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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第1話 俺はただ、本が読みたいだけなのに


 早朝の清涼学園は、昼間とはまるで別の場所のように静かだった。


 まだ登校してくる生徒はまばらで、二年生の教室が並ぶ廊下にも人の気配はほとんどない。開け放たれた窓から入り込む五月の風がカーテンをゆっくり膨らませ、遠くのグラウンドから運動部の掛け声がかすかに聞こえてくる程度だった。


 そんな静寂に包まれた二年三組の教室、その最後尾に近い窓側の席で、一人の少年がスマートフォンを握りしめていた。


「くっ……くくっ……! 頑張れ、翼……! そこだ。そこで言うんだよ……!」


 七瀬春樹は必死に笑いを堪えていた。


 端正と言って差し支えない顔が、今は完全に台無しである。口元は緩み、目は画面に釘付けになり、時折肩まで小刻みに震えていた。


 しかし、本人にそんな自覚はない。


 いや、仮にあったところで気にもしないだろう。


 なぜなら今、春樹の意識は現実世界には存在していなかった。


 スマートフォンの画面に映っているのは、最近春樹がもっとも楽しみにしているWeb小説だった。


 家族から冷遇され、自分には何の価値もないと思い込んで育った少女。そんな彼女と出会った大企業の御曹司が、少しずつ少女の心を救っていく恋愛物語である。


 設定だけ聞けば珍しいものではない。


 春樹自身、似たような作品なら何作も読んできた。


 それでも、この作品だけは特別だった。


 何がいいか。


 ヒロインが可愛い?


 もちろん、それもある。


 ストーリーがいい?


 それも間違いない。


 だが春樹が何より気に入っているのは――御曹司である翼のポンコツぶりだった。


「違うって! そこで『君が大切だから』じゃねえんだよ! そこまで言ったならもう好きって言えよ! なんで最後の一歩だけ引くんだ、お前は!」


 思わず声が漏れる。


 最新話では翼がヒロインをデートに誘おうとしていた。


 しかし、肝心のヒロインは自己評価が恐ろしく低い。


 翼がどれほど分かりやすく好意を示しても、「きっと私を気遣ってくださっているだけ」と受け取ってしまう。そのたびに翼は落ち込み、家族から「また失敗したのか」とからかわれていた。


 その光景が、春樹にはたまらなく面白い。


「そうそう、それでいい……! いけ、翼! 男を見せろ! 今度こそ誘え! ……おおっ、言った! 言ったぞこいつ!」


 早朝の教室で一人、拳まで握る。


 そして次の文章を読み――。


「ぶふっ!」


 盛大に噴き出した。


 誘われたヒロインが、まさかの「皆様も一緒ですよね?」と返したのである。


 翼、撃沈。


「くくくっ……! ダメだ、腹痛い……! 頑張れ翼……! 俺はお前を応援してるぞ……!」


 笑いを堪えながら画面をスクロールする。


 そんな春樹は気づかなかった。


 静かな教室に、もう一人入ってきた人物がいることに。


 その少女は後ろの扉から教室へ入り、自分の席へ向かおうとして――窓際で不気味に肩を震わせている春樹を見つけた。


 足が止まる。


「…………」


 朝から何をやっているのだろう。


 少女――西条雫は、しばらく無言で幼なじみの背中を眺めていた。


 春樹は気づかない。


「頑張れ……あとちょっとだ……!」


「…………」


「そうだ、そこで押せ……! 今度こそ――」


「朝っぱらから気持ち悪いわっ!!」


「いったぁぁぁぁ!?」


 突然、頭頂部に軽い衝撃が落ちてきた。


 完全に物語の世界へ入り込んでいた春樹は椅子の上で飛び上がり、危うくスマートフォンを落としかける。


「な、なんだ!? 敵襲!?」


「学校で何と戦ってんのよ!」


 慌てて振り返ると、そこには通学鞄を片手に立つ雫がいた。


 長い髪を揺らしながら、呆れ切った顔でこちらを見下ろしている。


「雫! お前なぁ!」


「なによ」


「今めちゃくちゃいいところだったんだぞ!? 翼がようやくヒロインをデートに誘ったのに、ヒロインが盛大に勘違いしてだな――」


「知らないわよ!」


「知らないから説明してるんだろ!」


「説明しなくていい!」


 ぴしゃりと言われ、春樹は不満そうに口を尖らせた。


 雫は小さく息を吐き、机の上に置かれた春樹のスマートフォンへ視線を落とす。


「まったく……朝からスマホ見ながら一人でクスクス笑って。怖いのよ」


「いいだろ別に。まだ誰もいないんだから」


「アタシがいるでしょ!」


「お前はノーカウント」


「なんでよ!」


「幼なじみだから?」


「疑問形で言うな!」


 雫が持っていた鞄をもう一度振り上げる。


「待て待て待て! それはダメだ! 中に教科書入ってるだろ!」


「入ってるわよ」


「凶器じゃねえか!」


「じゃあ朝から気持ち悪い笑い方するのやめなさい!」


「理不尽すぎる!」


 春樹は椅子ごと後ろへ下がり、雫から距離を取った。


 昔からこうだ。


 西条雫とは家が近く、物心がついた頃にはすでに一緒にいた。小学校も中学校も同じで、高校まで同じ清涼学園。腐れ縁という言葉が、これほど似合う相手もなかなかいない。


 だからこそ、お互い遠慮というものがほとんどなかった。


 もっとも春樹としては、最近の雫は少々遠慮がなさすぎる気もする。


「だいたい春樹、あんた本ばっかり読んでるから友達できないのよ」


「いるわ! 勝手に俺をぼっちにするな!」


「あら、いたんだ」


「なんで驚くんだよ!?」


「だって休み時間になるたびスマホ出して小説読んでるじゃない。誰かに話しかけられても『ちょっと待って、今いいところ』とか言うし」


「いいところなんだから仕方ないだろ」


「その『いいところ』が一日に何回あるのよ」


「面白い小説なら全ページいいところだ!」


「開き直るな!」


 雫が額を押さえる。


 春樹としては至極真っ当なことを言ったつもりなのだが、どうやら理解してもらえなかったらしい。


 残念である。


「はぁ……本当に、見た目は悪くないのにね」


「急になんだよ」


「その性格じゃ、彼女なんて一生できないだろうなって思っただけ」


「別にいいよ」


 春樹はあっさり答え、スマートフォンへ視線を戻した。


「俺は恋愛小説読んでるだけで十分楽しいし。自分で恋愛したいとか思わないからな」


「…………」


「なんだよ」


「別に」


 なぜか雫の声が少し低くなった。


 春樹が首を傾げる。


 まあいいか。


 翼の方が重要だ。


 続きを読もうと画面に指を滑らせた、その瞬間だった。


「春樹」


「ん?」


「没収」


「は?」


 スマートフォンが消えた。


 一瞬、本当に何が起きたのか理解できなかった。


 気づけば雫が春樹のスマートフォンを持っている。


「お、おい! 返せ!」


「嫌よ。もうすぐ朝のホームルームなんだから、少しくらい学校生活しなさい」


「学校生活してるだろ! 学校で読書してる!」


「そういう意味じゃない!」


 春樹が立ち上がり、雫へ手を伸ばす。


 雫はさっと腕を上げた。


 身長差があるので本気で取ろうと思えば簡単なのだが、無理に奪えば雫が転ぶかもしれない。春樹が一瞬ためらった隙に、雫が勝ち誇ったように笑った。


「ふふん」


「こいつ……!」


「悔しかったら取り返してみなさい」


「言ったな?」


 春樹が一歩踏み込む。


「えっ、ちょ――」


 雫が反射的に後ろへ下がった。


 その拍子にスカートがわずかに揺れる。


 春樹は目に入った色を、深く考えず口にした。


「ピンク」


「…………は?」


 雫の動きが止まった。


 春樹も止まった。


 数秒の沈黙。


 そして自分が何を口走ったのか理解する。


「あ」


「…………」


 雫がゆっくりスカートを押さえた。


 頬が赤い。


 しかし恥ずかしさ以上に、額へ青筋が浮かんでいるように見える。


「は~る~き~……?」


 低い。


 まずい。


 これは幼なじみ歴十数年の経験が告げている。


 逃げろ。


「いや、待て雫。事故だ。今のは完全に事故であって俺にやましい気持ちは一切――」


「待ちなさい!!」


「誰が待つかぁぁぁ!!」


 春樹は机を回り込み、そのまま教室の外へ飛び出した。


 背後から雫の怒鳴り声と足音が追いかけてくる。


 静かだった早朝の校舎に、二人分の騒々しい足音が響き渡った。


     ◇◇◇


「はぁ……はぁ……あいつ、足速すぎだろ……」


 春樹は体育倉庫の裏側に座り込み、荒くなった呼吸を整えていた。


 校舎から少し離れたこの場所は、昼間でも人があまり来ない。


 背中をコンクリートの壁へ預けると、ひんやりとした感触が制服越しに伝わってくる。頭上では新緑が風に揺れ、校庭からは朝練を終えようとしている運動部の声が聞こえていた。


「ったく……せっかくいいところだったのに」


 春樹はポケットからスマートフォンを取り出した。


 逃げる直前、雫からきっちり回収している。


「さて、と」


 画面を開く。


 先ほどまでの続きを表示した瞬間、春樹の意識から雫の怒った顔は綺麗さっぱり消え去った。


 やはり面白い。


 文章を追うだけで、自分とはまったく違う人生へ入り込める。


 恋愛ものも、ファンタジーも、ミステリーも好きだ。面白ければジャンルにはあまりこだわらない。


 中でも最近は恋愛小説にハマっていた。


 自分が恋愛したいとは思わない。


 だが、他人の恋愛を見るのは面白い。


 どうしてそこで言わない。


 なんで気づかない。


 そこで手を握れ。


 今のは完全に脈ありだろ。


 画面の向こうの登場人物に好き勝手言いながら読む時間が、春樹は何より好きだった。


「翼、お前ほんっと……そこで諦めるなよ。ヒロインもヒロインで、ここまでされたらいい加減気づけって……」


 ぶつぶつ呟きながら読み進める。


 気づけば朝のチャイムが鳴っていた。


「…………」


 春樹の指が一瞬止まる。


 しかし画面では、翼が再びヒロインへ話しかけようとしている。


「……あと五分」


 誰に言うでもなく呟いた。


 五分だけ。


 ここまで読んだら戻ろう。


 そう決めた。


     ◇◇◇


「……ん?」


 春樹が顔を上げたとき、空に浮かぶ太陽は明らかに高くなっていた。


 体育館からは授業中らしい笛の音が聞こえる。


 嫌な予感がした。


 恐る恐るスマートフォンの時計を見る。


「…………うそだろ」


 二限目が終わろうとしていた。


「五分ってこんな長かったっけ?」


 もちろん長くない。


 完全に自分のせいである。


 朝のホームルームどころか一限を丸々すっ飛ばし、二限までほぼ終わっている。


「やっべぇ……」


 口ではそう言いながら、春樹は慌てて走り出さなかった。


 今から全力疾走したところで、二限には間に合わない。


 だったら焦っても仕方がない。


 立ち上がった春樹は大きく身体を伸ばした。


「んんーっ……! あー、腰痛え」


 長時間同じ姿勢で座っていたせいで身体が固まっている。


 体育館近くの自動販売機で飲み物を買い、ゆっくり校舎へ戻る。


 ちょうど階段を上っている途中で、二限終了のチャイムが鳴った。


「完璧なタイミングだな」


 何一つ完璧ではない。


 だが春樹は満足そうに頷き、二年三組のある階へ向かった。


 教室の近くまで来ると、授業を終えた教師が出てくる。


 その姿が廊下の向こうへ消えるまで待ってから、春樹は何食わぬ顔で教室へ入った。


 瞬間。


「春樹!!」


「ひっ」


 いた。


 鬼がいた。


 正確には西条雫がいた。


 自分の席から立ち上がった雫が、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。


「どこ行ってたのよ!」


「待て雫。まず落ち着こう。人間は話し合うことで分かり合える生き物だ」


「一限丸ごとサボった人間が何言ってんの!」


「いや、俺もサボるつもりはなかったんだよ。ちょっと読書してたら時間が空間を飛び越えたというか――」


「飛び越えてない! あんたが時計見てなかっただけ!」


「ごもっとも!」


 反論できない。


 雫が腰に手を当て、深々とため息を吐いた。


「本当にもう……」


「反省してます」


「嘘つけ!」


「三割くらいは」


「少なっ!」


 雫の手が伸びる。


 春樹が反射的に頭を守ったところで、別の声が間へ入った。


「まあまあ、雫。そのくらいにしてあげたら?」


 雫の後ろから顔を出したのは、黒髪を後ろでまとめた女子生徒だった。


 赤木紗弥。


 雫とよく一緒にいるクラスメイトである。


「紗弥! こいつ一限サボったのよ!」


「うん、それは七瀬君が悪いね」


「ほら!」


「でも、もうすぐ次の授業でしょ? 先生来る前に準備しないと」


「むぅ……」


 雫はまだ言いたそうだったが、紗弥に背中を押されて自分の席へ戻っていった。


 その途中、紗弥だけが振り返る。


 春樹へ向けて、小さくウインクした。


 助かった。


 春樹は胸の前で両手を合わせ、声を出さずに拝む。


 紗弥は肩を揺らして笑いながら雫の後を追った。


「赤木……お前の恩は忘れないぞ」


 春樹は小さく呟き、自分の席へ戻った。


     ◇◇◇


 春樹の席は窓際の最後尾。


 いわゆる神席である。


 窓から入る風は心地いい。晴れた日には柔らかな日差しが差し込み、少し顔を上げれば校庭や空も見える。


 そして何より――教師から遠い。


 現在は三限目、社会科。


 担当教師が黒板へ文字を書いている。


 春樹は真面目な顔でノートを開き、その下にスマートフォンを隠していた。


 朝の続きを読んでいるのである。


 反省?


 した。


 三割ほど。


 だが反省と読書は別問題だ。


 春樹が画面をスクロールしていると、遠くから何か聞こえた。


「……瀬」


 なんだ?


「七……瀬……」


 雑音か。


 今、翼が大事なことを言いそうなんだ。


「七瀬」


 だから邪魔するな。


「七瀬春樹!」


「…………」


 春樹は眉を寄せた。


 うるさいな。


 誰だよ。


 顔を上げる。


「おい、七瀬」


「うおっ!?」


 目の前に男が立っていた。


 いつ来た。


 腕を組んでこちらを見下ろしているのは、社会科担当にして二年三組担任、永山剛志だった。


 がっしりした体格。


 そして何より目を引くのは、綺麗に剃られた頭。


 窓から差し込んだ日光が、その頭部に反射していた。


「ま、眩しっ!」


 教室が静まり返った。


「…………」


 永山の笑顔が深くなる。


 まずい。


 しかし春樹はなぜか少しだけ達成感を覚えた。


 今のは我ながら綺麗に決まった。


「七瀬よぉ?」


「はい?」


「面白かったか?」


「先生もそう思います?」


「授業の話だよ」


「あっ」


 周囲から笑いを堪える声が聞こえる。


 永山はこめかみを引きつらせながら、春樹へ手招きした。


「ちょっと前に来い」


「嫌な予感しかしないんですが」


「安心しろ。俺はもっと嫌な気分だ」


「じゃあお互いのために、このまま授業を続けるというのは?」


「来い」


「はい」


 逃げ道はなかった。


 春樹はスマートフォンをポケットへしまい、永山と一緒に教壇へ向かった。


 教室中から視線が集まる。


 雫を見ると、両手で顔を覆っていた。


 なんでお前が恥ずかしがる。


「さて、皆さん」


 教壇に立った永山が、妙に爽やかな声を出した。


「今は何の時間でしょうか。笹木」


「えっ? あ、はい。社会です」


「その通り!」


 永山が満面の笑みで頷く。


 嫌な流れだ。


 春樹にも分かってきた。


「では七瀬君」


「はい」


「君はクラスメイトが社会の授業を受けている間、何をしていたのかな?」


「読書です」


 即答した。


「…………」


「…………」


 教室が静かになる。


 なぜだ。


 聞かれたから答えただけなのに。


 永山がゆっくり目を閉じた。


「七瀬」


「はい?」


「お前、悪びれるという言葉を知ってるか?」


「知ってますよ。申し訳なさそうにすることですよね」


「そうだな。じゃあやってみろ」


「すみませんでした」


「顔!」


「顔?」


「全然反省してねえだろ!」


「いや、してますって! ちゃんと三割くらい!」


「三割しかしてねえのか!」


 教室から笑い声が上がった。


「このバカ春樹!」


 その中で、雫の声だけがやたらよく通った。


「なんだよ! 正直に言っただけだろ!」


「正直なら何言ってもいいわけじゃないの!」


「西条も座れ! 話がややこしくなる!」


「先生! こいつ朝も読書に夢中になって一限サボってます!」


「おい雫! 売るなよ!」


「七瀬ぇ……?」


「待って先生! 話し合いましょう!」


 永山の笑顔が怖い。


 教室のあちこちから笑い声が上がる中、春樹は天井を仰いだ。


 俺はただ本を読んでいただけなのに。


 どうしてこうなった。


     ◇◇◇


 昼休み。


 春樹は再び体育倉庫の裏にいた。


「はぁ……ようやく静かになった」


 午前中だけで、ずいぶん疲れた気がする。


 永山からは説教され、雫からは「午後は絶対サボるな」と念を押された。


 だからこそ昼休みくらい静かに過ごしたかった。


 弁当を食べ終えた春樹は壁に背を預け、スマートフォンを開く。


「さて……翼の続き読むか」


 ようやく訪れた至福の時間。


 風が心地いい。


 人はいない。


 完璧だ。


 ――そう思った直後だった。


「新海さん!」


 男子生徒の声が聞こえた。


 春樹の指が止まる。


 体育倉庫の反対側らしい。


 別に盗み聞きするつもりはない。


 ただ、妙に緊張した声だったので気になった。


「君のことが好きなんだ! 俺と付き合ってください!」


「…………」


 春樹はスマートフォンからゆっくり顔を上げた。


 おお。


 告白だ。


 まさか現実でここまで真正面から言う奴がいるとは。


 ちょっとだけ感心する。


 いや、待て。


 盗み聞きはよくない。


 読書へ戻ろう。


「ごめんなさい」


 早かった。


 春樹は思わず目を閉じた。


 知らない男子よ。


 強く生きろ。


 心の中で合掌する。


 しかし、どうにも空気がおかしい。


「……なんで?」


 男子の声が低くなった。


 春樹は眉を寄せる。


「俺、サッカー部のレギュラーだし、顔だって悪くないだろ? なんで断るんだよ」


 いや知らんがな。


 春樹は心の中で即座に突っ込んだ。


 告白なんて相手の気持ち次第だろう。


 スペックを並べたところで、好きでもない相手を好きになるわけではない。


「他の女子なら俺が誘ったら喜ぶのに」


「他の方がどうなのかは分かりません。でも、私はあなたとお付き合いするつもりはありません」


 女子の声は落ち着いていた。


 はっきりしている。


 春樹は少し感心した。


 その声には聞き覚えこそないが、名前なら知っている。


 新海真実。


 一年生にとんでもない美少女が入ったと、入学直後から話題になっていた後輩だ。


 本にしか興味のない春樹の耳にまで名前が届いたくらいなのだから、相当なのだろう。


「では、失礼します」


 これで終わり。


 そう思った。


「待てよ」


 足音がした。


 春樹の表情から、先ほどまでの緩さが少し消える。


「てめぇ……さっきからお高くとまりやがって」


 おいおい。


 それは違うだろ。


 断られた。


 それで終わりだ。


 気持ちを伝えるのは自由でも、相手が受け入れる義務なんてない。


 春樹はスマートフォンの画面を消した。


 立ち上がる。


 体育倉庫の陰から様子を見ると、男子が新海の進路を塞いでいた。


 新海は困ったように眉を寄せながらも、怯えて後退することなく相手を見ている。


 男子が手を伸ばした。


 その瞬間、春樹の目が細くなる。


 仕方ない。


 面倒だが、これは放っておけない。


 一歩踏み出そうとした――そのときだった。


「真実に何してんのよ!!」


「え?」


 聞き覚えのありすぎる声。


 春樹の足が止まった。


 次の瞬間、走ってきた雫が男子と新海の間へ割り込んだ。


「西条先輩?」


「大丈夫、真実?」


「は、はい」


 雫は新海を背中に庇い、男子を睨んだ。


「告白して断られたなら、それで終わりでしょ。何やってんのよ」


「な、なんだよ、お前には関係ないだろ!」


「あるわよ。真実はアタシのかわいい後輩なんだから」


 男子は何か言い返そうとしたが、雫の剣幕に押されたらしい。


 周囲を見回し、舌打ちして去っていった。


 その背中を見送りながら、春樹は小さく息を吐く。


「……なんだ。雫かよ」


 だったら大丈夫だろう。


 自分が出る必要はなかった。


 春樹は再び座ろうとして――止まった。


「それで先輩、人を探していたんですか?」


「そうなのよ」


 新海の声が聞こえる。


「朝から授業サボってるバカがいてね。どうせ昼休みもどこかで本読んでると思って探してるの」


 春樹の背筋に冷たいものが走った。


 嫌な予感がする。


「教室にもいないし、図書室にもいないし、屋上の近くにもいなかったし……残ってるの、この辺くらいなのよね」


 まずい。


 ものすごくまずい。


 春樹は静かに体育倉庫の裏へ身を引いた。


 さっきまで男子相手に一歩踏み出そうとしていた勇気はどこへ行ったのか。


 そんなものは雫を前にした瞬間、消滅した。


 茂みへ移動する。


 我ながら情けない。


 だが、生き残るためには仕方ない。


「…………」


 足音が近づいてくる。


 春樹は息を潜めた。


 大丈夫だ。


 見つかるわけがない。


 そう自分へ言い聞かせる。


 足音が止まった。


「は~る~き~く~ん?」


 頭上から悪魔の声がした。


「…………」


 春樹は顔を上げなかった。


 上を向いてはいけない。


 上を向けば終わる。


「春樹」


「…………」


「顔を上げなさい」


「……人には顔を上げたくない日もあると思うんだ」


「春樹?」


「はい!」


 反射的に顔を上げた。


 そこには満面の笑みを浮かべた雫がいた。


 怖い。


「何してるの?」


「自然観察?」


「へぇ」


「すみませんでした」


 即座に頭を下げた。


 こういうときは素直さが大事である。


「はぁ……もういいわよ。五限からはちゃんと出なさいよ?」


「えー」


「春樹?」


「喜んで出席させていただきます」


 雫の笑顔に負けた。


 春樹が肩を落として立ち上がると、少し離れた場所にいた新海と目が合った。


 肩まで伸びた艶のある髪。


 整った顔立ち。


 なるほど。


 確かに話題になるだけはある。


 ただ、新海本人は春樹の顔を見て、どこか戸惑っているようだった。


「あの……雫先輩。こちらの方は?」


「あ、ごめん。紹介してなかったね」


 雫は春樹の肩を軽く叩いた。


「こいつは七瀬春樹。アタシの幼なじみ。昔から手がかかって仕方ないのよ」


「余計な情報つけるなよ。初対面だぞ?」


「事実でしょ」


「どこがだよ。むしろ俺ほど手のかからない人間も珍しいだろ」


「今日だけで何時間授業サボった?」


「…………」


「言ってみなさい」


「新海さん、初めまして。七瀬春樹です」


「逃げた!」


 雫の追及を無視して、春樹は新海へ向き直った。


 新海は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。


「あ……初めまして。新海真実です」


「知ってる。有名だから」


「え?」


「一年にすごい美人が入ったって、クラスの連中が騒いでたから。俺でも名前くらいは聞いたことある」


「び、美人……」


 新海の頬がわずかに赤くなる。


 春樹は気づかない。


「まあ、よろしく。雫の後輩なら、これから会うこともあるだろうし」


「はい。よろしくお願いします、七瀬先輩」


「春樹でいいよ。七瀬って呼ばれると先生に怒られてる気分になるから」


「普段から怒られるようなことするからでしょ」


「うるさいな」


 雫と言い合いながら、春樹はポケットからスマートフォンを取り出した。


 昼休みはまだ少し残っている。


 教室へ戻るまでに、あと何ページ読めるだろう。


 春樹にとって、そのとき重要だったのはそれだけだった。


 新海真実との出会いに、特別な意味など感じていない。


 彼女がどんな人間なのかも知らない。


 まして、この出会いを境に自分の平穏な読書生活が少しずつ騒がしくなっていくなど、想像すらしていなかった。


 春樹が望んでいるものは、昔から変わらない。


 面白い本があって。


 静かに座れる場所があって。


 誰にも邪魔されず、好きなだけ物語の世界へ浸れること。


 それだけで十分だった。


 ――本当に、それだけだったはずなのだ。

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