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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第5話 俺は読書していただけなのに、風紀委員に目をつけられた



 翌朝。


 清涼学園の正門前には、登校してきた生徒たちの声が絶え間なく行き交っていた。


 五月も終わりが近づき、朝の空気には初夏の気配が混じり始めている。正門から校舎へ続く並木道には柔らかな日差しが落ち、冬服の上着を脱いで腕に掛けている生徒も少なくなかった。


 自転車置き場からはスタンドを立てる金属音が響き、昇降口へ向かう生徒たちの間では昨日の授業や部活動、放課後の予定についての会話が飛び交っている。


 そんな、ごく普通の登校風景の中。


 七瀬春樹は、文庫本を読みながら歩いていた。


「…………」


 右手に文庫本。


 左手に鞄。


 視線の九割はページへ向いている。


 昨日、図書室で白石栞から勧められる形になった連作短編集ではない。あちらは放課後に最初の一編を読み終えたところで、ちょうど区切りがよかったため続きを残してある。


 今読んでいるのは、自宅から持ってきた別の小説だった。


 昨夜、寝る前に少しだけ読むつもりで開いた。


 その「少しだけ」が失敗だった。


 最初は一章だけ。


 次に、あと十ページ。


 その十ページを読み終えたところで新しい事実が判明し、「ここで寝られるか」と続きを読み、気づけば日付が変わりかけていた。


 さすがに翌日の学校を考えて本を閉じたものの、残りはわずかだった。


「あと十二ページ……」


 春樹が小さく呟く。


 十二ページ。


 たった十二ページである。


 普段なら大した量ではない。


 けれど、その十二ページに結末がある。


 主人公が長い間探していた手紙。


 行方不明になった友人。


 序盤から何度も登場していた古い写真。


 それらがようやく一本に繋がろうとしている。


 ここで学校へ着いたからという理由だけで本を閉じるのは、あまりにも酷ではないだろうか。


 春樹はそう考えていた。


 もちろん、それが一般的な高校生の感覚ではないことくらい本人にも分かっている。


「七瀬ー!」


 後ろから声が飛んできた。


 春樹は本から顔を上げる。


「ん?」


 少し離れたところから、高坂悠斗が小走りで追いついてくる。


「おはよ」


「おう。おはよう」


「お前、朝からまた読んでんの?」


「朝だから読んでるんだよ」


「どういう理屈?」


「授業始まったら読めないだろ」


「昨日まで授業中も読んでただろ」


「人は成長するんだよ、悠斗」


「昨日、午後の授業に遅刻した奴が言う?」


「数十秒だ」


「遅刻は遅刻だろ」


「お前までそれ言うのかよ」


 春樹は苦笑しながら再び本へ視線を落とした。


 悠斗が隣を歩く。


「というか、歩きながら読むの危なくね?」


「大丈夫。ちゃんと前も見てる」


「今、俺が声かけるまで一回も顔上げなかっただろ」


「気配で分かる」


「何が?」


「人とか障害物とか」


「お前いつからそんな特殊能力身につけたの?」


「読書歴を舐めるな」


「絶対関係ねえよ」


 悠斗が呆れたように笑う。


 春樹は気にせずページをめくった。


「あと十二ページなんだよ」


「だから?」


「ここまで来たら学校着くまでに読み切りたいだろ」


「普通は教室着いてから読むんじゃない?」


「教室に着いたら雫が来る可能性がある」


「西条を災害みたいに言うなよ」


「読書中の俺にとっては似たようなもんだ」


「本人に聞かれたら殴られるぞ」


「最近あいつも昔ほどすぐ手は出さないから大丈夫」


「そこに安心するのもどうなんだよ」


 春樹が笑う。


「まあ、聞かれたら聞かれたで逃げる」


「その身体能力の使い道、絶対間違ってるからな」


「人生、得意分野は有効活用しないと」


「幼なじみから逃げるために?」


「平和利用だろ」


「どこがだよ」


 二人でそんな話をしながら、正門を抜ける。


 そこで春樹は、ようやく校門付近がいつもより少し騒がしいことに気づいた。


「……なんか今日、人多くない?」


「今さら?」


 悠斗が呆れる。


 正門から昇降口へ続く通路の左右に、腕章をつけた生徒が数人立っていた。


 風紀委員だった。


 登校してくる生徒たちを片っ端から止めているわけではない。


 基本的には挨拶をしながら見送り、服装などに問題がある生徒だけへ声をかけている。


「おはようございます」


「おはよう」


「おはよー」


 風紀委員の声に、生徒たちが思い思いの返事をする。


 その中で、ひときわ姿勢のいい女子生徒がいた。


 黒髪を高い位置で一つにまとめたポニーテール。


 同学年を示す上履き。


 制服には目立った乱れが一つもなく、ネクタイからスカート丈まできちんと整えられている。


 腕には風紀委員の腕章。


 華奢というほど細くはなく、かといって大柄でもない。


 立ち姿には、普段から身体を動かしている者特有の安定感があった。


 ちょうど彼女の前を、一年生らしい男子生徒が通ろうとしていた。


「そこの一年生」


「え?」


 男子生徒が足を止める。


「ネクタイ、緩んでるわよ。それとシャツの裾」


「あ……すみません」


「謝らなくていいから直して。次から気をつければいいわ」


「はい」


 男子生徒が慌てて身だしなみを整える。


 女子生徒はそれを確認すると、必要以上に引き止めることなく送り出した。


「おはよう。気をつけてね」


「はい。おはようございます」


 その直後。


「九条さん、これくらいよくない?」


 別の女子生徒が自分のスカートを指差していた。


 ほんの少しだけ規定より短いらしい。


 ポニーテールの女子生徒――九条と呼ばれた少女は、腰へ手を当てるわけでも怒鳴るわけでもなく、相手の制服を確認した。


「昨日も言ったでしょう?」


「だって、これくらい普通だって」


「普通かどうかじゃなくて、校則で決まってるの」


「九条さん真面目すぎー」


「そう言われても、私が見てる前で見逃したら委員の意味がないでしょう」


「はいはい」


「『はい』は一回」


「お母さんみたい」


「誰がお母さんよ!」


 周囲の生徒が笑う。


 注意された女子生徒自身も笑いながらスカートを直していた。


 どうやら、本気で嫌われているわけではないらしい。


「相変わらずだな、九条」


 悠斗が呟く。


「知ってるの?」


「同じ学年なら名前くらいはな。九条凛。二組。風紀委員で剣道部」


「へえ」


「去年から大会にも出てるらしいぞ」


「へえ」


「お前、興味ないだろ」


「今初めて見た人だからな」


「美人だぞ?」


「それは見れば分かる」


 春樹は特に照れる様子もなく答えた。


 確かに整った顔立ちだとは思う。


 ただ、それ以上に目についたのは立ち姿だった。


 重心がぶれていない。


 姿勢がいい。


 剣道部と聞けば納得できる。


「でも大変そうだな、風紀委員」


「お前みたいなのがいるからな」


「俺、制服はちゃんとしてるぞ」


「問題はそこだけじゃないと思う」


「ほら見ろ」


 春樹は自分の制服を確認した。


 ネクタイは締まっている。


 シャツも出ていない。


 髪も染めていない。


 アクセサリーもない。


「完璧」


「自分で言うなよ」


「風紀的には優良生徒だな」


「授業サボって体育倉庫裏で本読んでた奴が?」


「あれは風紀じゃなくて学業の問題だろ」


「分類すればいいって話じゃねえよ!」


 悠斗の突っ込みを聞きながら、春樹は再び文庫本を開いた。


「よし。問題ないなら続きを読む」


「今の流れで!?」


「服装チェックだろ? 俺、引っかかるところないし」


「だから歩きながら読むなって」


「大丈夫だって」


 春樹はページへ視線を落としたまま歩き始める。


 残り十一ページ。


 主人公が手紙を開く。


 差出人の名前が――。


「そこの人」


「…………」


 春樹は読み続ける。


「そこの、本を読んでいる男子生徒」


「春樹」


「ちょっと待て。今、名前が――」


「呼ばれてるぞ」


「え?」


 春樹が顔を上げる。


 数メートル先。


 九条凛がこちらを見ていた。


 春樹は周囲を見る。


 他にも男子生徒はいる。


 だが、本を読んでいるのは自分だけだった。


「俺?」


「そう。あなた」


 凛が答える。


 春樹は文庫本を開いたまま近づいた。


「おはようございます」


「……おはよう」


「ネクタイですか?」


「違うわ」


「シャツ?」


「それも問題ない」


「靴?」


「ちゃんとしてる」


「じゃあ合格?」


「何の合格よ」


 凛の眉がわずかに動く。


 悠斗は一歩離れた場所で、すでに笑いを堪えていた。


 春樹は本気で分からず、自分の制服を見下ろす。


「服装じゃないなら何だろ」


「その本」


「これ?」


 春樹が文庫本を少し持ち上げる。


「学校に持ってきちゃ駄目な本ではないですよ。普通の小説です」


「内容の話はしてないわ」


「じゃあ――」


「歩きながら読まない」


「ああ」


 そこでようやく春樹は理解した。


「そっちですか」


「そっち以外に何があるの?」


「てっきり登校指導って服装だけかと」


「服装も見るけれど、危ない行動をしている生徒がいたら注意するわよ」


「なるほど」


 春樹は素直に本を閉じた。


 栞を挟む。


「すみません。確かに危ないですね」


「……ええ」


 凛の返事が、一拍遅れた。


 春樹はそれに気づき、首を傾げる。


「どうしました?」


「いえ……」


 凛は少しだけ拍子抜けしたような顔をしていた。


「もっと言い訳するのかと思っただけ」


「なんでです?」


「さっきからずっと口数が多いから」


「喋るのと、注意を聞かないのは別でしょう」


 春樹は当たり前のように答えた。


「歩きながら本読むのが危ないっていうのは正しいですし。人にぶつかって怪我させたら、さすがに『続きが気になってたんです』じゃ済まないですから」


「……分かってるなら、最初からしないでほしいんだけど」


「そこは反省してます」


 春樹が軽く頭を下げる。


「次から気をつけます」


 凛は春樹を見る。


 冗談を言っている様子ではない。


 本当に納得しているらしい。


「ならいいわ」


「はい」


 これで終わり。


 春樹はそう判断した。


「じゃあ失礼します」


「待って」


「はい?」


「なんでまた本を開くの?」


 春樹の手が止まる。


 無意識だった。


 注意が終わったので、続きを読もうとしていた。


「……癖?」


「聞かないで」


「すみません」


 悠斗がついに吹き出した。


「春樹、お前すげえな」


「何がだよ」


「注意されて三秒で同じことしようとしたぞ」


「いや、違うんだよ。もう身体が勝手に」


「もっと駄目でしょう!」


 凛の声が少し大きくなる。


 近くにいた風紀委員や登校中の生徒が何人かこちらを見る。


 春樹は慌てて本を鞄へ入れた。


「しまいました。今度こそ」


「……本当に本が好きなのね」


「好きですよ」


 その質問にだけは、春樹は迷わなかった。


「小説が一番多いですけど、面白ければ大体読みます。今のやつも昨夜から読んでて、残り十二ページだったんですよ。だから学校着くまでに読み切れるかなと思って」


「それで前を見ないで歩いてたの?」


「そこは反省してますって」


「読書が好きなのは悪いことじゃないわ。でも、読む場所と時間は選びなさい」


「正論ですね」


「さっきから妙に素直ね」


「俺、そんな反抗的に見えます?」


 凛が答える前に、悠斗が口を挟んだ。


「見た目は普通なんだけど、喋ると面倒くさい」


「悠斗?」


「俺、何も間違ったこと言ってないだろ?」


「友達を売るなよ」


「事実を説明しただけだ」


「初対面の人に俺の印象悪くする必要ある?」


「自力でもう十分やってると思う」


「ひどくない?」


 二人のやり取りを見ていた凛の口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 しかし春樹がそちらを見ると、すぐ元の真面目な表情へ戻る。


「とにかく。校内では歩きながら読まないこと」


「分かりました」


「本当に?」


「今度はちゃんと教室までしまっておきます」


「『今度は』って……」


「教室に着いたら読んでもいいんですよね?」


「ホームルーム前なら、学校へ持ち込んで問題のない本を自分の席で読むこと自体は禁止されてないわ」


「よし」


 春樹の表情が明るくなる。


「あと何分ある?」


 スマートフォンではなく、昇降口近くの時計を見る。


「十三分。余裕で六ページは読めるな」


「十二ページじゃなかったの?」


「登校中に一ページ進んだんで残り十一です。全部は厳しいから半分くらい」


「あなた、さっきまでの話ちゃんと聞いてた?」


「聞いてましたよ。だから教室で読むんでしょう?」


「……そうだけど」


「なら問題なし」


「なんか納得いかない……」


 凛が小さく呟く。


 春樹は少し笑った。


「九条さんって、結構真面目ですね」


「どうして私の名前を?」


「さっき向こうの人が呼んでたんで。九条さんですよね?」


「……九条凛。二年二組」


「七瀬春樹。三組です」


「知ってる」


「え?」


 今度は春樹が驚いた。


「俺、有名?」


「高坂君がさっき『春樹』って呼んでいたでしょう。それに上履きの記名も見えるわ」


「ああ、なるほど」


「普通そこまで見てる?」


 悠斗が感心したように言う。


「登校指導中だから、必要なところは見るわ」


「すげえな」


「風紀委員だから当然よ」


 凛はそう言ったものの、少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。


 春樹はその様子を見て、なんとなく笑う。


「じゃあ九条さん。ご指導ありがとうございました」


「……その言い方、なんだか馬鹿にされてる気がするんだけど」


「してませんって。本当に俺が悪かったですから」


 春樹は今度こそ真面目に答えた。


「本が好きなのと、周りに迷惑かけていいのは別ですし。次から歩いてるときは閉じます」


 凛は少しだけ目を見開く。


 数秒前まで冗談ばかり言っていた春樹の声から、ふざけた調子が消えていたからだ。


「……ええ。そうして」


「はい」


「あと、階段でも読まないこと」


「さすがに階段は読まないですよ」


「本当に?」


「俺、そこまで命懸けで読書してないですからね?」


「今のあなたを見てると少し不安なのよ」


「初対面なのに信用なさすぎません?」


「初対面だから信用する材料がないの」


「なるほど。正論」


「あなた、正論って言えば全部済むと思ってない?」


「便利な言葉ですよ」


「七瀬君」


「冗談です」


 悠斗が横で肩を震わせている。


「お前ら、初対面だよな?」


「そうだけど?」


「なんかもう結構喋ってるな」


 その言葉に、春樹と凛が同時に止まった。


「……こいつが余計なことを言うからだろ」


「あなたが余計なことを言うからでしょう」


 二人の声が重なる。


「ほら」


 悠斗が笑う。


「なんだよ、ほらって」


「何がほらなの?」


 また重なった。


 春樹と凛が互いを見る。


 一瞬の沈黙。


「……真似しないでください」


「私が先に言ったのよ!」


「ほぼ同時だったでしょう!」


「朝から何やってんだよ、お前ら」


 悠斗がとうとう声を上げて笑った。


 近くにいた生徒たちも、何事かとこちらを見ている。


 凛はそれに気づくと、小さく咳払いをした。


「と、とにかく。もう行っていいわ。登校の邪魔になるから」


「はい」


「寄り道せず教室へ行くこと」


「子供じゃないんだから」


「途中で立ち止まって本を読み始めそうだから言ってるの」


「しませんよ。……たぶん」


「七瀬君?」


「します。真っ直ぐ行きます」


「よろしい」


「やっぱり先生みたいだな」


「聞こえてるわよ!」


 春樹は笑いながら悠斗と昇降口へ向かった。


 数歩進んだところで、ふと振り返る。


 凛はもう春樹を見ていなかった。


 次に登校してきた生徒へ「おはよう」と声をかけている。


 自分だけを特別に厳しく注意したわけではない。


 それが彼女の仕事で、誰に対しても同じなのだろう。


「九条さん、真面目だな」


「だろ?」


「大変そうだ」


「お前が仕事増やした側だからな」


「それは悪かったって」


 春樹は苦笑する。


 そこで悠斗が、少し意外そうに横を見る。


「でもお前、ちゃんと謝うんだな」


「何その言い方」


「いや、もっと『本くらいいいだろ』って言うかと思った」


「言わないよ」


 春樹は少しだけ眉を寄せた。


「俺が本読みたいのは俺の都合だろ。ぶつかられる側には関係ないじゃん。そこまで本を言い訳に使ったら、本読む側の印象まで悪くなる」


「……お前、たまに急にまともになるよな」


「たまにって言うな。基本まともだ」


「授業サボって体育倉庫裏にいた奴が?」


「それはそれ、これはこれ」


「便利だな、その理屈」


 二人は笑いながら校舎へ入っていった。


     ◇◇◇


 その頃、正門前では。


「凛」


「何?」


 隣で登校指導をしていた同じ風紀委員の女子生徒が、少し面白そうに凛を見ていた。


「さっきの男子、知り合い?」


「違うわ。今日初めて話した」


「ずいぶん長く話してたから」


「向こうが余計なことばかり言うのよ」


「でも最後、笑ってなかった?」


「笑ってない」


「そう?」


「そうよ」


 凛はきっぱり答え、次に登校してきた生徒へ視線を移した。


「おはようございます」


「おはようございまーす」


「シャツ、少し出てるわよ」


「あ、すみません」


「直せばいいわ。気をつけてね」


 いつも通りの登校指導へ戻る。


 それでも、ほんの一瞬だけ先ほどの会話が頭をよぎった。


 七瀬春樹。


 歩きながら本を読む危なっかしい生徒。


 注意した直後に、無意識でまた本を開こうとするくらいの本好き。


 口数が多く、妙に軽い。


 それなのに、自分が悪いと理解すれば意外なほど素直に謝った。


 少なくとも、最初に見たときに想像した「注意されても聞かない面倒な生徒」とは少し違った。


「……変な人」


 凛は小さく呟いた。


「何か言った?」


「何でもない」


 隣の風紀委員へそう返し、凛は正門へ視線を戻す。


 特別に気になったわけではない。


 まして、恋愛感情などあるはずもない。


 ただ。


 今日注意した生徒の中では、少しだけ印象に残った。


 今は、それだけだった。


     ◇◇◇


 二年三組へ到着すると、春樹は自分の席へ向かった。


 鞄を机の横へ置き、椅子を引く。


 そして座った瞬間、先ほどしまったばかりの文庫本を取り出した。


「早っ!」


 悠斗が笑う。


「九条さんが言っただろ。教室着いてから読めって」


「そういう意味で言ったのかなぁ」


「校則上問題ないって本人が確認してくれたぞ」


「お前、風紀委員との会話を読書可能区域の確認に使うなよ」


「重要だろ。これで今後、正門から教室までは駄目、教室に着いたらホームルーム前まで可って分かった」


「ゲームのセーフエリアみたいに言うな」


「俺にとっては似たようなもんだ」


 春樹は気にせずページを開いた。


 残り十一ページ。


 ホームルーム開始までは十数分。


 今度こそ十分読み切れる。


 数行で、意識が物語へ戻っていく。


 主人公が長い間探していた手紙を見つけた。


 送り主の名前が明かされる。


 ここまで散らばっていた出来事が、一つに繋がっていく。


「そういうことか……」


「何が?」


「お前じゃない」


「話しかけて損した」


 悠斗が自分の席へ戻る。


 春樹はページをめくる。


 残り九ページ。


 七ページ。


 六ページ。


「おはよ」


 聞き慣れた声がした。


 春樹の指が止まる。


「…………」


「何よ、その顔」


 西条雫が目の前に立っていた。


「来たか……」


「何が?」


「いや、なんでもない」


「今、絶対失礼なこと考えたでしょ」


「考えてない。おはよう」


「おはよう」


 雫は疑わしそうに春樹を見る。


「今日はちゃんといるのね」


「最近、俺が朝いるだけで確認されるの納得いかないんだけど」


「一昨日の実績があるからでしょ」


「昨日はちゃんと朝からいたぞ」


「午後は遅刻したけどね」


「あれは数十秒だろ」


「遅刻は遅刻」


「お前、白石先輩と同じこと言うなぁ」


 春樹が何気なく返す。


 雫が自分の席へ向かいかけて、ほんの少しだけ足を止めた。


「白石先輩?」


「昨日話しただろ。図書委員の」


「ああ。本の話してたら春樹を遅刻させた人」


「その言い方だと先輩が悪いみたいになるだろ。俺が時計見てなかっただけだよ」


「分かってるわよ」


 雫はそう答えてから、春樹の机に置かれた文庫本を見る。


「それ、昨日借りた本?」


「これは別のやつ。昨日借りた方は一編だけ読んだ」


「面白かった?」


「面白かった。駅で人を待ってるところから始まるんだけど、途中で視点が変わって――」


「待って」


「なんだよ。聞いたのお前だろ」


「今から全部説明するつもり?」


「そのつもりだったけど?」


「朝から長くなりそうだからやっぱりいい」


「理不尽!」


 雫が笑いながら自分の席へ向かう。


「白石先輩なら最後まで聞いてくれたぞ!」


「じゃあ白石先輩に話しなさいよ!」


「そのつもりだよ!」


「なら問題ないでしょ!」


「なんか腹立つな!」


 二人のやり取りを聞いていた悠斗が笑う。


「朝から元気だな、お前ら」


「俺は静かに本を読んでたんだよ。登校中は九条さんに止められて、教室では雫に止められて……俺の読書環境、どうなってんだ」


 雫が振り返る。


「九条さん?」


「風紀委員の九条凛。歩きながら本読んでたら注意された」


「当たり前じゃない!」


「ちゃんと謝ったって!」


「そもそも歩きながら読まないの!」


「悠斗と同じこと言うなよ!」


「たぶん全員同じこと言うぞ」


 悠斗が即座に返した。


「でも、服装は何も言われなかったからな。俺、風紀的にはかなり優良生徒なんじゃない?」


「授業サボって体育倉庫裏で本読んでた人が何言ってるの?」


「過去を掘り返すな!」


「一昨日よ!」


「最近だった!」


 周囲のクラスメイトから笑い声が上がる。


 春樹は不満そうにしながらも、口元には笑みを浮かべていた。


 そのまま再び本を開こうとする。


 そこで前方の扉が開いた。


 永山剛志が出席簿を片手に教室へ入ってくる。


「おーし、席つけ」


「先生、まだ五分あります」


「知ってる」


「じゃあ俺、あと六ページだけ」


「しまえ」


「まだ何もしてないでしょう!」


「お前がその本を開いたら、五分後に閉じないのを知ってるんだよ!」


「信用がない!」


「自分で失ったんだろうが!」


 教室に笑いが広がる。


 春樹は渋々、本へ栞を挟んだ。


「今日だけで二回も読書止められた……」


「二回?」


 永山が聞き返す。


「登校中、風紀委員の九条さんに歩きながら読むなって」


「九条が正しい」


「先生まで!」


「当たり前だ!」


 永山は呆れた顔をしながら教卓へ出席簿を置く。


「歩きスマホが危ないのと同じだ。本だって前が見えなくなるだろ」


「反省してます。ちゃんと教室までしまってました」


「ならよし」


「先生、今日は優しいですね」


「お前が素直に反省してるからだ!」


「なるほど。やっぱり人間関係は歩み寄りが大切なんですね」


「なんで教師と生徒の交渉みたいになってんだ」


 再び笑いが起こる。


 春樹は机の中へ本をしまった。


 あと六ページ。


 非常に気になる。


 けれど、朝から凛に注意され、その直後に永山からまで言われた以上、さすがに授業中まで開く気にはならなかった。


 休み時間に読めばいい。


 春樹はそう判断して前を向く。


 正門前で出会った九条凛についても、それ以上深く考えることはなかった。


 風紀委員の仕事を真面目にこなしていた同級生。


 歩きながら本を読んでいた自分を、当然の理由で注意した。


 少し堅そうだけれど、話の通じない相手ではない。


 春樹の中では、今のところそれだけだった。


 そして凛にとっても。


 七瀬春樹は、今朝注意した少し変わった男子生徒の一人でしかない。


 ただ、お互いの名前と顔を知った。


 次に校内ですれ違えば、もう「知らない生徒」ではない。


 その程度の小さな変化だけが、いつもの朝に残っていた。

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