第3話 サッカーより本を選ぶのは、そんなにおかしいか?
翌朝。
七瀬春樹が二年三組の教室へ入ったとき、時計の針は朝のホームルーム開始まで十五分ほどを残していた。
昨日とは違い、今日はきちんと間に合っている。
これは素晴らしい進歩ではないだろうか。少なくとも春樹本人はそう思っていた。
「おはよう」
「おう。おは……よう……?」
自分の席へ向かいながら挨拶すると、前の席に座っていた高坂悠斗が不自然に言葉を途切れさせた。
悠斗は目を丸くし、まるで珍しい生き物でも発見したかのように春樹を見ている。
「なんだよ、その顔」
「いや……春樹がいる」
「いるだろ。俺のクラスなんだから」
「ホームルーム前なのに?」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「昨日、朝から二時間くらい消えてた奴」
「昨日は昨日。今日は今日だ」
春樹は当然のように答え、自分の席へ鞄を置いた。
昨日は体育倉庫裏で読書に夢中になり、朝のホームルームどころか一限と二限までほぼ丸ごと飛ばしてしまった。
あれは確かに反省している。
割合にすれば、昨日の三割から四割くらいまで増えている。
何より、担任の永山剛志から帰り際に言われた「明日も同じことしたら朝から俺の横に座らせるぞ」という脅しが効いた。
職員室の永山の隣で朝読書。それだけなら悪くないようにも聞こえるが、絶対に読ませてもらえない。
むしろ延々と説教される未来しか見えなかった。
「今日は真面目に学校生活を送ることにしたんだよ」
「その台詞、信用していい?」
「もちろん」
「スマホ出してるけど」
「ホームルームまで十五分ある」
「もう読んでんじゃねえか!」
「授業中じゃないからいいだろ」
春樹は椅子へ腰を下ろし、昨日途中まで読んでいたWeb小説を開いた。
画面には、いよいよデート当日を迎えた翼とヒロインの姿が描かれている。
昨日、駅前の書店で新刊を二冊購入したあと、帰宅してから続きを読もうと思っていた。しかし夕食や風呂を済ませたあと、購入したばかりの新刊を「冒頭だけ」と開いてしまったのが失敗だった。
気づけば一冊読み終えていた。
そこからWeb小説へ戻ろうとしたものの、時刻はすでに午前零時を回っていたのである。
さすがの春樹も翌日学校がある状態で徹夜まではしない。
だから今、続きを読む。
実に合理的な時間の使い方だった。
「おっ……翼、服選びから悩んでんのか。お前、金持ちなんだからその辺どうにでもなるだろ……いや、違うな。金の問題じゃないのか。好きな女の子にどう見られるかだから悩んでんのか。なるほどなぁ……」
「朝から楽しそうだな、お前」
「楽しいぞ。読む?」
「俺、朝から恋愛小説読むほど乙女じゃないんだけど」
「恋愛小説を女だけのものだと思うなよ。男が読んでも普通に面白いからな? むしろ男側の心理描写が上手い作品とか――」
「分かった分かった。朝から語り始めんな」
「お前が振ったんだろ」
春樹が不満そうに眉を寄せる。
すると教室の前方から入ってきた西条雫が、そのやり取りを聞きつけたらしい。
「あれ、春樹いるじゃん」
「お前までそれ言うの?」
雫は自分の席へ鞄を置く前に、わざわざ春樹のところまでやってきた。
「偉い偉い。今日はちゃんとホームルームに間に合ったのね」
「俺は幼稚園児か?」
「昨日は幼稚園児でもできる時間管理ができてなかったでしょ」
「ぐっ……!」
言い返せない。
春樹が悔しそうに黙ると、悠斗が吹き出した。
「西条、さすがだな。こいつを一発で黙らせた」
「長い付き合いだからね。春樹が言い訳するときのパターン、大体分かるし」
「ちょっと待て。俺の行動パターンを勝手に分析するな」
「十年以上一緒にいたら嫌でも覚えるわよ」
「だったら俺のいいところも十個くらい覚えてる?」
「今すぐ十個は無理」
「ひどくない!?」
悠斗が声を上げて笑う。
雫もつられて笑いながら、自分の席へ向かった。
その背中を見送り、春樹は再びスマートフォンへ視線を落とす。
こういうやり取り自体は嫌いではない。
ただ、翼のデートがどうなるのかは気になる。
あと十分。
いけるか。
春樹が再びスマートフォンへ手を伸ばした、そのときだった。
「七瀬」
低い声が背後から落ちてきた。
春樹の手が止まる。
聞き覚えがある。
というより、昨日一日で嫌というほど聞いた声だった。
「……おはようございます、永山先生」
「おう。おはよう」
振り返ると、担任の永山剛志が出席簿を片手に立っていた。
朝日が窓から差し込み、その綺麗に剃られた頭へ反射している。
春樹は目を細めた。
「先生」
「なんだ」
「今日も絶好調ですね」
「何がだ」
「反射率が」
「朝から廊下に立ちたいか?」
「おはようございます!」
春樹は勢いよく頭を下げた。
教室のあちこちから笑い声が上がる。
永山はこめかみを引きつらせながら教卓へ向かい、出席簿を置いた。
「まったく……昨日あれだけ怒られたのに、よく朝一番から俺で遊べるな」
「先生との信頼関係があるからこそですよ」
「そんな信頼関係を築いた覚えはない」
「俺はあります」
「一方通行じゃねえか」
永山が深々とため息を吐く。
しかし、本気で怒っているわけではないことを春樹は知っている。
永山もまた、春樹がそれを分かった上でふざけていることを知っていた。
「まあいい。今日はいるな」
「昨日もいましたよ」
「ホームルームに、だ」
「今日はいます」
「一限は?」
「出ます」
「二限は?」
「出ますって!」
「昼休み後は?」
「先生、俺を信用してなさすぎじゃないですか?」
「昨日のお前を見て、どこに信用できる要素があるんだ」
「……ごもっともです」
また笑いが起こる。
雫が呆れたように肩をすくめ、自分の席からそのやり取りを眺めていた。
昔から春樹は、年上相手でも妙なところで物怖じしない。
教師に反抗したいわけではなく、相手が冗談を受け止めてくれると分かると遠慮がなくなるだけだ。
永山もそれを理解しているから、本当に越えてはいけない線だけはきちんと止める。
昨日転校してきた生徒なら分からないかもしれない。
けれど雫には、春樹が本当に怒られているときと、そうでないときくらい簡単に見分けられた。
そんなことを考えている自分に気づき、雫は小さく息を吐く。
別に特別なことではない。
付き合いが長いだけなのだから。
◇◇◇
その日の午前中は、驚くほど平和に過ぎた。
春樹は一限から四限まで、すべての授業に出席した。
途中で二度ほどスマートフォンへ手が伸びそうになったものの、雫の視線と永山の警告を思い出して耐えた。
教師に指されれば普通に答え、数学では佐伯智也が黒板へ書いた問題を難なく解き、英語の小テストも十分ほどで終わらせる。
授業そのものについていけないわけではない。
むしろ、内容を理解するだけなら春樹にとってそれほど苦ではなかった。
問題は、理解したあとにも授業時間が残っていることだ。
それなら本を読みたい。
その発想が、春樹の授業態度を悪化させる最大の原因だった。
そして四限終了のチャイムが鳴った瞬間、春樹は机の中から弁当を取り出した。
「よし。今日は逃げないぞ」
「自分で言うことか、それ?」
悠斗が自分の弁当を持って春樹の机へやってくる。
「昨日の反省を活かしてるんだよ。体育倉庫裏には行かない」
「偉いじゃん」
「ここで飯食って、そのあと図書室行く」
「結局読むのかよ」
「昼休みに読書して何が悪い」
「いや、悪くないけどさ」
悠斗が前の席を反対向きにして座る。
そこへ雫と赤木紗弥も加わった。
「今日は逃げないんだ」
「お前ら、俺を野生動物か何かだと思ってない?」
「昨日は追跡したからね」
「言い方!」
紗弥がくすくす笑いながら弁当箱を開く。
「でも七瀬君、今日はちゃんと授業出てたね」
「だろ? もっと褒めていいぞ」
「普通のことだから」
雫が即座に切り捨てる。
「お前さぁ、幼なじみなんだからもう少し俺の成長を喜んでもよくない?」
「一日学校にいただけで成長扱いする高校二年生は嫌よ」
「厳しいな!」
四人で話しながら昼食を取る。
教室には同じように机を寄せて弁当を食べる生徒が多く、購買へ向かう者や食堂へ行く者もいる。開いた窓から春の終わりを感じさせる風が入り、カーテンを揺らしていた。
春樹が卵焼きを口へ運んだところで、教室の後ろの扉が開く。
「春樹!」
よく通る声がした。
春樹は箸を止める。
「嫌な予感がする」
「名前呼ばれただけだろ」
悠斗が振り返る。
教室へ入ってきたのは神谷蓮だった。
サッカー部の練習着ではなく制服姿だが、日に焼けた肌と短く切った髪のせいか、いかにも運動部らしい雰囲気がある。
「いたいた」
「何しに来た」
「第一声がそれかよ」
「お前が教室まで来るとき、だいたいろくな用事じゃないからな」
「友達に対して失礼すぎない?」
「じゃあ何の用?」
「サッカーしようぜ」
「断る」
「早えよ!」
神谷がまだ何も説明していない段階で、春樹は弁当へ視線を戻した。
「俺は飯食ったら図書室行くんだよ」
「昼休みくらいいいだろ!」
「昼休みだからこそだ。授業中に読めないなら、昼休みに読むしかないだろ」
「昨日授業中に読んでたって聞いたぞ」
「誰から聞いた」
「悠斗」
「お前か!」
春樹が睨むと、悠斗は悪びれもせず笑った。
「いやあ、昨日の永山先生とのやり取りが面白くて」
「個人情報だぞ!」
「お前の授業態度のどこが個人情報なんだよ」
神谷は笑いながら、春樹の机へ両手をついた。
「頼むって。今日、一年と二年で昼休みにミニゲームやるんだけど、一人足りないんだよ」
「サッカー部でやれよ」
「部員だけじゃつまんねえから、クラスの奴らも混ぜてやるんだって。遊びだよ、遊び」
「だったらなおさら俺じゃなくていいだろ」
「お前が入った方が面白い」
「俺は面白くない。読書時間が減る」
「本は逃げないだろ!」
「その台詞、読書好きに言うなよ。読む時間は逃げるんだぞ!」
「意味分かんねえよ!」
教室の何人かが二人のやり取りを聞いて笑っている。
雫は弁当を食べながら、呆れたように春樹を見る。
「行けばいいじゃない。たまには身体動かしたら?」
「俺は毎日動かしてる」
「体育以外で?」
「家から学校まで歩いてる」
「運動に入らないわよ」
「俺にとっては立派な運動だ」
そこで雫は、昔の春樹を思い出した。
小学生の頃は、学校から帰るとランドセルを置いてすぐ外へ飛び出していた。中学に入ってからも、部活が終わる頃には制服よりジャージ姿の方が見慣れていたくらいだ。
それが高校へ入った途端、放課後に見かける姿は本屋か図書館ばかりになった。
「中学の頃は、あんなにサッカーしてたのにね」
懐かしさから出ただけの言葉だった。
神谷が勢いよく頷く。
「そうなんだよ! こいつ昔はちゃんとやってたんだぞ!」
「ちゃんとってなんだよ。今もちゃんと生きてるわ」
「そういう意味じゃねえ!」
神谷が春樹の肩を揺する。
「お前、中三の最後まで普通に試合出てたじゃん。高校でも絶対やると思ってたのに、入学した途端『部活やったら本読む時間なくなる』とか言い出してさ」
「合理的判断だろ」
「どこがだよ!」
「平日は放課後二時間から三時間。休日も練習や試合がある。年間で何時間になると思ってる?」
「計算したのか?」
「入部を断る前にな」
「そこまでして辞めたかったの!?」
「違う。サッカーが嫌いになったわけじゃないんだよ」
春樹は箸を置き、神谷を見る。
「やれば楽しいし、お前らと蹴るのも好きだよ。今でもテレビで試合見ることあるし。でも、俺は別にプロになりたいわけでもないし、全国大会を目指したいわけでもない。だったら放課後を全部サッカーに使うより、その時間で好きな本を読んだ方が俺は楽しい。それだけ」
神谷は少し黙った。
雫も春樹を見ていた。
何度か聞いたことのある話だ。
高校へ入学した頃、雫も似たようなことを春樹へ尋ねた。
もったいなくないの、と。
そのときも春樹は似たような答えを返した。
得意だから続けるのではなく、自分がやりたいことを選びたい。
昔から変なところで頑固だった。
「……まあ、それは知ってるけどさ」
神谷が頭を掻く。
「だったら無理に部活入れようとするなよ」
「でももったいないんだよ!」
「それも何回聞いたと思ってる」
「だってもったいないだろ!」
「蓮」
雫が口を挟む。
「春樹に『もったいない』って言っても無駄よ」
「おい、どういう意味だ」
「だって春樹、昔からそうじゃない。できるかどうかより、自分がやりたいかどうかで決めるでしょ」
「……まあな」
「勉強だってそう。もう少しちゃんとやればもっと上狙えるのに、そこまで興味ないからやらないし」
「俺の人生をよく見てるな、お前」
「そりゃ、小さい頃から見てればね」
雫は何気なく答え、弁当のおかずへ箸を伸ばした。
けれど、紗弥が一瞬だけこちらを見たことには気づかなかった。
「じゃあさ」
雫は春樹へ視線を戻す。
「久しぶりにやってみたら? 入部する必要はないんだし、二十分くらいならいいでしょ」
「お前、蓮側につくの?」
「別に。昔は毎日やってたのに、最近全然やってるところ見ないから、ちょっと懐かしいだけ」
「見るの、お前?」
「暇だったら」
「なんだそれ」
春樹は笑った。
雫もそれ以上は何も言わず、弁当を食べ続けた。
自分でも本当に、その程度のつもりだった。
昔は当たり前のように見ていたものを、久しぶりに見てみたい。
理由を探すなら、それだけで十分だった。
◇◇◇
「……何分?」
「え?」
「ミニゲーム。何分やるんだよ」
春樹の問いに、神谷の顔が上がる。
「二十分! いや、十五分でもいい!」
「短くなったな」
「来てくれるなら十分でも!」
「値切り方がおかしいだろ」
春樹は時計を見る。
昼休みはまだ三十分以上残っている。
二十分ほどなら、終わってから少しは読める。
「二十分だけな」
「マジで!?」
「その代わり二十分経ったら抜ける。延長なし。部活勧誘もなし」
「分かった!」
「あと俺、制服だから本気ではやらないぞ」
「それでいい!」
「よし。契約成立」
春樹が弁当箱を閉じる。
神谷は嬉しそうに春樹の肩を叩いた。
「やっぱ持つべきものは友達だな!」
「現金な奴だな」
「春樹がサッカーすんの?」
悠斗が面白そうに立ち上がる。
「見に行こうぜ」
「なんでだよ」
「暇だから」
「俺は見世物じゃないぞ」
「私も行こうかな」
紗弥も弁当箱を片づけ始める。
雫は一瞬迷ったものの、結局立ち上がった。
「じゃあアタシも行く」
「結局来るのかよ」
「さっき言ったでしょ。久しぶりだからちょっと見たいだけ」
「二十分も俺がボール蹴ってるの見て面白いか?」
「さあ?」
「自分から来るって言ったんだろ!」
春樹が笑いながら抗議する。
雫は「うるさい」と返しながら、その隣を歩き始めた。
こうして春樹の静かな昼休みは、本人の予定とはまったく違う方向へ進むことになった。
◇◇◇
昼休みのグラウンドでは、サッカー部員と一般生徒を混ぜた十人ほどが集まっていた。
正式な試合ではなく、小さな簡易ゴールを使った五対五のミニゲームだ。
春樹は制服の上着を脱ぎ、シャツの袖を肘まで捲る。
「本当にその格好でやるの?」
グラウンド脇から雫が声をかける。
「二十分だけだからな。着替えてる時間がもったいない」
「転ばないでよ? 制服破いたら面倒だから」
「子供じゃないんだから」
「春樹の場合、転んで制服汚したら『洗う時間で本が読めた』とか言いそう」
「よく分かってるじゃないか」
「そこは否定しなさいよ!」
雫の隣では悠斗と紗弥も見ている。
周囲には他のクラスから来た生徒も何人かいて、昼休みらしい気楽な空気が流れていた。
「春樹、こっち!」
神谷がビブスを投げてくる。
「着るの?」
「チーム分かんねえだろ」
「はいはい」
春樹は制服のシャツの上からビブスを被った。
足元へ転がってきたボールを軽く踏む。
その動きを見ていた雫は、ほんの少し目を細めた。
何か特別なことをしたわけではない。
ただボールを足の裏で止めただけだ。
それなのに、昔何度も見た姿がふっと重なった。
夕方まで公園でボールを蹴っていた小学生の春樹。
泥だらけのジャージで帰ってきた中学生の春樹。
試合で勝った日は機嫌がよく、負けた日は「次は勝つ」と言いながら悔しそうにしていた春樹。
最近は本の話ばかりしているから、そういう姿を見なくなって久しい。
「……懐かしい」
雫が小さく呟く。
「何か言った?」
隣の紗弥が尋ねる。
「ううん。昔と変わらないなって思っただけ」
それだけ答え、雫は再びグラウンドへ目を向けた。
「春樹」
「ん?」
「手加減すんなよ?」
神谷が笑う。
「制服だって言ってんだろ」
「言い訳?」
「煽るな。面倒になる」
春樹も笑い返した。
開始の合図が出る。
最初の数分、春樹はほとんど走らなかった。
味方から来たボールを近くの選手へ返し、空いた場所へ移動する。それだけである。
「春樹、真面目にやれ!」
「やってるよ!」
「全然走ってねえじゃん!」
「省エネだ!」
神谷が怒鳴る。
春樹は笑いながらボールを受けた。
その瞬間、相手チームの生徒が距離を詰めてくる。
春樹は足元へ視線を落とさなかった。
右足でボールを受けると同時に身体を少し左へ向け、相手の重心が動いた瞬間、逆側へボールを流す。
「あっ」
相手の足が止まる。
春樹はその横を抜けた。
次の一人が来る。
強く蹴る必要はない。
足の内側でボールの軌道をわずかに変え、伸びてきた足を避ける。
視界の端で神谷が走った。
「蓮!」
「おう!」
春樹の右足から離れたボールが二人の間を抜け、神谷の前へ出る。
神谷がそのままシュートを放ち、簡易ゴールのネットが揺れた。
「よっしゃ!」
周囲から声が上がる。
「……え?」
紗弥が目を丸くした。
「七瀬君、上手くない?」
「でしょ?」
雫は反射的に答えていた。
その声が思ったより弾んでいたことに、自分で気づく。
「春樹、昔からサッカーは本当に上手いのよ。試合でも周りをよく見てたし、自分で無理に行くより、今みたいに誰かを使う方が得意で――」
そこまで言ってから、雫は口を止めた。
紗弥がこちらを見ている。
「……何?」
「いや」
紗弥が少し笑う。
「よく覚えてるなって思って」
「そりゃ覚えてるわよ。昔から見てたんだから」
「そっか」
「何よ、その言い方」
「何も言ってないよ?」
「だったら笑わないでよ」
雫が少しだけ眉を寄せる。
別に変なことではない。
春樹とはずっと一緒だった。
試合を見に行ったことだって一度や二度ではないのだから、プレーの特徴くらい覚えていて当然だ。
そう思いながら、雫はもう一度グラウンドを見る。
春樹が神谷と何か言い合って笑っていた。
その姿を見ていると、不思議と自分まで少し楽しくなる。
それもきっと、懐かしいからなのだろう。
ゲームが再開される。
春樹は相変わらず全力では走らない。
それでも、ボールが来る場所を先に読んで動いていた。
相手がどこを見ているのか。
誰が空いているのか。
どの角度なら次の選手が受けやすいのか。
それを考えることは、昔から好きだった。
自分一人で何人も抜くより、相手の動きを見て一つ先を読む方が性に合っている。
恋愛小説を読んで「ここでこの台詞が来る」と予想するのと、少し似ているかもしれない。
そんなことを考えながら、春樹はボールを受けた。
「春樹!」
神谷が前へ走る。
相手もそれを見ている。
春樹は一度神谷へ視線を向け、右足を振った。
二人の相手が神谷側へ寄る。
しかし、ボールは出なかった。
振った足でボールを止め、そのまま逆方向へ持ち出す。
空いた場所へ走り込んでいた一般生徒へパスを出すと、その生徒が慌てながらもシュートを決めた。
「入った!?」
「ナイス!」
春樹が手を上げる。
決めた本人が一番驚いていた。
「七瀬、すげえ!」
「今の俺ほとんど何もしてないぞ。決めたのお前だろ」
「いや、あのパス来ると思わなかったって!」
「俺も来ると思わなかった」
「出したのお前だろ!」
また笑いが起こる。
グラウンド脇で見ていた悠斗が腕を組んだ。
「俺、こいつと一年以上同じクラスだけど、こんなちゃんとサッカーしてるところ初めて見たかも」
「普段は頼まれてもあんまりやらないからね」
雫が答える。
「中学の頃は毎日のようにやってたの?」
「うん。小学生の頃からずっと。放課後になると蓮たちとボール蹴って、休みの日も試合行ってたし、中学ではずっとレギュラーだった」
「それが今じゃ昼休みまで図書室に行こうとするんだから、人って変わるな」
「そこは本当にね」
雫は小さく笑った。
変わった部分もある。
変わっていない部分もある。
グラウンドでボールを追いながら楽しそうに神谷と言い合っている姿を見ていると、昔と今の春樹が不思議なくらい自然に重なった。
「……楽しそう」
雫の口から、無意識にそんな言葉が漏れた。
「七瀬君が?」
紗弥に聞き返され、雫は一瞬だけ目を瞬かせる。
「うん。最近、本読んでるとき以外であんな顔してるのあんまり見なかったから」
「雫って、本当に七瀬君のことよく見てるね」
「幼なじみだもの」
今度は迷わず答えた。
それ以外の理由など、雫自身まだ考えたこともなかった。
◇◇◇
「はい、終わり」
「え?」
ゲームの途中で、春樹が突然動きを止めた。
「何が?」
神谷が聞く。
「二十分」
春樹はグラウンド脇の時計を指差した。
「約束しただろ。二十分経ったら終わり」
「待て待て! あと五分!」
「延長なしも条件だった」
「今いいところじゃん!」
神谷の言葉に、春樹の眉がぴくりと動く。
「……蓮」
「なんだよ」
「その台詞を俺に使うとはいい度胸だな」
「は?」
「『今いいところ』で止められる苦しみが分かったか!」
「そこにつながるの!?」
「俺は毎日それを味わってるんだぞ!」
「知らねえよ!」
グラウンド脇から笑い声が飛んでくる。
春樹はビブスを脱ぎ、神谷へ投げ返した。
「じゃあな。俺は残りの昼休みを有意義に使う」
「何すんの?」
「図書室」
「やっぱ本かよ!」
「当たり前だろ」
春樹はシャツの袖を直しながらグラウンドを出る。
雫たちのところまで戻ると、紗弥が感心したように春樹を見る。
「七瀬君、本当に上手いんだね」
「まあ、中学まではやってたから」
「なんでそんな軽いのよ。もっと自慢してもよくない?」
「別に自慢するほどじゃないだろ」
「そういうところ、昔から変わらないわね」
雫が呆れたように言う。
「何が?」
「自分ができることを大したことないって言うところ」
「そんなつもりないけど」
「あるわよ」
「ないって」
春樹と雫が顔を見合わせる。
先に息を吐いたのは雫だった。
「まあいいけど。久しぶりに見たら、ちょっと懐かしかった」
「俺がサッカーしてるところ?」
「うん。中学の頃は当たり前だったから」
「そんなもんか」
「そんなもんよ」
春樹は特に深く考える様子もなく頷いた。
雫もそれ以上言葉を重ねなかった。
けれど、少しだけ不思議だった。
たった二十分、昔と同じようにボールを蹴っている春樹を見ただけなのに、思っていた以上に楽しかった。
懐かしかったから。
久しぶりだったから。
理由ならいくらでも思いつく。
だから雫は、それ以上考えなかった。
「じゃあ俺、図書室行くから」
「今から?」
「十分ある」
「十分しかない、でしょ」
「読書家にとって十分は『しか』じゃない。『も』だ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
「おう」
春樹は校舎へ向かって歩き出した。
数歩進んだところで振り返る。
「雫」
「何?」
「付き合ってくれてありがとな」
「……何に?」
「サッカー。わざわざ見に来ただろ」
雫は一瞬だけ言葉に詰まった。
そんなことを言われるとは思っていなかった。
「別に……アタシが勝手に来ただけだし」
「そうだけどさ。昔の話できたの、ちょっと懐かしかったし」
春樹はそう言って笑った。
「じゃあ、今度こそ行ってくる。昼休み終わる」
「あ……うん」
春樹は今度こそ校舎へ向かっていった。
雫はその背中をしばらく眺めてから、自分でも理由が分からないまま頬へ手を触れた。
熱いわけではない。
胸が大きく鳴っているわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ落ち着かなかった。
「……何よ、急に」
誰にも聞こえない程度の声で呟く。
昨日までなら、春樹に礼を言われたくらいで何かを考えることなどなかったはずだ。
だから今日も、きっと大した意味はない。
そう思ったところで、紗弥が隣から顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「何が?」
「ぼーっとしてるから」
「してないわよ。春樹が相変わらずだなって思ってただけ」
「そっか」
「……何よ」
「何も?」
紗弥はそれ以上何も言わなかった。
そのことが逆に少し気になったものの、雫も追及はしなかった。
まだ、何かを意識するほどのことではない。
昔から隣にいた幼なじみを、ほんの少しだけいつもと違う角度から見ただけ。
今は、それくらいでよかった。
◇◇◇
図書室へ続く廊下は、昼休みの終わりが近づいていることもあって人が少なかった。
春樹は少しだけ歩調を速める。
残り九分。
図書室へ入るまで一分。
本を選ぶ時間を一分に抑えれば、七分は読める。
完璧な計画だ。
そう考えながら図書室の扉へ手をかける。
その向こうには整然と並んだ本棚と、教室とは違う静かな空気が待っていた。
春樹の表情が自然と緩む。
グラウンドで身体を動かすのも悪くないし、友達と騒ぐのだって楽しい。
それでも最後に戻ってきたいのは、やはりこういう場所だった。
春樹は静かに扉を閉め、近くの棚へ向かおうとする。
そこで初めて、カウンターの奥に人がいることに気づいた。
一人の女子生徒が、返却された本を丁寧に確認している。
三年生の証である上履きの色に、腰近くまで伸びた黒髪。伏せられた目元は柔らかく、騒がしい昼休みの学校とは切り離されたような静かな雰囲気をまとっていた。
春樹はその先輩を見たことがなかった。
向こうも、まだ春樹には気づいていない。
ただ黙々と本を扱っている。
春樹はその姿を少し眺め、最初に抱いた感想を心の中で呟いた。
――静かそうな人だな。
少なくとも読書の邪魔はされなさそうだ。
恋愛的な意味など欠片もない、春樹らしい第一印象だった。
そして、その名前すら知らないまま、本棚の間へ入っていく。
昼休み終了まで、あと八分。
七瀬春樹にとって今もっとも重要なのは、カウンターにいる美人の先輩ではない。
残された時間で、どこまで本を読めるか。
当然、今はそれだけだった。




