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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第4話 図書室には、静かな先輩がいる



 昼休み終了まで、あと八分。


 図書室へ入った七瀬春樹は、扉を静かに閉めると、真っ先に壁へ掛けられた時計を確認した。


 八分という時間を短いと思うか長いと思うかは、人によって違うだろう。


 春樹にとっては、十分に使い道のある時間だった。


 本を選ぶのに一分。


 席へ移動するのに十秒ほど。


 教室へ戻る時間も考えれば、実際に読めるのは五分前後になる。それでも五分あれば何ページかは読めるし、続きが気になるところで終わったなら、それを放課後の楽しみにすればいい。


「さて……何読むかな」


 誰にも聞こえない程度の声で呟き、春樹は本棚へ向かった。


 清涼学園の図書室は、学校の規模から考えれば標準的な広さだった。


 壁際と室内中央に背の高い本棚が並び、窓際には四人掛けの閲覧机がいくつか置かれている。奥には資料や少し古い本が集められた棚もあり、カウンターの横には新刊や図書委員のおすすめ本を並べた小さな特設コーナーも設けられていた。


 昼休みの前半なら、もう少し生徒が多い。


 しかし終了時刻が近づいている今、残っているのは数人だけだった。


 ページをめくる微かな音。


 椅子が動く小さな音。


 開かれた窓から入り込む風がカーテンを揺らし、遠くのグラウンドから運動部員たちの声が聞こえてくる。


 つい先ほどまで春樹自身も、そのグラウンドで神谷蓮たちとサッカーをしていた。


 あれはあれで楽しかった。


 久しぶりにまともにボールを蹴ったし、神谷たちと騒ぐのも嫌いではない。


 けれど。


「……やっぱり落ち着くな」


 春樹は小さく息を吐いた。


 体育倉庫裏も読書場所としては優秀だ。


 人が来ないという点では、むしろあちらの方が上かもしれない。


 しかし本そのものに囲まれている安心感では、図書室に勝る場所はなかった。


 春樹は慣れた足取りで小説の棚へ向かい、背表紙を順番に眺めていく。


「昨日は恋愛もの読んだし、今朝も翼の続き読んだから……昼は違うのにするか」


 恋愛小説が好きだからといって、それしか読まないわけではない。


 ミステリーもファンタジーも読む。


 歴史ものや青春ものも好きだし、気になればエッセイを手に取ることもある。


 最近は恋愛作品に偏っているだけで、面白そうならジャンルにはそれほどこだわらない。


「ミステリー……いや、五分で読み始めるには重いな。短編集なら区切りやすいか?」


 棚の前で少し迷う。


 そのとき、背後から小さな声が聞こえた。


「あの……」


「ん?」


 春樹が振り返る。


 そこに立っていたのは、図書室へ入ったときにカウンターの奥で見かけた女子生徒だった。


 三年生を示す上履きの色。


 腰近くまで伸びた黒髪は綺麗に整えられていて、前髪の下から覗く目元は柔らかい。


 整った顔立ちをしているが、華やかさを前面へ出すタイプではない。


 静かな図書室の空気そのものが人の形になったような、落ち着いた印象だった。


 もっとも。


 春樹が彼女を見て最初に抱いた感想は、美人だとか可愛いだとかではなかった。


 ――静かそうな人だな。


 それだった。


 読書中に話しかけてこなさそう。


 かなり重要である。


 その女子生徒は春樹と目が合うと、少しだけ視線を下げた。


「そこ……返却する本を戻したいので……」


「あ」


 春樹は自分の横を見る。


 見事に棚の前を塞いでいた。


「すみません。邪魔でしたね」


「い、いえ。邪魔というほどでは……」


 春樹が一歩横へ移動すると、女子生徒は両腕に抱えていた本の中から一冊を取り出した。


 背表紙の番号を確認し、元の位置へ丁寧に戻す。


 春樹は特に話しかけることもなく、自分も再び棚へ視線を戻した。


 女子生徒も何も言わない。


 数秒間、ただ本を探す時間が流れた。


 春樹は内心で感心していた。


 素晴らしい。


 雫なら、この時点で「何探してるの?」くらいは聞いてくる。


 悠斗なら「また本かよ」と横から覗き込んでくる。


 神谷なら、下手をすると図書室まで来て「春樹、サッカーしようぜ!」と言い出しかねない。


 それに比べて、この先輩は必要なことだけを伝えたあとは何も言わない。


 理想的だった。


「……これにするか」


 春樹が一冊の本を抜き取る。


 国内作家による短編集だった。


 派手ではない表紙に、どこか寂しげな駅のホームが描かれている。


 長編を五分だけ読むよりは、短編の冒頭を読む方が区切りをつけやすいだろう。


 そう判断して窓際の席へ向かおうとしたところで、春樹は先ほどの女子生徒がこちらを見ていることに気づいた。


「……?」


 首を傾げる。


 目が合うと、女子生徒は少し慌てたように視線を逸らした。


「何か?」


「あ……いえ」


「この本、貸出禁止だったりします?」


「違います」


「じゃあ、何だろ」


 春樹が表紙と背表紙を確認する。


 特に変なものはない。


 女子生徒は少し迷っているようだった。


 やがて、抱えていた本を持ち直すと、控えめに口を開いた。


「それ……面白いです」


「読んだことあるんですか?」


 春樹が聞き返すと、女子生徒は小さく頷いた。


「はい。短編集なんですけど、それぞれのお話が少しずつ繋がっていて……最後まで読むと、最初のお話の見え方が少し変わるんです」


「へえ」


 春樹の目がわずかに輝く。


「連作短編なんですね」


「はい」


「そういうの好きなんですよ。単体で読んでも一つの話として成立してるのに、全部読んでから最初に戻ると意味が変わってるやつ」


「……私も、好きです」


 女子生徒の声が、ほんの少しだけはっきりしたものになる。


 しかし春樹は、その小さな変化には気づかなかった。


 すでに本の裏表紙を確認している。


「これ、面白そうだな。完全に表紙だけで選んだけど、当たりかも」


「表紙で選んだんですか?」


「たまにやります。事前情報をほとんど入れないで読むのも面白いんですよ。タイトルと表紙だけで内容を予想して、読んでみたら全然違ったりすると、それはそれで楽しいですし」


「……分かります」


 女子生徒の表情が、ほんの少し柔らかくなった。


「帯も読まないんですか?」


「作品によりますね。絶対読みたい作家なら、むしろ何も見ないこともあります。帯に結構重要なこと書いてある場合あるじゃないですか」


「ありますね」


「『衝撃の結末』くらいならまだいいんですけど、『主人公を待つ悲しい真実』みたいに書かれると、もう読む前から何かあるって身構えちゃうんですよ」


「あ……それ、分かります」


「ですよね? 書いてる側は興味を持ってほしくてやってるの分かるんですけど、こっちは何も知らない状態で読みたいときもあるじゃないですか」


「はい。何も知らないで驚きたかったのに、最初から何かあると思って読むことになってしまうので……」


「そうなんですよ!」


 思わず春樹の声が大きくなった。


 図書室の奥にいた生徒が一人、こちらを振り返る。


 春樹はその視線に気づき、慌てて声を落とした。


「……すみません」


「ふふっ」


 目の前の女子生徒が小さく笑う。


 春樹は少し気まずそうに頭を掻いた。


「図書室で本の話して怒られたら本末転倒ですね」


「でも……分かります。好きな本の話をすると、少しだけ声が大きくなることってありますから」


「先輩も?」


「私は……そんなに大きくならないです」


「ですよね」


「そこは否定してください」


「あれ?」


 春樹が目を丸くする。


 女子生徒自身も、自分がそんな返しをしたことに驚いたらしい。


 一拍遅れて、また小さく笑った。


 思ったより話しやすい人だ。


 春樹は素直にそう思った。


 最初に見たときは、必要なこと以外ほとんど喋らない人なのかと思った。実際、普段はそうなのかもしれない。


 けれど、本の話になると少し違うらしい。


「ちなみに先輩って、どんなジャンル読むんです?」


「私は……ミステリーも読みますし、恋愛ものも好きです。あとは日常系の短編集とか……」


「恋愛もの読むんですか?」


「はい」


「俺も最近かなり読んでます。Web小説も多いですけど、今読んでるやつなんて、主人公がヒロインをデートに誘うまで二十三話かかってるんですよ」


「二十三話……?」


「長いでしょう? でも、そこがいいんですよ」


 春樹は手に持っていた本を抱え直した。


 そして一度話し始めると、もう止まらない。


「最初はヒロインが全然心を開いてなくて、主人公の翼が何しても遠慮するんですよ。で、翼も翼で金持ちだから普通に誘えばいいのに、好きな相手になると急に不器用になるんです。何回も誘おうとして失敗して、やっと二十三話目ですよ?」


「……七瀬君は、その主人公を応援してるんですね」


「めちゃくちゃ応援してます。昨日なんて朝から『頑張れ翼!』って言ってたら雫に気持ち悪いって言われました」


「雫さん?」


「ああ、幼なじみです。同じクラスの西条雫。朝から俺の読書を邪魔してくるんですよ」


「……邪魔?」


「スマホ取り上げたり、授業に連れていったり」


「授業には……行った方がいいと思います」


「先輩まで!?」


 春樹が思わず声を上げかけ、途中で慌てて音量を落とした。


 女子生徒が口元を押さえて笑う。


「いや、昨日はちょっとだけ失敗しただけなんですよ」


「何をしたんですか?」


「本読んでたらホームルームと一限と二限をほぼ全部逃しました」


「……それは、ちょっとですか?」


「俺の中では」


「授業には行った方がいいと思います」


「二回言われた!」


 今度は二人とも小さく笑った。


 その笑いが収まったところで、春樹はふと違和感を覚える。


 何かを忘れているような気がした。


 図書室へ来た。


 本を選んだ。


 先輩と話した。


 それから――。


「あ」


 壁の時計を見る。


 春樹の表情が固まった。


 昼休み終了まで、あと三分少々。


「……まずい」


「どうしました?」


「俺、図書室に入ったとき、あと八分あったんですよ」


「はい」


「本選ぶのに一分、読むのに五分、教室戻るのに二分。完璧な計算だったはずなんです」


 女子生徒の視線が、春樹の手元へ向く。


「……まだ読んでませんね」


「一ページも読んでないです」


 二人で本を見る。


 まだ開いてすらいない。


 春樹は何とも言えない表情になった。


「本を読むために図書室来たのに、本の話してたら読む時間なくなった……」


 女子生徒の口元がわずかに緩む。


「それは……残念ですね」


「今、ちょっと笑いました?」


「笑ってません」


「絶対笑ったでしょう」


「……少しだけです」


「認めた!」


 また話してしまった。


 春樹は時計を見て、今度こそ本気で焦った。


「いや、本当にまずい。戻ります」


「あ……その本は?」


「借ります。ここまで話聞いて、読まずに戻すなんて無理ですよ」


「では、貸出処理をしますね」


「お願いします」


 女子生徒が本を受け取り、カウンターへ向かう。


 春樹もその後を追った。


 貸出処理そのものには、それほど時間はかからない。


 生徒証を読み取り、本のバーコードを通す。


 しかし、その間にも時計の針は進んでいく。


「はい。二週間です」


「ありがとうございます」


 本を受け取った春樹は、すぐに時計を見る。


 残り一分半ほど。


「これなら間に合う」


「教室、二年生ですよね?」


「二年三組です」


「ここからだと……」


「一分あればいけます」


「廊下は走ったら駄目ですよ」


「…………」


 春樹が止まった。


「先輩」


「はい」


「今それ言います?」


「校則なので……」


「正しい。何も言い返せない」


 春樹は本を鞄へ入れる。


「じゃあ早歩きで行きます」


「気をつけてください」


「ありがとうございます。あ、そういえば」


 図書室の扉へ向かいかけたところで、春樹は振り返った。


「先輩の名前、聞いてなかった」


「あ……」


 女子生徒も気づいたらしい。


「三年一組の、白石栞です」


「白石先輩ですね。俺は二年三組の七瀬春樹です」


「知ってます」


「え?」


 春樹が止まる。


 栞も、自分が自然に答えてしまったことに気づいたらしい。


「あ……」


「俺、名乗ったことありましたっけ?」


「いえ。その……貸出カードで」


「ああ!」


 春樹はすぐに納得した。


「俺、結構借りてますもんね」


「はい。よく来るので……覚えてました」


「なるほど」


 春樹は何の疑問も持たずに頷いた。


 実際、週に何度も図書室へ来て本を借りるのだから、図書委員に覚えられていても不思議ではない。


「じゃあ、これからもかなり来ると思うんでよろしくお願いします」


「はい。こちらこそ」


「それじゃ――」


 春樹が再び時計を見る。


 残り一分を切っていた。


「……やばっ!」


「七瀬君、廊下は――」


「走りません! たぶん!」


「たぶん……?」


 春樹は図書室を飛び出した。


 最初は早歩きだった。


 栞に注意された直後である。


 さすがに廊下を全力疾走するほど開き直ってはいない。


 けれど、角を曲がったところで時計を確認し、どう考えても残された時間では厳しいと悟った。


「いや、無理だろこれ……!」


 歩幅が大きくなる。


 早歩きが競歩のようになり、周囲に誰もいないことを確認すると小走りへ変わった。


 階段を一段飛ばしで上がり、二年生の教室が並ぶ廊下へ出る。


 二年三組の扉が見えた。


 あと少し。


「間に合――」


 キーンコーンカーンコーン。


「……ってない!」


 本鈴が鳴り始める。


 春樹は最後の数メートルだけ速度を上げた。


 教室の後ろの扉へ手をかけたところで、最後の鐘が鳴り終わる。


 扉を開ける。


 教室にいた生徒たちが一斉にこちらを見る。


 そして教卓の前には、すでに永山剛志が立っていた。


「…………」


「…………」


 春樹と永山の視線がぶつかる。


 永山がゆっくり腕時計を見る。


 それから、もう一度春樹を見る。


「七瀬」


「先生、聞いてください」


「まだ何も言ってねえぞ」


「俺には分かります。今、ものすごく怒ってるでしょう」


「分かってるなら、まず何か言うことがあるんじゃないのか?」


 春樹は数秒考え、素直に頭を下げた。


「すみません。遅れました」


「よし。理由は?」


「図書室で本を借りてました」


「そこまではいい」


「本を選んでたら図書委員の先輩と本の話になりまして、気づいたら残り三分で、それから貸出処理してもらって、廊下は走るなと言われたので最初は早歩きしてたんですけど、途中でどう考えても間に合わないと気づいて――」


「待て」


 永山が片手を上げる。


「つまり、お前は本を読んでて遅れたんじゃないんだな?」


「はい」


「本の話をしてて遅れたんだな?」


「……はい」


 教室のあちこちから笑い声が漏れ始めた。


 永山は額を押さえる。


「昨日より悪化してないか?」


「でも先生、今日は一限から四限まで全部いましたよ!」


「そこで胸張るな!」


「俺なりに成長してるんです!」


「午後まで維持しろ、その成長を!」


 とうとう教室中に笑いが広がった。


 春樹は反論しようとしたものの、今回ばかりは自分にも非がある。


「……すみませんでした」


「次から時計を見ろ」


「はい」


「あと、走ったか?」


「…………途中から少し」


「正直なのは褒めてやる。席につけ」


「はい」


 春樹は借りた本を抱えたまま自分の席へ向かった。


 その途中、雫と目が合う。


 雫は呆れ切った顔をしていた。


「何だよ」


「本を読むんじゃなくて、本の話して遅刻って……」


「俺も予想外だったんだよ」


「誰とそんなに話してたの?」


「図書委員の先輩。白石先輩って人」


「へえ……」


 雫はそれだけ答えた。


 名前を聞いて何か思うところがあったわけではない。


 三年生の図書委員と聞けば、自分の知らない相手でも不思議ではなかった。


「おすすめされた本が面白そうでさ。連作短編らしいんだけど、最後まで読むと最初の話の見え方が変わるんだって。あと本の帯の話になって――」


「七瀬」


 教卓から永山の声が飛ぶ。


「はい!」


「その本の話は放課後にしろ」


「まだ何も読んでないんですけど!」


「話の続きをするな!」


 再び笑い声が起こる。


 春樹は今度こそ口を閉じ、借りた本を鞄へしまった。


 結局、昼休みに一ページも読めなかった。


 それなのに不思議と、無駄な時間だったとは思わない。


 本について誰かとあれだけ自然に話したのは、少し久しぶりだったからだ。


 白石栞。


 三年一組。


 図書委員。


 本が好きで、静かで、思っていたより少しだけよく笑う先輩。


 春樹はそれ以上の意味など考えることなく、放課後に今度こそ本を読もうと決めた。


     ◇◇◇


 一方、図書室では。


 栞がカウンターの奥から、閉じた扉をしばらく見つめていた。


「……走ったら駄目なのに」


 小さく呟く。


 おそらく走った。


 最後の「たぶん」という返事を聞いた時点で、そんな気はしていた。


 少し心配ではある。


 けれど同時に、ほんの少しだけおかしかった。


 栞は口元を緩め、それからカウンターへ視線を戻した。


 七瀬春樹。


 名前は前から知っていた。


 図書室を頻繁に利用する二年生。


 いつも一人で棚を眺め、気になった本を何冊か抜き出しては、その中から一冊を選ぶ。


 閲覧席へ座ったあとは静かだった。


 ページをめくる以外、ほとんど動かない。


 図書委員の仕事をしていれば、利用頻度の高い生徒は自然と覚える。


 それだけのはずだった。


 今日まで話したことはない。


 だから栞の中にあった七瀬春樹の印象は、「よく本を読む二年生」くらいのものだった。


 実際に話してみれば、その印象は少し違った。


「……思ってたより、よく喋る人だったな」


 本の話になると、驚くほど言葉が出てくる。


 表情もころころ変わる。


 自分が好きな作品について話すときなど、本当に楽しそうだった。


 そして栞自身も、思っていた以上に話していた。


 帯に内容を書きすぎてほしくない。


 事前情報なしで読みたいときがある。


 連作短編が好き。


 どれも小さなことだ。


 本好きの人間なら、同じように感じている人はいくらでもいるだろう。


 それでも栞にとっては、誰かとそんな話をすること自体が少し珍しかった。


 本が好きな友人がいないわけではない。


 ただ、自分から積極的に話題を出すのが苦手だった。


 相手が興味を持っているか。


 話しすぎて迷惑ではないか。


 そんなことを考えているうちに、結局何も言えなくなることが多い。


 けれど春樹は違った。


 栞が一つ答えると、すぐに次の言葉が返ってくる。


 しかも、無理に会話を続けている感じがない。


 ただ本の話をしたいから話している。


 その単純さが、栞には少し楽だった。


「……また来るかな」


 思わず口にしてから、栞は自分の言葉に気づいて瞬きをした。


 そして、すぐに小さく首を横へ振る。


「よく来るって、自分で言ったばかりなのに……」


 週に何度も利用しているのだから、また来るに決まっている。


 それ以上の意味などない。


 ただ次に来たとき、今日借りていった本の感想を少し聞けたらいい。


 今の栞が思ったのは、その程度だった。


 窓の外から、午後の授業開始を告げる教師の声が遠く聞こえてくる。


 栞は残っていた返却本を抱え、再び本棚へ向かった。


     ◇◇◇


 放課後。


 最後のホームルームが終わると、教室の空気が一気に緩んだ。


 部活動へ向かう生徒が急いで着替え始め、帰宅する者たちは鞄へ教科書を詰め込んでいる。


 春樹も机の中を整理していた。


「春樹、帰ろ」


 雫が鞄を持って近づいてくる。


 春樹は教科書を一冊入れながら、首を横へ振った。


「悪い。今日ちょっと残る」


「珍しい。何かあるの?」


「図書室」


「また?」


「昼に借りた本、続き気になるから読んで帰る」


「続きって、一ページも読んでないんでしょ?」


「細かいこと気にするなよ。これから始まるんだよ、俺とこの本の物語が」


「大げさなのよ」


 雫が笑う。


「家で読めばいいじゃない」


「分かってないなぁ、雫」


「何がよ」


「図書室で借りた本を、そのまま図書室で読む。この雰囲気がいいんだろ」


「同じ本でしょ?」


「違うんだよ。家で読むのと図書室で読むのは」


「何が?」


「空気」


「面倒くさいこだわりね」


「読書は環境も大事なんだよ。雨の日に家で読むミステリーと、晴れた昼間の公園で読むミステリーじゃ、同じ作品でも結構印象変わるぞ」


「そこまで?」


「変わる変わる。冬に布団入って読む本なんて最高だからな」


「それは単に布団から出たくないだけじゃない?」


「否定はしない」


「しなさいよ」


 二人で笑う。


 雫はそれ以上引き止めなかった。


「じゃあ、アタシ先帰るね」


「おう。また明日」


「遅くならないようにね」


「俺の母親か」


「昨日も今日も学校で問題起こしてる人に言われたくない」


「今日は数十秒の遅刻だけだろ!」


「遅刻は遅刻よ」


「厳しいなぁ」


 雫は軽く手を振り、紗弥と一緒に教室を出ていった。


 その背中を見送った春樹も、鞄を持って立ち上がる。


「お前、本当に図書室好きだな」


 悠斗が声をかけてきた。


「好きだよ。静かだし、本あるし」


「そのまんまだな」


「図書室にそれ以上何を求めるんだ?」


「可愛い先輩とか?」


「いるぞ」


 春樹は即答した。


「……え?」


 悠斗の動きが止まる。


「いるの!?」


「声でかいって」


「いや、お前が普通に答えるから!」


「三年の白石先輩って人。図書委員らしい」


「白石……栞先輩?」


「知ってるの?」


「そりゃ知ってるだろ。三年で結構有名だぞ。大人しいけど美人だって」


「へえ」


「へえって、お前……」


 悠斗が呆れた顔をする。


「可愛かっただろ?」


「綺麗な人だとは思ったよ」


「おっ」


「あと静かだった」


「……そっち?」


「そっちって何だよ。図書室では重要だろ」


「美人な先輩に会って感想が『静かだった』って、お前くらいだと思う」


「本の話もできたぞ。帯に余計な情報書かれるの嫌だって話で意見合った」


「それを美人の先輩との会話として報告する高校生もお前くらいだよ」


「なんでだよ。大事だろ」


 春樹には、悠斗が何を問題視しているのか本気で分からなかった。


 白石栞が美人であることと、本の趣味が合うこと。


 どちらが春樹にとって重要かと問われれば、迷うまでもなく後者である。


「まあいいや。俺、行くから」


「はいはい。美人の先輩と二人きりになっても変なことすんなよ」


「図書室で騒ぐわけないだろ」


「そういう意味じゃねえよ!」


「じゃあどういう意味だよ!」


「分かってねえならいい!」


「なんなんだよ……」


 春樹は首を傾げながら教室を出た。


 悠斗はその背中を見送り、大きなため息を吐く。


「他人の恋愛小説にはあんなに詳しいくせになぁ……」


 本人には聞こえていなかった。


     ◇◇◇


 放課後の図書室は、昼休みとは少し違う空気をまとっていた。


 西日が大きな窓から差し込み、床や閲覧机の上へ細長い光を落としている。


 部活動へ向かう生徒たちの声も、ここまで来るとかなり遠い。


 春樹は扉を開けると、自然に声を落とした。


「失礼します」


 カウンターの奥で本を読んでいた栞が顔を上げる。


「あ……」


 わずかに目が大きくなる。


「七瀬君」


「どうも」


 春樹は軽く頭を下げた。


「また来ました」


「……本当に来ましたね」


「え?」


「あ、いえ。何でもないです」


 栞は慌てて首を横へ振った。


 春樹は不思議そうにしながら、鞄から昼休みに借りた本を取り出す。


「昼に一ページも読めなかったんで、今度こそ読んで帰ろうと思って」


「今度は時計、大丈夫ですか?」


「放課後なら授業ないですから」


「下校時間はありますよ」


「……先輩、意外と厳しいですね」


「普通のことを言ってるだけです」


「雫と同じこと言う」


 春樹が苦笑すると、栞も小さく笑った。


「先生には怒られました?」


「めちゃくちゃ怒られました。教室入った瞬間、永山先生がもう立ってて」


「……間に合わなかったんですね」


「ほんの数十秒ですよ?」


「遅刻は遅刻だと思います」


「また雫と同じこと言った!」


「ふふっ」


「しかも笑いましたね?」


「すみません」


「先輩、さっきから結構謝りますよね」


 栞の表情が少し止まった。


「……そうですか?」


「はい。昼も何回か謝ってましたし」


「癖……かもしれません」


 今度の返事は、少しだけ声が小さかった。


 春樹は栞を見る。


 目が合うと、彼女はわずかに視線を下げた。


 春樹は深く追及しなかった。


 今日初めてまともに話した相手である。


 何でも聞いていいわけではない。


「まあ、俺相手ならそんなに謝らなくて大丈夫ですよ。気にしてないですから」


「でも……」


「本当に嫌だったら普通に言いますよ。俺、雫には毎日文句言ってますし」


「それは……仲がいいからでは?」


「どこがですか」


「違うんですか?」


「腐れ縁です」


 春樹が即答する。


 栞が少しだけ笑う。


「じゃあ俺、読みますね」


「はい」


「読み終わったら感想言ってもいいですか?」


 栞が瞬きをした。


「私に?」


「先輩、読んだことあるんですよね?」


「はい」


「じゃあ話せるじゃないですか」


 春樹の表情が明るくなる。


「ネタバレありで感想言える相手って貴重なんですよ。まだ読んでない人には言えないし、読んだことない人に最初から全部説明するのも違うし。雫なんて俺が長く話し始めるとすぐ止めるし」


「西条さんは、本を読まないんですか?」


「読むことはありますよ。でも俺ほどじゃないですね。昨日も本屋で恋愛小説見てましたし」


「そうなんですね」


「だから貸してもらおうと思って」


「自分では買わないんですか?」


「もちろん気に入ったら買います。でも幼なじみが持ってるなら、まず借りた方がお得でしょう?」


「……西条さんに怒られません?」


「怒られました」


「やっぱり」


 二人とも笑う。


 昼休みよりも、会話の間が少し自然になっていた。


「それで、感想なんですけど」


 春樹が本を軽く持ち上げる。


「読み終わったら話していいですか?」


 栞はしばらくその顔を見ていた。


 それから、ゆっくり頷く。


「……はい。聞きたいです」


「じゃあ決まりですね」


 春樹は満足そうに笑うと、窓際の席へ向かった。


 栞もカウンターへ戻る。


 それからしばらく、二人の間に会話はなかった。


 春樹は本を読む。


 栞も自分の本へ視線を落とす。


 紙をめくる音が、ときどき静かな図書室に重なる。


 会話がない。


 けれど気まずくない。


 どちらかが無理に話題を探す必要もない。


 同じ空間で、それぞれ別の本を読んでいる。


 春樹にとって、それは驚くほど快適だった。


 雫と一緒にいる時間は賑やかだ。


 悠斗たちといるのも楽しい。


 神谷とサッカーをすれば、なんだかんだで夢中になる。


 けれど、それとはまったく違う居心地の良さがここにはあった。


 静かに本を読んでいても、誰にも急かされない。


 話したくなったら、本の話ができる。


 話すことがなければ、お互い黙って本を読めばいい。


 しばらくページを追ったところで、春樹はほんの少し口元を緩めた。


 ――いいな、これ。


 誰にも邪魔されない。


 本の話をしたくなったらできる。


 話さない時間は静かに読める。


 理想的ではないだろうか。


 春樹は満足し、また物語へ意識を戻した。


 カウンターでは、栞が一度だけ本から顔を上げた。


 窓際で本を読んでいる春樹を見る。


 昼休みとは違い、今は時間を気にする必要もないらしい。


 表情は穏やかで、本当に楽しそうだった。


 栞は数秒だけその姿を見つめ、すぐに自分の本へ視線を戻した。


 今日初めて話した後輩。


 それだけだ。


 名前だけなら前から知っていたけれど、どんな人なのかは今日まで知らなかった。


 今分かったのは、驚くほど本が好きで、好きな作品の話になるとよく喋り、少し時間にだらしなくて、思っていたよりずっと表情が豊かな人だということ。


 そしてもう一つ。


 黙って本を読んでいる時間が、気まずくない。


 栞にとって、それは少し珍しいことだった。


 誰かと一緒にいると、何か話さなければいけないような気がする。


 沈黙が長くなれば、相手が退屈していないか気になる。


 けれど春樹は、そんなことをまったく気にしていないようだった。


 本を開いたら、それで終わり。


 栞が黙っていても、何も求めてこない。


 だから栞も、自分の本へ集中できた。


 しばらくして、またページをめくる音が聞こえる。


 春樹だった。


 少し遅れて、栞もページをめくる。


 窓の外から、運動部の掛け声が遠く聞こえた。


 西日が少しずつ傾き、本棚の影が長く伸びていく。


 まだ、お互いのことをほとんど知らない。


 春樹が知っているのは、栞が三年一組の図書委員で、本が好きらしいということ。


 栞が知っているのも、春樹がよく図書室へ来て、本の話になると驚くほどよく喋る二年生だということくらいだった。


 それでも二人は、同じことだけは感じ始めていた。


 この沈黙は、居心地がいい。


 七瀬春樹が望んでいた、誰にも邪魔されない読書時間。


 ようやく手に入れたその時間の中に、今日はもう一人だけ人がいた。


 けれど不思議なことに。


 春樹は、それを少しも邪魔だとは思わなかった。

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