第2話 美少女の後輩より、続きが気になります
昼休み終了まで、残り十二分。
七瀬春樹にとって、それは決して短い時間ではなかった。十二分もあれば、Web小説ならかなり読み進められる。文章量にもよるが一話くらいなら十分に読めるし、短めの話なら二話目に届くことだってある。
つまり、今ここで無駄話をしている場合ではない。
「それじゃあ俺、ちょっと忙しいから」
「どこがよ」
体育倉庫裏から校舎へ向かって歩きながらスマートフォンを取り出した春樹に、雫が即座に突っ込んだ。
「忙しいだろ。翼がようやくヒロインをデートに誘うところまで来たんだぞ。ここまで何話かかったと思ってる」
「知らないし、興味もないわよ」
「二十三話だぞ?」
「だから知らないって!」
「二十三話だぞ!? 出会ってからここまで、二十三話もかかってるんだぞ!」
「なんで言い直したの!? しかも情報増えてるし!」
春樹としては非常に重要な話だった。
出会って、少しずつ仲良くなって、ヒロインの家庭事情が判明して、翼が彼女を助ける。それでも自分なんかが幸せになってはいけないと思い込むヒロインを、翼がどうにか外へ連れ出そうとするところまで二十三話。
長かった。
それだけ積み重ねてきたからこそ、ようやく訪れようとしているデートイベントには意味がある。ここまで付き合ってきた一読者として、春樹には二人の行く末を見届ける義務があるとすら思っていた。
「いいか雫。物語には積み重ねってものがあるんだ。二十三話分の感情が今ここで実ろうとしてるわけ。俺はそれを見届けなきゃならない」
「その情熱の十分の一でも授業に向けられないの?」
「授業は俺が見届けなくても進むだろ?」
「小説だってあんたが見届けなくても進むわよ!」
「それとこれとは話が違う!」
「何が違うのよ!」
校舎へ向かう舗装路に、二人の声が響いた。
その少し後ろを歩いていた新海真実は、二人のやり取りを聞きながら何度か瞬きをしていた。
つい先ほどまで、真実は告白してきた男子生徒――一年四組のサッカー部員、倉田亮介に進路を塞がれていた。
告白を断った途端に態度を変えられたことへの戸惑いは、まだ胸の奥に残っている。倉田が手を伸ばしてきた瞬間には身体も強張ったし、雫が間に入ってくれなければどうなっていたのだろうと考えると、指先にはまだわずかな冷たさが残っていた。
けれど、そんな空気など最初から存在しなかったかのように、目の前の二人は小説の二十三話がどうだという話で揉めている。
真実はその背中を見つめているうちに、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んでいくのを感じた。
「ふふっ……」
思わず笑い声が漏れる。
春樹が振り返った。
「ん?」
「あっ……すみません」
「なんで謝るんだ?」
「いえ、その……お二人、本当に仲がいいんだなと思って」
「どこが!?」
「どこが?」
春樹と雫の声が綺麗に重なった。
二人とも一瞬黙り込み、互いの顔を見る。先に眉を寄せたのは春樹だった。
「真似すんなよ」
「春樹が真似したんでしょ!」
「俺の方がちょっと早かっただろ」
「ほぼ同時だったわよ!」
「ほら、やっぱり仲いいじゃないですか」
真実が今度こそ声を出して笑うと、雫は少しだけ頬を膨らませた。
「違うのよ、真実。家が近くて昔から一緒にいるから、仕方なく面倒見てるだけ」
「その言い方は俺にも言いたいことがあるぞ。俺だって別に面倒見てもらってるつもりないからな?」
「今日だけで何回アタシに探されてると思ってるのよ」
「俺は探してくれなんて頼んでない」
「放っておいたら午後も来ないでしょ!」
春樹はすぐには答えず、わずかに視線を逸らした。
「……今、未来に存在したかもしれない可能性について考えてた」
「午後もサボる気だったんじゃない!」
図星だった。
昼休み終了後、そのまま体育倉庫裏に残るという選択肢を、春樹がまったく考えていなかったと言えば嘘になる。
午後最初の授業は数学だった。春樹は数学が嫌いではないし、むしろ得意な方なのだが、今読んでいる小説の続きと数学の授業を天秤にかけた場合、どちらへ傾くかは考えるまでもなかった。
「だいたいさ、俺はテストではちゃんと点取ってるだろ。赤点取ったこともないし、提出物だって最低限は出してる」
「自分で最低限って言ってるじゃない」
「必要なことはやってるって意味だよ。なのになんで授業まで完璧に受けなきゃならないんだ」
「学生だからよ!」
「ぐうの音も出ない正論やめろ!」
真実がまた笑う。
先ほどよりも表情が柔らかくなっているのを横目で確認して、春樹はほんの少しだけ安心した。
別に自分が何かしたわけではない。実際に倉田との間へ割って入ったのも雫だ。
それでも、ついさっき嫌な目に遭ったばかりなのだから、いつまでも暗い顔をしているより笑えている方がいいだろう。
「そういえば新海さん」
「はい?」
「さっきの倉田って奴、同じ一年なんだよな?」
「はい。一年四組です。私は二組なのでクラスは違いますけど」
「そっか」
「……あの」
「ん?」
「七瀬先輩、さっき……体育倉庫の裏にいましたよね?」
「いたな」
「どのくらい前から?」
春樹は少し考えた。
どこまで聞いていたかと問われれば、倉田が告白したところからほぼ全部である。
「告白してるところから」
「やっぱり!」
真実の頬が一気に赤くなった。
「す、すみません。聞くつもりはなかったんだけど、俺が先にあそこで本読んでたからさ。途中でいきなり出ていくのも、それはそれで変だろ?」
「いえ……それは大丈夫なんですけど……」
真実が視線を落とす。自分が告白されているところを初対面の先輩に最初から聞かれていたと知れば、気まずくなるのも当然だった。
春樹は少し考えてから、必要以上に慰めるような口調にならないよう、そのまま思ったことを口にした。
「でも、気にしなくていいんじゃない?」
「え?」
「断るのは悪いことじゃないだろ。告白した方だって、受けてもらえる保証があるわけじゃないし、自分が好きだから相手も好きにならなきゃいけないなんてこともない。新海さん、変に期待させるようなこと言わずに、ちゃんと断ってただろ?」
真実が顔を上げる。
春樹にとっては、ごく当たり前の話だった。
恋愛小説を読んでいれば、告白する側とされる側、その両方の心理が描かれることは珍しくない。勇気を出して告白したこと自体は立派でも、その勇気を相手へ押しつけていい理由にはならない。
恋愛は一人では成立しない。
「まあ、倉田も途中までは普通に告白してたんだから、そこで帰っとけば格好よかったのにな」
「春樹にしてはまともなこと言うじゃない」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「授業をサボって体育倉庫裏で恋愛小説読んでる変人」
「事実しか言ってないのに悪意がすごい!」
春樹が抗議すると、雫は楽しそうに笑った。
真実は二人を見比べ、それから春樹へ視線を戻す。
「……ありがとうございます」
「ん?」
「いえ。なんでもありません」
真実は小さく首を横へ振った。
春樹は少し不思議に思ったものの、それ以上は追及しなかった。校舎の入口はもう目の前まで迫っており、昼休み終了まで残された時間の方が春樹には重要だった。
「よし。九分あればまだ読める」
「教室に戻りなさい!」
「戻りながら読めばいいだろ!」
「歩きスマホ禁止!」
「風紀委員かお前は!」
「当たり前のこと言ってるだけよ!」
二人の声を聞きながら、真実はまた小さく笑っていた。
◇◇◇
五限開始のチャイムが鳴る少し前、春樹は珍しく自分の席に座っていた。
別に心を入れ替えたわけではない。雫に半ば強制的に連れてこられただけである。
「七瀬、お前今日いたのか?」
「いるわ!」
前の席から振り返った男子生徒に、春樹は即座に突っ込んだ。
話しかけてきたのは高坂悠斗。中学時代から付き合いのある友人で、春樹が読書に夢中になっているとき以外なら遠慮なく絡んでくる数少ない相手の一人だ。
短く整えた黒髪に人懐っこい顔立ちをしており、よく喋り、よく笑う。春樹の扱いにも慣れているため、雫と並んで日常的なツッコミ役になることが多い。
「いや、朝のホームルームにいなかったし、一限も二限もいなかっただろ?」
「三限にはいた」
「永山先生に怒られるためだけにな」
「違うわ。授業を受けるために戻ってきたんだよ」
「スマホ見てたじゃん」
「社会について調べてた」
「恋愛小説で?」
「現代社会における男女関係の研究だ」
「嘘つけ!」
近くの席から笑い声が上がり、春樹もつられて笑った。
雫は春樹を「本ばかり読んでいるから友達ができない」と言うが、別に春樹は人付き合いが嫌いなわけではない。話しかけられれば普通に話すし、くだらない話で笑うこともある。
ただ、本を読んでいるときだけは別だった。
面白い物語の途中で現実へ引き戻されることだけは、どうにも好きになれない。
「で、結局どこ行ってたんだよ?」
「体育倉庫の裏」
「また?」
「静かなんだよ、あそこ。日陰だし、人来ないし、風も通る。読書にはかなりいい」
「お前、学校を読書スポットで評価してんの?」
「当然だろ。図書室は王道だけど人が多い。中庭は悪くないけど昼休みはうるさい。屋上はそもそも出られない。非常階段の踊り場は先生が通る可能性が高い。その点、体育倉庫裏は人通りが少なくて――」
「待て待て。なんでそんな詳しいんだよ」
「入学してから一年かけて調べたから」
「努力の方向おかしくね?」
何がおかしいのか春樹には分からない。
快適な読書環境を求めることの何が悪いのだろう。春樹が真剣に反論しようとしたところで、斜め前から呆れた声が飛んできた。
「それで成績が悪かったら、まだ納得できるんだけどね」
声の主は赤木紗弥だった。
雫と仲のいいクラスメイトで、二人が喧嘩を始めたときには止める側へ回ることが多い。先ほども雫の怒りを鎮めてくれた、春樹にとって今日一番の恩人である。
「七瀬君、前の定期試験何位だっけ?」
「知らない」
「知らないの?」
「順位表とか興味ないし」
「十八位よ」
答えたのは雫だった。
春樹がそちらを見る。
「なんでお前が覚えてんだよ」
「幼なじみだからよ」
「理由になってないだろ」
「ちなみにアタシは二十六位」
「聞いてない」
「ちょっと!」
雫が睨んでくるので、春樹は笑いながら肩をすくめた。
学年の人数は二百人少々。その中で十八位なら悪い成績ではないことくらい、春樹自身も理解している。
だからといって、一位を目指そうとは思わなかった。
十位以内へ入るために毎日一時間勉強時間を増やすくらいなら、その一時間で本を読みたい。春樹にとっては極めて合理的な判断だった。
「それよりさ、春樹」
「ん?」
悠斗が急に声を潜める。
「一年の新海真実って知ってる?」
「知ってるけど」
「やっぱ知ってんのか。めちゃくちゃ可愛いって噂の――」
「さっき会った」
「……は?」
「昼休みに会ったぞ」
悠斗の目が大きく見開かれる。
「どこで!?」
「体育倉庫の裏」
その答えを聞いた瞬間、悠斗の顔から驚きが消え、代わりに何かを確信したような表情が浮かんだ。
「春樹、お前……まさか……!」
「なんだよ」
「そういうことだったのか!」
「何がだよ」
悠斗が勢いよく立ち上がった。
周囲の生徒が何事かと振り返る。
「授業サボって一年の美少女と密会してたのか!」
「してねえよ!!」
春樹の声が教室中へ響いた。
ちょうどそこへ、五限の数学を担当する佐伯智也が教材を抱えて入ってくる。
三十代半ばの眼鏡をかけた教師で、普段は淡々としているものの、生徒のくだらない騒ぎを妙に冷静な一言で処理することで知られていた。
「七瀬。今日はよく声が出てるな。午前中に休養を十分取ったからか?」
「先生まで知ってるんですか……」
「職員室で永山先生が嘆いていた」
「情報共有が早すぎません?」
「教師だからな。ついでに言っておくと、五限は出席してくれて先生は嬉しいぞ」
「やめてください。罪悪感がすごい」
教室に笑いが広がる。
佐伯は口元だけでわずかに笑うと、黒板へ向かった。
「では、七瀬が逃亡する前に授業を始める。全員席につけ」
「俺を基準に授業始めないでもらえます!?」
「なら明日から全部出ろ」
「……善処します」
「約束しないところが七瀬らしいな」
また笑い声が起こる中、春樹は諦めて教科書を開いた。
隣では雫が額を押さえている。
まだ五限が始まっただけなのに、どうして今日一日でこれほど色々な人から怒られているのだろう。
春樹には心当たりがありすぎて、考えるのをやめた。
◇◇◇
放課後。
最後のホームルームが終わると、春樹は教科書やノートを鞄へ片づけ始めた。今日はもう十分に学校生活を満喫したので、これ以上長居するつもりはない。
何より、今日は駅前の書店に寄るという重要な予定がある。
待ちに待った新刊の発売日なのだ。
春樹にとって、それ以上に優先すべき放課後の予定など、この世にそう多くはなかった。
「春樹、帰るの?」
鞄を持った雫が近づいてくる。
「ああ。今日は本屋寄る」
「また?」
「『また』じゃない。今日は新刊が出るんだよ」
「何の?」
「聞きたい?」
「いや、別にそこまでは――」
「これはな、幼なじみだった二人が高校進学をきっかけに――」
「待って! 長くなるなら聞かない!」
「お前が聞いたんだろ!」
「タイトルだけ答えなさいよ!」
なんて理不尽な。
春樹は不満そうに眉を寄せながら鞄を肩へかける。
「じゃあな」
「ちょっと待ってよ。アタシも駅まで行くから」
「なんで?」
「帰る方向同じでしょ!」
「いや、お前部活は?」
「今日は休み」
春樹は露骨に残念そうな顔をした。
「……一人で静かに帰れると思ったのに」
「今、舌打ちしようとしたでしょ!?」
「してないしてない。幼なじみと一緒に帰れて嬉しいなぁって思ってた」
「棒読みすぎるわよ!」
雫が頬を膨らませる。
結局、二人で校門へ向かうことになった。
◇◇◇
同じ頃、一年二組の教室では、新海真実が鞄を胸元へ抱えたまま、まだ自分の席に座っていた。
周囲では帰宅する生徒たちの声が飛び交っている。部活動へ向かう生徒が急いで教室を出ていき、廊下からも笑い声や足音が絶え間なく聞こえていた。
けれど真実の意識は、そうした放課後の賑やかさから少し離れたところにあった。
昼休みのことが、ずっと頭から離れない。
倉田から告白されたこと自体ではなかった。
告白を受けるのは初めてではない。もちろん、断ったあとにあんな態度を取られたことには驚いたし、怖くなかったと言えば嘘になる。
腕を伸ばされた瞬間には身体が強張った。
雫が間に入ってくれたときには、心の底からほっとした。
だから雫には、きちんとお礼を言いたかった。
けれど、もう一つだけ、真実にはどうしても引っかかっていることがあった。
「七瀬先輩……」
周囲には聞こえないほど小さな声で、その名前を口にする。
体育倉庫の陰から出てきた、雫の幼なじみ。
最初の印象は、正直なところ少し変わった人だった。
授業をサボって本を読んでいたらしいし、雫に見つかった途端、子供のように言い訳をしていた。雫からも「昔から手がかかる」と紹介された。
けれど、真実はあのとき見ていた。
倉田が自分へ手を伸ばした瞬間、体育倉庫の陰で人影が動いた。
ほんの一瞬だった。
直後に雫が駆け込んできたため、その人物が実際に何かをすることはなかった。それでも後になって思い返せば、あの場所にいたのは春樹しかいない。
もしかしたら、本当にただ立ち上がっただけかもしれない。
けれど、雫が来なかったら七瀬先輩が出てきてくれたのではないか。
そんなことを考えてしまう。
それだけではなかった。
『断るのは悪いことじゃないだろ』
校舎へ戻る途中で言われた言葉も、ずっと胸に残っている。
慰めようとしてくれたのだろうかと最初は思った。
けれど、春樹の話し方は少し違った。気を遣っているようにも、格好をつけようとしているようにも見えなかった。
ただ、本当にそう思っているから口にした。
真実が悪いなどと最初から一度も考えていない、そんな言い方だった。
「……ちゃんと言ってないな」
真実は鞄の持ち手を握り直した。
雫には、その場で何度も助けてもらった。
けれど春樹には、結局きちんと何も言えていない。
もし体育倉庫で見たものが自分の勘違いだったとしても構わない。春樹の言葉に救われたのは本当なのだから、そのことについてお礼を言えばいい。
そう思ったとき、窓の外を何気なく見た真実の視界に、見覚えのある二人の姿が入った。
雫と春樹が、並んで校門の方へ歩いている。
「……帰っちゃう」
考えるより先に、真実は席を立っていた。
椅子が床を擦り、小さな音を立てる。
「真実? どうしたの?」
近くで帰り支度をしていた友人の藤崎美優が、不思議そうに顔を上げた。
「ごめん、美優。ちょっと先輩に用事があるから先に行くね」
「先輩?」
「うん。また明日」
「分かった。またね」
真実は鞄を持つと足早に教室を出た。
廊下を走るのはよくない。
そう分かっているから最初は早歩きだった。それでも階段を下り、昇降口へ近づく頃には、いつの間にか小走りになっていた。
別に明日でもいい。
雫とはまた会えるし、春樹だって同じ学校にいるのだから、会おうと思えば会えるだろう。
それなのに今日は、今日のうちに言っておきたかった。
◇◇◇
五月の午後、傾き始めた日差しが校舎の窓を柔らかな橙色に染めていた。
グラウンドではすでに部活動が始まり、ボールを蹴る音や掛け声が風に乗って校門へ向かう春樹たちのところまで届いてくる。
サッカー部の練習場所の近くまで来たところで、一つのボールがグラウンドを外れて春樹たちの方へ転がってきた。
「すみませーん! 取ってくださーい!」
グラウンドから声が飛んでくる。
声を上げたのはサッカー部二年の神谷蓮だった。
中学時代から春樹のサッカーの腕を知っている友人の一人であり、高校へ入ってからも顔を合わせるたびに部へ誘ってくる男である。
「春樹!」
「分かってるよ」
神谷に返事をした春樹は、転がってきたボールへ近づいた。
軽く蹴って返せばいいだけだった。
春樹はボールの横へ軸足を置き、ほとんど力んだ様子もなく右足を振る。
乾いた音とともに蹴り出されたボールは低く綺麗な軌道を描き、かなり離れた場所にいる神谷の足元へ吸い込まれるように届いた。
「おおっ、相変わらずじゃん!」
神谷が笑いながら片手を上げる。
「春樹! やっぱサッカー部来いよ!」
「行かねえって何回言わせるんだ!」
「絶対戦力になるって!」
「毎日放課後二時間も三時間も練習するんだろ!? その時間で何冊読めると思ってんだ!」
「比較対象が本なのがおかしいんだよ!」
「俺にとっては死活問題なんだよ!」
近くにいたサッカー部員たちから笑い声が起こる。
神谷も呆れたように笑いながら「また誘うからな!」と叫び、練習へ戻っていった。
「相変わらず上手いわね」
再び歩き始めた春樹の隣で、雫が言った。
「これくらい普通だろ」
「普通の人はあの距離から蓮の足元にピッタリ返せないわよ」
「たまたまだよ」
「またそういうこと言う」
「なんだよ」
「別に。中学の頃から変わらないなって思っただけ」
雫が少しだけ目を細める。
その表情の意味が分からず、春樹は首を傾げた。
しかし、今はそれより新刊の方が重要だ。
そんな二人の後ろ姿を、昇降口から出てきた真実が見つけた。
間に合ったことに安堵しながら近づこうとして、真実は春樹が蹴ったボールを目で追った。
遠く離れたサッカー部員の足元へ、ほとんどずれることなく届いている。
さらにサッカー部員たちと話している春樹の姿も、昼休みに体育倉庫裏で雫に怒られていた人物とは少し違って見えた。
真実はますます分からなくなる。
七瀬春樹という先輩が、どういう人なのか。
ほんの少しだけ知りたいと思った。
「あの!」
気づけば声を上げていた。
春樹と雫が振り返る。
「真実?」
雫が目を丸くした。
真実は二人のところまで小走りで近づき、一度呼吸を整えた。
「どうしたの?」
「その……今日のお礼を、ちゃんと言えてなかったので」
真実は二人の前で姿勢を正し、まず雫を見る。
「雫先輩。さっきは助けてくださって、本当にありがとうございました」
「いいのよ。真実が無事ならそれで」
「はい。本当に……来てくれて、安心しました」
昼休みのことを思い出したのか、真実の指が鞄の持ち手を少し強く握った。
雫はその小さな変化に気づき、先ほどまでの軽い表情を消す。
「怖かったよね」
「……少しだけ」
「少しじゃなくていいのよ、そういうのは」
雫が優しく言うと、真実はしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
「はい」
「また何かあったら絶対言って。アタシじゃなくても先生でもいいから、一人でどうにかしようとしちゃダメよ」
「分かりました」
真実の表情が少し緩んだ。
それから春樹へ顔を向ける。
「七瀬先輩も、ありがとうございました」
「俺?」
春樹は本気で分からないという顔で、自分を指差した。
「俺、何もしてないぞ?」
「でも……」
「助けたの雫だし。俺は隠れて本読んでただけ」
「隠れてって自分で言うんだ」
雫が呆れる。
真実は少し迷ってから、昼休みからずっと気になっていたことを尋ねた。
「あの……一つ、聞いてもいいですか?」
「ん?」
「もし雫先輩が来なかったら、七瀬先輩はあのときどうしてました?」
「どうって?」
「倉田君が私に手を伸ばしたとき、七瀬先輩……動きましたよね?」
春樹の表情がわずかに変わった。
雫も意外そうに春樹を見る。
「そうなの?」
「結果的にお前が先に行っただろ」
「それはそうだけど」
「だったら俺は何もしてない」
春樹はあっさり答えた。
真実が目を瞬かせる。
「でも、もし来なかったら?」
「そりゃ止めたよ。嫌がってる相手の進路塞いで、そのうえ手まで出そうとしてたんだろ? さすがに見なかったことにはできないし」
「……怖くなかったんですか? 倉田君、サッカー部で体も大きいですし」
「ああ、そういう意味か」
春樹はようやく質問の意図を理解したらしく、少し考えてから肩をすくめた。
「まあ、そのとき考えればよかったんじゃない? 別に殴り合いする必要ないし、間に入って新海さん逃がして、ダメなら先生呼ぶとか、やりようはいくらでもあるだろ」
「…………」
「だから、礼を言われるようなことじゃないって。結局、俺は何もしてないんだから」
本当にそう思っているのだと、真実には分かった。
助けようとしたことを隠して格好をつけているわけでもなければ、謙遜しているわけでもない。
春樹にとっては、困っている人がいれば止めようとすることも、実際に何もしなかった以上は自分の手柄ではないことも、同じくらい当たり前なのだろう。
「……やっぱり、変わってますね」
「なんで!?」
春樹が心外そうな声を上げる。
真実は思わず笑った。
「今日、七瀬先輩のこと、雫先輩から『手のかかる人』って聞いたので」
「そこだけ覚えなくていいからな?」
「授業もサボるんですよね?」
「新海さん?」
「本ばっかり読んでるんですよね?」
「雫、お前後輩に何吹き込んでるんだ?」
「全部事実でしょ」
「もっとあるだろ! 幼なじみなら俺の長所の一つや二つ!」
「えー……」
「そこで悩むなよ!」
雫がわざとらしく腕を組み、真実が口元を押さえて笑う。
春樹だけが納得できない顔をしていたが、そのやり取りのおかげで真実の胸の奥に残っていた重さがまた少し薄くなった。
「でも、昼休みに言ってくださったことも……嬉しかったです」
笑いが収まったところで、真実は改めて春樹を見る。
「俺、なんか言ったっけ?」
「もう忘れてるんですか?」
「今日は色々ありすぎたからなぁ」
「本当にこの人でいいの、真実」
「おい」
真実はまた笑った。
「私が断ったことは悪くないって言ってくれました」
「ああ、それか」
「はい。だから、そのお礼も言いたくて」
「別に俺、慰めたつもりじゃないぞ?」
「分かってます」
その返事に、今度は春樹が少しだけ意外そうな顔をした。
「分かってるから、嬉しかったんです」
「……そっか。ならまあ、どういたしまして」
春樹は少し照れくさそうに頭を掻いた。
真実はその仕草を静かに見つめ、追いかけてきてよかったと思った。昼休みから胸の中に引っかかっていたものが、ようやく綺麗に収まったような気がする。
「じゃあ、俺たち帰るから」
「あ、はい」
「またね、真実」
「はい。雫先輩も……七瀬先輩も、また」
「おう。またな」
春樹は軽く手を上げ、雫と一緒に校門へ向かっていった。
真実はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
七瀬春樹という先輩について、今日一日だけでもいくつかのことを知った。
雫の幼なじみで、本が好き。授業をサボってまで読み続けるくらい読書に夢中になり、恋愛小説について話し始めると止まらない。雫にはしょっちゅう怒られているらしい。
それなのにサッカーボールを蹴れば、部員から声をかけられるほど上手い。
そして誰かが本当に困っていれば、きっと何も言わずに動こうとする。
「……まだ、全然分からないな」
真実は小さく呟き、ほんの少しだけ笑った。
嫌な意味ではなかった。
一つ知ったと思ったら、また知らない一面が出てくる。
この時点で真実の胸にあるものを恋と呼ぶには、あまりにも早い。今日初めて会ったばかりなのだから、そこまで大きな感情が生まれるはずもない。
今あるのは感謝と安心、そしてほんの少しの興味だった。
七瀬春樹という変わった先輩を、もう少し知ってみたい。
今は、それだけだった。
◇◇◇
駅前の書店へ入ると、春樹は自然と足を緩めた。
外を歩いていたときとは違う、紙とインクが混ざったような独特の匂いが鼻をくすぐる。整然と並んだ本棚と、平台に積み上げられた新刊。その光景を眺めているだけで、学校で一日分削られた気力が戻ってくるようだった。
「なんで家に帰ってきたみたいな顔してるのよ」
「分からないのか、雫。この匂い」
「匂い?」
「紙とインクと本棚の匂いだよ。最高だろ」
「……アタシには普通の本屋の匂いにしか思えないけど」
「情緒がないなぁ」
「春樹に言われたくない!」
店内には学校帰りの学生や、仕事帰りらしい客が何人かいる。
新刊コーナーには色とりどりの表紙が並び、その上には店員が作った手書きのポップも添えられていた。
目当ての一冊を見つけた春樹は、途端に歩く速度を上げる。
「あった!」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
背後から雫の声が聞こえたが、今はそれどころではない。
平積みされた一冊を手に取り、表紙を確認する。
間違いなく、今日発売された新刊だった。
「よし……ちゃんと残ってた」
「大げさなのよ」
追いついた雫が呆れた顔をする。
「何言ってるんだ。新刊を発売日に手に入れる瞬間だぞ?」
「明日でも買えるでしょ」
「それは『明日でも会えるから今日は会わなくていい』って好きな人に言うようなもんだぞ」
そこで雫の表情が止まった。
春樹は気づかず、本を裏返してあらすじを確認している。
「……あんた、たまにそういうこと平然と言うわよね」
「何が?」
「なんでもない!」
「なんで怒るんだよ」
雫はわずかに頬を赤くしながら顔を逸らした。
春樹はその反応の意味が分からず首を傾げたものの、すぐに手元の新刊へ意識を戻してしまう。
裏表紙のあらすじを読み終える頃には、自然と口元が緩んでいた。
「これ、絶対面白いやつだ」
「まだ読んでないのに?」
「分かるんだよ。こういうのは」
「その自信どこから来るのよ」
「読書歴」
「便利な言葉ね」
春樹は新刊を大事そうに抱え、そのまま別の棚へ向かった。
本当は目当ての一冊だけを買って帰るつもりだったのだが、本屋へ入った以上、他の棚を見ずに帰るという選択肢は春樹には存在しない。
しばらく歩いたところで、以前から気になっていた本が目に入る。
「これ、前から気になってたやつだ」
「買うの?」
「ちょっと待て。まず試し読みして判断する」
「さっきの新刊は?」
「買うに決まってるだろ」
「じゃあそれ持ったまま読むの?」
「問題ある?」
「ないけど……」
雫は呆れながらも春樹の隣に立っていた。
春樹が試し読み用の冊子を開き、冒頭から文章を追い始める。数ページも読まないうちに意識は物語へ引き込まれ、隣に雫がいることすら少しずつ頭から抜け落ちていった。
「春樹?」
返事はない。
「ねえ、春樹」
それでも反応しないので、雫が少しだけ顔を近づける。
「春樹ってば」
「ちょっと待って。今いいところ」
「まだ三ページしか読んでないじゃない!」
「三ページでいいところなんだから仕方ないだろ!」
「本当にそればっかり!」
雫の声が書店に響き、近くにいた客がこちらを見る。
春樹はようやく本から顔を上げ、周囲から集まった視線に気づいた。
「雫、声でかいって」
「誰のせいよ!」
「俺じゃないだろ」
「春樹のせいよ!」
レジにいた店員の長谷川奈緒が、困ったような、それでいて少し笑いを堪えているような顔でこちらを見ている。
二人はほぼ同時に口を閉じた。
「……静かにしろよ」
春樹が小声で言う。
「なんでアタシだけみたいに言うのよ……!」
「しーっ」
「~~~~っ!」
声を出せずに怒る雫を見て、春樹は笑いを堪えた。
やっぱり、こいつといると静かには読めない。
けれど、こういう時間が嫌いかと聞かれれば、別に嫌いではなかった。
もちろん、そんなことを雫本人へ言うつもりはない。口にした途端、どんな顔をされるのか分からないし、何より自分からわざわざ恥ずかしいことを言う必要もない。
春樹は再び手元の本へ視線を落とした。
振り返ってみれば、今日は思ったほど読書が進んでいない。
幼なじみに追い回され、教師に怒られ、体育倉庫裏では一年生の告白現場に遭遇し、その後輩である真実とも知り合った。
なんとも騒がしい一日だった。
それでも春樹は、この時点ではまだ知らない。
今日出会った新海真実が、これから何度も自分の前に現れることも、雫との当たり前だった距離が少しずつ形を変えていくことも、静かに本を読んでいたいだけの自分の周囲へ、さらに面倒で騒がしい人間たちが集まってくることも。
そんな未来など知るはずもない春樹の耳に、隣から雫の声が届く。
「ねえ春樹、これ面白そうじゃない?」
「ん?」
「ほら、この本」
差し出された表紙を見て、春樹は眉を上げた。
「お前、恋愛小説じゃん。それ読むの?」
「悪い?」
「いや、別に。貸してくれるなら先に買って」
「なんであんたが先に読む前提なのよ!」
「幼なじみだろ?」
「そういうときだけ幼なじみを便利に使うな!」
また雫の声が少し大きくなり、レジの長谷川がこちらを見る。
今度は春樹と雫が同時に口を閉じた。
今日も春樹の読書時間は、なかなか思い通りには始まらない。
春樹が望んでいるのは、昔から変わらない。
面白い本を見つけたら、静かな場所へ座り、誰にも邪魔されることなく心ゆくまで物語の世界へ浸りたい。
本当に、ただそれだけなのである。




