づけば自分の読書生活の周囲へ、少しずつ人が増えている。
「春樹」
「ん?」
悠斗が前の席から振り返った。
「何難しい顔してんの?」
「最近、俺の読書時間が妙に人間関係へ侵食されてる気がする」
「今さら?」
「今さらってなんだよ」
「お前、自覚なかったの?」
「何の?」
悠斗は何か言おうとして、やめた。
「……いや。まだいいわ」
「何だよ、気になるだろ」
「本でも読んでろ」
「授業始まるから読めねえんだよ!」
「じゃあ授業受けろ」
「正論ばっかりだな、最近!」
春樹の声に、近くのクラスメイトが笑う。
ちょうどそのとき、教師が教室へ入ってきた。
春樹は渋々前を向き、教科書を開く。
静かに本を読みたいだけ。
その願い自体は、何一つ変わっていない。
ただ、その本を開くまでの道のりだけが、少しずつ賑やかになり始めていた。




